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六.サティな二人

 悠の嬉しそうな笑いに、健介は悠の思っていた以上に表情を硬くする。

「じゃあ、何?」

 止まる足取り。吹き去る風。二人の距離は変わらない。ただ、若干の不安の色が取り巻く。

「サティって、お前、知ってるか?」

「……お店?」

「違う」

 悠にしてみれば冗談のつもりもなく、半ば真剣に考慮した上での回答だった。だが、健介にはそれがボケに思えたのか、苦笑した。

「インドにある言葉でな、妻の殉死って意味だ」

 意味分からない。悠の視線がそう語る。

「俺も詳しく知ってるわけじゃない。でもな、今の俺はそうなりそうだから、そしてお前もそうなりそうだから、だから恐い……のかもしれない」

 途切れ途切れの言葉にも、悠は健介を視界の中心に捕らえていた。

「どういう意味?」

「夫に先立たれた妻は、夫の亡骸と共に火に焼かれて、夫と離れずに死ぬ風習のことらしい」

 健介の言葉に、沈黙の風が穏やかに駆ける。擦れる木の葉の音も静かだった。

「正直、俺はまだ決心もまともについてねぇし、切り替えられたわけでもない」

 だから昨夜のことは、反省してる。健介が頭を掻きながら悠に面倒かけたと頭を軽く下げた。

「その妻は、どうしてそうしたか、あんたには分かるの?」

「え?」

 悠は健介の言葉を無視した。答えのない話に、健介の口から言葉はとっさに出てこない。

「どうして先立った夫に付いて一緒に身を焼かれて死のうと思うのか、分かる?」

 今度は悠の表情が変化する。ひどく優しく、嬉しそうに。

「取り残される辛さに耐えられないから、だろ?」

 自信のない、語尾の下がる返答に馬鹿と返ってくる。

「一概に間違いとは言えないけど、女はね、そんなに弱くはないのよ」

 健介としてみれば、思い当たる節は多く、そして同時にその言葉を悠が言えるのかと表情に出す感情に困った。

「そんなことをするのは普通罪になるんでしょうね?」

「そりゃそうだろ。そんなことは許されるはずがない」

 健介の言葉は間違いではない。夫が死んだからと妻が後追いするようなことを許す世界は日本にはない。同情や悲哀こそすれど、それは罪。

「でしょうね。妻には妻として、女に生まれた人生があるんだもの」

 だから死ぬことは間違っている。そう唱える人間がいるのは当然。生きたいと思いつつも生きられない人間がいるなかで、己の死を己で下すなど言語道断だろう。

「だから俺は、そうなりそうで恐いんだ」

 パイロットである以上、サラリーマンの日常よりも危険は多い。健介はもう、誰も失いたくないという強い後悔の思いに囚われ、踏ん切りがつかないようだ。

「だから男ってダメなのよ」

 そんな健介を悠は笑う。不相応な笑いに健介の顔には怪訝げな皺が数本浮かんだ。

「自分の人生がありながら死を選ぶのは、賛同できるものじゃないでしょうね。でも、女はね強いのよ。何もかもが」

 健介は言ってる意味が理解出来ないようで、首を傾げ、先を促す。

「立ち直る強さもある。忘れる強さもある。振り切る強さもある。でも、女の体は心ほど強くはないの」

「すまん、よく分からないんだけど?」

「女は、一度ずっと一緒だと思うと、強くなるわ。男は愛することで幸せを感じる。でも女は愛されることで幸せを感じるの」

 分かる? 悠が悪戯なまなざしを向ける。

「難しく考えすぎよ、あんたは。女はね、一度決めた相手にその気持ちが強くなりやすい。それこそ母性が働くの。だから、突然の愛する人の死には、強くあろうとする。弱くなんてならないの」

 健介の眉間に皺が寄る。理解できていない顔だ。

「逆じゃないのか?」

「違う。強くなるのは体でも心でもない。思いが強くなるの。そこを勘違いしないで」

 悠は健介の言葉を一蹴し、墓地横にある低いフェンスに手を載せると、そこから見える眼下の景色を静かに見つめる。

「女は大切なものを失うと、体と心は弱くなる。でも反対に思いは強くなっていくの。留まるところを知らないくらいに」

 悠の背中を健介は見つめる。何も言わず、何もせず、ただその場に立って。

「あんたの言う、サティって昔のことだけじゃないわよね?」

 分かりきったような言葉が空へと消えていく。

「……ああ」

 健介は肯く。

「勿論、法で認められてない行為だ。あり得ないだろ? 夫が死んだから後追いするなんて」

 健介がまるで自らの話にフォローするように言う。悠もそれに同調するように肯いた。

「そうね。でも、なくならないわけじゃない。後追い自殺なんて表に出ないだけで、少なくないわけじゃない」

 悠の言葉は、健介に返答の言葉をもたらせない。後追い自殺は言葉は悪いが、いつの時代も存在する。著名な歌い手の死に、熱狂的なファンがそうしたことがある。そして、大規模な事故で夫を亡くした妻が飛び降り自殺をしたことも一時期報道された。それこそ方法は違えどサティそのものだ。

「別にね、ちょっと前の私なら健介の言葉を聞いた時にすぐに否定してたわ」

「そして、そうやって死んだ人間を非難するんだろうな」

 悠の背中にかける健介の言葉に、悠は小さく笑った。後追いなどと言うことは世論からすれば愚かな行為であり、許されざる行い。報道の的にされてしまえば、間違いなく評論家の批判を少なからず浴びるだろう。それによって遺族はさらに世間に肩身を狭くせざるをえない。中には同情や悲哀の言葉を掛ける者に、救いを差し伸べる者もいる。傷の舐め合いから始まる癒しは存在する以上、それは消えはしない。

「でもね、隼人君の葬儀の日のご両親の姿、覚えてる?」

「忘れるわけがないだろ」

 健介は即座に答えた。憔悴しきり、心労による過労に、今にも我が子の後を追おうとしかねないほどに衰えながらも、健介と悠を迎えた隼人の母親。そう在れたのは恐らく父親の思いだろう。気力で持ちこたえながらも、隼人の母親は今尚父親と共に隼人の墓を訪れ、整然と供え物を欠かさない。

「私、あの人たちは一生一緒に居ると思う。新しい家族が出来た出来ないに関わらず、一生」

 羨望を投影するように悠は遠い空を仰ぐ。先ほど健介に飛びたいと言われた青い空を。

「ねぇ、少し私の話、しても良い?」

「……ああ」

 振り返らない悠を、健介はそこから見つめる。

「私ね、想像してたよりもずっと弱いなぁって分かったの」

「……は?」

 悠の不意の告白は、健介には意外すぎたのだろう。

「お前、何言ってんだ?」

「聞いて。話はその後に聞くから」

 有無を言わさぬ返答に健介は押し黙る。

「毎日をあんなに懸命に生きてる人がいるって、正直分かってなかったわ」

 その対象が誰なのかを思い出しているのか、健介も空を見上げた。

「隼人君だけじゃない。病院にいた子供みんなにそう思った。仕事よりもよ?」

 整備士として、パイロットが安全に飛行できるように機体を整備する人間なのに、そのことを深く考えてなかった。悠の告白は懺悔のように静かだった。健介は立ち位置を変えるように体を揺らし、数歩の足音が風に消える。

「大浪さんにも何度も注意を受けたし、自分で気づけなかった。それって整備士として失格よね?」

「そんなことは……」

 健介としては、悠の何倍もその指摘を受けていたのだから、それは大したことじゃないと言いたいのだろう。

「そんなことはあるの。私自身、自分に過信してた。強がらないといけないって」

 強がっていようがいまいが、健介にはいつだって悠は自分を引く力を持っていた。それに何度助けられたことか。そう思う健介の視線が空から降りる。

「きっとそうしないといけないって、いつからか自分に言い聞かせてたのよ」

 そうしないといけないと思わせる人間がいたから。悠が振り返る。二人の視線が重なる。

「……それは、俺のせいか?」

「違うわ。あんたはあくまでその中の一人でしかない」

 過信してるのはあんたも同じね、と悠が笑い、健介は思わぬ失言に視線を逸らせた。

「さっき言ったわよね? 夫に殉じて死ぬ妻がいるって。それって、愚かな行為だって妻は分かってるはずよ。でもそうしたいって、強制でもなんでもないのに、自分の人生を投げ捨ててでもそうしたいって強い思いが働くの。女ってそう言う生き物なのよ」

 話が繋がっているようで繋がっていないことに、健介の眉間に疑問の皺が数本寄る。

「亡き夫がそう願わなくても、残された妻はそうする。女って、自分の事よりもその時はその人のことしか考えられないのよ。気持ちが命令するの。そうすることが一番だって、ね」

 隼人が死んだ時、母親の考えられたことは隼人のことだけ。だが母親には夫がいた。同じ辛さを味わいながらも、母親の子に対する絶望を抑えられた、ただ一人の力は今日もその効力を失ってはいない。だからこそ、悠は心の底からあの二人は一生一緒にいると思うのだろう。

「私は、隼人君に沢山のことを教えてもらった。気づかせてもらえた」

 何かを言い返そうと健介の口が動くが、言葉は何も出てこなかった。

「私もきっと、その愚かな妻を望むんだと思うわ」

「お前……」

 初めて恋というものを知った幼子のように、悠の顔は照れと恥ずかしさにはにかんでいた。

「今があるって、当たり前じゃない。どんなに頑張っても当たり前にならないこともある」

 悠の言葉に、健介は息を呑んでいた。美由紀のあの時の告白と悠のその告白が重なって見えたのだろう。思う側と思われる側の差異と言うものを。

「サティって、忌むべきものなのかもしれないわ。物理的に不可能なことなのに、そうする者がいる。でも、愛した者の死は、愛された者には物理的に可能かどうかじゃない。その心の満たされで良いのよ」

 勝手に死を選び、実行しようと、それは単なる我儘による己の心を救う。健介には悠の口からそんなことが出てくるとは思ってなかったという驚きの反面、ため息を吐く余裕を持たせる確信すらあったようだ。

「だから私は弱い。見られたくなかった姿を見られたし、見せたくない姿も見せた。我儘よね、私」

 自嘲する悠は、健介に背を向けた。その背中はいつの間にか健介には小さく見えていた。

「でもね、私は一生一緒に居たい。死ぬ時も一緒で、死んでからもずっと一緒に居るの。それが馬鹿げてることは分かってるけど、隼人君と出会ってから、私、壊れちゃったのかも」

 少女のようにはにかむ悠に、健介は首を振った。

「違う。お前は壊れたんじゃない。疲れたんだろ」

 ひどく真剣な眼差しに、悠は何も言い返さなかった。

「笑わないんだ? てっきり私らしくないって笑われると思ったのに」

「笑ってやりたいさ。俺だって馬鹿にしてやりたいんだよ」

 でも、それが出来ない。分かっていたように静けさが一面に降り注ぐ。スズメの羽ばたきすら聞こえてきそうなほどに静かだった。

「健介と私、どっちがおかしいのかな?」

 顔を見られたくない。そう言っているように、悠は空をまた見上げた。柔らかい風に悠の髪が背中を滑る。

「ねぇ、健介……」

 その言葉は続かなかった。続きをかき消すように足音が足元の砂利を弾いた。

「健介……?」

 小さな背中からその華奢な体を包み込む腕が回される。

「だから、嫌だったんだ、俺」

 分かち合う温もりと、健介から悠への痛みの渡し。だが、苦しさや痛みの言葉は悠の口からは漏れなかった。

「お前がそうなるって分かってたんだよ」

 痛みを与える健介の腕を、悠はそっと自分の手を添えるだけで、何も言い返さなかった。

「俺が弱いから、お前も弱くなっちまうんだ。だから、言えないんだよ、俺」

 変わらなかった日常。それが当たり前だと周囲ですら思っていた日常。そんな当たり前などないと知ってしまってから、変わらずには居られない。抱きしめた悠の後頭部に、健介の額があたる。

「ねぇ、大切な人の為に自分が死ぬのって、悪いこと……なの?」

「当たり前だ。でも、だから良いことにしたいんだ、俺は」

 さらに力が加わる。そのまま華奢な体を折ってしまいそうなほどの強い力。何かを失った者が周りにはいる。それを思い続けることをする者がいる。だからこそ、健介も悠もお互いに恐怖を掻き消すことが出来ない。

「傍にいて、欲しい。お前に」

 だからこそ、健介は言う。茫漠とした時間を生きる人生は、いつ終わりが来るかも分からない。たとえ望もうが望まないがそれは確実に訪れる。

「一緒に、死んで欲しいの?」

「違う」

 悠の軽い冗談の言葉を、真剣に健介は否定する。声色に悠は静かになる。

「私、あんたに何を言われようと、愚かな妻になるわよ」

「あぁ、知ってる。お前の感傷的な趣味は、俺にだってある趣味だ」

 愚かな妻がいるなら、愚かな夫もいないはずはない。健介の言葉に、悠はただ一言、そう。と呟いた。

「でも、俺はお前を残したくなんかない」

「私は健介を残したくないわよ」

 顔を合わせぬ二人。代わりに心を通わせている二人。

「だから、俺と飛んで欲しいんだ」

 それは単に同じ思いを共有しようと言う、同じ道を歩もうと言うプロポーズなんかではない。

「そう言うこと、だったんだ……?」

「……あぁ。ダメか?」

 プロポーズには重過ぎる言葉かもしれない。お互いを見つめ、同じ道と時間を歩むことではなく、共に死ぬことを誓う。

「言ったでしょ。愚かな妻は、夫に添い寝をして共に死ぬの」

「お前の考えだけを聞きたい。サティのことはあくまでものことだ」

 悠の言葉に、健介はただそう返す。必死な言葉を。そんな健介に悠は笑った。

「私は言ったわ。一生一緒にいるの。死んでもずっとって」

「俺も、きっとそうする」

 だから健介は強く、強く悠を抱きしめた。痛いとも苦しいとも悠は決して口にはしない。

「健介と一緒にいけるなら、私はそれで良いの」

「……なんか、エロいな」

 馬鹿、と悠は健介の腕の中で笑った。それに釣られて健介も笑う。

「行くか」

「ええ。でもその前に……」

 解こうとした健介の腕を悠は離さなかった。狭い腕の中で身を翻し、瞳を閉じ、顎を少しだけ上げた。

「ああ」

 健介はそこに顔を屈め、悠の体を改めて抱きしめなおし、唇を重ねた。甘い香りと柔らかい感触と、温かな人の生きている温もりの中に、少しだけ二人は涙の味を踏みしめた。

「何で、泣いてるのよ?」

 素早いことは何もなかった。ゆっくりと、ただ愛しさを感じるだけのキスは、長かった。

「決別、かもしれない」

 だから健介はまた泣いていた。子供のように声をあげるのではなく、頬を伝い見上げる悠に落ちる涙で。

「ずっと、添い寝してあげるから、もう泣かないのよ」

「……あぁ、予約する。だから他の誰かなんか入れるなよ」

 そう言って健介は悠をまた抱きしめた。悠の首元に顔を埋め、顔を隠すようにキスをしながら。

「馬鹿……」

 それを受け入れる悠は笑っていた。痛いはずの腕の中で、そっと健介の背中に回した腕を、同じように痛みを感じさせようとしながら。

「ねぇ、結婚って何だと思う?」

 悠の問いかけに、健介は顔を上げた。

「前に読んだやつには、いつでも離婚できる状況で、離婚したくない状況って書いてあったな」

「そんなの聞きたくない」

 健介が悠に言ったように、悠が言う。

「健介の言葉で言って」

 少しだけ悪戯な笑顔に戻った悠に、健介は暫くその目を見つめていた。

「俺の言葉?」

「そう」

 健介の問いに即答する悠に、健介はわざとらしく考える素振りを見せると、悠に笑った。

「お前と死んでもこういうこと、すること」

 そうして二人はまた、目を閉じ顔を寄せた。

とりあえず、エピローグその一です。

ご要望次第では、後日談や他キャラのエピローグもあります。

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