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小さな楽園、師匠のまなざし、ニサリーの過去

[※小さな楽園※]


 私は、ここに戻る前に手に入れた食料を隠し気味に持ちながら、2人が収まるのに十分な広さの洞の中に視線を向けるのだ。所々にほつれや穴が見られるが、汚れの少ない服を着こんだ彼女は、壁にもたれかかり身体を寝かせている。

 物がほとんど置かれていないこんな場所にいる彼女は、今までいろいろなものを与えてくれたのだ。隙間なく雲に覆われた空には星々を、見渡す限りの草原には水の流れを、行き場のなかった私には故郷を。

 何時起きてくれるのか少し期待を持ちながら、彼女に近づく。


「タレア、戻ったよ」


 私のささやかな心境を楽しむつもりなのか心地よい香草の気配が漂ってくる、眠れない時にはこうして落ち着かせながら私が眠るまで寄り添ってくれた事を思い出す。

 そんな細やかな気遣いをみせる彼女は、遥かからそびえたつ大樹のように揺るぎない存在である。見上げて探した彼女の顔も今では首を横に向けるだけで済むのだ、屋内で過ごすことが多かった彼女の肌は今も影が薄くそれが包み込む手や足は細く頼りない、ここに辿り着くまでの間も、身一つと小さな皮袋を結んだ背負子だけしか運べなかったのだ、そんなでもである。

 彼女は体に触れられる事さえ予想していたのか、私の温まった手を時間をかけて冷ましてくれる。

 私は持っていた荷物を端に降ろす事にした。


 私は上着を脱ぐ、火照った体が少しでも冷める様に彼女と肌を合わせるためだ。

 指同士を絡ませたり、腕を脇腹を通して彼女の上半身をまるごと手繰り寄せて、壊れてしまわないように胸に抱く。自身の臭いをわずらわしく感じながらも、彼女の側頭部に鼻を深く押し付け、横髪を甘噛みして彼女の存在を記憶に残す。

 頬同士を擦り合わせている間に、私の身体を伝う汗は彼女にも惜しげもなく張り付いていき、柔らかな肌と肌とが滑らかに合わさるのを助けてくれる。舌先でなぞる彼女の頬は柔らかく、閉じた瞼まで届いてしまう。

 そうして強く抱きしめつづけて、鼓動さえ1つになるほどに惹かれ合ったことで、ようやく彼女の口を味わってしまいたいという衝動を抑えることができたのだ。



 私は彼女の傍に最初から置かれているものに意識を向ける。

 端切れに包まれたそれを知っている。かつての彼女の家、資料室の端で深く埋もれていたものだ。

 彼女は私を試すとともに、逃げ道を教えてくれたのかもしれない。


 それがタレアという人間の愛情表現なのだ。



[※師匠のまなざし※]


 在庫の確認は、引継ぎをする2人に会う前には終わらせておきたい。

 盗難被害は今のところはないが、顔を合わせた事の無い村人や村の外から来る人もいるので、普段から警戒しておく事に越したことはない。

 この村でも一番消費されるのは軟膏系である。



 子供達は村の一部で走り回り、男達が働く作業場に近づかせる事はまったく無い。女達が任される仕事は時間と人に融通が利く内容であり、まとまって作業を行うのため交代で子供を見守っているのだ。

 この家に連れられて来る怪我人は大した処置も要らない場合が多く、汚れを落とし薬を塗ってあげればいいのだ。これについては消費も安定して増加傾向にあると考えて心配していない。


 怪我人でなく怪我人が出たと連絡に来る時、これこそ私が薬師であると実感する場面である。

 連絡人から怪我の原因、具合や人数を聞いてから、多種の薬を詰めた箱を人に持たせ、扱い難しい薬や道具と頻繁に使うそれらを私が持つようにして怪我人の居る場所に向かうのだ。怪我人全員を実際に確認してから、助手には追加で薬を取りに戻らせる事もある、そうして怪我人達の治療を行う。


 薬師の家には薬師以外の禁域がある。調薬室、資料室は当然だが保管室もこれに当たるかもしれない。

知らない者が下手に侵入して、汚したり取り替えたりしようものなら、薬師への影響は自身も含め周囲をことごとくをなぎ倒す結果となるだろう。



 私が薬師の家の主として行う事は、家の外にある怪我人という資源を専門的な道具で加工して価値のあるものに変えて、薬師の家という存在価値を維持する事である。加工に失敗する事も時にはあるだろう。


 薬師の家とは私にとって、村長にとっての村であり、私にとっての私という存在でもある。



 子供達の治療も大切だが、そんなことは薬師以外でも出来る、薬師足り得る行為ではないのだ。そんな事で薬師という評価は周囲から得られない。ただの親切な隣人である。

 この村の日々の消費量を記録して、有事の際に十分な活動ができるように、余裕を持たせた在庫の補充を行う事で、私は薬師の組長であると実感するのだ。



 保管された薬や材料の確認を今も手伝ってくれているニサリーの顔を正面から見ることはできない。

 それどころか、私が村人の怪我の様子を確認する時でさえ、声だけで指示することがある。別に正面から見なくても彼女がどのような表情をしているのかは分かっているのだ。ただその表情が仕事に集中しているものなのか私の真似をしているのか、そんな表情をするのは私に対する恨みなのか依存なのかを知るのが怖いのだ。

 彼女のいつもの純粋な瞳が私に向けられていることにすら確信を持てなくなるのだ。

 今となっても、私は彼女がどのように変化をしたのか知らないし、確認しようがないのだ。



 身体を広く覆う作業着は、私にとって足枷のように重く、母の抱擁のように柔らかい。これを着ている間は、亡き師匠の視線を感じると同時に、一生脱ぎたくないほど心地が良いのだ。

 これは酒に頼るのと異なるものだと思う。快楽を得る、苦痛から逃れるために酒を常にあおるのではなく、酒に溺れた事で起こした醜態を自らで咎めなくなる恐怖から逃れるために酒を手放す、つまり脱げないのだ。

 それでも薬師という役割を私生活まで持ち込めない、この役割を着たまま酒に口づけをすれば最期、服の暗示は消え去る。気づかぬ間に服を脱ぎ捨て、再び身に着ける機会は失われるのだ。私は生きるためには酒を飲まなければならない、だから私は私の意志で服を脱ぎ、酒を口に含むのだ。半生の間に繰り返しきた、服を着る習慣を思い出す事を祈って。


 ただし、薬師の組長という責任は作業着の着脱に関係なく存在するものであり、感じるべきものである。

 今も私に視線を向けている師匠の視線には一切の面影が無いのだ、酷く冷淡で反応が無い。私の治療を受けて死んでいく怪我人や、治療を受ける事すらなく反応を失くした者、小さな擦り傷を治す時にも、恐らく何もしなくても、……何も返さないのだ。

 私の師匠カトレアは冷静沈着で堅実な対処であったが、未熟な私の理解を量るよう注意を払いながら、時に優しく語り掛ける様に教えてくれたのではないのか。母親が心配そうに見つめる、怪我をした子供に慈しみを持っていたあの光景こそ、カトレアを表すものではないのか。

 こんなものを師匠と呼ぶ私は一体何なのだ、こんなものを虚像として扱うことすら許しがたい。



 こんな動揺した私を彼女に知られてしまえば、どうして上から指示ができようか。

 軟膏を作る時のように他の命を何とも思わず冷静に対処する必要があるのだ。卵を孵らせる前に割って白身と黄身を分けるのだ。そして殻だけが家の外に積みあがる。


 この村で8年も過ごしているので、生命の誕生も目にするのだが、助産も薬師の仕事に入るのだ。

 師匠が生きていた時も、それ以前でも村の女たちと協力して助産を行っている。私は師匠が子供を取り上げる瞬間を何度も目にしていたが。私は、私が薬師の組長となった今でも、お湯や布の準備など周りで手伝うことしかできていない。

 彼女たちは私の何を心配しているのだろうか、この村の出産率は高くも低くもない、死産は多いがそんなことで動揺すると思っているのだろうか、あるいは未熟児を絞める事をためらうとでも。

 いや、私に対して不信感があるのかもしれないな、実際に治療をしても当たり前に死ぬのだ。そんなことが噂されていれば、取り上げる時にみだりに絞め殺してしまうなんて警戒するのは仕方がない。

 死産と伝えたときに、お前が殺したんだなんて怒号をあげられるかもしれない。妊婦に亡き子を見せないように隠すのだから。


 私は何をすれば村の人たちの信頼を得られるのだろうか。

 そんな人間がこれから育てるだろう薬師たちがこの村で生活していけるのだろうか。


 恐怖を悟られないように隣で手伝う彼女をみてしまうのだ。

 訪れるだろう未来を私は直視できない。



[※ニサリーの過去※]


 ニサリーは集落の中でも比較的裕福な家庭で生まれたそうだ。

 父親は狩人で、母親は裁縫で生計をたてていて。それに4つほど年の離れた兄2人が居る、珍しくもない家族構成だ。

 彼女の父親は優秀だったため村でも名を知られており、自分の息子たちに狩りの技術を教えることに熱心だった。幼かったニサリーも母親から仕事を教えてもらう年頃になると、子供達の集まりに参加するようになり、そんな場所で過ごし始めたときに、遠くから石を当てられたのがはじまりだったらしい。


 後ろから押し飛ばされたり、服を汚された。

 細かな傷など子供達の遊びではありふれたものであるし誰も気にもしなかった。

 殴られたり、蹴られたりされるようになり、その中に兄がいたのだ。

 父親は彼女に強くなれと言い。母親は彼女を抱きしめて慰めたのだ。

 囲まれて集団で暴行を受ける様になると彼女は縮こまっているだけになった。

 それでも父親は彼女に強くなれと言い。母親は彼女を抱きしめて慰めたのだ。

 家族との会話も少なくなった。


 ある時、いつものように囲まれて暴行は受けていたが、1か所だけ空いたところに気づいた。

 そこには兄がいたのだ。

 この包囲から抜け出すべく兄へとぶつかるように走り、為す術もなく兄に転がされた。

 そして集落の外へと走り出したのだ。



 私はそんな彼女がとても羨ましかった。

 私には言葉をかけてくれる父親がいなかった。


 だから、彼女になりたかった。



 既に日課は終えて、辺りは静まり返っている。

 抑え目な明かりと記憶を頼りに勝手口をでて、薬草の汚れが染みとおる作業場を見渡して深呼吸をする。少し寒さを感じるが、嗅ぎ慣れた匂いがいつもと変わらない事に気付く。

 私は作業着を脱いだ。

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