五.空散華夢
一度だけ、悠と夜を過ごしたことがある。昨日だ。別に何かをしたわけじゃない。夜中俺も眠れず、天井を見つめていた。
静まり返った室内に、くぐもった、すすり泣くには大きい声が聞こた。
「悠・・・・・・?」
悠の部屋に顔を覗かせると、悠が泣いていた。俺の声に驚いたか、息を呑んだのが分かった。初めてだった。あいつが泣いているのを見たのは。絶対に見ることのないだろうと思っていた表情だった。
「悠、お前・・・・・・・」
「ごめん・・・・・・っ、うるさかったね・・・・・・」
心を許した人間以外には、少々冷たくも見える態度だった悠が、子供のように泣いていた。我慢せず、堪えず、逆らわず、ただ泣いていた。
「あ、いや、その、そうじゃないけど」
「ごめん・・・・・・でも、ダメなの・・・・・・っ」
「うおっ・・・・・・」
半ばテンパっていた俺に、悠は救いを求めるようにしがみつき、泣き疲れて眠るまで、俺は初めて他人を胸の中で泣かせた。
「お前も、必死だったんだな・・・・・・」
「だっ・・・・・・て、それしか・・・・・・なかったん、だもん・・・・・・」
眠ってからも胸倉を掴んでいた悠の手は離すことが出来ず、そのまま俺も眠った。
一睡も出来ていない悠が、やっと眠ったから。こいつが初めて俺を前に本音を露にしてくれたその涙。俺だって馬鹿じゃない。馬鹿かもしれないが、いつも頼りきっていた俺に、心を見せてくれたことに対して、初めて悠の強さと弱さを俺の上着を掴んで眠る、その手の力強さに、俺はその手を離すことが出来なかった。
「隼人もきっと、皆様の御厚情に深く感謝していることと思います。本当に今日はありがとうございました」
喪主である父親の言葉で式も無事に終わり、出棺を迎えた。
参列者に見送られながら、最後までとても旅立ったとは思えないあどけない寝顔を浮かべた隼人の顔は、きっと永遠に俺の中から消えることはないだろうと思えるくらい、焼き付けた。式の間中、隼人の母と悠の瞳から、潤いが消えることはなかった。隼人の母親は、一人で立つこともままならないようで、父親が絶えず傍を離れることはなかった。霊柩車に乗り込んでからも、隼人の写真を大事そうに、愛しそうに抱え、涙していた。
葬祭場の外は、絶えずサラサラと霧雨が降り続いている。あちこちにぶつかった雨粒が、パチパチと花火のように、あちこちに落ちた雨音が周囲の喧騒を掻き消している。
そして、とうとう、隼人との最期の時が来た。
甲高いクラクションがあちこちから跳ね返って聞こえてくる。
隼人の夢を叶えたピアノが奏でた音色が響いた。ゆっくりと走り出す数台の車の先に、隼人はいる。たった六年という、あまりにも短い少年の人生が詰まった体が、これから、この世界から旅立とうとしている。たった一人で、夢に夢見て来て、俺たちに空を飛ぶことの想いを馳せてくれた少年が。俺は、また何も出来なかった。
「隼人っ」
とっさに叫んでいた。それしか思いつくことはなかった。
「隼人っ!」
斎場を後にする車に向かって、俺は声を荒げていた。
「約束、したのに、ごめんなっ」
親族関係者もほとんどが列を成して火葬場へと向かっていく。斎場には、斎場関係者の他にほとんど残っていない。だから、誰も健介にも悠にも大した目は向けない。珍しいことではないということからだろう。
「見せてやれなくて、ごめんな・・・・・・っ」
車が見えなくなると、掛かっていたエオリアン・ハープの曲の音が静かに止まった。その瞬間、隼人の短い人生が終わりを迎えた。嵐の人生を笑顔で駆け抜けたこの雨の上に広がる大空へ隼人は、健介や悠の前からいなくなった。
「健介・・・・・・」
「まだ、何もっ、してやれて・・・・・ないんだっ・・・・・・」
笑うことを止めた日。笑うことを止めたら、後は泣くしかない。だって、悲しすぎるから。
「隼人っ・・・・・・」
全力疾走で走り抜けていった、大きくて、小さな隼人の人生に俺はどれだけ多くのことを学ばされた? それにどれだけ応えることが出来たんだよ。悲しくて、悔しくて、悔しくて、悲しくて。小さな棺の中で眠るあいつが、もうすぐ二度と会えなくなるのに・・・・・・。
「何もっ・・・っ・・・出来、ない・・・ままかよっ・・・・・・」
車が見えなくなり、健介は崩れ落ちた。全身から力が奪われたように、降りしきる雨の中に崩れ落ちた。たまりに溜まった悲しみや、悔しさが爆発を起こしたように、健介の口から大きく、大きく溢れ出した。全てを掻き消す雨音の中に、健介の叫びに近い泣き声だけが一面を支配している。
「くそっ・・・・・・くそっ、くそぉぉっ―――――っ!」
濡れた地に幾度も悲しみを悔しさに任せて何度も打ち付ける拳。痛みよりも思いが強すぎて、やっと今までの全てを受け入れようと、健介の心が体に追いつき始めたのかもしれない。健介は、そういう奴だった。
「溜めちゃダメ。堪えちゃダメ。今は、泣きなさい」
悠が全身ずぶ濡れになっている健介の体を起こし、先日健介の胸で泣いたように、悠が健介を己の胸に抱きとめた。
「今日は泣いて良いから、思いっきり泣いて。明日の分も、これから先の分も、思い出す度の分を今日、全部泣いて」
先日、同じ思いを吐き出したから、そういう言葉には力がある。今の健介にとってはとても大きなものだったのだろう。逆らうことなく、伝わってくる温かさに健介の悔しさが、悲しみへと変わっていく。治ったばかりの左腕と、右腕が垂れていたが、悠に抱きとめられ、悠の肩に強くしがみついて、泣いた。
「隼人っ・・・・・・はや・・・・と・・・・・・っ」
小さな子供は、一人が泣き出すとつられるように連鎖が広がり、他の子が泣き出すことがある。健介の堪え切れなくなった現実を受け止め始めた悲しみも、悠に映ったのだろうか、それとも降り止まない雨の雫だったのだろうか。痛いくらいに肩を掴んでいる健介にぎゅっと腕を回し、声を震わせていた。
「ごめんっ・・・・・・ごめんなっ・・・・・・」
夢に辿り着かない現実なんて、欲しくなかった。逃げ場にしかならない夢しか与えられない現実なんて与えたくなかった。俺は隼斗に何をしてやれたって言うんだよ。
「健介・・・・・・」
温かくて、柔らかい香りに悔しさが悲しみに変わっていく。ただ全部じゃない。悠の方だろうか、掴んでいる腕には力が入って収まらない。それはきっと俺の悔しさだ。
健介の謝罪の涙は、一つだけじゃないのだろう。悠は何も言わず、ただ、同じよう
に雨に打たれていた。
夏の少しだけ蒸し暑い中、天より掬った水を、その手から大地に零すように降る冷たい雫に、二人の悲しみや後悔は、夢を願い、小さな蕾を膨らませ、一輪だけ力強く開花させ散っていった、高峰隼人と言う幼い少年のもたらしたかけがえのない時間の終わりに宿る悲しみや後悔といった思いを大地へと流していくように、健介は悠に抱きしめられていた。冷たい雨に解け出る二人の涙は、温かだった。
長いようで短かった時間が過ぎるのは、早い。朝から蒸し暑い日が続いていた青空も、いつの間にか空高くに、秋の雲がゆっくりとその形を変えながら風と共に去っていく季節を中ほどまで過ぎていた。いくつもの小夜時雨の中で、俺は何度、どんな夢を見たのかももう覚えていない。
「それじゃあ、行ってきます」
「いってらっしゃいませ」
長い間、業務予定表に雑用ばかりが書き込まれていた奥田の欄には、昔のように飛行業務が入っている。その中に、バードフライの訓練の予定も組み込まれている。未だに俺は智史とのメンバーチェンジが行われていない。それが致し方ないことだと、全治してから月日の浅い今、空を飛べるようになっただけでも感謝しなければいけない。サブとして操縦桿を握ろうとも、また俺は帰ってくることが出来た喜びを噛み締められる。それで今は良い。
今年の夏も、バードフライの曲芸は上々の評判だった。真っ青な空に真白な入道雲の中に、カラフルなスモークで絵を描いていく。曇っているよりもやはり晴天の方が映える。そんな時期も過ぎ、いつものように飛行場は稼動していた。
コクピットに腰を下ろし、出発前の最終チェックを機体の前方に作業着姿で立ち、こちらを見ている整備員の指示に従い、共に異常がないかを調べていく。
隣に座る同僚と全ての確認を淡々とこなし、顔を合わせることなくスロットルと操縦桿に手を掛け合う。腰から響いてくるエンジンの回転数とヘッドホン越しでも聞こえるエンジン音が心を震わせ、落ち着かせる。やはり俺にはこれしかないのだと同僚と頷きあって、機体を走らせる。ゆっくりとした振動が徐々に大きくなり、体が揺れる。今は、それすらも刺激で心地よく、泣きそうにもなる。
「じゃあ、行きます」
「よし、行こう」
この世界に神はいない。
与奪することが神だと言うのであれば、それは弱き心に漬け込む悪魔だ。
以前は飛行前に空の女神だとかに安全を祈願していたりもしたが、あの日以来、止めた。
あの日から俺が空に願うものは、一人の少年だ。
真っ直ぐに夢へと突き進み、きっと空に描いている隼人。バードフライの時は全員が神ではなく、隼人に祈願するようになった。その証にフライ機のコクピットには全機に家族や恋人などの写真のほかに、共通した一枚があった。それが俺たちの中では、夢の神となったであろう隼人という少年の夢を、この大空に今は絵を描いているであろう、ただ一人の少年神。
今日は離島への資材運搬業務。復帰してから遊覧飛行やら忙しいが、かつての当たり前だった生活を、再び送れるようになった充実感が俺を満たしている。違うな、充実感と言うもので覆い隠している。そうしなければ、俺一人だけ置いていかれるから。
タキシングロードをスロットルを少しだけ上げてタキシングしていると、横目に機体整備をしている悠の姿が見える。
仕事に集中しているのだろう。こちらには見向きもしない。俺も管制官に離陸許可を要請し、ヘッドホン越しに管制官の指示を仰ぎつつ、仕事に集中する。そんなことが当たり前の俺の人生は、少しだけ普通じゃないのかもしれない。毎日上空を飛行する喜びを、見て楽しんでくれる人がいることを知ってしまったから、辞めることなど出来ないかもしれない。違う。止めることが出来ないのは、俺には果たすべき約束が、未だにここにあるからだ。
《Cleared take off》
無線から管制官の、離陸許可が出る。グッドラックと、この機体の帰る場所を教えてくれるその一言に、少しだけ座る位置を整え直した。
「All right. take off」
スロットルを上げると、体に伝わる振動とエンジン音が大きくなる。
これからあの大空へと飛び上がるんだという高揚感と、無事に帰還が出来るようにと祈りながら、レバーを引くと、体に掛かる微かなGが心地良く感じる。
前輪が完全に地を離れた瞬間の浮揚感はいつだって、空を飛んでいるという実感と、責任と、快感が俺を支配する。
いつか夢見た世界を今は飛んでいる。
俺の夢であり、願いの叶った場所。
それで良いはずなのに、高く白い空に落ちていくように風を切り裂いていく機体の片隅にある写真を見ると、現実としての夢の約束の霧散を感じてしまい、ひどい罪悪感と後悔も感じてしまう。もっと割り切りの良い性格だったなら、どれだけ良かったんだろうか。智史がすごい奴なんだと痛感した。俺には無理だ。いるはずがない現実を飛行しておきながら、探してしまう空の幻想。いつの間にか随分と経ってしまったあの日のピアノの音色と願い、そして開いた空の花。窓横にはってある写真が、日に日に褪せていくのを見るのは辛いのに、日に日にその気持ちが乾いていく自分がいることを否定することが辛かった。
「あいつが帰ってきたら、飲みに行くか」
「そうっすね。たまにはパーと行きましょう。先輩の奢りで」
仕事の飽いた二人が、事務所の休憩スペースから健介の操る航空機を見送っていた。コーヒーとタバコの煙が視界の飛行機を霧の中に隠すように、ユラユラと換気扇の中に吸い込まれていく。
「お前な」
「美友紀ちゃん、健介たちと飲みに行かない? 先輩が奢ってくれるってさ」
「え? は、はいっ、ぜひ」
悪戯な笑みを香田に向ける智史。智史の視線はもう、健介の機体には向いていない。遠ざかるエンジン音も数えている間に消えた。それでも美友紀の視線は、二人の視線を掻い潜りながらも何度か空を見上げていた。
「ったく。お前は調子良すぎだ」
遠くに消えていった健介の乗る航空機を横目に、香田の表情は呆れ顔だった。
たった一人で飛ぶこと。
それは、少しだけ寂しさもある。
乗客を乗せる時とは違う責任が、全て己にのしかかってくる。
決して鳥のように自由に飛ぶことは出来ない。
それでも、遠い昔の憧れや夢から生まれた文明の英知の結晶。
鳥よりも高い空を人は飛んでいる。
それを乗りこなすことが出来ることが、既に自由に飛んでいることかもしれない。
空を飛ぶことには、様々な制約がある。
それを守るからこそ、アクロバットのような飛行も、目的地へ人や物資を運ぶことも自由になれるのだろう。
例え俺が一人で飛んでいても、地上にはそれを迎え入れてくれる、同じ夢を持った多くの人間や待っている人がいる。そこから飛び立ち、そこへ降り立つことが出来るから、俺がふと思ったそんな不安や恐怖も空を飛ぶ喜びへと変わっていくはず。だから、今日も無事に帰ろうと、操縦桿を握ることが出来る。
「雨宮、先に休憩は入っとけ」
昼休みでもない時間に、大浪が悠にそう言った。悠は車輪軸の油圧点検をしていた時だった。
「え? ですが、まだ早いですけど?」
当然悠は首を傾げて拒否を示す。
「疲れてるなら休みを取れ。空気を少しは読め」
大浪は悠の言葉など聞く気もなく、馬鹿を見るような視線を悠に向けるばかりだった。状況が理解できないのか、悠は作業の手を止め、立ち上がる。
「主任、フルートの整備はもう終わってますよっ。って言うか主任の担当機はフルートじゃないですよ」
見かねた整備員の一人が悠に耳打つ。
「え? あれ? 嘘?}
「気づいてもないのか。おい、雨宮を外に連れて行け」
重症だな、と大浪は何が起きたのかはっきりと理解してない悠を問答無用でドッグから追い出した。抵抗もなく悠は、同僚に連れ出されてしまった。
「私としたことが、ほんとダメね」
そよぐ風に顔の熱が程よく冷まされると、悠は犯した失態に頭を抱えた。その顔は初めての失態と言うわけではなく、悠自身も何度目かの失態だと理解した上で、すぐに仕事に戻ることはなかった。
「これがパイロットなら死んでるわよね」
思わずの自嘲。
それは笑えることなんてありえない自嘲。健介と同じであり、同じでないのはミスを犯しても、その罪が重く影響するのは悠ではないという事。整備士のミスはパイロットの命を左右する。だからこそ、悠はきちんと頭を冷やすつもりでいるのだろう。幾度となく空へと消えていくため息が、自分自身に嫌気を感じているようでもあった。
「健介の方がやっぱりちゃんとしてるのよね」
公私を混同すれば、健介は確実に操縦ミスを犯し死ぬ。それもなく飛び立った機体が再び車輪を下ろしてくるのは、自身のコントロールも正常に行えている証。それがパイロットには当然の義務であり、健介のしている行動は何一つ間違いはない。
「私って、こんなにダメだったっけ?」
自分自身が分からない。悠の見上げる空には雲が一つもなかった。
「空って、ほんと遠いのね……」
隼人の夢が叶わぬままに解けていき、今は健介もその空へと翼を開いて飛んでいった。二人がいなくなった空を見上げて風に吹かれる悠は、そのあまりにも遠すぎる空に鼻を啜り、吸い込んだ空気を吐き出すことに失敗していた。
「よし。今日は俺のおごりだ。全部忘れてパーと飲めっ」
飛行から戻ると、先輩が自棄気味にも思えたが、奢ると言う事で俺も悠も参加した。二ヶ月あまりの悠との生活は、今じゃすっかり解消され、元の同僚としての日々が続いている。正直、未だに懐かしく、寂しく思うことがある。だが、それを口に出来ない。しちゃいけないと思う俺がいるからだ。絶対甘えれば泣くって言う自信があるから。
「健介、どうしたの? あんまり飲んでないんじゃない?」
「いや、なんでもない」
隼人との繋がりが切れて、三ヶ月。一人仕事を終えて家に戻ると、暗く冷たい空気に、何度とも思い出してしまう。先輩が忘れてパーと飲めというが、そう言われると逆に走馬灯のように全てが甦ってきてしまう。意識しないようにしていたから。
「奥田さん、どうぞ」
美友紀ちゃんが俺が飲み干したばかりのコップにビールを注ぐ。正直、この一杯でも今日はきつかったが、美友紀ちゃんや先輩の手前、断ることが出来なかった。
日頃の愚痴や、下らない他愛ない話で盛り上がっている。誰一人として俺の心の中に浮かぶものを口にする人間はいない。忘れられてしまったような気がして、楽しいはずの席が、虚しく感じるが、雰囲気を壊すのは気が引け、無理をしてでも次々と注がれる酒の飲み干した。皆が気を遣ってくれているのが嫌でも、その目を見れば分かる。
「すみません、ちょっと外します」
やはりダメだ。今日の酒は美味しくない。飲めば飲むだけあの日が甦る不味い酒だ。
「大丈夫ですか? お手伝いしましょ・・・・・・」
「私もちょっと失礼します」
気分が悪そうに店を出た健介を、介抱しようと美友紀が立ち上がろうとするが、その横を悠が通り過ぎた。
後を追うように店を出た悠に、美友紀は先を越されたように取り残された。
「美友紀ちゃん、気持ちは分かるけど、あの馬鹿には、今は雨宮が必要なんだよ」
どうすれば良いのか戸惑っている美友紀に智史が苦笑しながら首を横に振った。
「小野原、飲め。飲んで忘れろ」
「・・・・・・はい」
名残惜しそうに店の入り口を見る美友紀の気持ちも智史と香田には理解できるが、昔を思い出した健介を支えるには、ただの慰めではダメだということを知っている二人には、包み込んでやれるだけの健介を知る、悠しかいないことくらい分かりきっていた。
「やっぱり、私じゃダメなんですね・・・・・・」
「余話いっ心を支えるには強く在ってはいけない。向き合って支えるには同じように弱い心を見せないといけない。あの馬鹿は隠すことが出来ない奴だから、雨宮も隠さないんだよ。傍から見てたら下らないんだがな」
「初めから勝負になんてなりませんでしたね」
「まぁまぁ。今日はしんみり会じゃないんだから、先輩も美由紀ちゃんも楽しく飲まないと」
香田が差し出したグラスを見つめながら美友紀は諦めのため息をもらし、グッと振り切るように飲み干した。その横で智史だけが疲れたように息を吐いていた。
「俺、お暇しても良いっすか?」
智史が小声で香田に声をかける。
「いや、いろ。俺だけじゃ小野原の話を聞いてはやれん」
「向こうが終われば、今度はこっちか。俺ってこんな役回りなのかねぇ」
智史はようやく二人が良い感じになりそうになって、肩の荷が下りるのだとホッとした瞬間、次の仕事が舞い込んできたようだ。
「何か言ったか?」
「いえ、何も。あ、ほらほら美友紀ちゃん。今日は先輩がいくらでも付き合ってくれるから、とことん飲もう?」
「はい、そうですよね・・・・・・」
折角のチャンスも、香田は失恋の隙を狙うことはするつもりはないようで、智史に話題をふらせることにしていた。
「はぁ・・・・・・ダメだな、全く」
外はすっかり日が落ち、星空のきらめきが街明かりに霞んでいた。
「悪酔いでもした?」
「そうだな・・・・・・そうかもな。泣きそうだ、馬鹿みたいに」
店を出てきた悠に、振り返ることなく、本音を漏らす健介。
「全部泣けって言ったじゃない」
「んなもん、無理だ。出て来るもんは、出て来るんだよ」
そう言い返す健介の声は、すでに震えが混じっていた。
「ちゃんと家で休んでる?」
葬儀の日、全部流したと思っていた涙は、今日に限らず、今日まで何度か悔し涙などで溢れたことがある。一人で家にいる時にだけ。
「……まぁまぁ」
「私もよ。家に帰ると、思い出すのよね。玄関を開けた瞬間の暗い部屋を見ると特に」
悠の一言が胸に来た。
同じだ。たったの二ヶ月と言う短い間の隼人との時間。その思い出が部屋にも幾つも飾られている。たった二ヶ月なのに、とても濃くて、未だに全く色褪せない。それが今じゃ、ふと気を抜いた瞬間に俺を苦しめている。今になって浮かぶ後悔が、とても濃い。それでも少しは成長した。公私できちんと割り切れるようになった。あの頃の悠にやっと追いついた気分だ。
「明日、お墓参り行かない?」
「起きれる自信がない」
今日はもう、枕を濡らして、気付いたら朝を過ぎていそうだ。
「起こしてあげるわよ。いつでも」
そんなに飲んだつもりはないが、結構飲んだ気分だ。目の前が歪んで見える。体が熱くて、目が熱い。吐き出す息に、上手く咳が出せず、つまずくような変な呼吸になってしまう。悠の声もあまり聞こえない。
「悪酔いね、完全に。相変わらずなんだから」
冷える空気の中、そんな健介を後から柔らかい温もりが包み込んだ。
「今日、一人で帰れる?」
「・・・わかん・・・っ、ねぇ・・・・・・っ」
懐かしくて、温かくて、良い匂いがして、ずっと焦がれていた。大切な人を亡くしたとても大きな喪失感と悲愴感を共に分け合った温もり。支えなければいけないと思っていたのに、未だに支えられ続けているのに、とても愛しくて心地良い。
久々に流した涙の味は、悲しさと悔しさの中に、少しだけ甘い酒の香りの味がした。
見晴らしの良い小丘にあるこの場所。金木犀の香風を受け、真白の妖精を迎え、淡い伊吹が湧き立つ季節を巡り、一人の少年が夢に願った、真白で大きなキャンバスが広がる夏の空。そしてまた繰り返す秋の涼やかな風の吹く季節が、この場にも届いていた。早過ぎる時の流れが、そこにはない。
「ここは見晴らしが良いな」
「そうね、風も気持ち良いし」
健介の手には、治療によって制限されていた当時は口に出来なかった、果物の詰まったバスケット。悠の手には、パレットに出した絵の具のようにカラフルな花束。見舞いの時は気づいてやれなかったことも、今ならその制限も何もないのだと、真新しくて、小洒落たデザインの墓前にそっと捧げた。もう何にも縛られることのない少年を想って。
「・・・・・・早いよな」
「そうね。そろそろ二年になるなんて」
他に誰もいない静かな墓地。その中でひっそりと佇む高峰家の墓前に二人は、静かに線香を焚いた。
「なぁ、隼人。お前は今、どこにいるんだ?」
正直、ここに隼人がいるとは思えない。ここにあるのは、隼人の小さく白い、この世界への残し物。あれだけ出会った当時は元気で、最期まで夢を諦めることなく温め続けていたんだ。こんな所で静かに眠っているなんて思えなかった。たった半年だったけど、隼人はその名の通りに、疾風のごとく、俺たちの前から笑みを残して消えた。
あんなに近くにいた、誰よりも強く、たった一つの夢を温め続けた隼人と共に、健介は空を飛んでいる。
どんな時も健介たちには笑顔を見せていた、手を伸ばせばすぐ傍にあった小さな温もり。それが今ではどこか、近いようでとてつもなく遠い場所へと旅立ってしまった。少しでもその軌跡に繋がる何かを感じたいと、健介は隼人と共に空に絵を描き続けている。そうすることで、少しでも隼人が夢と空を見上げられた幸せを感じ取ってくれたのだと思いたいからだ。
だからいつでも探してしまう。それは健介だけじゃない。どっかに探し人の思い、形があるのであるなら、人は探してしまう。だから健介には、隼人がここにいるとは思えないのだろう。
「隼人君、きっと幸せだったわよね?」
手を合わせ終えると、悠が俺を見てきた。
「そうだと良いな」
断言は俺には出来ない。
「隼人、きっとお前は、そこにいるよな」
顔を上げると、秋雲の合間に空の航跡が浮かんでいた。青い空に描かれた、真白な一線。飛行機雲だと分かっていても、何故かそれが、空に絵をかくことを夢見続けていた隼人の描いたものに見えた。
隼人が息を引き取った日。
どんな様子だったか父親が話してくれた。
危篤のまま、何も苦しむことなく、眠りに就いたまま心停止して、そのままだったそうだ。一度も苦しい表情などを見せなかったらしい。危篤に陥る前日は、両親の他に祖父母とも楽しそうに言葉を交わしていたらしい。きっと伝えたいことを全部伝えたと、力が抜けてしまったのだろう。疲れも小さな体に詰まっていたはずだ。
俺はまだまだ話したいことがあったのに、隼人は満足してしまったのだろうか。
一つだけの小さな夢を叶え、大好きな人たちに自分の苦しむ姿を見せたくなかったのだろうか。
それが今でも俺の中で後悔として残っている。
きっと、俺が死ぬまでこれは消えることはないだろう。俺がこの世界からさよならした時、その時まだ隼人が空で絵を描いていたら、その時は沢山話せなかったことを話して、交わしたままにされた約束の、俺の絵描きを隼人と共に出来れば良い。ここに来ると、そんな気分にさせられる。隼人がそう思って、俺にそう感じさせるのかもしれない。
「ありがとうな、隼人。・・・・・・ごめんな」
「どうしたのよ? 急に」
空を見上げていた俺に、穏やかな風に髪を包まれている悠がいつもと変わらない目に、俺を映す。
「何かな、隼人がいた気がしてな」
「きっと見間違いなんかじゃないわよ」
俺の言葉に悠が俺と同じように空を見上げていた。そこにいるのだと、俺の目には楽しげに風を受け続けて温めていた夢を思いっきり叶えている、笑顔をいっぱいに浮かべた隼人の姿が見えた気がした。
「悠」
「何?」
二人して、流れ続ける雲が受け続ける風に身を委ねる。明日からはまた、仕事だ。だから、それまでの間に、俺が俺として自覚した思いを、証人がいる前で伝えておきたかった。
「隼人、証人になってくれるよな?」
「何が?」
思わず口に出たことに悠が首を傾げる。
「何でも。あのさ、悠」
「何?」
「俺、また一人じゃどうしようもない時があると思う」
「・・・・・・そうね」
何も聞いてこない。ただ分かったように相槌を打ってくるだけ。悠らしいが、もう少し何か言って欲しい気もする。だが、昔からの俺たちらしいから、話を続けよう。
「その時、俺、多分家に一人じゃいらんないと思う」
「かも」
「それがいつかも分からない。いつまで続くのかも」
「健介だし」
何だよそれ? と思わず口に出そうになったが、それを口にしては台無しになりそうだから、飲み込んだ。男なんだ。少しくらい格好つけてやりたいと思うのも、また心情。
「だから、さ」
「好きよ。健介のこと。男としては頼りないって思ったけど、そうでもなかったし」
「えっ・・・・・・?」
意を決して、空から視線を悠に下ろした瞬間、悠が俺を見ていた。
「支えてあげる。泣きそうな時も、悔しさが募った時も、泣いてる時も、どんな時も」
「え、あ、えと・・・・・・」
頭に浮かんでいた言葉が全てどこかへ飛んで行ってしまった。真白だ。
「私じゃ、嫌?」
そんなの卑怯だろ。髪を下ろして、俺を見る真剣な目。悠から吹いてくる風が冷たさの中に仄かに香りを含んでいて、そんなことを俺に言うのは。何を言おうとしていたのか全部飛んじまったじゃねぇかよ。
「い、嫌なわけないだろ。俺だってお前が好きだ」
「そう」
つい悠の言葉に恥ずかしさからか、熱くなって、言おうと思っていた言葉がムードもなしに口から出てしまった。俺を見ている悠が、人の顔を見て微笑んでいる。なんか、無性に恥ずかしい。
「顔真赤。中学生みたいよ?」
おかしそうに噴出しやがった。
「う、うるせぇよ。全部台無しじゃねぇか」
「私は健介が好きよ。ずっと。だから、ありがとう。そう言ってもらえて嬉しい」
「悠・・・・・・」
「これからも支えてあげるから、私を支えて? 私だって一人じゃどうしようもない時もあるし」
「ああ。任せろ。頑張る」
初めて見る悠の赤らんだ笑みに、一気に恥ずかしさが引いて、見とれて飲まれてしまったかもしれない。
「ね、証人の前ですることがあるんじゃない?」
「は? 何をだ?」
悠が唐突に意味不明なことを言ってきた。俺の思いは予想とは違ったが、結果オーライって感じで、通じた。そしてきっと、隼人も証人としてそれを見て、聞いてくれたと思う。俺の願いは一つ果たされた。それ以外にすることなんかあったっけか?
「・・・・・・やっぱりあんたは健介ね。期待した私が馬鹿、か。別にもういいわ。気にしないで」
「お、おい、何だよ? 何でいきなりキレてんだよ?」
折角思いが通じ合えたのに、何故そこでため息吐いて、俺を蔑むような目で見るんだよ。
「いい。帰りましょ」
悠がもう一度墓前に手を合わせると、身を翻して来た道を戻っていく。
「お、ちょ、待てって。何だよ? 何で怒ってんだよ? おい、悠っ」
「怒ってないわよ。もういいの。時間はあるからゆっくり行くことにする。あんたとはそれで良いの」
「意味分かんねぇよ。言いたいことあんなら言えって。気になるだろ」
呆れたまま先に戻っていく悠に、首を傾げながら健介が追いかけていった。
「何でもないわよ。馬鹿っ」
「馬鹿馬鹿言うな。お前の彼氏だぞ?」
「はいはい、そうですね。忘れるところだったわ」
「お前な、もっとこう、何て言うか、あるだろ? ほら・・・・・・」
言い淀む俺を見て悠の足が止まったが、すぐにまた背を向けて歩き出しやがった。
「あんたはやっぱり馬鹿よ。意気地なしの朴念仁」
そう言い放って。
何かをぶつぶつと言いながら、近付いてくる足音に悠の表情は緩んでいたが、健介には見せることはなかった。そして、二人が下らない言い争いをしながら歩いていくのを、空から見守るように天使の矢のごとき一筋の穢れのない真白な線が、大空のキャンバスを走っていった。
「お前、俺はそこまで落ちぶれてないんだからな。って聞けよ、おい」
まだまだ一人前になりきれない俺だが、一人じゃ出来ないことを、今まで当たり前のように支えてきてくれた悠との、これからも当たり前の日々が続く中で、いつかきっと支えられる立場から、誰かを支えられる人間へとなっていけるのだろうか。
今はまだ、もうしばらくの間は支えられてないと、支えられないかもしれないけどな。
「・・・・・・なぁ、悠」
振り返ることなく悠が空を見上げた。どこかの航空会社の飛行機が尾を引いて白く細長い雲を空に描いていた。どんな雲よりも目を引く一筋の、かつて追い求め、掴み、披露した夢よりもはるかに高い空に描かれる一線の絵。隼人が夢見た青いキャンバス、Solaに描いた絵のように白く染めた。
「お前と一緒に飛びたくなった」
「何よ、急に? それに私は整備士よ。いつだって一緒に飛んでるじゃない」
「そんなんじゃない。一緒にこの空を飛びたいんだ。隼人がいるところまで」
「何それ? プロポーズ?」
健介の言葉に、悠が笑いを堪えているような笑みで、隣に追いついたその横顔に振り返った。ちょうど健介がその横顔を覗き込もうとした瞬間に。




