三.止まらない、時
「奥田さん」
食堂に行こうとしたら、ばったり美友紀ちゃんに出くわした。思わず先ほどの心の中での決意が揺らいでしまうような笑みを美友紀ちゃんは浮かべている。
「み、美友紀ちゃんも、昼?」
「はい、ご一緒しませんか?」
昨日はいきなり俺の前から姿をくらませたというのに、今の美友紀ちゃんは少々顔が赤いが、楽しそうにしている。何というか、こっちが恥ずかしいというか調子が狂ってしまう。折角の決意が水に落ちた雫のように波打って消えていくかのようだ。
「何にする?」
折角だから、ここは俺が持つことにして、空いているテーブルに腰掛けた。
「何か、昨日とは違うね?」
「そうですか? そんなことないと思いますけど」
そう言いながら楽しそうに昼食を取る美友紀ちゃんに、俺の良心に小さな棘が言葉を交わす度に刺さるような痛みが走る。
「昨日はいきなりでごめんなさい」
「いや、別にそれは良いんだけど」
苦笑する美友紀ちゃんに、俺はきっと別の意味を含んだ苦笑で返した。
「いきなりだったから、ちょっと驚いたけど」
俺の言葉に再び恥ずかしそうに微笑む彼女が眩しい。憧れだとかじゃなく、今の俺の決意が後数時間後にはその顔から笑みを奪うかもしれないと思っているからだろうか。
俺自身、昔から色恋沙汰よりは夢を追ってきたから、それほど経験が多いわけじゃない。慣れた奴に言わせれば青いだの、小便臭いだの言われるかもしれないが、俺にとってはそういう括りでいられるものじゃない。そんな俺でも分かるくらい、美友紀ちゃんも同じ空気がする。だから、その笑顔が眩しい。
「いきなりじゃ、ない、ですよ・・・・・・」
美友紀ちゃんが不意に真顔に戻った。正直、漫画などじゃベタな展開だなと、よく目にするパターンだとどこか客観視する自分がいるのも確かだ。この後の事も恐らくは俺の予想に反しない結果になることも見える。だが、今それを俺が成そうとしているとあっては、少々気が重い。少々じゃないな、かなりだ。
美友紀ちゃんの気持ちは薄々ながら、微かに感じていた。だから、周囲には鈍感だとか言われていたが、俺自身がそういう気持ちになるよりも仕事に打ち込んでいたため、気を紛らわせるように直視しないようにしていたところもある。今思えば、それがいけなかったのかもしれない。初めから分かりやすい態度で接していれば、今頃は次のことで苦悩していたのかもしれないし、仕事に張り切っていたかもしれない。そんな平行世界のことを考えたところで、抜け出すことなど不可能なのだから、受け入れるしかないのも分かっている。
「あのさ、美友紀ちゃん」
一瞬美友紀ちゃんの目が反応した。怯える子犬のような表情を垣間見せた気もしたが、すぐにいつもの美友紀ちゃんらしい顔に戻った。
「仕事終わったら、ちょっと良いかな?」
その言葉の真意が何を指すのか美友紀ちゃんも分かっているからか、頷いた。
「えっ?」
と思ったのは、俺だけだった。美友紀ちゃんは静かに首を振って頷いた。横に。
「もしかして、先約あり?」
「そうじゃないです。答えは分かってますから、今は聞きたくないです」
真剣な眼差しで、初めから俺がどう答えるのか分かっていたようで、俺の答えへの受け取りを拒否した。
「今は、私もまだまだだって分かってます。奥田さんの理想には到底及ばないことも。だから、待って下さい」
「えっと・・・・・・美友紀ちゃん?」
予想して考えていた道筋から逸れていく。他の道を考えていなかっただけに、戸惑いが隠せない。
「きっと奥田さんに気に入ってもらえるようになるので、それまで返事は待って下さい」
お願いします、と頭まで下げられてしまった。先ほどから男の目が、いくつか食事を摂る振りをしながらこちらをチラ見している。中には隠すことすらなくガン見とでもいうべきか、視線だけこちらに向けて、他は昼食に夢中になっている奴もいる。
「あ、えっと、うん」
勢いに負けたというか、流れに流されたというか、気がついた時にはそう答えていた。
「ありがとうございます。きっと奥田さんにも満足していただける女になりますから」
こう言う所で言う言葉じゃない気がする。背筋に感じる冷たいものが物語っている。
「うん・・・・・・」
美友紀ちゃんはいつもの笑顔を浮かべて昼食を済ませて仕事へと戻っていった。俺は一服しにいつものように先ほど先輩といた屋上に繰り出した。
『健介、お前な・・・・・・』
『いや、俺はちゃんと言おうとしたんですけど、何でかこうなっちゃったわけでして・・・・・・』
その途中で偶々先輩も近くで昼食を取っていたようで、始終目の当たりにして食べ終わった俺を引き止め止めがっちりと肩を組んで、ネチネチとしばらく苦情を受けたため、その一服はいつもの数倍美味く感じた。
「これで良かったのか・・・・・・?」
結果から言えば、曖昧な俺の対応が招いた自業自得の結果だ。それは否定しない。だが、俺はそう強くないから、美友紀ちゃんの悲しげな表情を見たくないと言う衝動に駆られて、結局は先延ばしにして、余計に美友紀ちゃんにひどいことをした。だが、言い訳かもしれないが、時間を置けば今の俺にとっての?If?で、そしてこれからの美友紀ちゃんにとっての?Surely?が現実になるかもしれない可能性を残したという点では、俺はそこまで悪いことをした気分にはならない。それが叶うかは俺には分からない。先輩にはっきり言えないのも、女性は変われば変わってしまうものだからだ。
「しばらく、休んで来い」
手すりに寄りかかって一服していると、下のほうから少々ドスの混じったような声が聞こえた。大浪整備総括長の声だとすぐに分かった。そして、俺が下を見た時に大浪さんの言葉が向けられた相手が意外で少々驚いた。俺は半ば駆け足で外へと続く別階段で下りていった。
「何だ? いつもなら今頃は後輩に激を飛ばしているくせに」
俺が階段を下りてその人物を見つけるのに時間はかからなかった。何となくいつもそれほど人気のないベンチにいる気がしたから、そこへ向かえば案の定一人でお茶を手に座っていた。
「何よ。あんたこそ仕事は良いわけ?」
「俺はある程度片付けたからな」
昨日の分は。今日の分は溜まってろくに消化していないんだけどな。俺の軽い言葉に、そう・・・と頷くとだんまりを決め込んだように、喋らなくなった。口数が少ないからいつものことだと思うが、気が滅入っていることくらい大浪整備総括長との会話を聞いた瞬間に分かっていた。
「お前も、隼人のこと気にしてたんだな」
車を降りた時にはいつもの悠の顔をしていたから、仕事へのスイッチが入ったのだろうと思ったが、どうやら思い過ごしだったらしい。結局は俺と同じことを考えて、身が入らず、俺は雑用だから多少の気の緩みは良いが、整備士である悠には許されることじゃない。バードフライの機付長ともあれば、ましてやのことだ。
「割り切ってたつもりなんだけど、ふとした時に浮かんでくるのよ」
素直に弱音を吐く辺り、今回は相当のようだ。さすがは大浪総括長。きっと他のスタッフは気づいてはいないだろう。ポーカーフェイスをさせれば余程の人間じゃなければ気づかれることのない奴なのだから。
「さすがのお前でも、揺らぐことがあるんだな」
少々冗談を交えて言ったつもりだが、悠をさらに落ち込ませたみたいだ。
「・・・・・・思い違いをしすぎよ」
こいつには冗談が通じない。いつもなら軽く受け流すことすらも、今は毒にしかなっていないようだ。あまり人前で弱い自分を見せない悠だから、俺も戸惑う。昔は何度かそんな顔を見たことがあるが、ここ数年は久しぶりのことで懐かしくもあり、昔は俺がどんなことをしていたのかも思い出せず、目の前の女一人にかける言葉が見つからないことへの困惑と焦りが次第に募ってくる。
「悠、ちょっと待ってろ」
特にこいつを励ませるような妙案は思いつかない。ただ、こういう時に俺に出来るのはこんなことくらいだ。俺は悠に待つように言うと、駆けた。腕に伝わる振動が鈍痛を引き起こすが、それくらいは耐えるべきだろう。悠が不思議そうに見ていたが、俺はそれを背に受けながら急いだ。
「お姐さん、いつもの二つ。一つは餡子たっぷり目で」
俺は食堂に行くと、食券を買うのが普通だが、おばちゃんに何か頼む時に使う常套句で声をかける。
「おや、どうしたんだい? こんな時間に」
お姐さんと呼べば、おばちゃんたちは気を良くしてくれる。向こうも常套句だと分かっていて俺を息子のように可愛がる。だから、俺はそれに甘える。
「なるべく急いで。ちょっと訳ありでさ。特別甘いの頂戴」
俺が急かすように言うと、見透かしたようにおばちゃんがにんまりと含み笑みを浮かべて、奥の同僚に俺の注文を言った。
「何したんだい? 女の子かい?」
近所のおしゃべりおばちゃんみたいな感じで耳打ちをするような小声で話しかけてくる。
「いや、えっと、まぁ・・・・・・」
期待するようなことはないんだが、おばちゃんの言う通り相手は悠だ。
「悠ちゃんね。あんた何したの?」
俺が曖昧に受け流すと、核心を突いてきた。鋭すぎ。恐ぇよ。
「いや、俺は何もしてないですって。ただ気落ちしてるから・・・・・・」
俺が一通り事情を話すと、ははーん、と楽しい話じゃないのに、かなり楽しそうに俺を見てくる。食堂のおばちゃんたちはここの飛行場で働く人間の過半数を食べさせているだけあって、その力は意外と大きい。故に俺のこと、もといパイロットたちのことは我が子のように、要らぬ話にまで精通していたりするところがある。俺が悠の家に居候させてもらっている事も。一部の人間にしか話していないのに、誰かの告げ口でとっくの昔に知られている。だからおばちゃんたちにとって、今の俺のことなど大方想像がついているのだろう。
「そりゃ、珍しいね。あの子は強い子なのにねぇ」
「ですよね」
相槌を打ったつもりだったが、おばちゃんに額を叩かれた。
「そこで頷いちゃ、ダメよぉ。悠ちゃんは女の子なんだから、そんなわけないでしょ」
俺を試したのだろうか。おばちゃんはこりゃ、あの子も苦労するわ、と俺を呆れたように今度は見てきた。
「はい、お待ち。さっさと持っていってあげなさい」
出来上がった団子をおばちゃんが持ってきた。いつもは直接串だけもらうのだが、今日は箱に入っていた。
「多すぎないっすか?」
「これが良いんだよ。ついでにお茶も持っていき」
支払いを済ませて、食堂を後にしたらその背後から、男を見せるんだよ、とお節介な一言を向けてきた。悪い人たちじゃないから憎めない。でも、人前でそういう事を言うのは止めてもらいたい。何事かと俺を見る同僚に羞恥心が高まる。女性というものはどうしてあれくらいの年代になると、急に強くなるのだろうか。中にはそうじゃない人もいるが、ここで働いている人は、皆、気が強くてがさつそうに見えて繊細なところもあって、憎めない。きっと俺たちくらいの年代は皆が子供なのだろうな。入社当時は照れやらで逃げるようになるべく目を合わせないようにしてきたが、今は親が実家から出てきて、友人に会っている時の気分もするが、頼りになるから昔ほどは嫌ではなかった。
「悪いな、待たせた」
俺が戻ると、悠は先ほどから身動き一つしていないんじゃないかと思わせるくらい、悠がベンチにそのままで座っていた。俺が食堂に行ってからまた考えていたんだろう。それくらいは俺でも分かるくらいの表情をしていた。
「ほら、食えよ」
隣に腰を下ろし、まだ熱いくらいの熱を持っている団子を差し出す。
「・・・・・・何、これ?」
突然姿を消したかと思えば、今度は団子とお茶を持ってきた健介に悠は、何を考えているのか分からないといった表情を浮かべていた。
「好きだろ。蓬団子」
「あんたじゃないんだから・・・・・・」
健介が一本を手に取り、先に口に運んだ。出来たてのため健介は熱そうに口をハクハクさせていた。
「美味いぞ。出来たてなんだからな」
差し出した入れ物をおずおずと受け取った。
「何か、多くない?」
普段は団子から溢れない程度に餡子が乗っているのだが、悠に差し出された物は、箱にまで餡子がどっぷりと詰め込まれていて団子が見えないほどだった。
「餡子好きだろ?」
「嫌いじゃないけど。でも、これは・・・・・・」
健介は手を休めることなくたっぷり餡子がついていたため、ポトポトと子供のように餡子が落ちていたが気にすることなくあっという間に食べ終えた。
「まぁ、あれだ。何つーか、うん、悩んでる時は甘い物だ」
悠の機嫌がこんなもので良くなるとは思っていないが、今の俺に出来るのはこれくらいだ。下手な言葉を投げかけても一蹴されるのが目に見えている。だから、こいつにはこれくらいしか俺が思い浮かぶことがない。
「んじゃ、俺はお先に」
特に話すことも思い浮かばない上に、既に昼からの仕事始めも既に過ぎているため、俺は悠の隣にお茶を置くと立ち上がった。
「別に俺が言えるようじゃないけどよ、隼人は俺たちがこう思って欲しいから言わなかったわけじゃないだろ? もっと気、抜けよな」
いつも世話になっている悠に大したことが出来ない自分に不甲斐無さを感じながら俺は事務所に戻っていった。
「・・・・・・全く」
一人残された悠は所へと戻っていく健介の背に苦笑を浮かべて見送っていた。心なしか先ほどまで仕事に身が入らず、叱責を受け、今まで自分の仕事に誇りを持っていたため、上司である大浪にそこまで言われて落ち込んでいた顔に、微かに笑みが戻りかけていた。
「相変わらず・・・・・・なんだから」
残された蓬団子に手を伸ばすと、ドロっと餡子が溢れんばかりに串から落ちた。外側の餡子は冷めたようだが、串を持ち上げるとホカホカの湯気が立ち昇った。
「重いわよ、これ」
思わず苦笑が漏れた。手にした串がしなっている。健介の不器用ながらも、その気遣いが悠には嬉しかったようで、先ほどまで沈んでいた表情が、頬が緩んで優しくなっていた。
「――あつっ」
たっぷりの餡子が団子にも入れ物にも熱々の湯気を漂わせ、いくら好きだからと言ってもその割合には限度というものがあるだろうと思いながらも悠はそれを口にしていた。
午後からは午前の遅れを取り戻すように健介は働いた。昨日ほどの勢いではなかったが、飛行に立つ前の香田は満足げに健介の肩を叩き、健介はそれに背筋に冷たいものを感じていた。その恐れから逃れるために働いていた。
「奥田さん、これどうぞ」
「ん、ありがと」
健介が香田に遠慮しているのは、午後から仕事に戻ると受付の仕事に余裕があるのか美友紀が何かと世話を焼いてくるからであった。ちょうど子供はおやつの時間である正午から数時間後にはお菓子やコーヒーを淹れてきたり、健介が頼まれた書類の整理の半分を手伝ったりと、美友紀は好意で行っているのであろうが、健介としては視線が痛いことだった。
「ようやく終わりかぁ」
健介は美友紀のサポートで仕事の遅れは取り戻すことが出来たが、その好意への心労でいつもより二割増しに終業時間には疲れを感じていた。
「健介、少し良いか?」
先ほど悠からメールで少し遅くなるとあったため、食堂で腹ごしらえでもしようかと思っていた健介に智史が声をかけてきた。夜間組みが仕事の引継ぎをしている中、智史は窓際のフリースペースに健介を呼んだ。
「何だ? お前も今日は終わりだろ?」
「ああ。まぁな。ただお前に訊きたい事があってよ」
二人して煙草に火をつけ、ライトアップされた外の景色に目を向けていた。
「お前昼前にネット見てたろ?」
智史の言葉に記憶を辿る。ちょうど香田先輩に呼び出された頃だったか。隼人の病気について見ていた頃だろうか。本来業務中はプライベートなことに会社のものを利用するのは禁止なのだが、今の俺は仕事というほどの仕事が常に入っているわけじゃないから、特に誰にも何も言われない。
「見たのか?」
智史が歯切れ悪そうに頷いた。先輩に呼ばれた時に切ったつもりだったが、つもりだったようでばっちり見られてしまったようだ。
「あれ、何だ?」
さすがは自称親友。単なる暇つぶしで見ていたわけじゃないということくらい分かりきっているようで、その真意を目で訴えてくる。ただ事じゃないことも知っているようだ。開くページを誤ったか。
「何でもねぇよって言っても、お前は信じないだろうな」
付き合いが長い分、智史のことも分かる。そしてこいつにも俺のことが分かられている。
「お前、子供いないだろ」
「俺の子のことじゃねぇよ。これで知り合った子だ」
腕を見れば智史も把握するだろう。いちいち経緯を話していては面倒だし、俺だってまだそこまで知っているわけじゃない。智史もそれは分かってくれたようで小さく頭が縦に揺れていた。
「それは分かったけどよ、何でそこまで気にするんだ? 今朝のこともその子のことで何かあったからだろ?」
「お前の言う通りだ。ちょっとその子の症状が悪化して、動揺してた」
後者についての答えはそれで間違いない。実際に目の当たりにしたわけではないが、もし隼人に会っていたら今でも俺は凹んでいるはずだ。
「お前のことだからな。あれを見て想像は出来た」
要は俺が何故隼人に気をかけるなことをしているのか、と智史は聞きたいようだ。返答には特に考えなかった。相手が智史じゃないのなら、自問自答するかもしれないが、こいつには今の俺の気持ちを理解出来ると思ったから。
「隼人って言うんだけど、その子まだ小学一年くらいなんだがずっと入院しててさ」
俺の言葉に静かに耳を傾ける智史。やはりこいつには俺の話がどこに繋がっているのかを聞かずとも、ある程度の予測は立てているのだろう。続きを待つような目で俺を見てくる。
「確かに初めは俺もそれほど大したこととは思ってなかったんだけど、隼人は俺らと同じ夢を持ってて放っておけないって言うか、病室にしかいられないから、空を、見せてやりたくて、な」
ようやく智史も事情を飲み込んだようで、納得した表情をしていた。ついこの間聞かされた智史の過去。きっと今俺が話した事と、智史の姉と姪の事が智史の頭の中で重なる部分があったはず。俺だってあの時の智史の言葉が過ぎったから自白したわけだ。
「仕事に支障をきたす辺り、お前らしいな」
「褒め言葉で受け取っとく」
二人して苦笑しつつ特に言葉を交わさない。それは単にお互いに掛ける言葉が見つからないわけじゃない。俺には詳しくは分からないが、智史が過去に思いを馳せるような表情で星の散りばめられた輝きで満ちた南の空を見上げていた。
「なぁ、健介」
同じように空を見上げていた俺に智史が頼んできた。
「その隼人って子、合わせてくれないか?」
意外な言葉に少々呆気に取られた。隼人の事を聞きたいだとかなら分かるが、詳しい話をするでもなく会いたいと言ってきた。何を考えているのか分からない。突拍子もないことを言われても、俺だってろくに知っているわけじゃないんだ。
「俺だってまだ数回しか顔を合わせてない。すぐに知らない人間を連れて行くってのは負担だろ?」
大人相手ならともかく、子供にしてみれば急に知らない人間が来ると少なからず引いてしまうだろう。入院ともあれば限られた人間しか顔を合わすことはないのだから。俺だってその中に入りきれていないのに、智史を連れて行くのは無理だろう。隼人は軽い病じゃないのだから、俺たちが原因で症状を悪化なんてことは絶対にしたくないし、してはいけない。
「別に今すぐじゃなくても良い。お前が判断した時で構わない」
そう言われたら、頑なにはなれない。しばらくは俺が隼人に出来ることをしてやり、少しでも力になれるように慣れれば良いと思っている。その中で必要があれば智史にも手を貸してもらおう。空に焦がれる子の夢を失わせたくはないという、俺と智史の願いは同じだから時間が経てば隼人ももっと心を開いてくれるだろう。
「じゃ、そういうことで。迎えが来てるぞ」
智史が顎で所の入り口を見ろと促してくる。振り返ると特に声を掛ける仕草をするでもなく、誰かに誰かを呼んでもらうつもりでもなく、入り口の近くで静かに外の窓を眺め時折出入りするスタッフと軽く挨拶をしている悠がいた。
「呼べば良いだろ」
思わずその様子に頬が緩んだ。いつもなら何食わぬ顔で呼んでくるくせに、今日は昼のこともあってか、ただ俺が出てくるのを待っているようだった。智史は先に荷物を取りにデスクに戻ると、お先にー、といつもの調子で出て行き、悠に俺の居場所を指差してこちらを見ていた。
「俺も帰るか」
一瞬悠がこちらに目を向けた気がして、俺もデスクの上をある程度片付けて何食わぬ顔で悠と落ち合った。
帰路を急ぐ車内はいつものように悠の選曲した曲がかかっていた。これまたいつものように特に会話はないが、雰囲気や空気は疲れた体には心地良いものだった。路面の凹凸で微かに揺れる車揺れが眠気を誘うゆりかごのように感じていた。窓の外を流れる景色も明かりが少なく、何も代わり映えしないように見えて俺の眠気を促進させるばかりだ。時折瞼が重く感じ、まどろみに身を任せるように俺は全身の力を抜いた。
「健介・・・・・・って、寝ちゃったのね」
信号待ちでやけに隣が静かだと思い視線を向けるとシートベルトにもたれかかりながら、頭を窓に預けながら健介が静かに寝息を立てていた。
「全く、人の気も知らないで気持ち良さそうに寝てるわね」
小さな苦笑とため息を漏らすが、健介には届くことはなく、僅かに悠の口元が優しく上がっていた。
「言い忘れてたけど、健介、あんたベルトの後がくっきりついてるから」
帰宅し、風呂に入る前に悠がボソッと呟いた一言に、健介はずっと悠が自分を見て微笑んでいた理由を昼間のことだと思っていたが、それが違っていたことのしてやられた感に恥ずかしさでいっぱいになっていた。
「先に言えよっ!」
「ばーか」
そんな健介に悠がおかしそうに小笑いしていた。
それからしばらくの後、二人は診察日に意を決したように隼人の病室を訪れた。ここ数回の健介の診察日は仕事の遅れを取り戻すために足早に仕事へ向かっていたという名目で、その心は健介も悠もやはり隼人の母に聞かされた隼人の症状のことが気がかりで、気軽い気持ちで訪れることが出来なかった。
「おはようございます」
「あら、来てくれたの?」
部屋に入ると、いつもの騒がしさの中に、落ち着いた様子の隼人の姿があった。その隣で医師と看護師の姿もあった。
「ごめんね、今採血の時間なの」
隼人は静かに、慣れてしまったようにその細い腕に針が刺されていた。邪魔にならないように一旦病室を出ると、隼人の母も俺たちについてきた。
「あの、これどうぞ」
「わざわざありがとう」
昨日のうちに買っておいた果物やお菓子のお見舞いの品を渡す。久しぶりに見た隼人は、この間見た時よりも少しばかり皮膚が蒼白く全身にあまり力が入っていないように見えた。前に仕事の途中で見ていたホームページのことを思い出した。神経芽細胞腫の症状に骨髄に神経芽腫が転移することによって赤血球の減少が起こり、貧血を引き起こすため、蒼白になったり、元気が出ない、食欲不振、しんどがるなどの症状が出ると見た記憶があった。
「あの、隼人君、今何の検査をしていたんですか?」
朝から採血をしていることが悠には不思議だった。検温等なら分かるが子供が朝から血液検査をすることが気がかりになったのだろう。
「白血球の増減を調べてるの。抗がん剤の治療を始めてから毎日朝はああなの」
悠は頷いていた。正直俺にはそれがどういうことなのかよく分からなかったが、そんな俺に気づいた母親が補足説明をしてくれた。
「白血球が減ると感染症にかかりやすくなるの。抗がん剤の副作用みたいなものよ」
何となく分かったような、分からないような。とりあえず、減ることはあまり良いものじゃないようだ。それにさっき見えた隼人のか細い腕。採血の際に蒸しタオルのようなものを当てていた。採血くらいは俺だってしたことがあるから想像がついた。抗がん剤治療で、ただでさえ子供の血管は細いというのに、それがさらに細く脆くなって針を刺すのが難しくなって、血管を温めて膨張させるためにタオルで温めていた。きっと何度か失敗してからその手に出たはず。何てことないように見えたが、きっと隼人は鋭痛に耐えていたはず。俺だって未だに注射は痛いと思うことがある。それが毎日ともなればいい加減嫌になるだろう。そう思うと、かける言葉が浮かんでは消えていく。
「隼人君、白血球を沢山作っておくんだよ」
廊下で話していると、医師の声が聞こえた。どうやら採血が終わったらしい。看護師が俺たちに挨拶をして、隼人の母に一声掛けると歩いていった。
「こわれたらどうするの?」
部屋に戻ると、医師と隼人が妙な話を耳にした。首を傾げる俺に悠が小さく首を振っていた。その表情で医師が隼人に励ましをしているんだから、と言っているように思え、俺は静かに端でその様子を眺めることにしていた。
「壊れないように、あんまりはしゃがないようにしていれば大丈夫」
「バイキンが来たらこわさされるんじゃない?」
隼人が絵本を医師に見せた。それは今では懐かしさも感じる絵本だ。俺もガキの頃はよく見ていたなぁと思いながら、随分と久しぶりに見るキャラクターに懐かしさを覚えた。
「じゃあ、隠しておこう。バイキンに見つからないようにね」
隼人の問いに難なく答える医師は、さすがだと思った。毎日日毎日子供の相手をしていればおのずと身に付くものなのだろうが、子供に不安を与えないようにする答えを瞬時に出すということはそうそう出来るものじゃないだろう。俺ならきっとしばらく沈黙の後にやっと搾り出せるくらいだろう。
「でも、ぼくのだけをかくしてもダメだよ。みんなのをかくさないと」
「・・・・・・・そうだね」
微かに医師の表情が濁った。手馴れているとは言え、隼人が何気なく言った言葉の真意を深読みした医師が隼人に気づかれないように垣間見せたその表情が、俺の中に一番強く残った。しばらく言葉を交わした後、おはようございます、と挨拶を交わし医師の背を見送ると、隼人が俺たちに気づいた。
「おじちゃん、お姉ちゃん」
「うん、おはよう、隼人君」
「よっ、隼人」
先日の隼人の母の言葉を意識してか、無意識に隼人の瞳に俺の視線は向いた。今日は体調が少しは良いのか、少々蒼白だが笑顔を浮かべていた。
「ねぇねぇ、お姉ちゃん。これ、よんで」
隼人がベッドの上に置かれていた絵本を悠に差し出した。それはこの間俺たちが送った絵本だった。受け取った悠が俺を見てきた。
「良いじゃないか。読んでやれよ」
遅刻するけど・・・? と目で語りかけてくる悠に俺はそう返した。ただでさえ遅刻してるんだ。後で藤沢上官たちにネチネチ言われるだろうが、良いだろう。今までろくに会話を交わすことがなかったんだから、その時間のためなら遅刻なんて痛くないさ。
「それじゃ、読んであげるね」
隼人のベッドに腰を下ろすと、やはり体調は良くはなかったのか、少々しんどそうに悠に身を寄せようとしてきた。それに悠が自分から隼人の近くに身を寄せ、隼人に負担がないようにと、自分にもたれかからせ、絵本を開いた。隼人の母は悠に隼人を任せると、花瓶とコップを持って洗いに行くようで、俺も二人の邪魔をしないようにその後をついていった。
「腕は大丈夫?」
水場で大したことは何も出来ないが、ゴミ捨てくらいならと、手伝わせてもらうと俺の腕のことを聞いてきた。
「今はもうそれほどでもないです。そこまでの重症ではなかったので」
廊下からは子供のはしゃぐ声や泣き声が絶えず静寂をどこかへ運び去っていた。
「それでも大変でしょうね。ところでお仕事は何を・・・・・・?」
遅刻していることは気づいているのだろう。悠にごめんね、と謝り、俺にも同様に言ってくれた。
「バードフライ飛行場でパイロットをしてました。今はこれですから、事務ばかりで」
苦笑する俺に、少しばかり驚いた顔をしていた。この辺りの人間なら飛行場のことは知っている。だから、あそこと指せば大抵は理解してくれる。
「そうなの?」
「はい、もう随分と地に足をつけてますけど」
春の陽気の中を飛んでいく小型機が窓から見えた。既に仕事はフル稼働しているのだろう。あれに乗っているのは誰だろうな、と思いながら萎れた花を捨てる。
「そうだったの。もう気づいているかもしれないけど、あの子もね、憧れているのよ」
「みたいですね」
隼人のベッドを見れば瞭然だ。あれだけプラモデルや絵本があれば誰だってそう思うだろう。
「だから、あなたたちが持ってきてくれたプラモデルは宝物にしてるわよ」
模型は大事そうに飾られていた。少しでも夢を見られるのであれば俺としても嬉しい。
「そういえば、今度お祭りがあったわよね?」
「あ、はい一ヵ月と半月後に開催予定ですよ」
俺の腕も治る頃に航空祭が開催される。楽しみにしていた俺としては、今年は入社当時のようにサポートに回ることが決定している今、嫌ではないがため息ものだ。
「本当なら、連れて行きたかったんだけどね・・・・・・」
花瓶に水を入れる音に掻き消されるような呟きが聞こえた。
「あの、答えにくいことかもしれないんですが、隼人はそんなに悪いんですか?」
俺たちが出会ってまだ一月も経っていない。俺たちが来ればその度に隼人はいつもの笑顔で迎えてくれる。ただ、最近は当初のように受付のところまで来ていた姿ではなく、病室のベッドの上で横になっていたり、もたれかかっていたりしながら会うことがほとんどになっている。ここは学校でも公園でもないのだから、それがどういうことなのかと言う事が分からないわけじゃないが、それを信じていない、受け入れたくないと思う俺がいる。
「抗がん剤もあまり効かなくて。採血の度に言われることが隼人も分かっているのよ」
その言葉が指すこと。毎朝行われる血液検査で白血球の数を聞かされ、増えていれば安堵できるが、その逆だと、効果が芳しくないということ。
隼人の母はきっとその時間が、息子が回復に向かう喜びと、刻々と隼人の時間が減っていく恐怖に内心は必死なのだろう。それを知ってか知らずか、ひょうひょうと聞いている隼人。白血球が増えていればまた外にも出られるし、初めて会った時のように元気に受付前までいけるのだろう。だが現状はそう甘くはないことを認識させてくる。毎日毎日隼人は、明日こそはベッドから出られるかもしれないという本当に小さな期待で、その腕に針を刺しているのだろう。
「放射線もやってたんだけど、いまいちで。隼人にはまだ言っていないけど、また新たに転移が見つかってちょっと、ね・・・・・・」
そこで隼人の母の声が震えた。鼻を啜る音が共に俺の耳に届いた。その瞬間、仕事の最中神経芽細胞腫の情報を見ていたことを思い出した。
小児がんで一番多いのは、血液の癌と呼ばれる白血病。それ次いで多いと言われるものが、隼人を蝕んでいる病である神経芽細胞腫。主に胎児の神経組織から発生する悪性固形腫瘍で、その腫瘍は乳児期や小児期に現れ、体の多くの部分に発生することがあり、心拍、血圧を増幅させ、血管を収縮させることによって、特定のホルモンを刺激し、体の機能を司る神経系を形成する交換神経組織から発生し、発生しやすいのは腎臓の上にある副腎髄質からで、その他は脊椎の左右横にある交感神経節のどこから出てきてもおかしくはなく、胸の心臓のある辺りから発生することもあり、レントゲンやエコー検査。必要に応じて、血液検査やCTやMRIなどの詳しい画像検査を行い診断を下す。腫瘍が発生すれば急速にリンパ節、肝臓、肺、骨、骨髄など全身に転移が広がっていく。その原因は不明で、多くは五歳未満で診断され、約一万人に一人の割合で男の子が僅かに多く発生する病とされ、主な症状としては腹部腫瘤に伴う腹部の張り、肝脾腫である肝臓の肥大、骨髄に神経芽腫の転移に伴う赤血球の減少による貧血、白血球の減少による感染症への懸念と発熱。血小板の減少による出血斑やあざ。腫瘍が出来る場所によっては眼球突出や後退、頸部に腫瘍ができ、交感神経を圧迫するなどによるホルネル症候群、中にはオプソクローヌスと呼ばれる小脳失調や多方向性眼振などが見られることもあり、歩行障害などその症状は神経芽腫の発生場所によって様々。最近では自然治癒することもあるらしく、無治療経過観察をする病院もあるらしい。
「治療法は、他にはないんですか?」
次第に嫌なものを背筋に感じる。まだ時間はあるようだが、思っていたほど結果が出ない現実に、隼人の母の心は押しつぶされそうになっているのだろう。服の袖を時折瞳に当てながら俺の問いに答えようとしてくれる。無理に聞き出すことはしていないのだが、俺たちに隠すつもりはないらしく、むしろそういう病と闘っている子供がいることを俺たちに知って欲しい、それを支える家族や病院関係者の思いを理解して欲しい、と言っているように俺には思えた。
「遺伝子治療の申し込みをしているの。その結果が届くまでは今のままのあの子を見守るしかないの」
だから、今は出来るだけあの子の好きにさせているの、と小さく続けた言葉は、俺の奈落の底を見せるかのようだった。抗がん剤を使っている時点で腫瘍が広範囲に転移しているということを指しているのだから、
「手術や移植などは、しないんですか?」
「一度したんだけど、再発したの。それにもう隼人には耐えられるほどの体力もなければ、ね・・・・・・」
長時間に渡る手術は子供の体力では限界があるということか。ただでさえ入院していると体力が落ちる上に、一度手術で成功したとはいえ再発を経験したとあれば、もう一度ということに躊躇してしまうのは当然のことだろう。それに手術を望んでも、医師が首を横に振ればそこまで、ということなのだろう。
「そうですか・・・・・・」
また俺は自分から聞いておきながら、返す言葉を紡ぐことが出来なかった。
「戻りましょうか」
いつしか新たな花で飾られた花瓶と、綺麗になったコップを持った隼人の母が俺よりも数歩先を歩いて、振り返っていた。
「これからも、あの子に夢を見させてあげてくれないかしら? あなたは隼人の憧れだから」
「・・・・・・出来る限りのことでしたら、いくらでも」
微かに間を空けてしまった。俺が隼人の憧れであって良いのだろうか。こんな俺に隼人が憧れの眼差しを向けてきても良いのだろうか。そんな思いが、ただ頷くだけの行為に疑問を抱かせた。
「ありがとう」
先ほどの涙の乾いた隼人の母の微笑みは、俺に覚悟を持たせるためのもののように俺の目に映った。
「―――そして、夢を叶えたピアノは、大空へと飛んでいきました」
ちょうど病室に戻ると、悠も絵本を読み終えたようで絵本を閉じた。
「ほら、隼人。お姉ちゃんにお礼は?」
「ありがとう、お姉ちゃん」
「どういたしまして」
悠は満足げな笑みで隼人の頭を撫でていた。
「それじゃ、俺たちはそろそろ・・・・・・」
時間もだいぶ遅れているため、そろそろ向かわなければ、いい加減上官たちのお灸が待っている頃だろう。
「わざわざごめんなさいね」
「いえ。それじゃあ隼人君。またね」
「うん。ばいばい」
今日は母親がついているためか、隼人は大人しく俺たちに手を振って見送っていた。同室の子達も悠の読み聞かせを聞いていたようで、悠に手を振っていた。
「すっかり人気者だな」
飛行場へと向かう車内で、悠はホッと一安心したような顔でハンドルを握っていた。
「大したことはしてないわ。でも、やっぱり皆可愛いわね」
「そうだな」
悠の話を聞きつつ、俺は隼人の母から聞かされたことを話すべきかどうか迷っていた。これだけ楽しげにしている悠に話すのは気が引けた。
(帰ってから、話したほうが良いか・・・・・・)
仕事に支障をきたさせるのはダメだろう。俺が何度もそんなことをしているのだから、これ以上のことはさすがに仕事の降格に繋がる。悠に世話になっておきながら巻き込ませるわけにはいかない。
「ん? どうかした?」
「いや、何でも」
表情に出ていたのか悠が横目を向けてきたため、俺は窓の外に視線をずらし青々とした田園風景と春の少し薄い空へ思いを馳せた。
飛行場に着き、いつものように別れる。悠の足取りは心持軽く、俺の足取りは気のせいか重たかった。
「奥田さん、おはようございます」
デスクに着くと、先輩も智史も既に業務に発っているようで比較的静かな始業となった。
「おはよう」
今日の雑用が一通り書かれたメモに目を通し一憂していると、仕事中のはずの美友紀ちゃんがいつの間にか隣に立っていた。
「あの、これどうぞ」
そう言って差し出されたのは、いつくかの書類だった。
「これは?」
「ちょっと時間が空いていたので、代わりにまとめておきました」
目を通すと、航空祭の出店計画書や予算報告書など俺のメモに書いてあるものが出来上がっていた。
「あと、これ。すみませんでした」
「あぁ、これ美友紀ちゃんが持ってたんだ?」
美友紀ちゃんの手にあったのはMDだった。結構日にちが経っていたから諦めていたのだが、意外な場所から帰ってきた。
「ちょっとだけ借りるつもりだったんですけど、聞いているうちに私も好きになって同じのを探すのに手間取っちゃって」
恥ずかしそうな眼差しでMDを渡してくる美友紀ちゃんに、俺はなんと言うかありがた迷惑な気分だった。怒っているわけじゃない。
「美友紀ちゃん、その、代わりにやってくれたのは嬉しいんだけど・・・・・・」
その言葉に美友紀ちゃんの顔に笑みが浮かんだ。その表情に次に繋げる言葉を出すのに躊躇いが生まれるが、言わないわけにはいかなかった。俺のことを気遣ってのことなのは分かっているが、俺にも曲がりなりにもプライドというものがある。いくらパイロットから降格を余儀なくされたとはいえ、今の仕事にも誇り(プライド)というものがないわけじゃない。好意で受け取っていてばかりでいては高慢でしかなくなってしまう。そこまで俺はまだ今は落ちぶれてはいない。
「その、言い難いんだけど、これは俺の仕事なんだ。美友紀ちゃんには美友紀ちゃんの仕事があるだろ?」
美友紀ちゃんが、予想していたのは俺が笑っているような光景だったのかもしれない。だが、俺も美友紀ちゃんも子供じゃないんだ。
「美友紀ちゃんは自分の仕事をしてくれないか?」
少し厳しい口調だったかもしれない。だが、美友紀ちゃんは優しい。だから遠慮するようなことを言っては、同じことの繰り返しが起きるだろう。
「・・・・・・ご迷惑、でしたか?」
美友紀ちゃんの顔からふっと笑みが消えた。やはり予想にもしていなかったのだろう。
「気持ちは嬉しいけど、俺に気遣いは別にいいよ。これくらいの仕事はわけないから」
少しだけ美友紀ちゃんの表情が和らいだ。良かった。あまり気にした様子はないようだ。俺の良心に刺さっていた棘がいくらか取れた気分だ。
「分かりました。これからは気をつけますね」
「ごめんね、折角やってくれたのに」
「いいえ、また一つ勉強になりました。奥田さんに気に入ってもらえるためにこれからも頑張ります」
美友紀ちゃんは、小さく意気込むと今度は自分の仕事へと戻っていった。その顔には気持ち新たな澄み切った笑みが浮かんでいるように見えた。
「前向きなんだな、美友紀ちゃんって・・・・・・」
自分の悪いところを目の当たりにしても、それに落ち込むでなく次へのステップとしている。これで愛想を切らされただろうと思っていた俺は、呆気に取られたが、美友紀ちゃんの今の態度が上辺だけでなければそれでも良かった。俺の前でそう振舞って、外で泣かれるようなことも考えられるが、予想に反して美友紀ちゃんは俺の別の一面を目の当たりにしてどこか嬉しそうにしていた。だから、後者ではないように思えた。
「ご苦労様です」
「おう」
昼過ぎも午前の遅れを取り戻すためにデスクやコピー機をいったり来たりしていると、事務の子が帰ってきたパイロットに声を掛けていた。
「お、健介。相変わらず地味な仕事してんなぁ」
肩にズンと重たい腕がのしかかってきた。左腕に衝撃が微かに響いた。
「もう帰ってきたのか? 他はまだ帰ってこないぞ」
お互いに他愛ない嫌味で今日初顔合わせだ。
「近場だからな。それより、今日は行ってきたのか?」
智史が自分の分だけコーヒーを入れる。香ばしい香りが俺の鼻まで漂ってくる。気を利かせて俺の分まで淹れると言うことは、こいつの頭の中にはないんだろうな。
「ああ、まぁな」
―――行ってきた。それがどこを指すのかなんて聞きはしない。顔は笑っているくせに目が笑っていない。
「で、様子はどうだったよ?」
周囲に諭されないように智史の口調はいつも通りだ。
「良くはなってなかったな」
症状は悪化の一途を辿っている。隼人の母の言葉が嘘だとは思えない。あんな時に冗談が出せる人間はいないだろう。治療も芳しくないから遺伝子治療とやらに申請をしているところらしい。詳しくは知らないが、隼人の両親は身を切る思いをしているのだろう。隼人の前では笑顔だったが、俺に見せた表情には明らかな疲労の色が出ていた。
「神経芽腫だったよな?」
「神経芽細胞腫だ」
「同じだろ?」
「知らん」
「何だそれ?」
「俺は医者じゃない。病気のことを詳しく知るわけがないだろ」
「そりゃそうだな」
智史が自分のパソコンを見つめながらテンポ良く質問をしてきた。何だかんだで仕事には抜かりない奴だな。自分の飛行記録や業務成績表などをつけているのだろう。
「隼人ってのは幾つだ?」
「六歳ってベッドに書いてあったから、年長か小一だろうな」
「幼稚園とか小学校は行ったことあるのか?」
「ほとんど入院生活だと母親が言ってた」
きっと隼人は幼稚園など行ったことがないのだろう。言葉を交わしてても一度も外の友達の話題を聞いたことがなかった。聞いたのは、同室の子や他の病室で入院生活を送っている子のことばかりだった。まるで長期入院している噂話に精通しているおじさんのように、病院用語から医師や看護師のこと、病気や治療のことを隼人はまだ十年も生きていないのに、俺の知らない世界を何歩も足を踏み込んだくらいに知っていた。
「治療については聞いたりしたか?」
「今は放射線と化学療法をしているみたいだ。遺伝子治療がどうのこうのってのも聞いた」
「なるほど。子供に抗がん剤か。言葉が出ないな・・・・・・」
智史の言葉に俺も返す言葉がなかった。
「ところで、何でお前はそんなこと聞いて来るんだ?」
いい加減、智史が仕事中に妙なことを聞いてくるからこちらから訊ね返した。
「いや、ただどんなのかって思って見てたんだよ」
智史が俺のほうにパソコンを向ける。てっきり仕事をしていたのかと思っていれば、その画面に映し出されているのは俺が先日開いていたページだった。
「仕事しろよな、お前」
「お前に言われたくねーよ」
智史が俺を呆れたような眼差しで見返してくる。智史も智史だが、俺も俺で仕事しながら智史が話を振ってきたため、気を紛らわせるようにフルートの絵を描いていた。
「俺は今日の分はほとんど終わったんだよ」
「俺だって今日の飛行はもうねぇよ」
「どっちもどっちだ、馬鹿もん」
いつの間に帰ってきたのか藤沢上官が咳払いをしながら俺たちの前を通り過ぎた。一瞬で俺と智史の下らない言い合いは終わりを告げた。
「仕事せんか、仕事」
藤沢上官が自分のデスクに着くと、俺がもとい、美友紀ちゃんがやっておいてくれた資料に目を通していた。上官が居ると所内が一気に引き締まったような空気に満ちる。俺たちの会話も小声になっていた。
「健介のせいだぞ」
「お前のせいだろ」
二人してまたくだらないことの繰り返しになりそうだったので、二人してため息をついてその話は止めた。
「で、何でお前がそんなの見てんだよ?」
「良いだろ、別に。ちょっと気になっただけだ」
ちょっとの割には、随分と熱心に見ていたような気もするが、ここでまた言い争っては上官の渇が飛んでくる。智史が再び自分のほうにパソコンを向けなおし、コーヒーを啜りつつ目を走らせていた。上官からは見えないため智史は時折俺にいくつか質問をしてきては俺が聞いた範囲で答える形で仕事のフリをしていた。
「俺たちが出来ることって何があるんだか」
病院での隼人の母の言葉が俺の頭には残っていた。
『あの子に夢を見させてあげてくれないかしら? あなたはあの子の憧れだから』
「俺が憧れだなんて、な」
きっとこの腕の怪我もなく、今でもパイロットとしてフルートと共に空を飛んでいたのなら、そんな一言も誇らしく受け止めることが出来たのかもしれないが、今ではその言葉の大きさ、その言葉に込められた想いに俺の器は耐えられるだけの大きさはないだろう。見栄を張るのも一つかもしれないが、それで子供が夢を見る分には救いと言う名の嘘になるだろう。穢れを知らないその夢に満ちた真白な瞳に、小さく真っ黒な偽りが混ざることに対しての痛みが俺には赦せない気がしてならない。
「お前は大事なことを忘れてるぞ」
俺のボヤキを聞いていたのか、智史が目だけを俺に向けてきた。
「何をだよ?」
「お前が何でここにいるのか、だ」
「・・・・・・は?」
またこいつは突拍子もないことを言う。いつもいつもすぐには答えを出せない問い。いきなりの応用問題に取り組ませられる気分だ。
「子供の目にお前はどういう人間に映るか、だ」
ヒントだろうか。いまいち掴み所がなく理解に苦しむ。子供の目で俺がどう映っているのか? どういう意味だ?
「それが分かれば、お前は自分で隼人に何が出来るか分かるはずだ。これが分からないようじゃ、お前は流れ作業の工場で働いたほうが似合ってるぞ」
智史がパソコンを閉じると、休憩行ってきまーす、と席を立った。
「ったく、何なんだよ、あいつは」
試練を与える師匠のような物言いに、呆れながらも、その問いにはきちんとした意味があるのだと言うことくらいは理解できた。俺の忘れていることと、隼人の夢と憧れ。それがどういう接点を持っているのかを考えるのは俺一人で答えを出さないといけないということなのだろう。智史が残していった言葉を考えているうちに、いつの間にか外は次第に星明りと月明かりに照らされていた。
「結局思いつかなかったな」
明日は休みだ。診察も入っているからゆっくり隼人の見舞いが出来るな、などと考えながら事務所を後にすると、ちょうどドッグのほうから悠が作業着姿のまま現れた。
「ちょうど良かったわ、健介」
俺を探していたのだろうか。まだ仕事は終わらないように見える。
「今日は遅いのか?」
「夜間の子が欠勤で代わりをやらないといけないのよ。だから、先に帰っててもらえる?」
残業ではなく、代替か。それなら仕方ない。食堂で時間を潰していてもそうそうは終わらない。先にタクシーでも呼んで帰るほうが良いだろう。
「分かった。今のうちに休んでおけよ」
「分かってる。それじゃあ、お風呂とかよろしくね」
「はいよ」
悠はそれだけを言うと、仕事へと戻っていった。
「さて、飯はどうすっかね?」
食堂で食って帰るべきか、先にタクシーを拾ってコンビニ弁当でも買って家でのんびりとするか。俺の頭が導き出したのは後者だった。
「タクシー呼ばないとな」
「奥田さん・・・・・・?」
携帯でタクシー会社に連絡を入れようとアドレス帳から呼び出そうとしていたら、背後から美友紀ちゃんの声がした。
「美友紀ちゃんも今日はあがり?」
「はい。受付は六時が定時ですから」
夜間組みが翌朝配送の荷物等の運送に走り、残った仕事は翌日に回される。受付は午後六時までだから、残業はないんだったな。羨ましいが俺の性には合わない。
「お疲れ様」
挨拶を済ませて再び携帯でタクシーを呼ぼうとしたら、美友紀ちゃんが俺の周りを不思議そうに見ていた。
「奥田さん、今日は雨宮さんとは一緒じゃないんですか?」
控えめに美友紀ちゃんが周囲に目を向けながら聞いてきた。そのあちこちを見ている目は悠を探しているのだろうか。
「今日は代替になったらしくて、俺だけ先にあがったんだ」
今日に限って乗せていってくれるような奴が全員夜間の仕事が入っている。悠が終わるのは、数時間は後だから待っていても仕方がない。ここは少々痛い出費だが、タクシーを呼ばないといつまでも待ちぼうけは御免だ。
「それじゃ、美友紀ちゃん。また明日」
これから帰るのだろうと思い、そう言ったのだが、美友紀ちゃんは俺の前に佇んだまま動こうとせず、モジモジと俺を見てくる。外灯の僅かな明かりがうっすらと美友紀ちゃんの表情を映し出し、俺もどうしたら良いのか言葉が詰まってしまう。
「あ、あの・・・・・・」
美友紀ちゃんが口を開いた。
「タクシーを呼ぶんでしたら、私の車でお送りしましょうか?」
これまた控えめに言うもんだから、意識せざる終えない。懐を温め続けられるのであればそれに越したことはないが、乗せて言ってくれると申し出てくれたのが美友紀ちゃんとなると、それに対して躊躇いがちになる俺がいる。つい数日前にあんなことを言われてから、何かと世話を焼きに来てくれる美友紀ちゃん。その好意は素直に嬉しいが、後ろめたい気もあるのは確かだ。
「私の家、市街の方ですから気にしなくても良いですよ?」
そんな問われたら、断るのに気が引ける。誘導尋問されているような気分もしてくる。
「じゃあ、お願いしても良いかな?」
そこで断ることをせず、流されるように申し出を受け入れる辺り俺の優柔不断さが滲み出る悪いところなのかもしれない。だが、ただでさえ安月給への降格に、怪我の治療費、悠自身は遠慮しているが、俺の中に今だって腐ろうが果てようがきちんとある誇り(プライド)がそれを許さないため、悠への謝礼も込めた生活費、俺の昼食費やその他諸々にあまり貯蓄が出来ないため、タクシーにかかる費用を無料で良いと言ってくれるのであれば、今の俺にはありがたいことだった。
「はいっ、では行きましょう」
俺が申し出お受け入れると美友紀ちゃんの顔に笑顔が華やいだように見えた。
美友紀ちゃんの車は可愛らしい人気のある軽だ。車内には仄かに香る甘い香り。女性らしさの感じられる車内インテリアに少しばかりテンションがあがった。悠の車はすっきりとしていて凛としているが、美友紀ちゃんの車は柔らかい雰囲気で満ちている。
「美友紀ちゃん、途中でコンビニよってもらって良いかな?」
どこかで夕飯を買わなければ悠は夕食を済ませて帰ってくるだろう。片腕が使えない今、料理も出来ないことはないが面倒くさい。
「分かりました」
美友紀ちゃんはまだ免許を取って二年ほどしか経っていないため、悠の運転に比べると慣れていない感というか、慎重で綺麗な運転だと思った。
「奥田さん、いつも雨宮さんと帰っているんですよね?」
「ん? ああ、そうだけど?」
特に音楽もラジオもつけているわけじゃないため、妙に俺と美友紀ちゃんの間にぎこちない空気が漂い、話題を持ち出そうにも俺の頭に浮かんでくるのは、バードフライのことと、業務復帰のことと、家に帰ってからすることと、隼人のことばかりだ。美友紀ちゃんと分かり合えることが少なすぎる。仕事のことは受付の美友紀ちゃんにはなかなか分からないだろうし、隼人のことなんて論外だろうし。
「・・・・・・羨ましいです」
「えっ?」
ボソッと美友紀ちゃんが呟いた。ハンドルを握る腕に力がこもったようにも見えた。
「まぁ、居候させてもらっているから、当然なのかな」
長い付き合いの腐れ縁のような間柄でもあるし、悠も当たり前のように俺をサポートしてくれる。学生時代から俺は悠に課題やらテスト間近には教えを請っていた。いつも面倒そうに俺を見下すような目で見てきたが、何だかんだで手伝う人の良さには定評があった。だから俺はそれに甘えていたのかもしれない。冗談を本気なんだかで受け取るあいつは、本当に嫌なら嫌だとはっきり言う。だから、俺は今こうして世話になっているのもあいつとなら当たり前に思えるのだろう。
「当たり前のこと、ですか・・・・・・」
小さく美友紀ちゃんがため息をついた。
「美友紀ちゃん?」
「色々と頑張っても、雨宮さんがいる奥田さんとの距離まではなかなか埋まらないですね」
独り言なのだろうか。美友紀ちゃんが良く分からないことを話始めた。
「一度や二度じゃ、ただの好意としか思われなくて、三度や四度でも、まだ当たり前には思われないんですよね」
市街に近付いてきたのか、ちらほらと民家や商店が多く通り過ぎるようになってきた。ちょっと前までの田園風景の暗闇の中で今の美友紀ちゃんの語りを聞いていたら、きっと今以上に俺は美友紀ちゃんの言葉に耳を傾けることが重たく感じていただろう。
「当たり前に思うのは、長い時間を掛けて重ねてきた結果に、やっと相手にそう思ってもらえることなんですよね」
俺が責められるでもなければ、彼女が自嘲に走るわけでもない。ただ言っているだけ。説明をしていると言えばそれで終わりのことだが、その言葉が指すものが俺の今までを思い起こさせる薬のように作用した。
「奥田さんにとって、雨宮さんがそばにいるって、どういうことですか?」
美友紀ちゃんが言葉だけを俺に向けてくる。顔は運転に集中しているのか、俺の顔を見たくないのか、見れないのか、前を向いていた。
「悠が、傍に・・・・・・?」
改めて聞かれると、返答に困るというか、それが今更な気がしてかえって答えにくかった。
「気がついたら、そこにいたから、それが普通みたいな感じかな?」
気がつけば、それほど遠くない場所に悠はいた。高校からとはいえ、その三年間に、大学、そして飛行場への就職。活動する分野はそれぞれ違えど、その距離が変わることは一定のままからなくて、遠ざかることもなければ、近付くこともない。だが、助けを乞えば仕方がないといった表情で手を差し伸べ、見返りを求めるでもなく、俺を立ち上がらせる。
「本当に奥田さんは、雨宮さんを何とも思っていないんですか?」
伏し目がちにそんな言葉を投げかけられた。
「えっ・・・・・・?」
その言葉に、スッと切れるような痛みが俺のどこかに走った。出口の分からない迷路で右往左往していると、声が聞こえ、その発声場所を目指して何も考えずにむやみやたらに走り回るような気分だった。そんな俺は相当鈍いのかもしれないと責められる実感だけが残っていた。
「私も、奥田さんにそう思ってもらえるように色々奥田さんが好きなものを調べたりしようとしても、私と奥田さんの間には距離があって、その間に雨宮さんがいます。でも、それは当たり前なんかじゃないと思います」
美友紀の声色が微かに諦めの音色を含んだ。大山を前に、登山家なら登ることに挑戦するが、一般人はそれを見上げることしかしないような。
「奥田さんにとっては、当たり前のことかもしれません。でも、雨宮さんにだってちゃんと私と同じスタートがあったんです」
同じスタートか。そんなことを考えたことなんてなかった。
「きっと奥田さんがずっと前にスタートの合図を出したから、雨宮さんは私がスタートに立つ前にもうゴールの近くまで来ているんです」
俺は美友紀ちゃんの言葉を聞き入れることしか出来なかった。美友紀ちゃんが自分の気持ちを打ち明けているのに、それが美友紀ちゃんの言葉じゃなくて、悠のこれまでを俺に認識させ、受け止めさせようとしているような焦燥のように聞こえてしまう。
「俺は何もしていないよ」
―――そう。俺は何もしていない。ただ甘えて、乞えば差し伸べてもらえる手に縋っていただけ。
「奥田さんは何もしていなくても、雨宮さんがそこ(・・)に(・)いる(・・)ことが、雨宮さんがそこに居ようとして頑張った結果なんですよ。きっと」
悠が近くにいて、俺を助けて世話を焼いてくれることが当たり前だと思ったのは、それは悠が頑張ってそこに居ようとした結果。それに俺は手を引いてもらうことで、俺に何かあれば俺が一番近くにいてくれると思えるのが、すぐに助けを求めればそこに居てくれるのが、悠、ということになるのか。
「あーぁ、悔しいです」
低めのトーンだった美友紀ちゃんが、信号で車を止めると、ため息を漏らしながら力を抜いて背もたれに身を預けた。途中で走ることを止め、リタイヤを表明したように。
「もっと私が早く生まれて、雨宮さんと同じ時にスタートに立っていれば、きっと私のことも当たり前に想ってもらえたのかなぁ」
誰にでもなく、自分に言い聞かせるような美友紀ちゃんの言葉。
「雨宮さんが羨ましいな。私も雨宮さんみたいになりたかったな・・・・・・」
羨望と諦めの吐息が小さな美友紀ちゃんの唇を微かに振るわせた。
「美友紀ちゃんは、美友紀ちゃんだよ。誰かと比べて、誰かになろうとする必要はないんじゃないかな?」
「・・・・・・はい」
励ましのつもりで掛けた言葉に美友紀ちゃんが目を伏せ、鼻を啜った。ゆっくりと車が走り、俺は間の悪い空気に呑まれ、逃げるように窓の外へ目を向けた。
「奥田さん」
不意に呼ばれて隣を見ると、外の明かりに照らされた美友紀ちゃんの瞳が、雫でその輝きに揺らめきを浮かばせていた。
「コンビニ、着きましたよ・・・・・・っ」
今はお世辞とか励ましとか、下手な言葉はかけないで。そう言われたような気がして俺はコンビニへと夕飯を買いに車を降りた。
「美友紀ちゃん・・・・・・」
弁当と飲み物を買って雑誌コーナーを歩いていると、ちょうど美友紀ちゃんの車が見え、美友紀ちゃんがハンカチを瞳に当て、顔を伏せている姿が近くの外灯の明かりに浮かび上がっていた。
「俺、ほんとダメだな」
気軽にかけた一言が余計だった。俺の言葉は美友紀ちゃんには鋭い針のような棘として刺さってしまった。俺がもっと考えていないから、こうなった。それは否定出来なかったし、今ではそのつもりもないが、今の彼女にかける言葉が俺にはあるのだろうか、とコンビニから車に戻るその数メートルほどの距離が果てしなく遠く、しばらくの間、雑誌を読むフリをして雑誌の先を見つめ、美友紀ちゃんが満足するまでその涙を流させてあげることしか出来なかった。
「俺は卑怯者だな・・・・・・」
いざと言う時に、自分では何も出来ず、もしこの場にあいつ(・・・)が居てくれれば、何てことを不躾ながら思って、彼女の座る運転席へ目を向けていたのだから。でも、今の俺に出来ることは、それだけで、それだけが精一杯だった。他に出来ることなんて、何もなかった。
美友紀ちゃんが落ち着いた頃を見計らって車に戻ると、先ほどよりも明るい笑みを浮かべて美友紀ちゃんは俺を悠の家まで送ってくれた。さすがに悠の家を認識させるのは今の美友紀ちゃんには辛いことだと思い、近くの公園の前で俺は車を降りた。
「ありがとう、美友紀ちゃん」
「いいえ、こちらこそ、ありがとうございました」
俺たちの言葉は、きっと車送ってもらっただけの意味合いじゃなかった。少なくとも俺は送迎のお礼にもう一つを付け加えた。もしかすると、送迎への礼が付け加えたものだったかも知れない。美友紀ちゃんが車を再び走らせ、俺の視界からその車の後姿は消えた。
「もう、今迄みたいなことはなくなるよな・・・・・・」
そう思うと、少し後悔の念が俺の胸の中に宿るが、それは絶対に言葉に、実行にしてはいけないこととして、心の深底に仕舞いこんで鍵を掛けた。明日は休みだから、次に会う時までに俺も自分の中できっちりと整理をつけておかないといけないと思いながら、家に戻った。
家に戻り、一人で夕食をつまらないバラエティー番組を見つめながら済ませ、シャワーを浴びながら湯を張り、悠の帰宅を待って、俺は眠りに就いた。
翌朝俺が起床すると、悠が自宅の電話でどこかに連絡を取っていた。聞くつもりはなかったが、どうやら俺を送っていくために遅刻することを伝えているようだ。もう何度も目の当たりにしている日常風景なのだが、やはり良心にちくりと鈍い痛みが走る。
「いい加減、俺も甘えすぎてるな」
ダイニングのテーブルには既に二人分の健康をきちんと考えている和食の朝食が並んでいる。
―――いつものことだから。
いつもそう言って、俺が呑気に目覚めて支度をある程度整えると、似たようで飽きの来ないように毎日違うメニューが並んでいる。感謝し足りないのは確かだが、それが多少なりとも負担になっていることを俺は知っている。だがそれは口にしない。それもまた悠には余計な負担になっているからだ。
「さ、食べましょうか」
「おう」
悠が連絡を追え、俺を呼んで朝食の時間が始まる。初めのうちは俺に対する悪戯やらが多かったが、今では箸とスプーンも当たり前のように用意されて、変な茶々もほとんどなくなった。変わりないのは大した会話のないくらいだ。
「今日は、別に俺はバスで行くから良かったんだぞ?」
「良いわよ別に。もう連絡したし」
基本的には俺から言葉を投げなければ静かだ。
「毎回俺のせいで遅れてるんだ。今日は送ったらそのまま仕事行けよ。結構仕事、溜まってるだろ?」
俺が居候していない頃は、今日の分の仕事は自分の労働時間内にきちんと片付けていたが、今は夜間組みに引き継ぐことも幾らか耳に入っている。
「そうね、そうさせてもらおうかしら。帰りは大丈夫?」
「俺は初めておつかいする息子か?」
「似たようなものよ」
俺が何も言わなければ、悠は俺が診察を終えた後に家までまた戻ってくるつもりだったのだろうか。思わず苦笑が漏れてしまう。それを見てか、悠の表情も若干緩んで見えた。
朝食を済ませ、俺たちは家を出て病院へと向かった。その途中で二十四時間営業のスーパーでちょっとした土産の品物を購入して、俺は病院で降り悠は仕事に別れた。
「少しずつ骨癒合が始まってますね。時々痛むことがあるかも知れませんが、回復へ向かっている兆しだと思って耐えて下さい」
いつものような診察で腕の動きやらを見てもらい、自分の骨が次第にゆっくりと快方へ向かっていることに安堵して診察を終え、代金を支払い俺は小児病棟のほうに足を向けた。
エレベーターで上がり病室へ向かっていると、ナースステーションの所に隼人の母親や医師、看護師や他にも栄養士や薬剤師、ケースワーカーのネームプレートをつけた一団が出来ていた。深刻な話かと思っていたが、彼らの表情は比較的穏やかでそれほど深刻な話はしてはいないようだった。
「隼人君、騒いだり、わめいたりはしていないんですか?」
ケースワーカーのプレートをつけた男が隼人と言って、思わず近くの椅子に腰を下ろしテレビを見る振りをして聞き耳を立ててしまった。
「今の所は静かにしてます。先日、絵本を頂いて、ずっとそれに目を向けていますね」
問いに母親が答えた。それは俺たちが持っていたものだろうかと思った。
「絵本か。それもいずれは見れなくなるかもしれないですね」
医師が嘆くように言った言葉に、俺は嫌な汗が背筋に走りそうになったが、一団は至って静かな顔をしている。きっと全員が隼人の容態を理解しているから、絶対にそうならないという希望を抱くことの難しさを感じているのだろう。
「絵本だけじゃなく、隼人君はみんなと会話をすることで想像力を働かせて、きっと私たちが考えているよりも生き生きとしていると思いますよ」
看護師の女性が普段から母親に次いで隼人に接しているから分かる状況を説明していた。
「そうかもしれません。あの子は人が話をしてくれることがすごく楽しみなんだと思います。先日絵本をくださった方が、飛行場のパイロットをなさっていることをあの子に言ったら、いつも以上に口数も多くなって、ずっと話していましたから」
「あはは、そう言えば最近はよくその話題を振ってくるね、隼人君は」
母親と医師の言葉に俺は驚いていた。俺のことを話すとは思っていなかったこともあるが、隼人が俺のことを聞いて少しは元気でいられるということが俺の開いた口を塞がなかった。
「やっぱり、外に出たいんでしょう。隼人君は色々なものを見て感じたい年頃ですからね」
ケースワーカーの男の言葉に、全員が各々に頷いている。それくらいなら俺にも覚えはある。初めて診察に来た時に、帰り際に俺たちを羨ましげで悲しげな眼差しで見つめていた隼人の姿は今でも俺の脳裏から消えることはない。その後も度々隼人は俺が病院の出入り口を出て行く姿をそんな目で見ていた。各階に設けられた待合所の窓からは、登下校する子供も見える。それをただ毎日見ている子供にしてみれば、籠の中の鳥も同然だろう。
「だが、治療が芳しくない今は、仕方ないね」
その言葉で一団に静寂が訪れた。俺も顔を見られないようにその場を立った。俺が立ち上がると臨床心理士のプレートをつけた女性が、隼人の母の心理状態は大丈夫か? やケースワーカーの男が、お父さんは見舞いに来てくれていますか? などの会話も聞こえてきたが、俺はそれを聞くことなくその場を後にしてトイレへ行った。別に用を足したいわけじゃなかった。隼人の母に向けられる質問に、恐らく隼人の見たことのない母の表情を俺も見たくなかった。
「入院、か」
したことのない俺には、隼人の辛さは赤の他人状態で汲んでやることが出来ない。長期入院が必要な隼人の病は、それが強く心のストレスに反映される。俺が知る限り隼人の見舞いには母親しか来ていない。仕事が忙しく、なかなかそうもいかないのだろう。俺も早朝の合間でしか訪れることが出来ない。もし隼人に兄弟姉妹がいるのであれば、そちらの世話で来られないのかもしれない。そうなると子供にとっては唯一頼れる家族との触れ合いがろくに取れず、寂しくなるだろうし、限られた空間での生活の圧迫感も否めないはず。だから、起き上がれる頃はよく窓から外を見ていたのだろうし、俺たちが持ってきた絵本や模型に、いつかきっと、という夢を馳せているのだろう。その辛さを分かってやれない不甲斐無さに悩んでいては、結局俺は何も変わらないままなのだろう。昨夜一つの区切りをつけて、決意もした。だから、考え方を変えて、今の俺に出来ることを悩むべきだろう。そうしなければ、俺は掬いようのない馬鹿じゃないか。
「とりあえず、ここにいても仕方ないな」
袋を片手に俺は病室に向かった。先ほどまでいた医師や母親らは既に解散したのか、仕事に戻っているようだった。
「よっ、隼人」
部屋に入ると隼人は静かに横になっていた。熱があるのか熱冷ましのシートを小さな額につけ、点滴を打っていた。それが抗がん剤なのか、栄養剤なのかは俺には分からない。
「あっ、兄ちゃん」
俺に気づいた隼人の目が俺を見る。いつものことだが、少々違和感があった。
「兄ちゃん・・・・・・?」
この間まではおじちゃんだったのに、兄ちゃんって今呼ばれた。
「うん、兄ちゃん。だって兄ちゃん、パイロットなんでしょ?」
起き上がるまでの力はないようだが、隼人の口調は普通にしようと頑張っているようだ。ただ、その片目は暗闇以外ものを一切捉えることが出来ないと言う事が、俺の気持ちを高めることを虐げるようだった。当たり前に見えていたものが見えなくなるという恐怖や不安。俺には分からないが、大人でも自殺する人間がいるくらいに受けるショックの強さは計り知れないはず。他人には分からない辛さと共に生きるということが隼人には理解できていないのだろう。だから、落ち着いているのか。そう考えたくなる。それ以外は考えたくない。
「何で知ってるんだ?」
母親に聞いたのは知っている。だから敢えてとぼけた。その方が良いような気がした。
「お母さんがいってた。兄ちゃんはこれのパイロットだって」
隼人が指差したところには、様々な空や航空機の写真が張られているコルクボードがあった。その中に以前俺が持ってきたバードフライ機の写真があり、隼人はそれを指していた。俺がそのパイロットだと知ると、呼称がおじちゃんから兄ちゃんに格上げか。子供らしいと頬が緩む。自分の憧れが目の前にいると、キラキラと目が輝く子供の純粋さは眩しいものなんだな。
「すごいね、兄ちゃん」
嘘偽りも何も無い隼人の言葉。ただ心から尊敬している目。それを向けられて嬉しくないはずがない。
「まぁな」
「でも、それじゃ乗れないんでしょ?」
悪気のない無垢な隼人の言葉。ただ何も知らないだけの瞳。健介にはその真っ直ぐな光りが痛く感じられた。
「そうだな、今は隼人と同じだ」
外で自由に遊んだりすることが出来ない隼人と、空を飛べない俺。比べるには値しないかもしれないが、似たようなものだろう。俺にはまだやれることが多いが、隼人はそれすらも制限される。何かしてやれないかと常に頭の中を駆け巡る。
「兄ちゃん」
「ん?」
隼人が絵本を手に取りながら俺を呼んだ。隼人の手にあるのは俺たちが渡した空飛ぶピアノと言う絵本だ。ピアノの音色が聞こえた時に願いを掛けると叶うとか言う内容だったと思う。
「兄ちゃんは、これが本当だったらどうする?」
隼人にしては大人びた言葉に感じられた。絵本というものが作り話だということを理解しているような。
「そうだなぁ、今はこの腕の怪我を治して欲しいって願うかもな」
「じゃないと、飛べないもんね」
俺の返答に隼人の言葉は至って静かなものだった。どこか俺の調子が狂ってしまう。子供ってこんなだったか? 隼人を見て思ったことだ。
「隼人は、何を頼むんだ?」
聞かずとも分かることだ。今の隼人は俺の予想では病気を治して学校に行って友達と遊ぶとかだろう。
「うーんとね、空に絵をかきたいって言うよ」
予想に反して隼人の願いは意外なものだった。
「兄ちゃんは、空に絵、かいたことある?」
空に絵を描いたことがあるか。それはどういうことだろうか。隼人のベッドの周りには色鉛筆やクーピーで様々な絵が描かれている。正直、俺にはそれが何を描いたものなのかはよく分からないが、紙一枚一枚に全体が水色や青で塗られ、そこに様々な絵が描かれている。恐らく空に見立てた青地に絵を描いているのかもしれない。
「こういうのなら、な」
隼人の写真コレクションの中から、一枚を俺は手に取った。それは航空祭で飛行を披露した時のバードフライの編隊飛行の写真だ。ちょうどスモークも出していて、機体を鉛筆に例えればこれも一種の絵描きみたいなものだ。相当な技術を要する難しい絵描き。それが隼人の言う空に絵を描くことと似ているのかは分からない。
「うーん、こんなのじゃないんだ」
隼人はどうやら、俺がそう思っていたこととは違うことを言いたかったらしかった。
「隼人はどんな風に絵を描きたいんだ?」
パイプ椅子に腰を下ろし、写真を元に戻す。
「ぼくね、くもに絵をかくんだ」
隼人が窓から浮かぶ初夏へ移行する雲を眺める。それで何となく隼人の言いたいことが把握できたかもしれない。きっと隼人は俺たちがバードフライで空に線で描くのではなく、雲に色をつけるように絵をかくことを夢見ているのかもしれない。
「雲に色をつけるってことか?」
俺の疑問に隼人は、うんっと絶対に叶えるんだというような眼差しで俺を見てくる。
隼人の言葉に俺は頷くが、それは叶えてやることは出来ない。
雲というものは、言ってしまえば水蒸気が冷えて出来た小さな水の固まりだ。赤や青の光を当てて色をつけたように見せることは可能だ。朝焼けや夕焼けの頃の空を思い出せば、雲は白くはない。彩雲とも呼ばれ、色が付いているように見える。だが、隼人の夢は、紙に鉛筆で絵を描くことと同等だろう。そうなると難しい。不可能というわけではないが、空に浮かんでいる、隼人が今見ているような雲は手を伸ばせば届くような高さにはない。バードフライでもあれほどの高度まで上昇することはないのだ。その雲に色を人工的につけるのは難しい。直接色素成分を散布する方法もあるかも知れないが、それでもきっと染まることはないだろう。色をつけるとなると、雲は空気中の水分が凝結しているもののため、それに色をつけるのではなく、雲になる水に予めにでも色水を含ませる必要があるだろう。それは易々と出来るものじゃない。スプレーをするように色をつけるとしても、水分よりも色素のほうが重いからそのまま地上に落ちるか拡散分解するはずだ。
それに別例として、飛行機雲は空の(ト)航跡と呼ばれ、これは高空の冷気に冷やされた航空機から排出される高温・高圧ガスに含まれる水が飛行機雲となる自然現象なのに対して、バードフライが使用するスモークは一種のコントレールだが、それとは区別し、潤滑油の一種を胴体内に設置したオイルタンクからパイプを通し、エンジンのパイプ付近で噴出させ、高温の噴出ガスの熱で煙を吐き出すことで機体がスモークを吐き出しながら空に絵を描くように見せている。だから、スモークでは雲に絵を描くことは出来ない。
何も知らない子供だからそう夢を描ける。だから、それが無理だとか否定する言葉を俺の口は紡ごうとはしない。子供のために嘘を教えるのは良くないという大人もいるかもしれないが、まだ小学校にも通っていないような幼い子供に、現実を突きつけさせること以上に酷なことはないかもしれない。知らせないのも思いやりだ。子供は夢を持って日々の生活で感性を磨いて、大人に成っていくのが一番だろう。何も知らず、何もないからその心は澄んで綺麗なのだ。それを穢すのは罪だろう。
「あんなに大きなくもに、絵をかくってたのしそうだもん」
隼人の目は夢を語る時は、病気なんてなんのそのと言った具合に生き生きとしている。
「そっか。ピアノが来てくれると良いな」
「うんっ」
表情は比較的豊かなのだが、やはり体は病魔に犯されて日々悪化を辿る一方らしい。つぶらな瞳の周りには隈が出来ているし、発熱からか少々顔色も悪い。慢性疲労のような脱力感も見える。
「ねぇ、兄ちゃんは、なんでパイロットになったの?」
隼人が唐突な質問を投げかけてきた。すぐに応えられるかと思ったが、少しばかり記憶を遡るのに時間が掛かった。
「いくつかあるんだけどな、一つは今隼人が空に絵を描きたいって言ったように、俺は空に憧れてたんだ」
隼人が一緒なんだ、とどこか嬉しそうに小さな笑みを浮かべた。それに俺も相槌を打った。だが、それだけでパイロットになるという夢が生まれたわけじゃない。空に憧れるだけなら、様々な職業でも空に関わることが出来る。
「他にも、隼人、お前ブルーインパルス好きだろ?」
「うん」
素直に頷く隼人。
「俺も中学の頃に見た時に好きになって、この仕事に就いたんだ」
いつか将来の自分を思い描いているのだろうか。隼人は色々と質問をしてくる。それに応える時の俺は、傍から見れば子供のように楽しそうに隼人に語っていたかもしれない。自分自身でも、隼人のような子供が将来の後を継いでくれると嬉しいと思い、自分で言うのも何だが、良い顔をしていると思った。好きな話をするというのは、快感に近いものを感じる。それが相手も好きで、知らないことばかりの時に話すというのは、格別のものだ。聞き流されることなく、受け止めてもらえる嬉しさは、大人だろうと子供だろうと関係ない。だから夢中になってしまうこともしばしばだ。
「もう一つは、学校の鉄棒をしてる時だったな」
「てつぼう?」
それがどうして俺がパイロットになった理由と当てはまるのか、隼人には不思議だったのかもしれない。横になりながらも首が少し傾いていた。
「そう。鉄棒だ。隼人は鉄棒はしたことあるか?」
「ううん、ない。でも病院にもあるよ」
外に出られない子供のために、簡単な遊具が置かれているスペースがあった。きっとそこに小さな物があるのだろう。隼人は今はもう自由に院内を歩くこともままならないようだが、俺たちが出会った頃は遊ぶ機会もあったのだろう。
「そっか。鉄棒をするとな、上下が逆さに見えるんだ。そうすると空が地面になって、地面が空に見えるんだ」
飛べない人間が、空に立っていた。そんな気分になれた。漠然とした日常で見えた、小さな光だった。
鉄棒でぶら下がると、上下が逆さまになって普段見慣れたものが全く別物に見える。京都府の天橋立を見る時に股を通してみると、空に掛かる天の橋に見えるように感じるのと同じだ。中学の頃なんて田舎の学校だから、特に夢なんて持つことなくただ毎日遊んで過ごすだけだった。暇つぶしに鉄棒にぶら下がっていると、ちょうど飛行機雲を描きながら行く飛行機が目に入った。紙の上を走る色鉛筆のようで、つい見入って、そのまま力が抜け、地面に顔面から落ちて鼻血が噴出したのを覚えている。
「その時に見た飛行機雲が格好良く見えてな」
それを吐き出す機体を操る人間への憧れに変わったのは、そう長い時間は掛からなかった。
隼人は話に聞入っているのか、静かにしていた。
「隼人はどうして、空に絵を描こうって思うんだ?」
さっき隼人は、空にある雲は大きなキャンバスのようで、思いっきり絵を描きたいと言葉は僅かに違うがそう口にした。隼人ほどの年なら漠然とした夢を持つことは不思議でもなんでもない。思わず微笑むんでしまうような夢を持つ子供もいる。だが、空に浮かぶ雲に絵を描くという夢を持つ子供は、初めて目にした。こういう閉鎖的空間での生活を強いられている子供にしてみれば、どこまでも広がる開放的なものに対する憧れが、そう夢を持たせているのかもしれない。
「たのしそうだし。それにかっこいいじゃん」
ちょっと照れたような笑みで俺に言った。その表情は自信に満ちているように俺には見えた。夢を持つ子供の偉大さ。自分が同じくらいの年齢だった頃のことなんてほとんど記憶にないが、たった一つの夢を、多少悪く言えば執着し、良く言えばいつか開花することを願い温め続ける心の清らかさには、驚かされるものがある。こんなまだ十年もこの世界に誕生して時間が経っていないというのに、他の多くを望むことなく、それを犠牲にしてでも、たった一つだけの思いを貫く強さを持つのは、普通に学校に通い、友達と遊んでいる子供にはないだろうと思う。
「そっか。なぁ隼人。見てみたいか?」
確か悠の話だったか、隼人はまだ曲芸飛行と言うものを知らないと言っていた。写真で見たブルーインパルスに感銘を受けて以来、様々なものを収集し、俺がバードフライのパイロットだと知ると、今まで以上に俺を見る隼人の目には輝きが増していた。宝石が人から人の手に渡るにつれて磨きを増して輝くように、色々な人の話を、夢を通して聞くことで、隼人は新しい研磨士に出会い、より一層新たな輝きを手に入れた原石のようだ。宝石になるにはもっともっと人の手を渡らないといけない。だから次の手に渡るまでは俺の手で隼人という原石に磨きをかけてやりたいと思った。
「なにを?」
「ブルーインパルスみたいな格好良い飛行を」
俺は近くにあった隼人のプラモデルを手に取り、曲芸飛行のように、隼人の頭上で動かす。子供ならよくやることだろう。自分の頭の中で玩具の車や飛行機などが飛んでいるのを想像して動かすと、そういうことでも想像力などがつく。想像する力は人間にはとても大切なものだ。物事の全ては人の空想や妄想、想像から生まれたのだから。
「見れるの?」
「隼人が見たいなら」
叶えてやろうじゃないか。精鋭集団の飛行ほどの技術はないが、それでも隼人には多少ならずとも刺激にもなるだろう。今の俺じゃ自分の腕を見せてやることは出来ないが、それくらいならしてやれるかもしれない。少しでも隼人が快方に向かう術の一つにでもなれば良い。しばらく隼人は何かを考えていると、母親が戻ってきた。
「どうかしたの?」
「あのね、兄ちゃんがみせてくれるって」
母親は隼人の言っている意味が分からないようで、俺を見てきた。
「今ですね、隼人にウチのバードフライの飛行を見させてあげたいと話をしてまして」
一瞬、驚きの表情を見せたが、すぐにその顔からそんな感情は消え、隼人を静かに見つめた。母親の顔には重たいため息でも出てきそうな哀しさが見て取れた。俺だって隼人の容態のことは聞いている。だからこそ、じゃないだろうか。
「少し、宜しいですか?」
隼人に何かを言うのかと思っていたら、俺が呼ばれた。ここじゃちょっと、と言葉を濁し、俺を廊下に連れ出した。隼人はすっかりその気なのか、顔色が微かに本来の明るさを取り戻したように見えた。
「奥田さん」
隼人には、少し待っててねと柔らかく微笑んでいたが、廊下に出た途端に先ほどのような優しい温もりが消え、どこか俺を敵視するような少々険しい目で見てくる。女性と言うより母親の目と言ったほうがしっくり来た。
「以前、お話しましたよね?」
有無を言わさない雰囲気を纏う隼人の母親に、正直俺は睨まれた蛙のような気分を覚えた。だが、その言葉の指す過去の言葉は覚えている。だから、俺は隼人にその小さな夢がいつか必ず叶うということを教えて、見せてやりたいと思った。症状の悪化は着実に進行しているのも承知の上で。隼人の母親にも夢を見せ続けてあげてと頼まれたのだから、ただ見せるだけでなく隼人の全てで感じてもらう方が良いだろう。そこまでの障害が多いことは分かっている。
「今の隼人があんなに明るい顔をしたのは久しぶりでした。ここ最近は微熱と倦怠感もずっとあって、時々癇癪も起こして、自分自身をコントロール出来ない時が多かったので、あの笑顔は本当に嬉しかったです」
微かに表情が隼人に見せていた時のものに戻ってきたようだ。やはり自分の子供が苦しんでいるのを見るのは辛いだろう。俺の考えは間違ってはいないようだ。ただ実行に移すとなるとまた別問題で、隼人の母親もそれを危惧しているのだろう。
「大丈夫です。俺も出来る限りのことは何でもしますから」
もはやパイロットだった頃の鼻の高さは折れた。折れてしまえば開き直りが大事だ。初志貫徹とまではいかずとも、積み上げていけば良いだけのこと。どうせ腕が治らなければ仕事でも雑用の毎日だ。精神的な打たれ強さも前よりは身についているはず。医師の説得には耐えられるくらいはある自信がある。呆れさせて見せる馬鹿なプライドを持つ事だって厭わない気分だ。
「そのことについては、感謝してもしきれません。ですが、その話は隼人には二度としないで下さい」
「えっ・・・・・・?」
俯きがちな母親から聞こえてきた小さな呟きのような、全否定の言葉。廊下には多くの子供や医療従事者や家族で賑わっている。その中で聞こえてきた一言は、周囲の喧騒を掻き消した。ほんの数秒前まで良い感じに思っていたのだが、一瞬でそれが打ち消された。
「ど、どうして、ですか・・・・・・?」
動揺を隠し切れなかったか、言葉が流暢に出てこなかった。
「隼人は左目を失明しています」
「それは、お聞きました」
本当がどうか信じられなかったが、隼人の目が時折不自然に揺れて目の動きを制御出来ないのか、あちこちに左目が動いているのを見てしまった。先ほどの話し合いでも医師が絵本をいつまで見られることかなどと、右目も失明する恐れがあることを危惧していた。あまり考えたくはなかったが、ぶっちゃけてしまえば本当は夢を見せるという名目上で、見ることの出来る今のうちに隼人には、空に絵を描くという夢に似た現実があるのだと写真や映像としてではなく、光りを見ることの出来る片目だけでも見て、記憶に残していてもらいたいと思うからだ。きっと治る。自分にそう言い聞かせているが、心の深底では認めたくないが隼人を蝕む現実を拒みたくても拒もうとしない無意識の自分がいるのも分かっている。表面で繕っていても内面ではそんなことを考えていない最低な自分がいる。だからこそなのかもしれない。隼人への救いになるかも知れないことを俺がしてやることで、俺自身が救いを求めている。だから、隼人の母親にそれをしないで欲しいと言われて、思っていた以上にうろたえてしまった。
「視神経まで転移しているということは、どういうことか分かりますか?」
ただ聞いてくるだけじゃない物言い。俺に問うというよりも、本当の現実を突きつけようとしているように聞こえてしまう。俺は言葉が出せなかった。俺よりも頭一つ分以上小柄な女性だというのに、放つ空気が俺を易々と凌駕している。それに呑まれてしまう。包み込むようなものじゃない。掴まれた感じで言葉が絞り出せない。
「脳にも転移があるの。治験でワクチンが出来るまでは、私たちはあの子をここから出すわけにはいかないのよ」
「そんな、に・・・・・・」
親として子供の夢を叶えてやりたいと思っていても、その代償として差し出さねばならない命の重さを天秤には掛けられないのだということは分かる。夢のために、最悪命の全てを差し出すことになるかもしれない現実を考えると、踏み込むことが出来ないだろう。夢あっての命を好きに望む親はいないだろう。隼人の母も命あっての夢をとるから俺にそう言ったのだろう。
「治験は、新薬の有効性と安全性を確認する制度で、隼人の腫瘍の一部からワクチンを作ってもらうの。ここじゃそれが出来ないから、時間が掛かるの」
申し込んでいることは聞いていたが、そういうことだということは初めて理解した。そこで引き下がれば済む話なのだろうが、俺は本当に我が侭な子供なのだろう。
「ですが、隼人は今でも右目の視力が落ちているかもしれないんですよね? 見えなくなった時の隼人の想いはどうするんですか?」
あれだけ空や雲への思い。そこに絵を描くということへの強い夢。俺を慕ってくれて、見てみたいと強く輝いたつぶらな瞳。それを俺は失わせたくない。見られる内にその目に焼き付けて欲しいから。
「今の状態での外出は、隼人を悪化させるだけ。親としてそんなことさせられるわけないでしょ!」
溜め込んでいたものを吐き出すような突然の強い口調だった。その目は今にも何だが溢れ出しそうなほど悲しみや辛さを堪えている目だった。
「夢は回復すればいくらでも見られるのよ。その前に死んだら終わりなの。あなたにそれが分かる? 家族を失うかもしれない辛さをあなたは分かるの? あの子は私の息子なの、失わせたくなんてないの。それを守ることをあなたに理解できるの?」
途中から俺に対する強い問いというよりは、母の嘆きにも聞こえてしまうほど、隼人の母親は我が子を思い、それに伴う息子の夢を淡く見せるだけで良いのだと俺に理解させようと今まで堪えていたものを溢れ出させた自暴自棄のような感情の爆発。そう言われると、俺に反論することは出来ないし、許されもしないだろう。どれくらいの間、医師の話や自分たちで調べた症状から、自分の息子のことに絶望的になったり、自暴自棄になったりと、慟哭になることを必死で堪えてきたのだろう。もう収まりきらないほどの悲しみや嘆きを。
「ごめんなさい。今日はもうお引取り下さい」
余計なことまで言ってしまったと、俺に謝罪すると俺が謝罪する間を与えることなく病室へと戻っていった。俺はその場を動くことが出来ず、行き場のない憤りと自分のしてしまったことに対する憤慨と隼人の夢を叶えると豪語しておきながら、何も出来ない不甲斐無さを抱えていた。
「どうかしましたか?」
立ち尽くしている俺を不思議そうに看護師の女の子が顔を覗いてきた。我に戻り、愛想笑いを浮かべながら俺はその場を後にした。エレベーターに乗り込む際、一度隼人の病室を横目で見たが、先ほどの女の子が俺に首を傾げているだけだった。
エレベーターに乗り込むと、骨折している左の掌がガッと拳になっているのに気づいた。それがどうしてなのか分からない。自分の行おうとしていたことを否定されたからか。隼人に夢を見させるだけで触れされることが出来ないことか。隼人の家族の抱える問題を軽視しすぎていたことか。考えればキリがなく俺の中に自責と疑問が駆け巡る。ギプス越しに伝わる鈍痛も気にならないくらい、今の俺は動揺しているのかもしれない。
病院を後にして、タクシーを呼ぶ気にもバスに乗る気にもなれず、少々距離はあるが俺は歩いた。俺の鼻に排気が気持ちの空回りのように纏わりついて気持ち悪かった。
「俺が、悪いんだよな」
喧騒に満ちた中を歩いていると、自分が一人なのだと良く分かる。耳を澄ませば誰の声かも分からない人の声や工事の騒音、自動車のエンジン音、昼の町の中には静寂はない。その中を一人で歩くと、静かな中で一人というよりも孤独感を感じる不思議さがある。たまに俺に向けられる視線。怪我をしているのがそんなに珍しいか? そんなことを問いただしたくなるような俺を哀れむ視線に無性に腹が立つ。それが自分のせいだと分かっているから余計に堪えるのに必死になる。
「ほんと、子供だな」
俺は平々凡々と生きてきた。それを自慢することも蔑むこともするつもりはない。多くの人間が当たり前のことであり、一部には羨ましいと思われること。細かく人の空気を読み、当たり前のように自然と人の気持ちを汲む悠。真っ直ぐに信じた道を歩み、一生懸命に自分と向き合う美友紀ちゃん。いつも俺を茶化し、馬鹿にしながらもその心に大切な人を失った傷を誰にも見せようとしない智史。あらゆる角度から物事を見通し、叱責や励ましなど自分の意見を交えつつ他人を思いやる香田先輩。何も言わずにただ黙って見届けつつも、静かに背を押す藤沢上官。そして、まだ五年程しか生きていないにも関わらず、大きくしっかりとした夢を持ち、周りを気遣いつつ自分と闘う隼人。
俺の周りには自分をきちんと確立し、その意思を尊重し日々を過ごす人間が溢れている。自分というものを理解しているから他人へ気を向ける余裕があるのだろう。自分のことにも精一杯で、一度の大きな挫折に負け、甘えて、それでも格好をつけ続けている自分。そんな俺が他人に気を遣う前に、まずは自分自身を強くしなければならないだろう。
無意識に空へとため息が漏れる。太陽光を受けてギラッと胴体と翼を輝かせて飛び去っていく旅客機。数百人の命を一度に請け負う大手の旅客パイロットの精神・身体的ストレスは鍛えていなければとてもじゃないが耐えられない仕事だろう。それに比べれば少人数しか相手にしない今の俺なんて比べるだけ無駄なものだろう。自嘲自虐が止まらない。分かっているから分かっていない。そんなところだろうな。
歩いて三十分ほどして家に着いた。自分の家じゃないが、すっかり慣れてしまい合鍵で部屋に入る。女性の部屋ならではの甘く優しい香りの中に、男の匂いが微かにする。それだけ俺がここに住み着いてしまった何よりの証か。時計の音くらいしかまともな音はない。携帯をベッドに放り、上着も同様に投げる。日差しに照らされた中で埃が立ち昇る。それを吸うのは嫌に思うが、どうせいつも吸っているのだと思うと気にならない。
「俺に出来ることって何だよ・・・・・・」
前に智史が言ったことが頭を過ぎる。今の俺には、確かに何も考えずに流れて来る部品を淡々と組み上げる流れ作業の工場での仕事のほうが向いているかもしれない。何で俺はバードフライ飛行場に入社し、憧れだった曲芸飛行チーム(フライ)の一員にまで上り詰めたのか。一人になるとそんなことばかり考えてしまい、気がつけば玄関の開く音が聞こえる時間だった。
「何よ、健介いないの?」
いつの間に日が沈んだのだろう。奥から次々と明かりが差し込んでくる。買い物袋のザサザサというビニルの擦れる音と共に、俺の視界も明るくなった。
「あっ、寝てた?」
目を開けると、悠が俺を覗き込んでいた。下ろした髪が表情を分かりにくくさせているが、具合でも悪いの? と今にも訊ねてきそうな顔だと思った。
「いや、起きてた。ずっと」
一睡もしていないが、ベッドに体を横たえていた。特に何をするでもない。陽があるうちに風呂掃除をして以来、ずっとこうしていた。何をする気力も起きない。ずっと考えていた。
「ご飯作るから、それまでゆっくりしてなさい」
一人で何かを納得した悠は、それだけ言い残すとリビングのほうへと戻っていった。夕食の支度を始めたようで袋を開ける音や水の音、炎の音、まな板を走る包丁の音などがずっと横になったままの俺の耳に聞こえてくる。
「そういえば、昼飯食ってねぇな」
昼前に帰ってきて以来、昼食のことなんて頭になく、ただ呆然としていた。仄かに香る夕飯の香りに腹の虫が空腹を訴えてきた。ここ最近は三食摂っていたから一食抜いただけでどれだけ空腹になっていたかを思い知った。色々なことを考えていても空腹はどうしようもない。悠の呼ぶ声に体を起こし、ダイニングに行くと悠にも聞こえる程の腹の虫の鳴き声が響いた。
「お昼は?」
「食ってない。気がついたらお前が帰ってきてた」
正直に話すと、悠は呆れたような声を漏らした。
「何してたのよ?」
「考え事」
一食抜かすと悠の夕食の美味さに少々驚いた。これをいつも食っていたはずなのに、味覚がいつもの何倍も鋭くなっているように感じられる。当たり前だということが日頃の積み重ねの結果だという美友紀ちゃんの言葉が浮かんだ。言われた時には良く分からなかったが、今それを実感した気分だ。
「なぁ、悠」
「ん? 何?」
何となくだが、美友紀ちゃんの言葉で俺がどうしたいのか、智史の俺に言った言葉が分かりそうな気がした。だから悠に俺は全部話した。一人で何時間も考えて出せなかった答え。結局甘えなのだろう。それで良い。一人じゃ答えを出せそうにないから誰かに頼る。それが俺なのだから開き直ろう。
「俺って、隼人に何をしてやれると思う?」
俺の質問は素っ頓狂なものだっただろうか。悠がポカンと俺を見ている。こっちは至って真剣な悩みなのだが。
「どうしたのよ、急に?」
「いや、それがな―――・・・・・・」
今日隼人の母親に言われたことをもう一度自分で確認するように悠に話した。初めは呆気に取られた顔をしていたが、やがて悠の表情は固くなった。俺の話が進むにつれて真剣な眼差しというよりは、呆れてものも言えないと言った感じだろうか。自分で話していて次第に罪悪感にも似たものを、情けなさを感じてくる。
「あんた、馬鹿でしょ? というか馬鹿よね」
決められた。自覚は薄々していたが他人に言われるのは結構、こう、何と言うか、くるな。痛い。
「馬鹿馬鹿言うな。これでも今日はずっと考えてたんだぞ」
「それで答えが出ないで、私に聞いた。馬鹿以外の何ものでもないじゃない」
悠が明らかに俺にむけてため息をついた。自分のため息というものには時として哀愁も自覚するが、他人のため息というものは耳にするのも目にするもの良い気分ではない。時として腹立たしさも感じてしまうものだ。本人は悩んで漏らしたものだとしても、その悩みや不安を知らない他人からすれば正直面倒なものだ。今まさに悠の表情がそれを表している。
「うるせぇ。俺だって散々悩んだでんだよ。すぐに答えが出せるなら出してるっての」
その一言に悠は再び呆れたように盛大なため息を俺に向けてきた。少々癪に障るが俺が蒔いた種のせいだから堪える。
「あのねぇ、あんたは隼人君のことしか頭にないから、お母さんにそう言われたのよ」
「どういうことだよ?」
隼人の事を考えて何が悪いというのか。病気で苦しんでいる子供と出会ったのだから、その子が温め続けている夢を見せるだけでなく、その肌全てで感じさせたいと思うのは悪いことだと言うのか。隼人の母親は俺にそれをしないで欲しいと、まだ隼人にしてやれる治療の術がある今は、夢を聞いて共感してやるだけで良いと断言されて、俺は拒否されたのだから。治療する術がなくなれば夢を肌で感じさせることを認めるという風に捉えられるその言葉に、俺は憤りを感じる。隼人の病気は刻一刻としてその小さな体を蝕んでいる。その治療の術があるうちは我慢することも厭わないが、だが隼人の場合はそうはいかないだろう。隼人の夢では、恐らく最も重要なものの一つである目で、光りを見ることが出来なくなり、もう一つもその見渡せる範囲を狭めている。成す術がなくなるということは、その残された一つの光りも見ることが出来なくなることじゃないのか。そうなってからでは俺が見せてやりたい夢は意味を成さない。感じるだけでは空に絵を描くことは出来ない。その目で見ることが何よりの夢。紙の上でのことなら感触を感じることが出来る。だが、それが隼人の場合は空に浮かぶ雲が舞台。感触だけでは分からない。感覚も大事だが、その手で掴むことが不可能に近い分、目と言うものの重要性が必要不可欠なのだ。だから俺は俺なりに、前に隼人の母親に言われた通りに隼人に光りを見ることの出来るうちに、本物を見せてやりたいと思った。手遅れでは永遠にその夢が感じるだけで見ることが出来ない。幼い子供の夢だから、時間が経てば別の夢を持つことだって分かる。だが、強い思いを押さえ込ませてまで夢を変えさせられることには、俺には納得出来ない。
「あんたは今までずっと幸せに、何の問題もなく今日まで生きてるでしょ?」
その腕のことを除いて、と付け加えてくる。俺は正直に頷いた。
「でもね、入院ってものが入ると、家族が壊れることもあるのよ。分かる?」
悠は子供の頃に入院をしている。だから、想像のことではなく事実を交えて口にしている。説得力がないわけがない。
「あんたの場合は、隼人君が自分一人だけで病気と闘っていると思ってる。だから、馬鹿なのよ」
言い返したい悔しさがあるが、俺の中の認識は悠の言う通りだ。
「大人が入院するのと、子供が入院するのは意味が全く違うのよ。大人なら自立していれば特にあんたみたいな独り身なら大して問題は起こらないでしょ?」
仕事や入院治療費などの支障は否めないが、生活の保障はされたも同然だろう。入院中は衣もあれば、食もある。住だって問題はない。確かに俺が今入院しても悠の家に居候になっているのと大差はないだろう。
「でもね、子供はそうもいかないの。もちろん病気と闘う辛さはその子にしか分からないことよ。でも辛いのはその子だけじゃない。家族にだって当たり前だった日常を送れなくなるのよ」
「当たり前の日常・・・・・・・・・」
「お母さんは連日病院で我が子に付き添うから、家事が滞りなくこなせなくなる。病院に寝泊りをするなら尚のこと。毎日毎日家事をこなす主婦って、あんたが思っているよりもずっと大変なのよ。午前中に掃除洗濯、食事の支度を済ませて病院に行く。それから消灯時間まで付き添って帰宅して、残った家事をこなす。数日なら耐えられるけど、それが長期入院を余儀なくされる隼人君のような病気だったりすれば、子供もともかく、母親自身の疲労が蓄積する。そして、それが時には夫や兄弟姉妹にもしわ寄せが行くこともあるわ。中高生くらいの子供なら切り抜けられるけど、隼人君みたいな子供を持つと、その兄弟は同年代の子が多いの。そんな子供はまだ親、特にお母さんを必要としているの。そのしわ寄せが母親から来れば、子供の精神状態も乱れる。お父さんが常日頃から家事や育児にサポートしてくれているならまだしも、出張なんかで不在になることが多いと、それがさらに悪化を促すの。入院している子供のストレスだって大きいけど、その命を守るために背負う家族の負担は、夫婦間に軋轢を生んだり、親子の関係も崩れることがある。一人の子供が病気になることの影響の大きさは、実際に経験した人間にしか分からないのよ」
悠は俺が口を挟む間も設けることなく、一気に言った。
「それを隼人君に感じさせまいとする思いも大きいの。家族の心は必ず不安定になる。親にしてみれば代わってあげたいって誰もが思うわよ。だから、親も怖いのよ。自分たちが強くないと、子供にもすぐに影響する。子供は大人に比べて何も知らないし、純粋だから親が子供に弱みを少しでも見せると思うわけよ」
「自分のせいで、皆が辛い思いをしているって責める、か」
「でも私もそうだったけど、それで済むなら良いほうよ。中には病気になった自分が悪い。自分がこうならなければ家族は元気にいられるのに。自分は悪い子だ、要らない子なんだって思う子供だって多いんだから」
本当は、家族はただ治ってまた元気に走り回って欲しいって思っているだけなのにね、と悠は嘆くように、過去の自分を悔いるように言った。俺には分からない領域の話にも聞こえるが、理解出来ないわけじゃない。隼人を見て、隼人の母親が辛そうに俺を責めたことを悠の話に重ねれば、確信には至らないが想像くらいは出来る。
「だから、隼人君のお母さんがあんたにそう言ったのも分からないでもないわ。ウチも私のせいで似たようなことがあったし。親だって子だって一人の人間だもん。いつまで続くか分からない入院生活に伴うストレスは堪えるのに限界がいつかは来るもの。あんたが悪いとは言わないわ。でもね、隼人君のご家族の思いは、比較出来るものじゃないのよ」
一般入院と小児入院の大きな違い。強いストレスにさらされる子供の心を支えること、家族の辛さを理解し、それをサポートすることも小児医療の大きな役割だと言えるのだろう。その中で常時接している親のほかに医師や看護師が子供の心の状態を見つめ、隼人のような幼い子供であれば、遊びを通して成長を支える保育士や心理状態を観察し、カウンセリングする臨床心理士、中でも親にとって子供の状態の他にも経済的な悩みや医師に直接言えない不満や質問、子供の通う学校等との連絡などあらゆる悩みを聞いてくれるケースワーカーのサポートが必要となり、その全てを一つのまとまりにしたトータルケアの重要性もまた必要不可欠となっているのだろう。
「でも、それじゃ隼人の夢はどうなるんだよ?」
ただの駄々でしかないことは分かった。俺は隼人の家族じゃない。俺の話は隼人の家族にすれば無神経にも思えることだってことも、今の話で理解しないわけにはいかないだろう。
「それに関しては、私はあんたの考えは否定しないわ。むしろ私も賛成しても良いかなって思ってる」
きっと悠に一蹴されるだろうと思っていたが、意外な答えが悠の口から聞こえた。
「もちろん、馬鹿な考えだって事も分かってるわ。あんな状態で日に日に悪化している隼人君を病院外に連れ出そうなんてことは簡単に出来るものじゃないでしょうね」
それを踏まえて俺の考えは拒否された。
「この仕事をしていると、隼人君の気持ちも分かるのよね」
いつもは俺の考えを否定して、新たな妥協案を出してくる悠が珍しく俺の意見に同調している。
「でも、隼人の母親はそれを望まなかった。それじゃあどうしようもないだろ?」
意外な事態に内心は一瞬別の意味でうろたえたが、話題は一つとして何も変わっていないから表面は変わりない事実へと向き直す。隼人には喜んでもらえたことだとしても、両親の判断や医師たちがそれを否定すれば、俺たちに出る幕はなくなる。それだけ俺たちと隼人を繋ぐ繋がりは薄いものだと、改めずとも認めなければならないということだ。
「ダメだって言われて、はいそうですか、であんたは諦めるの?」
悠は見下すような眼差しと箸を持つ手を俺に向けてくる。箸で俺を真っ直ぐに指さない辺りはマナーを守っているのだろうか。
「プロや家族が相手じゃ、俺たちにどうすることが出来るってんだよ」
越えられない壁のごとく立ちはだかる問題は、俺には超えることも崩すことも出来る力を持つ資格なんてないってのに。あの時反論の一つでも出来ていれば、それを盾に遮二無二に突き進んでいたかもしれない。だが、我が子の命を守るために奮闘する親を前に、それはただの屁理屈の繰り返しで、隼人の命が助かるのであれば俺だって助かって欲しいと思う。だから、立ち止まってしまう。
「前に智史の話をしたでしょ?」
「事故のことだろ?」
突然斜め方向にずれる話題に戸惑う。
「その時、智史とどんな話をしたのかは分からないけど、何か言われたんじゃないの?」
思い返す俺に、悠は全てを初めから知っているような口調で俺の答えを待っている。確か智史の姉と子供はウチの航空祭へ向かう最中の事故だった言った。そして、悠の話なども合わせて、智史の姉の子供は智史の演技を楽しみにしていた。あの航空祭の時、智史は事情をまだ知らず、飛行演目終了後に慌てて飛行場を後にしてそれからしばらく休んだ。詳しい理由を問う暇もなく俺も仕事に追われ、そのことをすっかり忘れていた。
「子供が元気にいられる理由がどうだとかを言われたと思う」
最後に俺に聞いてきて、俺はそれに応えることが出来ないまま結局そのままで流れた。
「今のあんたにそれを改めて聞いても答えられる? それとも無理?」
悠が慈愛に満ちたような目で俺を見てきた。いつの間にか俺たちの夕食を摂る手は止まり、悠の温かい料理から熱がどんどん冷めていっていた。
「あー、えっと・・・・・・」
改めて問われても、答えが出せなかった。不甲斐無いが、俺の頭に浮かんできた答えは全て智史に問われた時に浮かんだものと同じだった。
「本当に、あんたは馬鹿ね」
呆笑を浮かべる悠に、俺はいじけるように目の前のおかずに箸を行ったり来たりさせた。行儀が悪いのは分かっているが自分自身の考えの浅さに呆れていたのもあるかもしれない。
「健介、その言葉に隼人君を重ねてみなさい」




