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二.クロッシングデイリー

 幾日が過ぎ、久々に仕事前に悠と共に診察へ行くと、ふと思い出すことがあった。毎日診察に通う必要もないため、忘れていた。

「そういや、最近はやとを見なくないか?」

「そう言えば、そうね」

 診察待ちをしながら、ここ何回かは予約の時間ギリギリに着いて診察を済ませ仕事へと駆け足気味だったため、はやとのことを考える暇がなかった。今日は予約を取っていなかったため気長に待っていたが、はやとの姿どころか、声すらも聞こえてくることはなかった。

「あの、すみません」

 別段気にすることはなかったかもしれないが、悠は気になるようで近くを通りかかった看護師に声をかけた。

「はやと君って子は、退院したんですか?」

 悠の言葉に一瞬きょとんとした顔を見せた看護師だったが、すぐにそれが誰なのか思いついたようで、納得したような頷きを見せた。

「高峰隼人君は・・・・・・」

 そこで先ほどまで笑顔だったが、微かに表情が険しくなった。言葉を詰まらせた彼女に俺と悠は顔を見合わせた。言葉を交わさずとも、互いの目ではやとの容態が芳しくないのだと感じ取った。看護師の彼女も規則からか詳細は口にしなかったが、その表情が二人の考えをもの語っていた。

「ではお大事に」

 いつものように信憑性を疑わせる診察態度でありながら、その手際の良い医師の診察を終えると、悠がどうする? と目で問いかけてきた。それは支払いや仕事の事ではなく、先ほどのことを俺に訊ねているのだとすぐに分かった。

「今日は時間も時間だ。また次にでもしよう」

 俺の言葉に悠はあっさりと頷いて毎度のごとく支払いを済ませてくれた。急に押しかけるのは失礼だろう。きっと悠もそう思ったから潔く引いたのだろう。俺たちはそのまま仕事へと向かった。

「それじゃ、私はこっちだから」

 いつものように事務所前で悠と別れ、俺は事務所へと向かった。一通り挨拶を済ませ、予定表を確認すると、そこには相変わらずの雑用ばかりが並んでいた。

「今日はバードフライ、朝から訓練か」

 今日は業務が少ないからか、バードフライのメンバーは朝からブリーフィング室への集合が書かれていた。本来なら俺もそこに加わるのだが、控えの智史の所に俺の代わりの機体番号が示されていた。フルートも今は智史の愛機か。心の穴が開いた感じだ。

「健介、よーく見ておけよ。俺のフルート捌き」

 人が書類整理をしていると、ブリーフィング室からバードフライの面々が打ち合わせを終えて出てきた。これから訓練に入るようで、智史が自分の胸を叩いて俺を指を差し、荷物を取るとそそくさと出て行く。悔しいが今はどうにも出来ない。一通り急ぎの手続き等の整理を済ませると、いつものように管制塔の屋上へ外付階段を上がる。幾つかの機体が出発アシストを受けていた。

藤沢上官たちの主のヘリコプターであるエアロスパシアル。ヘリのことは詳しくは知らないが、最大搭乗員数十三人のウチの飛行場じゃ髄一の大型ヘリだと言う事は見てわかる。これから観光飛行のようで、お客さんが乗り込むのを美友紀ちゃんたちが迎えている。そこから視線を横へずらすとバードフライの曲芸飛行機であるsu-26が五機、エンジンを指導する前の点検を行っており、悠の姿も見えた。気丈な態度で、淡々と百以上ものチェック項目をパイロット共に確認していく。よく五機も所有することが出来たなぁと社長の懐には感心する。

「はぁー・・・・・・」

 意味もないため息が煙草の煙と共に、春の大空へと消えていく。誰が干しているのかは知らないが、仮眠室と医務室のシーツが風に揺れていた。

「明日は、と」

 することが無いと仕事にも身が入らない。携帯を取り出しスケジュール帳を見る。フライトスケジュールなんてからっきしだ。メモリーしてあるのは、通院の予約時間ばかりだ。

「明日は、はやと、いるかねぇ」

 何故だかあの病院は、はやとがいてこそだと俺の中に根付いてしまっている。あいつがいない時に診察を受けると、医師の下らない話がより一層下らなく感じてしまう。

「それにしても、悠ももう少し気を楽にした方が良いだろうに」

 テキパキと指示を飛ばし、次々とバードフライのメンバーを送り出していく。藤沢上官も同僚とフライ機が飛び立つのを待っている。

「仕事しろってか?」

 俺に気づいた上官がコクピットから仕事をしろと、手指示をこちらへ出している。煙草を携帯の灰皿に押し付けると、敬礼をヘリやフライ機に向けて一礼し戻ってきた時に上官たちにネチネチ言われないように、事務所へと戻った。

「これからしばらくは業務はなしか」

 ヘリが飛び立つのを見送ると、バードフライ機が滑走路上空をプロペラ機特有のエンジン音を轟かせて俺の目先上を飛んでいった。これから訓練ということは、しばらくの間は飛行場の空域は飛行制限される。それでも精々二時間程度もない。

「奥田さん」

 窓越しにその光景を馬鹿みたいな表情で眺めていると、美友紀ちゃんが肩を叩いた。

「どうかしたの?」

「あの、しばらくは訓練で時間も空いちゃいましたから、お昼でもどうですか?」

 時間的にはまだ昼には少しあるが、バードフライが訓練を開始した以上、電話番程度しかないだろう。特に俺なんかは筋トレ程度しかすることが無い。

「今なら食堂も空いてるか」

「はいっ」

 明らかな給料泥棒行為だが、誰も今は俺を咎める者はいない。藤沢上官も香田先輩もいないんだ。今のうちにオアシスで一息つこう。

「腕はどうですか?」

「相変わらずだよ」

 特に何も変わっていない。腫れもまだ残っているし、痛みもある。だがそんな不恰好は見せたくはない。我慢できる範囲だから少々無理をしてもどうって事はない。

「あまり無理はしないで下さいね」

「大丈夫」

 近隣の常連も多い食堂。中には午後に備えて早めの昼食の整備士たちもいる。特に男の目が必ず俺を見ていくのは、少々痛い。美友紀ちゃんを独占というのが気に入らないのだろうな。別に俺はそういうつもりじゃないんだけどな。

「奥田さん、毎日大変じゃないですか?」

 そんな目を知ってか知らずか、美友紀ちゃんは周囲に目を向けることなく話題を色々と振ってくれる。話題の少ない俺をフォローしてくれる優しさは素直に受け取らせてもらおう。

「確かに。色々と制約はあるけど、悠、いや雨宮に色々と手助けはしてもらっているから、何とか大丈夫」

 その一方で本当に申し訳ないと思う。嫌な素振り所か、愚痴すら言わない。だからこそ、俺が息苦しさを感じることはある。昔から知っている奴だから、俺も強くは言えない。

「雨宮さん、きっと嫌だとか思ってないですよ。むしろ・・・・・・」

 美友紀ちゃんが何かを言おうとして、顔を上げた。その先には今のうちに軽く食事を済ませようと思ったのか、悠が食堂の入り口にいた。俺たちに気づいていないようで、他の整備士たちと手前のテーブルに腰を下ろしていた。

「やべ。そろそろ行かないと」

 何気なく時間を過ごしていたら、もう一時間近く経っていた。藤沢上官たちが戻ってくる前に、午後以降の便の気象情報収集をしておかなければ。

「美友紀ちゃん、ごめん。俺、先に戻るよ」

「へっ? あ、はい・・・・・・」

 残っていたお茶を一気に飲み干すと、足早に俺は事務所へと戻った。食堂を後にする時、悠と目が合い、特に深い意味はなかったが、無理はするなよとアイコンタクトを送っておいた。

「まだやってるんだな」

 事務所に戻り、気象庁から送られてくる気象情報を元に管制への情報整理していると、外からバードフライの練習音が幾重にも響いてくる。俺が本来いるはずのポジションも智史が見事にこなしている。見ていてやるなぁと感心もするが、やはりそこに自分がいないことに悔しさを感じずにはいられなかった。

 日本にはいくつかの曲芸飛行チームがあり、それぞれが多くの人々を魅了する演技をする。その中で代表なのは航空自衛隊第十一飛行隊のブルーインパルスだろう。自衛隊の広報任務を主とする精鋭集団だ。俺たちなんて足元にも及ばない。使用機種が違うこともあるが、あちらはプロ中のプロだ。俺たちは各自通常業務の仕事の傍らで、訓練を積んでいる。経験する飛行時間が違うため、技の良し悪しなんて見る前から分かりきっている。だが、それでも人々を魅了させる差はあっても、楽しんでもらうために飛ぶという気持ちは負ける気はしない。勝てる気もしないが。

「次はレインフォールの練習か」

 レインフォールとは技の一つで、会場正面をデルタ編成、つまりは四機で三角編成で進入し、ループで上昇し、真下を向いた状態でスモークをオンにして会場正面まで編隊を維持したまま降りてきて、大きく散開する。流石に本番前にならないと、スモークは出さないため、迫力はいまひとつかもしれないが、ジェット機とは違って、味があって良い。披露する側にしてみればGがきついけどな。

「さ、仕事仕事」

 何となく見る気になれず、背を向け仕事を再開した。外を見ないようにブラインドを下ろした。それでもエンジン音が俺の耳から離れることはなかった。

「お疲れ。今日は早く終わったみたいだな」

 一足早く仕事を切り上げて、悠が来るまでのんびりとベンチで一服していた。

「まだ残ってたけど、他の子たちにもう上がって良いって追い出されたわ」

 いつもより少々早めに来た悠は、どこか不完全燃焼という具合で、いまいち納得出来ないまま仕事を終わらされたらしい。そうさせられるほど、本人が気づいていないだけで、傍からは疲労しているように見えたのだろう。

「同僚の気遣いは素直に受け取っとけ」

 俺の言葉に、意味が分からないのか小首を傾げていた。

 車に乗り、いつも通り家に向かう。

「そういや、お前、この曲好きなのか?」

 仕事の話題を出すのは悠の表情を見て、やめた。だが、同じ職場で今は同じ家にいるとなると、仕事以外でなかなか話題がない。最近知り合ったのならともかく、もう十年近くも知り合っていると、本当に話題がない。黙っていても良いのだが、そういう雰囲気は感じなかった。運転している悠の横顔が、何か話すことない? と待っているように見えた。

「これ? そうね、最近は結構気に入ってるかも」

 ピアノ曲で、誰が作った曲なのか俺には分からない。ただ、流れるようなピアノの音色は、音のせせらぎとでも喩えようか。止むことのないその音色は聞いていて、すぅと心が静まりながらも、高揚するようなテンポが心地良く感じる。

「誰の曲?」

 ここ数日悠と出勤する時は、俺が知っている曲、それは恐らく誰でも知っているであろう名曲と呼ばれるものばかりだった。だが、昨日辺りからこの曲がかかっている。俺は聞いたことがないが、違和感は感じなかった。スッと春秋の空気のように体の中に入ってきた。

「ショパンよ。練習曲(エチュード)作品二十五、第一番、変イ長調、エオリアン・ハープよ」

「ショパン?」

 名前は聞いたことがあるが、どんな曲が代表曲だったか覚えていない。だから、曲名すら覚えられない。ダメだな、俺。聞けば分かる程度の知識しかない。

「どんなんが有名だっけ?」

練習曲(エチュード)作品十、第三番、ホ長調の別れの曲くらいは聞いたことあるでしょ?」

 そんな難しい言葉を言われてもピンと来るものがまるでない。悠が俺を見て、それもそうねと、何かを感じ取ったように今かかっていた曲を変えた。

「これよ。昔学校で聞いたことあるでしょ?」

 曲目が変わって、先ほどのよりも静かで悲しみを感じさせながらも、優しい美しさを感じさせるような曲に変わった。これは何回も聞いたことがあった。

「あぁこれが、ショパンか」

 曲名は知らずとも、聞けば納得するものが俺のクラシックを理解する方法だ。あまりそういうのが分からない俺には、きちんと理解を示す人からは嫌われるかもしれないが、俺はこれで良いと思っている。昔は貴族しか聞けなかったものだ。こうして気軽に聞ける時代になったのだから、人それぞれの鑑賞法で良いだろう。

「これも良いけど、最近はこっちのほうが良いのよね」

 そう言って悠が再びエオリアン・ハープに変えた。

「俺もこっちの方が好きだな」

 別に悠に合わせるわけじゃない。こっちの方が明るくて気持ちがちょうどいい感じに安らいで、高まる。体を音のシャワーが、穢れを落とすように流れるような感覚になる。俺が今まで聞いた中でも、圧倒的な音の連続だ。結局、帰宅する車中は何度も同じ曲の繰り返しだった。それでも飽きさせるどころか、家に着いても、俺の脳裏に焼きついたその曲は寝るまでどこかで鳴り止むことはなかった。

     

「いつまで寝てるのよ」

「・・・・・・んぁ?」

 シャッとカーテンが開かれ、眩しい朝陽が差し込んで眠気がゆっくりと爽やかな朝に消えていく。そんな目覚めだったら、すっきりと起きられるというのに、実際はまだ瑠璃色な空に朝陽だなんてものは差し込みするどころか、顔すら見えない。

「あんた準備に時間かかるんだから、いつまでもぐーたら寝てないの」

 声だけで起こすと、音が遠ざかっていく。まどろみの中でも悠が朝食の用意にでも戻ったのだろうと、予想がついた。数回の欠伸をした後、首を左右に動かす。良い感じに音が鳴ると、気分もすっきりしてくる。それでも忘れていた左腕の痛みが再発してくる。薬が切れるとやはり痛いな。

「おはよーっす」

 一通り顔を洗って髭を剃ると、着替えには時間がかかるため、ジャージでリビングに顔を出す。

「はい、おはよう」

 俺を子供のように軽くあしらうと、いつものように旅館の朝食のようなメニューを並べていく。お互いにラフな格好で、まだ髪も整えていない。

「お前、髪にウェーブなんてかけてたか?」

 最近ようやく右手でも箸が何とか扱えるようになり、四苦八苦しながらも何とか食せている。

「かけてないわよ。寝ていてついただけよ」

 寝癖かよ。それでも寝癖に見えないのは驚きだ。俺なんかボサボサだ。

「それよりも早く食べなさいよ」

 何だかんだ良いながら、悠は既に食後のお茶だ。俺なんか半分も食べていない。

「はいはい」

 先に化粧やらしていれば良いのに、待っているなんて物好きだなぁなどと思いながらも、急いだ。

「今日もこれか?」

 身支度を済ませ、先に診察へと向かう。その車内は昨日同様にショパンのエオリアン・ハープがかかっている。

「嫌?」

「いや、別に」

 聞いていて飽きないというか、違和感がない。何となく起きてからも思わずハミングしそうなくらい、聞く分には難しさを感じられなかった。

「もうすぐ着くわよ」

 なんだかんだで、病院に着くまで5回ほど繰り返して聞いた気がする。

「あーっ、お姉ちゃんにおじちゃんっ」

 時間までしばらく朝の連ドラを悠とのんびりと見ていると、小児病棟の入り口から久しぶりに見る少年がいた。

「はやとじゃんか」

 歩いてくるが、今にも駆け出しそうな表情だ。こちらに向かって楽しげに何度も俺たちを呼んでいる。

「おはよう、はやとくん」

 見慣れたニット帽とパジャマ姿で、朝の散歩をしていたようだ。

「久しぶりだな。元気してたか?」

 病人に対してその挨拶はどうかと思いながらも、はやとの元気な姿を見るとそう言いたくなる。

「きのうまでねてた」

 はやとはあっけらかんとした表情で、そう言った。

「具合、悪かったのか?」

 俺の問いに、うんっと元気に頷く。ここは病院だから寝ていたということは、単に寝ていたわけじゃないのだろうと言うことは、俺にも悠にもすぐに理解出来たが、はやとはいつものことだと、気にする様子を見せないので、俺たちも顔を見合わせたが、それ以上はやとに聞くことはしなかった。

「おじちゃん、まだ治らないの?」

 俺たちの前の椅子にこちらに乗り出すように振り返りながら、色々と話しかけてくる。

「そんなすぐにはなぁ・・・・・・」

 骨折がすぐに治るなら、俺はここには来ない。はやとにはここが自分の家の感覚なのか、それとも自分のことをきちんと理解しているのか、入院していないのに何度も足を運ぶことが不思議に思うことのようだ。

「そっかぁ、じゃあぼくのへや来る?」

 いきなりはやとが自分の部屋に来ないかと誘ってきた。思わず目を見開いた。

「いきなりどうしたの?」

 悠も困惑気味ではやとの顔を見ていた。

「だってここにいてもひまでしょ?」

「いや、暇ってわけじゃないんだけどな」

 俺の言葉に、そうなの? とはやとが首を傾げている。それに悠が理由を説明していた。

「そっか。お姉ちゃんたち、ずっとここにいるわけじゃないんだ・・・・・・」

 この後仕事があることを聞いて、はやとの表情が少しふさぎこんでいた。良心が痛むが、ただでさえ仕事に遅れているのだ。これ以上遅れることは、俺はともかく悠に負担を与えてしまう。

「今日は無理だけど、明日は行っても良いかな?」

 悠が微笑を浮かべてはやとを見た。悠は明日、仕事は休みだ。俺はいつものように雑用が入っている。折角の休みだというのに、良いのだろうか。

「うんっ」

 悠の申し出に、はやとの顔に眩しい太陽のような笑顔が浮かんだ。それを傍から見ていた俺には、悠には失礼だったかもしれないが、仲の良い親子に見えた。お互いの笑顔には温もりが満ちているようだった。

「じゃあな、はやと。またな」

「うんっ、おじちゃんもね」

 何故俺のことはおじさん呼ばわりなのだろうか。そんなに年には見えないと思っているんだけどな。ニット帽を軽く右手でクシャっと撫でると、嬉しそうにはやとが笑った。病院という少々特殊な環境下での暮らしには、こういう笑顔があるだけで、患者も医療従事者も和めるものだと感じた。

「はやと君、またね」

 普段は人には見せないような優しい笑みで、悠もはやとの目線に合わせて腰を下ろし、はやとが約束っと差し出した右手の小さな小指に自分の指を絡めて、指きりげんまんと歌っていた。

 診察を済ませ、病院を後にするまではやとは楽しそうに俺や悠の後をついて回っていた。朝から賑わう院内に、はやとのような小児病棟から遊びに来た子供の姿がちらほら見受けられた。はやとのようにひょうひょうと入院生活を楽しんでいるように見せる子もいるが、それはきっといつか、家に帰って学校へ行き、みんなと遊んで勉強するんだと頭の中で思い描いているからなのだろうなと、漠然と俺の中に浮かんだ。

「それじゃ、行くわよ」

「ああ」

 病院を後にして仕事へ向かう。駐車場から国道に出る際は、病院の正面ゲートを通る。自然と病院の入り口が視界に入ると、つい中を見てしまう。

『あっ・・・・・・』

 そんな声が聞こえたような気がした。悠は既に運転するために前を向いていたが、俺にははっきり見えた。入り口の自動ドアがすぐ横にあるのに、そこから出ることを許されず、隣の大きな窓にへばりつく様に、こちらを見て小さな口がそう開いていた。瞬間俺の中で何かが全身を締め付けた。それを悟られないように、右手を上げるとそれがはやとに届いたかどうかは分からないが、気が楽になった気がした。

 車内は『エオリアン・ハープ』の次の収録されていた『別れの曲』がかかった。それが一層俺の気持ちを締め付けたのかもしれない。

「はやと君、いたの?」

「・・・・・・ああ」

 自分が骨折くらいでクヨクヨしているのが、今度は本当に情けなく思った。

「あんたも早く治しなさいとね」

 それを見透かした悠が、俺に横顔を見せながらハンドルを切って、病院がスーパーの影に消えた。

「そうだな・・・・・・」

 仕事を始めても、いつものように情報の整理や掃除、来場したお客の相手など、もはや自分がパイロットだということを忘れたようなものばかりだったが、今日はいつにもましてやる気だった。些細なことでも良いから何かしていないと落ち着かない気分だった。

「奥田、それ終わったらこっちも頼んだぞ」

「はい、分かりました」

 いつもなら、ふてくされ気味な俺の返事に、叱りを飛ばしてくる藤沢上官も今日は戸惑い気味に見えた。無理もないかもしれない。上官だけじゃなく、香田先輩も智史も美友紀ちゃんまでもどこか俺に接する態度がおかしかった。

「おいおい、一体どういう風の吹き回しだ?」

 一息入れていると、智史が業務を終えて休憩に来た。

「何が?」

「お前、今日なんか変だぞ? いつにも増して仕事への取り組みが良いじゃねぇか」

 胸ポケットから煙草を取りだし、火をつける。俺は既にコーヒー片手に一息入れていた。

「たまにはこんな日もあるんだよ」

 大きく煙草を吸うと、窓の向こうに滑走路を飛び立ったばかりの航空機に狙いを定めるように、吐き出した。

「らしくねぇな。あれだけ雑用を嫌ってた奴が、淡々と仕事をこなすなんてよ」

 余計なお世話だ。口にはしないで、もう一度煙草を吸った。面白いことを見つけたような顔で智史が俺を覗き込んでくるが、無視しておいた。

「昼からはフライの訓練だろ? 先輩があそこで待ってるぞ」

 俺が固定された肘で窓をさすと、その先には一人フライ機の調整を行っている香田先輩がいた。それを見た智史が焦った顔で煙草をもみ消してコーヒーを一気に飲み干して駆けていった。

「しっかりしてくれよな。俺のフルート、乗せてやってるんだからよ」

 俺も早々に休憩を切り上げると、航空祭の打ち合わせのための書類のコピーに向かった。外からは一日中絶えることなく航空機の俺を誘惑させるようなエンジン音が絶えることはなかった。

「俺も早くこれを治さないとな」

 一週間を超えると腕の痛みもそれほどじゃない。寝起きが辛い程度で、後は相変わらずの一定の安定した軽い痛みくらいだ。おかげで悠にも僅かだが余裕を見せられるのだが、なかなか上手くいかず空回りばかりだ。風呂に入ればビニールの中に湯が入り、ギプスが濡れ、食事中にも赤子のように丸いものや滑るものはなかなか掴めず、落としてしまう。寝返りを打って思わず左腕を無意識に踏んでしまい、痛みで叫び声に近い何とも言えない声で深夜に起こしてしまうこともしばしばだ。着替えも上着そうだが、下も履きにくいし、靴下もそうだ。介護させてばかりな気がする。仕事中は極力、人の手助けは受けないようにしているが、俺でも遠慮するくらいの気を使われることは多い。気持ちは嬉しいが、重荷に感じてしまうこともある。少し前みたく、気を使うことなくじゃれ合う様に仕事をしている頃が懐かしかった。

「奥田、資料持ってきてくれ」

「はい」

 自嘲感傷に浸るは性じゃない。気合を入れるように深呼吸を二回すると、先ほどコピーした書類を持っていった。

「お疲れ様です」

 控え室へとすれ違う帰航の途に就いたパイロットたちに一礼して、俺は午後の休憩に今日はベンチな気分だったため、食堂で少々焦げたみたらし団子を二本買い、ベンチへと向かった。

「何か頭から離れないなぁ」

 団子片手に思い浮かんでくるのは、エオリアン・ハープの曲の音に乗って、はやとの表情が浮かんできた。俺は自慢じゃないが病院なんてこの骨折が初めて世話になったようなものだ。だから余計にはやとの病院暮らしと言うものが気がかりになるかもしれない。はやと本人は楽しそうにしていたし、入院経験のある悠も俺ほどじゃないが気にしてはいるが、それもただの楽観に見える。

「何が離れないの?」

 ベンチの背もたれに身を預け、団子を一つもぐもぐと噛みながら空を見上げていると飛行場の方から悠の声がした。

「いや、大したことじゃないさ」

 悠も休憩だろうか、二つほどパンと飲み物を持っていた。自然と俺はベンチを少しずらして、そこに悠も当たり前のように腰を下ろしてきた。

「はやと君?」

 核心を突いてくるよな、悠は。

「私が明日休みだから、お見舞いがてら見てくるわよ」

「そうだな、頼んだ」

 俺が気にしたところで仕方がないのかもしれないが、あの表情はやはり見ていて気の良いものじゃなかった。仕事を抜けるわけにもいかないため、明日休みの悠に任せることにしよう。

「あんたも珍しいわね」

 惣菜パンを口にしながら、俺のことを意外そうに言う悠。その言いたいことは分からないでもないのだが。

「別に。ただちょっとばかし気になっただけだ」

 そう、と軽く悠は言うと食事に戻った。

「なぁ、悠」

 二串目の団子を食べながら。もう一つ気になっていたことを聞いた。

「いつでも良いんだけどさ、ショパンのあれ、MDに入れといてくれね?」

 仕事しながらもエオリアン・ハープが耳から離れなかった。特に何かというようなものはないのだが、テンポが良く仕事していると、そのテンポに同調するように仕事をこなす速度が上がる。風のような音色が滔々(とうとう)と耳を波打ち、高音部の幻想的な装飾が絶えず聞こえることで、気分が平静する。

「良いわよ。気に入った?」

「聞きやすいんだよ」

 それを気に入ったと言うのだろうな。あれを聞きながらだと、スムーズに仕事が出来る気がする。別に事務所内は常に多くの人間が残っているわけじゃないから、音楽をかけても口うるさくは言われないだろう。テレビのつけっ放しもざらじゃないのだから。

「なんつーか、忙しくともその中でゆっくり出来るって言うか、な」

 言っててよく分からない。それに音楽のことなんてさっぱりだ。そのせいで上手く表現出来ない。というか言葉が見つからない。

「あんた知ってる? エオリアン・ハープには、牧童が近付いてくる嵐を避けて安全な洞窟に入って、遠くで雨や風が吹き荒んでいる中を、少年は静かに笛を取って雅やかな節を吹いている。ってショパンが『牧童の笛』と愛称しているのよ。ちなみにエオリアン・ハープはシューマンの言葉なのよ」

 悠って、やっぱ博学なんだな。関心した。元より悠の話がどういう意味なのかは理解出来ない。そんな難しい言葉を言われても、呆然と聞くのが落ちだが、それでも好きでやってるからという理由だけで、そこまで知っていることは感服する。

「ま、健介に言ったところで分からないわよね」

「そうだな、さっぱりだ」

 皮肉めいた言い方じゃない。悠は俺がどういう人間か分かっているから、フォローは言わない。俺も別にどう言われようが気にすることはない。

「帰ったら入れといてあげるわ」

 そう言うと、悠は一足先に仕事へ戻っていった。

「良く頑張るよなぁ」

 やる気のある悠を見ると、感心するが、いつもより余裕のなさを垣間見た気がする。

「無理が表に出ないと良いんだけどな」

 俺は少々気を抜きすぎているが、悠は少々気を張りすぎている。仕事は順調そうに見えるが、家に帰ってから俺には見せないようにしているようだが、俺とてそこまで気が回らないわけじゃないから、目にしてしまう。悠の深いため息を。そして自分ではこれまた隠しているのだろうが、見慣れた頭痛薬の開いた入れ物も見てしまった。

「馬鹿な奴だよな、相変わらず」

 そういう俺も相当な馬鹿だけどな。そんなことを考えながらも、今は限界というわけじゃないだろうから、しばらくは見過ごしてやろう。明日休みなんだし、ゆっくりできるだろう。

「奥田さん、やっぱり雨宮さんと・・・・・・・・・」

 事務所へと戻っていく健介を、二階の窓から偶然通りかかった美友紀がその一部始終を目撃していた。会話は届かなくとも長年連れ添ったような二人の距離は、一目で瞭然とするものだった。

「デキてるってか?」

「香田さん?」

 ショックに打ちひしがれているような美友紀に、香田がフライトスケジュール表を片手に通りかかった。

「前にも言ったが、あいつらは付き合いが長いからな」

「そうですよね・・・・・・」

 香田の前だと、他の人間とは違ってあたふたすることなく、素の自分を美友紀は出しているようだった。

「でもな、小野原」

「はい?」

 篤志は何か面白いことを仕出かそうとするような悪戯な顔をしていた。

「付き合いが長いからって、臆することはない」

「どうしてですか?」

 窓の外では、健介が一服を済ませ、所内に入っていった。ここを通るのも時間の問題かもしれない。

「逆に考えれば付き合いが長いと、そこから先に行くには今更になって、なかなか進まないこともある。時には互いのことを知りすぎているせいで、かえって先に進めないこともある」

 諦めるのはまだ早いぞ、と楽しげに言うと、香田はちょうど正面からやってきた健介の肩を軽く叩くと、何かを呟いてブリーフィング室へと消えていった。

「って俺は、何吹き込んでるんだか・・・・・・」

 室内に入って香田は自分のしたことに若干の後悔を抱いていた。それを健介はさっぱり状況が飲み込めないと首を傾げながら、美友紀のところへ歩いてきた。

「先輩、何かあった? 俺に変なこと言って行っちゃったけど」

「な、なんでもないですよっ、きっと」

 美友紀がそこで首を振った。香田が何を健介に言ったかは分からずとも、何となく香田の表情を見て予想できたのかもしれない。

「わ、私っ、受付に戻りますね」

「へ? あ、ああ」

 何やら逃げるような足取りで一回の受付へと駆ける美友紀にまたしても健介は取り残された。

「二兎を追う者って、何のことだ?」

 健介は香田とすれ違う際、そう言われた。ついでに羨ましいぞ、この野郎とも言われ、何のことだか全く分からないようで、しばらく二人が消えてった方を見つめたままだった。

     

「雨宮さん、大浪総括長が呼んでますよ」

「分かりました、すぐ行きます」

 飛行場には大まかには整備員、飛行管理員、救命装備員、補給員、総務員、管制官とパイロットに事務員がにいる。その中で機付長とは、日々機体の状態変化を敏感につかんでトラブルを未然に防ぎ、さらには機体の清掃から各機体の癖を熟知し、パイロットの指摘に完璧に応える整備員のリーダーで、悠もその一人で、大浪は整備全体を纏める総括長であり、悠の直属の上司だ。

「呼びましたか?」

「雨宮、お前しばらく藤沢のヘリの整備から、こいつの整備に代わってくれ」

 そう言って指差した方には健介の愛機su-26のフルートがあった。バードフライ機には基本的に三人一組で一機に整備士が配置される。

「それは構いませんが、でもヘリの方は?」

「それなら配置換えで他の奴が入った」

 悠は従順だったが、一つ疑問に思ったことがあった。

「総括長、不満というわけではないのですが、少し軽くはないですか?」

 大浪は悠に専属でバードフライ機の整備に当たるように命じたが、専属となると、業務用の航空機の整備に比べて少々時間が余る。バードフライ機の整備は他とは違って、訓練が一日でも僅かのため、その間時間が空いてしまう。ここ最近朝から仕事詰めで、そのリズムが出来ている悠には物足りなさを感じて仕方がないようであった。

「不満か?」

 大浪は、普段は温厚だが、仕事となる一種の職人として厳しさを伴わせる雰囲気を放つ。その威厳は総括長に相応しいものを感じさせるが、物怖じというものを普段から感じさせない悠には、あまり意味がないようだ。

「いきなり変わると、取次ぎ分の仕事が少々手こずるかと思うのですが」

「お前なら大丈夫じゃないのか?」

 悠としては今残っているヘリの整備をきちんと終わらせてから次の仕事に行きたいと思っているようだが、大浪は首を縦には振らなかった。

「分かりました」

 少々不満げな声だったが、腕が確かな上司だけに悠は従い、バードフライ機専用のドッグへと歩いていった。

「やはり無理しているように見えたか?」

「そうだな。雨宮は表情に出さないからな。なかなか見抜けん」

 悠の背を大浪総括長と藤沢上官が苦笑しながら見送っていた。

「それにしても、お前から頼んでくるとは思ってなかったぞ」

「奥田の馬鹿が仕事しながら、余所見して仕事が疎かでかなわんからな」

 年齢の近い二人は親友のようなプライベートと仕事の相棒といった感じの付き合いであった。

「しっかりしてるじゃないか」

「その目を仕事に向けて欲しいもんだ」

 大波が、健介が良く悠を見ているなと笑うと、藤沢が馬鹿な奴のお守りは大変だ、とため息をついた。

「そういう部下をきちんと見るお前も同じじゃないのか?」

「馬鹿言うな」

 からかう大浪に、照れたように自機へと向かう藤沢。その目は厳しくともどこか夢を忘れない少年のような光があった。

「おい、大浪。整備帳貸せ。俺がもう一度再チェックしてやる」

「たわけ。パイロットごときが整備をなめるなよ」

やはり子供なのかもしれない。傍から見ている彼らの部下は、その光景に普段は自分たちに激を飛ばす厳しい二人だが、その二人が子供のようにやり合うのを見て、言葉を失っていた。


「ふぅ、疲れたな」

 やはり無理して仕事をしなければ良かった。張り切りすぎてどっと疲れた。時計を見ても、もうそろそろ悠も終わる頃だろう。片づけを済ませてそろそろ車のところへ向かおう。

「奥田、終わったのか?」

「はい、お疲れ様です」

 先に仕事を終えた上官が帰宅の支度を終えていた。

「腕はどうだ?」

 珍しく上官が俺のことを心配してきた。

「相変わらずです。腫れは収まりましたが、薬無いと痛みますね」

 そうか、と短く頷くと、明日は遅れるなよと言い残し、帰っていった。

「あれ? それだけ?」

 思わずその背に呟いてしまった。もう少し何か労いや励ましでもあるのかと思ったんだけどな。ちょっと拍子抜けしてしまった。

「健介、藤沢さんに心配されるたぁ、良かったな」

 そんな俺の首に腕を巻きつけてきたのは香田先輩だった。先輩はまだ夜間の飛行が残っているから、これから夕飯らしい。

「あれを心配とは言わないでしょう?」

「何言ってやがる。そうかって頷いただろ? それだけ安心したってことだ。可愛がられてるぞ、お前」

 ヘッドロックを俺に食らわせながら、先輩はそのまま飯行くぞ、とそのまま連れて行かされた。

「健介、お前雨宮と暮らしてんだろ? どうだ?」

 食堂に着くと、既に悠との待ち合わせ時間は過ぎていたが、まだ来ないようなので、一応メールを入れておいて先輩の奢りで、夕飯にすることになった。何だかんだで先輩は気前が良い。今まで一度たりとも俺は先輩と飯に言っても一銭も払った例がない。

「どうだって何がですか?」

 今日もいつものように箸を使わないで済むパスタで俺は済ませている。先輩はガッツリ系の焼肉丼だ。正直その香りに惹かれるものがあるが、スプーンで食べれないためなかなか最近は手が出せない。

「何がって、ヤッたのか?」

 思わずムせた。食事中に話題にするものじゃないだろう。そういうところも先輩らしいのだが。

「んなわけ無いじゃないですかっ」

 全く、この人は一体どういう目で俺を見ているのだか。周囲のほかの夜間組みのスタッフたちの話題は、至極まともなものだと言うのに。

「何だよ。折角ヒモになってるってのに、何もしてねぇのか」

 そこでがっかりされる筋合いはない。というか、そんな期待した目で俺を見ないで欲しい。

「俺はヒモじゃありません。ちゃんと働いてます」

「あーあ、つまんねぇの」

 先輩はふてくされたように焼肉丼をかきこんだ。

「つまらなくて結構です。先輩は何か勘違いしてません?」

「付き合ってんだろ?」

「付き合ってません」

「隠すなって」

「隠すも何も事実です」

 やっぱり先輩は盛大な勘違いをしているな。俺と悠はそんな関係じゃない。

「中学からの馴染みだろ?」

「そうですよ」

 中学以来腐れ縁なのか、お互いの夢がたまたま同じだったのか、こうして同じ職場に居る。

「なのに、今同居してる」

「骨折のせいで生活に支障が出るから居候させてもらってるんです」

 俺の言葉に先輩は興味なさげに、ふーんと鼻で頷いた。

「健介、普通はよ、骨折したからって誰かに面倒看てもらうか?」

 お茶を啜り、たくあんをバリボリと音を立てながら噛みつつ俺に箸を向けてくる。

「多少の支障は出るし否めないだろう。だがよ、それなら普通は実家か男のとこにでも転がり込むのが筋だろ? 良い大人なんだからよ」

「そうですか?」

 俺は特に意識したつもりはない。第一、俺の冗談から今の生活になったんだから、本当に何もしていない。意識してしまうことも無きにしもあらずだが。 

「そうだろ。格好つけて意地でも一人で暮らすか、智史のとこや俺にでも言ってくるのが普通だと思うぞ?」

 考えたことはなかった。悠もそんなことを気にかけた様子を見せないから、そのまま今日を迎えている。

「しょーべん臭いのガキじゃないんだ。一つ屋根の下で男女が恋人でもないのに暮らすか?」

 先輩の苦笑に改めて考えたが、そういうものかと思ってしまった。

「お前が意識してないだけで、雨宮は逆に気を使ってそう振り撒いているだけかもしれないだろ?」

「そうは見えないんですけどね」

 どちらかと言えば悠の方が、こっちが恥ずかしくなるようなことをしている気がする。風呂場で出会わせても気にした素振りは見せず、俺のほうが目のやり場に困ってしまうほどだ。

「そう思っているのはお前だけかも知れんぞ」

 そう言われると、家に帰ってから気になってしまう。

「先輩、仕向けようとしてません?」

 何となく俺にそう差し向けようとしているような気がする。いつもよりしつこく俺にそんな話題を持ち出すのだから。

「何言ってる。俺がそんなことするはずないだろ」

 そう言いながら、顔は丼に言ってる。信じるなと言っているようにしか見えない。

「ところで先輩。昼間言ってたことって何すか?」

 俺の耳に呟くように言ったこと。俺は誰も追ってはいないのに、あんなことわざを呟いた。

「二兎のことか?」

 俺が話題を変えると、先輩は先ほどのことを引きずることなくついてくる。

「いきなり囁いて仕事に戻られても意味が分かりませんよ」

 別に今まで気にしていたわけじゃないが、ふと思い出した。俺に囁く前に美友紀ちゃんと何か話していたみたいだが、それと関係があるのかは不明だ。

「お前、小野原狙ってるのか?」

「は?」

 唐突に不可解なことを言われた。俺が美友紀ちゃんを狙っている? 確かに美友紀ちゃんは可愛いとは思うが、狙ったことは一度も無いし、そんな素振りを見せたこともない。

「雨宮と暮らしながら、小野原を狙う。まさに二兎を追う者じゃないか」

「そういうことですか・・・・・・」

 どういうことかと思えば、話は結局振り出しに戻るようなものじゃないか。どうりで先輩の引き際が良かったわけだ。

「俺は別に美友紀ちゃんを狙ってはいませんよ」

「そうなのか?」

「後輩としては良い子ですが、俺はそのつもりはないですよ」

 苦笑するしかなかった。そういう風に見られていたとは。確かに美友紀ちゃんを狙う奴は多い。仕事場が違う整備班の連中にも結構いるらしいしな。

「じゃ、俺が狙っても良いのか?」

「良いも何も、何で俺の許可が要るんですか」

 俺は美友紀ちゃんの何でもないのに。

「じゃあ、やっぱ雨宮狙いか?」

「え? あ、いや、そういうわけじゃ・・・・・・」

 言葉に詰まってしまった。狙っていないと言えばそうだし、狙ってると言えば、悠はそれほどいやな女じゃない。俺とも気の合うところはあるし、狙うには良いと思う。でも、そう一歩踏み込むということに抵抗があるのも確かだ。今更な気もするし、折角今面倒を看てもらっているのに、そういう事を言い出すのも気が引ける。

「お前はそっちか」

 どっちのことですか、という問いは口にしなかった。どうせ予想はつく。

「まぁ、雨宮は少々愛想が無いが、気遣いは出来る奴だからな。俺の聞いた話じゃ、狙ってる男は小野原と二分しているとかいないとかだとよ」

 飛行場に勤務してる者の中で先輩を知らない者はいないため、その話は信憑性はあるかもしれない。

「そんなに人を揺さぶりたいんですか・・・・・・」

 聞いていて、少しばかり引っかかるものを感じたが、それでも俺には関係ない。

「別にそんなつもりじゃないぞ。ほれ、噂をしてみれば」

 先輩が顎で食堂の入り口を指す。振り返ってみると仕事を終えた悠の姿があった。ここで待ち合わせと言うことにしておいたから、ちょうど今来たところなのだろう。

「俺の話、間違いじゃないみたいだな?」

「そう、なんですかね?」

 先輩は自分で話を振っておきながらその真意は意識していなかったようで、悠が他の整備の男たちと来たことに意外そうに見ていた。

「雨宮さん、今日は俺がおごりますよ」

 そんな声が幾つも聞こえた。少なくとも四人と悠は食堂に来て、何やら男たちは会話で盛り上がっている。

「雨宮、ここ開いてるぞー」

 他の男の相手に半ばうんざりしているような悠に、見かねた先輩が声を上げた。一斉に声の主にあちこちから視線が向けられ、思わず身が竦みそうになったが、先輩はそんなものを気にした様子を見せることなく、揚々と自分の隣を指差した。ちょうど俺と目が合うと、何かを一緒に来た連中に声をかけると、簡単なメニューでも頼んだようで、受け取ると男たちを置き去りにして俺たちのところへ来た。

「すみません、ありがとうございます」

 俺の斜め前に腰を下ろすとようやく一息つけたようで、小さなため息を漏らしていた。

「気にするな。空いてるしな」

 なっ? と俺に同意を求めてくる。俺は別にそのつもりは無かったから、曖昧ながらも先輩の手前、頷いておいた。

「それにしても健介、あんたまたそれ? 栄養偏るわよ?」

 席に着いて早々、悠は俺の夕食を注意してくる。

「食いやすいから良いんだよ。ただでさえ箸は時間かかるんだから」

「本当はこれ食いたかったんだろ?」

 先輩が自分の焼肉丼を指す。そうですよ。俺だってがっつり系が本当は食べたいんですよ、と心の中で先輩の焼肉丼を食べたつもりに感じていた。

「箸が上手く使えるようになればいくらでも作ってあげるわよ」

 まるで子供を諭す母親のように、呆れながらも可笑しそうに自分の食事に手をつけていた。

「それにしても、雨宮は人気あるな」

 先輩が周囲に聞き耳を立てるように座ってる男たちに向かって、声をかける。悠に言っている言葉にも関わらず、向き所は男たちだ。

「はっきりしないのに、グダグダされても疲れるだけですよ」

 本当に疲れているのだろう。表情から良く分かる。もともと遠まわしなことはあまり言わないから、その言葉に嘘はないのだろう。

「小野原と人気を二分しているんだ。もっと鼻高々で良いんじゃないのか?」

「そういうので付き合っても何も良いこと無いですよ」

 先輩の言葉をさらりと受け流す悠。それに先輩が、格好良いな雨宮は、と笑っていた。

「ま、こんなならお前も安泰って訳か」

 先輩が俺に笑うと、残りの焼肉丼をかきこんだ。俺は噴出しそうになるのを押さえ、悠は何のこと? と首を傾げていた。

「じゃあな、お二人方」

 俺と悠はあがりだが、先輩はこれから飛行が入っている。食事を済ませると先輩は一人事務所へと戻っていった。

「健介帰るわよ」

「ああ」

 食事を済ませると、俺たちはそのまま帰路に就いた。先輩の言葉が車中、忘れていたのに甦りちょっとばかし変に意識してしまったが、悠が腕痛むの? と気にかけたので、そういうことにしておいて何とかやり過ごした。

「悠、お前明日休みだろ?」

「そうだけど、何?」

 家に帰ると先に風呂をもらい、しばらくリビングでテレビを見ていると、悠も風呂から上がってきたので、明日のことを言うことにした。

「明日俺、行きはバスで行くよ。帰りは先輩に乗せてもらうから、送り迎えはいらないから」

 折角の休みなんだ。俺がここへ来て以来、もうすぐ一月が経とうとするが、悠はあまり休みが無かった。休日も俺のことやらで忙しく、それが負担になっているせいか、本人が気がついていないところで上官たちも配慮しているのを、間接的だが俺も聞いた。規則正しい生活を一見送っている悠だが、俺からすれば飛行場の仕事は、特に整備はハードだ。パイロットも忙しいが、整備士は飛行前と飛行後にも体力を使う。元々体力のある男はさておき、悠は女性だ。差別認識になるから強くは言わないが、悠は一般の女性に比べて少々体が未だに弱い。季節の変わり目には体調を崩すことは、今までに何度も目にしている。

「お金勿体ないわよ。なに気遣ってるのよ」

 俺の申し出を拒否する。こういう所で我が強くなるというか、元々我が強いが俺に対しては特に頑なになる。

「バス代くらいなら千円ちょいだ。気になるような額じゃない」

 別に診察も入っていないし、早めに出ればバスで十分間にあう。疲れている奴に世話をかけさせるほど、俺は落ちぶれちゃいない。これ以上こいつに負担をかければ、きっと確実に倒れる。人のことは気にかけるくせに、自分のことは手遅れの一歩前にならなければ気づかない奴だ。

「勿体ないでしょ。一食浮くじゃない。それにあんた一人で起きれないでしょ?」

 随分な言われようだな。俺はそこまでダメな奴じゃない。ちょっと前は一人暮らしの余裕が悠の家に来て余計に緩んだだけで、今は元の生活ペースも戻ってきている。

「携帯のアラームで十分だって。朝飯はコンビニで買っていくから、寝てろって」

 テレビからはバラエティー番組の笑い声やらがリビングにこだましている。ソファに身を任せて見るのは至福に感じる。悠は自室でドライヤーでもかけているようで、乾いた風を起こす機械音が右耳から聞こえてくる。フレグランスか風呂上りだからか優しい香りが部屋に満ちて、体だけでなく心も安らぐ。腕の痛みも大分落ち着いているからストレスも緩和されているんだろう。

「怪我人が遠慮しない。送り迎えくらいしてあげるわよ」

 呆れたような口調でドライヤーの音に負けない声量で譲ろうとしない。

「悠、お前明日は、はやとの所行くんだろ? 俺のことは良いから見舞い品でも空いた時間に買いに行けよ」

 そうすれば睡眠時間も大分確保できるだろう。俺は雑用なんだから睡眠時間が少なくなろうが、空いた時間に昼寝くらいは幾らでも出来る。その後の事は考えるだけでも気が滅入るが。

「それはお昼頃に行くから、朝は気にしなくて良いわよ」

 善意だとは分かっている。悠は悪気無く俺に言っているのだろうが、そこまで頑なに言われると、善意が善意で感じられなくなる。こうなったらお互い引かない性格のため、無益な言い争いになることがある。

「分かったよ。それじゃ頼みます」

「始めからそう言いなさいよね」

 たかだか送り迎えの押し問答で、大敗を喫した気分がする。引き際を見極めたつもりだが、悠にしてみれば我が侭な子供を相手にしただけにしか思っていないようだ。

 そのまましばらくテレビでその日のニュースを無想に見つめ、明日に備えて早々に自室へと戻った。

「明日は少し早めにするか」

 先ほど悠に明日も送りを頼んだというか、頼まざるを得なかったが、やはり俺としては久しぶりの休日はゆっくりとリフレッシュに当ててもらいたい。薄化粧で隠していたが、隈もはっきりと見えた。疲れすぎなのか、他の何かであまり睡眠も深く取れていないのだろう。悠には申し訳ないが、明日は早めに静かに家を出よう。身支度は二十四時間サウナででも立ち寄って整えれば良いし、最悪飛行場内の宿舎のシャワールームでも借りれば万事オッケーだ。

「寝るかぁ」

 腕を庇いつつ大の字にベッドに横になる。今日は無意味に張り切ったせいか、すぐに眠気が襲ってきた。そのまどろみの中に微かにエオリアン・ハープの音色が俺を別世界へと誘うしるべのように聞こえた気がしたが、その記憶もすぐに途切れた。

遠くから俺をまどろみの世界から強く引き寄せる音がする。それは心地良いものじゃない。ユメウツツな何事にも変えがたい優しく穏やかな波の間に間に漂い、暖かい日差しを体全体に浴びる南国の海で波の音と風の音、透き通る蒼とどこまでも高く大きく広がる白の世界に一人静かに浮かぶ俺を、都会の喧騒に連れ込みビルのエアコンや車の排気で汚れた世界へ放り出すかのような不快音感。

「うぅーん・・・・・・」

 背泳ぎでもするように右手を天上に掲げると、力が入らずにそのまま頭上へと引力に引き寄せられる。九〇度から〇度までの間に勢いのついた俺の手が、途中三〇度の所で硬い物を捉える。それが俺を現実へと引き戻すものだと理解するのにしばし時間を要する。けたたましいアラームだとようやく認識すると、それを止めるサイドキーの場所を腕だけ別の生き物になったように勝手に動く。

「ふぁぁ〜・・・・・・、あー・・・・・・」

 心地良かった世界から一変した現実へ引き戻されると、どこかの映画に出てきそうなゾンビのように意識が朦朧とする。携帯を寝惚け眼の状態で見ると、

「げっ! 九時!」

 携帯のサブディスプレイに表示された時間は九時五分。昨日の記憶が正しければ四時にアラームをセットしていたはず。五時間も寝過ごしたとはあっては、先ほどのまどろみなどどこへやらといった感じで眠気は一気に吹き飛び、嫌な寒気が背筋を走った。

「あれ・・・・・・?」

 思わず叫びそうになったが、ふと疑問が浮かんだ。まだ頭が回転していないのかもしれないが、こんなに寝過ごしたら一人暮らしではないのだから悠が俺を叩き起こすはず。それが無い。しかもまだ部屋が暗い。少しずつ覚醒を始めた頭でもう一度携帯を見ると、力が一気に抜けた。

「何だよ、逆じゃんか」

 寝惚けていたせいで時計を逆に見ていた。良く見れば四時四十五分だ。ほっとすると頭の回転も平静も取り戻してくる。

「はぁ、焦ったぁ」

 誰にも見られなくて良かった。この歳になって情けないくらい焦った気がする。今の失態を悠に見られたら、何とも言えない羞恥を味わうな。

「寝惚けとはいえ、馬鹿丸出しだったわよ」

「っ・・・・・・!」

 部屋の入り口で、寝巻きにしているラフな格好で俺のことを見て今にも噴出しそうな顔で見ている悠がいた。

「今日は早いのね。いつもより一時間は起きるには余裕があるわよ?」

 含み顔で、唖然とする健介を眠れなかったの? と見る悠。健介は自分の醜態を丸々見られていたことを忘れるかのようにしばし呆然としていた。

「まだ朝ごはん出来てないから、もう少し寝てて良いわよ」

 それだけ言い残すと、悠はキッチンの方へと部屋を後にした。

「・・・・・・なんで起きてんだよ」

 本来ならこのまま静かに身支度を整えて、バスがない分タクシーでも呼んでサウナで時間を潰してから出勤しようと密かに考えていた計画が、既にどこかからか漏洩していたのか、悠は既に朝食の支度に取り掛かっていた。何だかすること考えることが全て 悠の手の上で踊らされている気分だ。今更取り繕うつもりはない。諦めて従うほか無いだろう。

 ベッドから重い腰を上げて、背伸びしながら欠伸を漏らすと首を左右に曲げつつ洗面所へと向かった。

「あんたが私を出し抜くのはまだまだ無理よ」

 そんな声が聞こえた気がしたが、魚を焼いている音でよく聞こえなかった。

「じゃあ、はやとによろしくな」

 いつもより一時間も早く目が覚めたせいで、家にいてもすることが無いということで少々早く出勤した。たまの休みにも関わらず、わざわざ飛行場まで送ってくれた悠にこの後はやとの見舞いに行くということで、よろしく頼んで別れた。

「おはよう」

 いつもより小一時間ばかり早い出勤だが、それでも既に早朝の飛行の入っているパイロットや整備士たちの半数は仕事を始めていた。どこかの業者の車も来ているから、早速業務手続も始まっているのだろう。

「あっ、奥田さんおはようございます」

 事務所に入ると、先ほどの車の業者の方だろうか、受付で手続きの申請を行っていた。軽く挨拶を済ませると、邪魔にならないように奥へと急いだ。

「健介、お前今日は早いんだな」

 デスクで今日の雑用もとい、仕事用の書類を分けていると、智史が俺の後から来た。

「早く目が覚めたんだ」

 コーヒーを入れ、自分の予定表の確認をしながら俺の正面の自分のデスクに腰を下ろす。既にエンジンの入った航空機の音が響いてくるが、聞き慣れた古い音楽のようだ。

「智史、これかけてくれ」

 俺はカバンからMDと一枚取り出すと、智史に投げた。自分で掛けても良いが、智史の後ろにコンポが置いてある。普段はたまにラジオがかかる程度で、他は夜間組みが暇つぶしに音楽を掛ける程度で、その出番は少ない。

「何入れてんだ?」

「ショパン」

 俺の答えに智史がショパン〜? と微妙な顔を見せたが、とりあえず多少の興味からかコンポにセットした。昨日悠に頼んでいたエオリアン・ハープに、ついでだからと他の曲も色々入れていてくれたらしい。

「ほう、クラシックか。珍しいな、お前たちが聞くなんて」

 コンポからは俺も曲名は知らないがピアノ演奏が流れている。最初にかかっている曲は聞いたことがある。軽快な弾みで華やかさを演出させる曲。

「華麗なる大円舞曲か。朝には良い曲だな」

 思わず俺と智史は入り口の方を驚愕の表情で見つめた。

「何だ? 何アホ面かいてる?」

 俺と智史の視線が向く先には藤沢上官がいる。飛行場の近くに家族で暮らしている上官は、出勤してくる時間は早い。近いから多少の重役出勤も許されると思うのだが、頑固一徹な雰囲気を自分でも理解しているのか、朝は早い。

「藤沢上官、曲、知ってるんですか?」

 智史が物凄く意外そうに訊ねた。他にも十人ほどパイロットや事務員たちが仕事にかかっているが、どことなく曲のリズムに体が乗っているように見えた。

「当然だ。クラシックはよく聞くのでな」

 自分のデスクにカバンを置くと新人が入れたお茶に口をつけていた。

「てっきり演歌などかと・・・・・・」

 智史の言葉に俺も頷いた。どこからどう見てもクラシックを聞くような雰囲気は微塵も感じられない。むしろ、スナックでママと演歌やブルースでも熱唱している方がしっくりくるお人だ。

華麗なる大円舞曲の後に掛かったのは、上官曰く華麗なる円舞曲らしい。俺は曲名なんてエオリアン・ハープしか知らないし、昔吹奏楽部に入部していたという飛行管理員の女の子に智史が合っているか聞いたら、頷いたので上官の言葉は正しいようだ。しかもそれが変イ長調だとか言うが、俺には何がイ長調で変イ長調なのかすら理解しがたいことなので、そうなのだろうと思うことにした。あの人の口から嘘が出たことを聞いたことが無かったから。

「これは誰のだ?」

「俺です」

 上官がなかなか良い選曲してるなと、珍しく朝から俺に対して機嫌が良かった。黒鍵のエチュードとかいう、華麗なる大円舞曲よりも弾み良く、軽快なリズムで華麗なる明るさとでも言おうか、その曲がかかると藤沢上官が鼻歌を披露していた。いつもじゃありえない光景に俺と智史に限らず、仕事をしながらも戸惑う職員で、一種異様な仕事場になった。

「おはようございます」

 藤沢上官が朝の飛行準備に入り、事務所を後にするとあちこちから、あんな藤沢さん見たことないね、などと小声が漏れていた。そこにちょうど手続きを終えて、暇が出来たのか美友紀ちゃんが戻ってきた。男たちの一斉に美友紀ちゃんの挨拶に返事をする声が重なった。

「おはよう、小野原」

「あ、はい。おはようございます。いってらっしゃいませ、香田さん」

「おう」

 香田先輩が美友紀ちゃんと入れ替わりで運送業務へと出て行く。美友紀ちゃんは飛行へと出て行くパイロットには、店員のようにそう言う。戻ってくればお帰りなさいませと迎える。それが聞きたいがために、わざわざ美友紀ちゃんが事務所に戻るのを見計らう馬鹿な奴もいるが、今じゃ誰も気にしていない。それが当たり前のようになっている。香田先輩もナイスタイミングというか、ちょうど出くわしたからいつものように美友紀ちゃんも送り出し、先輩もおう、と軽く美友紀ちゃんの肩をポンと叩くとそのままドッグへと下りていった。

「あれ? 今日は音楽がかかっているんですね」

 さっきまではかかってなかったのに、と美友紀ちゃんも意外そうにその音色に気がついた。テレビのニュースも奥のほうで聞こえているが、所内には悠の選曲した朝にはちょうど良い明るい曲が絶えることなくかかっていた。

「エオリアン・ハープですね、これ」

 連絡掲示板に今日の遊覧観光で来訪予定のお客の割り当てやらをチェックやらをしながら、黒鍵のエチュードの次に入っていたエオリアン・ハープに美友紀ちゃんが反応した。

先ほどまでは軽快なリズムにアップテンポ調の華美で派手な曲調から、優雅で華麗な落ち着いた曲に変わったことで、少々高ぶった気持ちを落ち着かせているような人影が見られた。

「美友紀ちゃんもクラシック聴くんだ?」

 智史が美友紀ちゃんならクラシックが似合う似合うと、一人で何かに納得していた。藤沢上官に比べて美友紀ちゃんの方がそういう知識はあるように思える。十人中九人以上はそう思うのではないだろうかとさえも思えてしまう。

「あ、いえ。妹が今度ピアノコンクールで弾くらしくて、よく家でも練習してたんです」

 だから知識とかは全然、と恥ずかしそうに手を振っていた。

「またまたぁ、そんなに謙遜しなさんな。俺たちなんか曲名はともかく、作曲家すら知らねぇんだから」

 なぁ、と智史が俺に同意を求めてくる。拒否したいところだが、俺も悠に教わるまではどこかで聞いたことがある曲しか浮かんでこない。渋々ながら智史の同意に乗った。

「でも、これって誰が持ってきたんですか?」

「こいつだよ、こいつ。柄にも無いことしやがって。この暇人が。仕事しろ、仕事」

 智史が飴玉を投げつけてきた。何もしてないお前と違ってちゃんと書類の整理をしてる。くそみそに言われる筋合いはない。むしろテレビの音声だけをバックに仕事をするよりは、体が自然と音楽と同調しているようで、中には体が揺れている奴も多い。おかげで職場の雰囲気が良い感じだから、何となく俺の仕事も捗っているように感じる。実際にどうかは愚問としておくが。

「そんなこと無いですよ。奥田さんの選曲が良いから、皆さんいつもより快調そうですよ」

 美友紀ちゃんがフォローを入れてくれるとは。少し鼻が高くなった気分だ。

「だよね。たまにはこいつも、いっちょやってくれるから、俺も親友を止められないんだよ」

「お前は喋るな。仕事行け、仕事」

 調子良い奴だな、本当に。呆れてしまうが、たまにはこういう朝も悪くはないだろう。どうせ後数時間もすれば、パイロットはほとんど出払って、閑散とするのがいつもの光景だ。ちょっとくらい賑やかになるなら、それを今は楽しみつつ仕事をすれば良い。ギスギスした中で仕事をしても肩が凝るだけだ。飛行中は神経を使うパイロットには、こういう安らぎは悪くはない。

「奥田さんってクラシック好きなんですか?」

「いや、元々は興味なかったんだけど、悠・・・いや、雨宮にエオリアン・ハープを聞かせてもらったら気に入ってね。このMDも作ってもらったんだ」

「・・・・・・そうなんですか」

 途端に美友紀ちゃんが落ち込んだように見えたのは気のせいだろうか。

「小野原先輩、お客様がお見えになっています」

 もう一人の受付担当の新人が美友紀ちゃんを呼びに来た。今年入社の新人にはまだまだ一人で対応が出来ないようで、わざわざ呼びに来たようだ。内線を使えば良いのに、気が回らなかったようだな。

「美友紀ちゃん、呼んでるよ?」

 しばらくコンポの方を静かに見つめていた美友紀ちゃんは、後輩の声が聞こえなかったようで、智史が美友紀ちゃんの目の前で手を軽く振って意識を確認していた。

「へっ? あ、はいっ、すぐ行きますっ」

 どことなく悲しげな表情だったが、すぐに我を取り戻すと美友紀ちゃんは後輩と一緒に受付へと戻っていった。

「健介、お前も罪作りな奴だな」

「俺、何かしたか?」

「・・・・・・お前は、そういう奴だったな」

 智史が美友紀ちゃんの消えていった方に、小声で救われないってのは辛いな、とぼやいていた。

    

 やはり朝から病院という施設は終診時間まで賑わうというか、慌しさを感じる。老若男女が外来診療で初診や再診の順番を待ち、その時間は早い人もいれば、数時間掛かる人と様々だ。再診の人も決められた検査時間まで待機と来れば、ため息が出るだろう。

「あっ、お姉ちゃんだ」

 健介を送り、家に戻り掃除洗濯を済ませ、軽く身支度を整えると、近くの店でお菓子や果物を購入し、病院についた頃には、あと一時間ほどで昼食の時間という頃合だった。

「おはよう、はやと君」

 小児病棟と一般病棟の入り口は分かれていた。大人とは違って子供は僅かな細菌でも重症に繋がることがある。それを避けるためにも一般に比べると対策があちこちに見られる。家族と言えど、十二歳以下の子供は水疱瘡(みずぼうそう)やはしかなどの伝染病にかかっている可能性があるため、小児病棟には入れない。健介の診察で訪れるたびに、はやとのような姿の子供が、兄弟とロビーで楽しげに会話をする光景は、悠には見慣れたものだった。だが、その子にとっては、時々しか会うことの出来ない兄弟姉妹との僅かなかけがえのない時間なのだろう。明るい笑顔が微笑ましくもあり、悲しくもある。

「これ、お見舞いだよ」

 悠が籠に沢山入ったお菓子や果物をはやとに見せると、はやとの顔が破顔し、笑顔で満ちた。いつまでもここで見舞いの品を持っていても仕方ないと悠は思い、部屋へ行かないかとはやとに訊ねたが、はやとは待って、と悠を止めた。

「おかあさんが来るから、ここでまつの」

 そういうと、待合のベンチに腰を下ろし、自分の隣をポンポンと叩いた。どうやら悠にここに座るように促しているようだ。

「分かった。お母さんが来るまで待とうね」

「うんっ」

 悠とはやとはしばらく朝の連ドラを眺めながら、はやとの母親が来るのを待っていた。以前にも何度か健介の診察で顔を合わせていたため、悠はそれほど気にした様子もなくはやとと時折会話を交えながら時間を潰していた。

「あっ」

 十五分程してから、はやとが入り口を見て小さく声を上げた。その視線の先には、悠も何度か目にしたはやとの母親の姿があった。

「おはようございます」

 はやとは母親を見ると駆けはしないが、早歩きで母の胸に飛び込んだ。その後で悠が静かに一礼していた。それに気づいたはやとの母親も同じように返していた。

「あなたは確か・・・・・・」

「雨宮悠と申します。最近は同僚の付き添いでよくはやと君と顔を合わせる機会がありまして」

 悠の言葉に、いえいえこちらこそ、と母親もこの子がご迷惑をと苦笑していた。

 母親も来たとあって受け付け前にいつまでもいても仕方ないので、はやとの部屋へと三人は向かった。五〇四号室の大部屋の入り口に高峰隼人と書かれていた。他にも五人の子供の名前があったから六人部屋なのだろうと思いながら、悠は招かれた。

「ここがぼくの部屋だよ」

 元気そうに隼人が自分のベッドを指した。そこには絵本やら何かのカードやキャラクターグッズなどが数多くあり、まるで少し大きなおもちゃ箱といった感じで賑わいというか華やかというか、つまりはごちゃごちゃだ。それを見た隼人の母親がいつものことのように、優しく叱っていた。ベッドのカーテンは全て開けられていて、他の子も楽しそうに話していたり、他の病室から来た子が一緒に遊んでいたりと、どこにでも見られる友達と遊ぶ少年少女のように悠には見えた。目がクリクリとした可愛らしい女の子や、隼人のようにニット帽を被りながら生え揃っていない歯を大きく見せて笑う男の子。看護師の女性に構って欲しいのか、なにやら駄々を捏ねたり、悪戯をしたり、付き添いのお母さんに甘えていたりと、どこにでもいる子供たちばかりだ。見た目で骨折などの症状が分かる子もいれば、どうして入院しているのか不思議に思わせるほど、元気な子もいる。その子たち一人一人が、いつか家に帰り、青い空の下で友達と沢山遊ぶんだと、思い描きながら毎日を過ごしているのだろう。悠はその微笑ましい光景に、上手く笑って返すことが出来なかった。

「わざわざありがとう。こんなことまでしてもらっちゃって」

 隼人の母親が、改めて悠に申し訳無さそうに感謝していた。

「良いんですよ。私が勝手にしたことですから、お気になさらないで下さい」

 毎日この光景を見ている母親にしてみれば、慣れたものなのかもしれないが、悠の見舞いのお菓子を友達と分け合う隼人の姿や、それに楽しそうに便乗してくる子供やベッドに横になったまま声だけが隼人たちの周りにくる子供。入院して日が浅いのか緊張染みた表情の子もいる。多種多様なその光景は、軽く考えていた悠には少々重たく映っていた。悠も長期に渡り入院生活を送っていたが、その周囲には大人ばかりで、みな落ち着いていた覚えがある。だからこの小児病棟の騒がしさが悠には、ここにいる子たちは本当に病気なのだろうかと疑いたくなるものだった。

「おねえちゃん」

 そんな悠の周りに子供が数人寄ってきた。

「これ、ありがと」

 そう言ってお菓子を悠に自慢げに掲げる少年。その目の輝きは心から言葉の通りに思っているんだと、訴えてきた。

「どういたしまして。みんなで仲良く食べてね」

 よしよしと悠が頭を撫でると、嬉しそうに自分のベッドに戻り、付き添いのお母さんに自慢していたり、廊下を通った看護師に、いーだろ? などと、自慢げにはしゃいでいたりと、嬉々様々だ。

「驚いた?」

 花を換えに行っていた隼人の母親が、悠の半ば呆然としているのを少し可笑しそうに見ていた。

「一般病棟みたいに落ち着いた雰囲気はないし、むしろ学校みたいに賑やかだからねぇ」

「正直、どう反応したら良いのかまだ良く分からないです」

 いつもの事のようで、それが当然のように頬を緩めている。

 しばらく隼人と悠は他の子も交え談笑していた。

「隼人君、飛行機好きなの?」

 ベッドの脇には数冊の絵本と航空機のミニチュア模型やプラモデルがいくつか並んでいた。悠には見慣れた機種もいつくかあった。

「うん。大きくなったら空に絵を描くの」

 そう言って隼人はF‐15D/DJイーグルのプラモデルを手にとって目の前で動かしていた。もう十年ほど昔に出たプラモデルだが、玩具としては十分すぎるほど良く出来ていた。父親が作ったのだろう。

「空に絵?」

 パイロットになりたいとかではなく、隼人は空に絵を描きたいと言った。

「うん、僕絵をかくの」

「この子、ずっと病院暮らしだから、絵を描くことが楽しみになっているの」

 隼人の言葉の補足を母親がどこか諦めの入った苦笑を浮かべていた。

「でも、どうしてお空に絵を描きたいの?」

 絵を描くなら紙やキャンバスにでも出来るはずなのに、どうして空なのか悠には不思議だった。

「おねえちゃん、これ見たことある?」

 隼人が悠に一冊の本を渡してきた。絵本かと思っていたら、一冊の写真集だった。

「ブルーインパルス?」

 それはブルーインパルスの軌跡を追った写真集で、よく航空祭などで販売されているものだ。

「うん。凄いんだよ。飛行機で空に絵を描くんだから」

 興奮気味に隼人が悠の目を見る。隣のベッドから、またその話? と何度も聞かされたのか、少々うんざりした顔の子がいる。片方の足をベッドにつけられた固定器具に載せている。事故か何かで骨折したようだ。

「隼人君は見たことあるの?」

 悠にしてみれば、隣県の自衛隊の航空祭で何度か目にしているし、普段はバードフライの飛行を目にしている。二つの違いは大きいが、それぞれの特徴があり、見ていて飽きることがない。もう何度その演目を見てきたか覚えていない。

「ううん、ない」

 悠が本を返すと、隼人はしょんぼりとした表情でページを捲った。その表情は本当に残念そうだ。ベッドの周囲のプラモデルや、空や鳥などの大空を描いたような絵本、自分で描いたのだろうか、青い空と白い雲の合間に、カラフルな色のラインが走った絵。それを見て瞭然だが、それだけ隼人は焦がれているように悠には見えた。

「そうだ、隼人君」

 何も出来ない自分に心苦しさを感じていた悠が、何か出来ることはないかと考えて、思いついた。隼人が何? と首を傾げた。大きなニット帽がズルッとずれた。

「明日、隼人君が好きなの、持ってきてあげようか?」

 悠が手にしたのは先ほどのプラモデル。自分で描いた絵の中にも本を参考にした絵が見られた。しかし、飾られているのはどれも、いわば戦闘機だ。子供には飛行機と認識しかされていないだろうし、ぶっちゃければ単なる玩具だ。しかし隼人の好きな機体が一機もなかった。特に何が出来るというわけではないが、好きな物があるほうが良いだろうと悠は思った。

「おねえちゃん、持ってるの?」

「うん。プラモデルとは少し違うけどね」

 実際には悠は持っていない。部屋には仕事関係は勉強していた本や資料程度しかない。しかし悠には当てがあった。

「明日、朝に来るからその時に持ってきてあげるね」

 誰にも見せないような悠の優しい笑み。隼人の表情に嬉々な瞳が浮かんでいた。

「今日はわざわざごめんなさいね」

 あまり長時間いても負担になると、十五分程度で悠は帰ることにした。隼人の母が受付の前まで見送りについてきた。

「いえ、こちらこそ楽しい時間を過ごさせてもらえましたから」

 どこまでも礼儀正しく振舞う悠。決して謙遜しないくせに、その振る舞いが嫌らしく感じられない。

「ところで、一つお聞きしても宜しいですか?」

 悠は隼人の前だからと尋ねることは配慮して避けたが、やはり始めから気になっていた。

「病気のことかしら?」

 隼人の母親もそのことは始めから分かっていたのだろう。周囲には見た目に分かる症状の子もいるが、そうでない子も多くいる。院内だから元気に過ごすことができても、外へは出られない子などは見た目ではどのような病を患っているのか、その子の親族や関係者しか知らないことも多い。

「無理にとは言いませんが・・・・・・」

「良いのよ。隠しているつもりはないから」

 医療技術が発達し現在では小児がんも約七〜八が完治するようになり、昔のように致命的な難病ではなくなってきてはいるが、それでも我が子の病名を本人や周囲に隠したりすることは未だに少なくはない。偏見はそうすぐには消えることは、いつの時代もないのだ。

「あの病室には、白血病、骨折が二人、肺炎の子がいるのよ。そして隼人は神経芽細胞腫(しんけいがさいぼうしゅ)って小児がんなの」

 隼人の母親は悲しそうでもなく、勿論嬉しそうでもなく、無表情に近い静かな表情で悠に言った。

「一つ奥のベッドが空いていたでしょう? そこには隼人と同じ症状の子がいたの」

 その言葉に悠はハッと時が止まったように小さく口が開いたままだった。入院すれば必ずしも完治して退院出来るわけじゃない。末期の患者向けのいたずらな延命治療をするではなく、肉体的苦痛を和らげ、孤独感や死への不安などの精神的な悩みの相談に乗り、平安な死を迎えされる施設もあるくらいだ。入院して、退院出来ないまま生涯の道を閉ざされてしまうこともある。隼人の母親の言葉にその全てが込められていた。

「みんな一人だと、不安なのよ。でも、症状や病気が違えど、一緒にいると私たち親じゃ理解出来ないくらい明るくなったり、外で自由に遊んでいる子たちみたいに元気になれることもあるのよ」

 そこで亡くなった子も隼人と同病だった。そこから来る、その子の両親にしか計り知れない不安もあるはずだ。悠には隼人の病状がどのようなもので、治療法がどういうものなのかは知識がないため、病名を聞いただけではパッとするものはないが、同病の子が亡くなったと言われれば、それが軽視してはならないということだけは理解できた。

「そうなんですか。私も子供の頃に長期入院していて、その時は一般病棟だったので、まさかあれほど病院だと感じさせない雰囲気だとは思いませんでした」

 悠の言葉に隼人の母親が小さく笑った。その声はとても辛そうでもあった。

「では、隼人君によろしくお伝えください」

「ええ、でもあまり無理して見舞いは良いからね。私たちでも耐え難いことも多いわ。あなたもその目で見たでしょ? だから無理しなくて良いわよ」

 その言葉に一礼すると、悠は病院を後にした。外に出ると暖かい風が微かに吹いていた。

 車に戻ると、すぐにエンジンを掛けることなく、背もたれに力なくもたれかかった。騒がしかった外の騒音も車内にいるとほとんど聞こえなくなる。

「はぁ・・・・・・」

 ただお見舞いの品を持って行って、少し話をしただけ。それだけだったというのに、悠は仕事で疲れたような重たいため息を漏らしていた。みんなニコニコ笑って、あどけない笑顔が可愛かったものの、やはり初めて目の当たりにしたその光景に少なからずショックを受けた。ニット帽を被り、隼人の母親がその下は抗がん剤の治療の副作用で抜けてしまったの、という言葉が、胸を打った。隼人のように帽子で隠している子もいるが、僅かに残る髪の毛や、既に全て抜け落ちてしまった頭で遊んでいる姿は、ファッションとしてやっているわけではないため、部屋へ、小児病棟に足を踏み込んだ瞬間、言葉を失っていた。

「子供の輝きって、凄いのね」

 思わず呟いていた。

あれだけ自分の病と闘っているのに、それを全く感じさせない素振りは、大人であれば見栄や周囲への配慮だと分かるが、子供はそこまで自分を偽ることを知らない。幼い頃から入院生活を送っていると、尚更だろう。だからあの振る舞いは偽りのない、素直で我が侭な、どこにでもいる子供と同じだ。絶望に打ちひしがれるのではなく、退院して学校に行って遊ぶ。そんな些細な夢を見続けながら過ごす姿はとてもじゃないが、今の自分には出来ないと思った。

「・・・・・・っ」

 鼻を啜ると、嗚咽が漏れそうになった。ルームミラーに映る自分の目に必要以上の潤いがあった。

「いけないいけない」

 何かを振り払うように悠はその涙を拭うと、メールを一通打った。


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