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十.雨宮悠の物語〜その、先日の日に〜

久しぶりの更新です。


予定より少し早く更新できたかな? と思いつつ、三ヶ月も放置している以上、他の作品もなるべく早く更新できるよう頑張ります(^^;

 軽く身支度を整えて、菓子折り袋を手に、私は家を後にする。自転車でもあれば良かったかもしれないと、徒歩で歩く中で感じる。近いようで空港の出入り口は家から見えるよりももっと向こう、つまりは反対側にあって、思っていたよりも道のりは遠かった。

「バス通勤、かしらね」

 車道を一台のバスが通り過ぎる。私をと同じ目的地行き。少しバス停で待っていれば、あのバスに乗っていたかもしれない。私を置いて走り去るそのバスの背中に、一人取り残されていくような寂しさが風に吹かれた。

 歩いて三十分はかかって辿り着いた先に、ようやく空港の名前が見えた。それでも想像しているような空港ではなく、こじんまりとした、一件何かの事務所? と間違えそうな一階建ての建物。その向こうに管制塔や整備格納庫などが見える。一応アポなしと言うことで、受付へと向かう。建物内は小さな物産店があるくらいで、人影はまばら。人員輸送の為の旅客飛行はなく、遊覧飛行や資材運搬などの受付が一つあるだけ。

「そういえば、ここの空港だったんだ」

 それから私の目を惹いたのは、空港名でもあるバードフライ飛行場に所属するアクロバット飛行チーム、バードフライの宣伝ポスター。大々的に宣伝されていて、そう言えば毎年この空港のエアーショーで飛行していたのを実家から見た記憶が甦った。ここで働くということは、これらの機体整備もあるのかもしれない。そう考えると少し楽しみが増えた。

「すみません」

「はいはい、どうされましたか? 遊覧飛行の申し込みですか?」

 窓口受付の所では、中年男性が久しぶりの客を見つけたとでも思ったのか、手をすり合わせて置くから出てきた。

「あ、いえ。私、雨宮悠と申します。明日より航空整備部に入社することになっているんですが……」

 何の連絡無しに来てしまった以上、挨拶は無理かもとは予想していた。

「あぁ、そうでしたか。いや失敬失敬。今週は資材が五件入っただけで、他にお客が来ませんでね」

 失念されることはなかったけれど、この人は会社としてはそれはそれで赤字だというのに、ヘラヘラと笑っていた。

「整備部に配属の雨宮さんね。それで今日はどのようなご用件で? 入社式は明日ですが?」

 日にちを間違えたのか? そう言っているような視線に、私は分かってるわ、そんなこと。と、視線を送り返すことはなかったけれど、事情を話した。

「あぁ、そういうことですか。いやいや、これは良くできたお嬢さんで。今連絡してみますから、少し待ってくださいね」

「はい」

 そう言われて、受付にあった電話で男性がどこかへ連絡を入れる。

「あー、もしもし? 田沼ですが、大浪さんはおりますか? えぇ。今ですね、明日入社予定の新人さんがいらして、挨拶をしたいそうですが、どうかと思いまして」

 電話口では呑気な声。いや、この人はそう言う人なのかもしれない。あまり緊張感がなく、悪い人ではないよう。それでも、もう少し仕事なんだから、身を入れてもいいと思うと私の性格からすれば、身の締まらない態度は好きになれそうじゃない。

「あ、大浪さん。……ええ。そうなんですよ。で、どうします? ……あ、そうですかぁ。はいはい、分かりました。ええ、では、後ほど」

 どうやら話が済んだようで、聞いていた限りではアポなしの私だと言うのに、返事は良さそうだった。

「雨宮さん、そっちの社員で入り口から三つ目の航空整備部室へ入ってくださって構いませんよ」

「そ、そうですか。ありがとうございます」

 あっけらかんと言われて、何か調子が狂った。案内デモしてもらえるのかと思ったけれど、結局案内などはなく、一人で見慣れぬ関係者以外立ち入り禁止とあるドアを潜った。

「ここね」

 航空整備部と表札のある一つのドア。さっきの緩んだ緊張感も元に戻り、私は一つ深呼吸をすると、ドアをノックした。

《入ってるぞ》

 ノックしたら、そうくぐもった返事が戻ってきた。思わずその答えに、え? と思った。まるでトイレでのやり取りのような返答に、一瞬固まったけれど、静かにドアを開けた。

「失礼します」

《おぉっ!》

「え?」

 ドアを開け、中へ入室した瞬間、多くの視線が私を向き、歓声が静かに湧き上がった。

「あ、あの……」

 じっと見られ、どうしたら良いのか、頭が真白になった。見た限りでは、男性が五人ほど。女性も二人の姿が見えたけれど、一様に驚いていて、私はどうするべきなのか、思わず部屋の入り口で固まってしまう。

「よく来たな、新人」

「あ、すみません。ご連絡もなしに突然お伺いしてしまいまして」

 奥から一人の、父さんと同年代のような男性が来る。まとう雰囲気と他の整備士の方の視線に、この人がここの責任者なのだと、何となく察しがついて一礼した。

「ふむ、よく出来ているな、お前」

「いえ、恐縮です」

 ただ、そう答えただけなのに、おぉ、と声が私を見る。全く自分の置かれている境遇が理解できなかった。その中で一つ理解したのは、ここは本当に私が明日から勤めることになる航空整備部なのだろう? と言う疑問だけだった。

「しかし、硬いな」

 あぁ、と先ほどは驚きの声のように聞こえた声が、今度は納得の声に聞こえる。どうしてかしら、何か小馬鹿にされている気がするのは。

「まぁ、せっかく来たんだ、座れ。岡野、茶だ、茶」

 そんな困惑する私を他所に、その男性が使い古された黒いソファに座る整備士らしい方たちに言う。

「え? 俺っすか?」

 素っ頓狂な声に立ち上がったのは、私と同年代かもと思える若い男性。一瞬目が合うけれど、すぐに声が被せられる。

「岡野はお前じゃないのか? 違うのか? じゃあ、お前は誰だ?」

「は、はいっ。岡野は俺っす。俺が岡野っす」

 珍妙なやりとり。よく意味が分からないけれど、数人の方が鼻で笑う声がして、今のは笑う所なの? と思った。最後の名乗りは、私への自己紹介? なんて思いそうだったけれど、すぐに岡野さんは窓際に置かれていた給湯器の方へ隣に座る方の足を避けながらいそいそと準備を始めていた。

「雨宮さん、ここへどうぞ」

「……はい」

 立ち尽くしていた私に、年上らしい女性が招いて下さり、私も腰を下ろす。

「あの、これ。つまらないものですが、どうぞ」

 目の前に先ほどの男性がどっしりと腰を下ろし、私は手提げ袋を差し出す。

「おぉ、そうか。気が利きすぎるが、ありがたく貰おう」

 気が利きすぎると言われても、それは母にもたされたもので、私が用意したものじゃない。そんなことはお構いなしに、男性が袋を開ける。

「コーヒー、紅茶の詰め合わせか。なるほど、当たり障り無く、かつ困らないものを、か。お前さん、なかなかやるな? 今岡、仕舞っておけ」

「はい。雨宮さん、ありがとうね」

 小さな笑みで私を見てくる。でも、その目が、私には笑っていないようにも見えてしまい、ありがとうございますの一言もまともに出てこなかった。菓子折りかと思っていたけれど、そうじゃなく、私を招いて下さった女性がそれを棚に仕舞いにいくと、入れ替わりに岡野さんがお茶を運んでくる。

「はい、お茶っす。コーヒー切らしてたんで、緑茶っすけど、良いかな?」

「はい、すみません、ありがとうございます」

「いえいえ、そこのスーパーで買った安もんっすから」

 差し出されたお茶。周りの方々の視線が集まり、緊張してしまっているのか喉が渇いていて、一口だけいただいた。でも、最後の一言は余計だと思う。まるで健介見たいかも、なんて思ってしまう。

「わざわざ前日に顔を出すのは感心だな。こいつらはどいつも来やしなかったんだがな」

 私から視線を外した男性が、私の周りに腰を下ろす整備士さんたちに視線を向ける。誰一人としてその視線を正面から受け止めることは無く、皆が顔を一斉に逸らせて、少しだけ面白く見えた。

「わしは大浪だ。ここで整備長をしている。こいつらは大浪機付長と呼ぶがな」

 機付長。やはりベテランの整備士で、上司の方だった。一目で分かる年配の方だから、それはすぐに納得できた。それと、明日より大浪さんのことはそう呼べと言われたんだと、記憶した。

「雨宮悠です。突然のお邪魔にもかかわらず、温かく出迎えて下さり、ありがとうございます」

 感謝を述べたつもりなんだけれど、私が一礼して頭を上げると、大浪さんは少々難しい表情をされていた。

「若いのに感心するんだが、そう硬くなるな。お前も明日からここで働くことになるんだぞ?」

 どうやら、私の態度が硬すぎたせいみたい。分かってはいるけれど、お世話になるのだから、初めくらいはちゃんとしていたいと思っての行動。だから、そう言われると少しだけ戸惑う私がいた。

「すみません、緊張しているからだと思います」

「緊張するのは分かるがな、整備士になる以上、相手の機嫌を伺うような目下からの言葉じゃ、勤まらんこともある。わしらはパイロットの命を支えるからな。時にはパイロットに強く意見できるようじゃないとな」

 大浪さんの言葉は私の緊張を解くためではなく、早速仕事に対する指導、だったのかもしれない。私は目の前で同じように岡野さんが入れたお茶を啜る姿に、短い返事と肯くばかり。 

仕方が無いのよ。私は人見知りする方だし、誰とでも仲良くなれれば、なんて思わない性格なんだから。

「まぁ、詳しいことは明日からだな。今日はとりあえず、軽く自己紹介でもしとくか」

 そんな私の心を見透かすように、段取りを決める大浪さん。この方は多分、もう私のことを把握したんじゃないだろうか? と思うほどに淡々としている。人を振り回させるのではなく、人についてこさせるというか、その人にあったやり方を示してくれるような、人情のようなものを、少しだけ感じたかもしれない。

「わしは今言ったとおりだ。岡野、お前からだ」

「ぅえ? また俺っすか?」

 一息ついたように腰を下ろした岡野さんがまた立ち上がる。

「何だ? 嫌なのか? 俺に文句があるのか?」

「いえっ、無いっす、はいっ」

 正直、そのやりとりだけで、岡野さんという人がどういう人なのか分かったと思う。

「じゃあ、えっと。改めて、岡野将文でっす。整備担当はセスナやってるっす。あとはフライ機の四番機も担当してるんで、よろしくっす」

 何と言うか、口調が独特。〜っす、と言うのは、正直私はあまり好きじゃないかも。

「はい、明日からよろしくお願いします」

「あと、嫁も募集中の童貞二十五歳だろうが」

「ちょっ! 大浪機付長、何言ってるんすかっ!?」

 あはは、と他の方が笑い、岡野さんが違うっ、違うからっ! と一人騒ぐ。私はどう反応するべきか迷ってしまった。

「違うっすからね? 俺、童貞じゃないっすから」

「は、はぁ……」

 そんな情報は、正直どうでも良い。でも、邪険にも出来ないから、そう言うのが精一杯。

「じゃあ、次は今岡、いっとけ」

「はい。私は今岡梓紗。担当は整備班長として、全機体の補佐を大浪機付長とともにやらせてもらっているわ。明日からはびしばし指導させてもらうからね?」

 立ち上がる今岡さんも、やはりベテラン。でも、それほど歳を重ねているようには見えない。三十代半ば、という感じかもしれないけれど、素敵な笑顔が印象に残った。

「じゃあ、次は大川」

 大浪さんが主導で、自己紹介は進み、今岡さんの後には、通信整備士として、全機の整備をする大川和樹さん、岡野さんと同じ整備担当の小島裕大さんと新穂智美さん、補給員の足立優紀さん、ヘリの整備担当の藤村隆志さん、小笠原建二さん、吉原瑞希さんと挨拶は続き、最後に私が改めて皆さんに挨拶をした。

「一応ここにいる奴らは全員がラインの整備士だ。ドッグの連中は仕事中でドッグにいるが、そいつらは明日紹介する」

「はい、分かりました」

 正直、挨拶をされても、皆産の名前を覚えられたかと言うと、またそれは微妙なところ。とりあえず苗字だけは覚えたけれど、既に下の名前を忘れてしまった方もいる。明日はさらに多くの方を覚えなければならないということだから、頭を使うことになりそう。

「よし、一通りは終わったことだし、先に雨宮にも聞いておくか」

 大浪さんの一声に、皆さんが私に注目する。一体何? と一斉に集まる視線に少したじろぐ。

「雨宮さん、ウチには航空機で一応ヘリが二種、飛行機が三種あるんだけど、担当をしてみたいものはあるかしら? 資格取得のための実務経験をつまないとといけないでしょ?」

 今岡さんがどうする? と私を見る。

「わしとしては、雨宮にはフライ機とヘリを担当して欲しいと思うんだが、どうだ?」

 唐突な提案と言うものは―――唐突にやってくるもので。

「え?」

「お前の学校時代の成績と教員からの推薦状を見たんだが、お前には明日から一年で、ヘリ、レシプロの両方の二等航空整備士を目指してもらおうかと思うんだが、どうだ?」

 唐突だからこそ、反応もとっさには出来ない私。

 ちょっとまって。ヘリと飛行機? 大浪さんは何を言ってるの?

 確かに学校では基礎と実技でどちらも大まかなことは習得させられた。でも、それはあくまでも今後の参考になるかも知れないという浅い程度。卒業する頃には、私は飛行機の整備士を目指すことを決め、コース選択でもその道を選んできた。

 当時の私は、緊張もあって、しばらく考えることに体が固まっていた、と思う。

「え? あ、あの、でも、それは……」

「大丈夫っすよっ。俺らも両方取らされたんすよ」

 岡野さんが明るく言う。それはどういうこと? と他の方へ視線を向ける。

「僕と足立さんは元々機関整備じゃないから、始めから両方の勉強はしていたんだ」

「そうなのよ。ここって小さな飛行場でしょ? だから、人員を増やすよりも、個々のスキルアップが重要なの」

 通信整備士の大川が口を開くと、足立さんが同意に肯き、私をさらに混乱させる。

「一応俺とガッサン、ミッキーはヘリ専属、マッチ、ユーダイ、ともちゃんは飛行機専属なんだけど、人手が足りない時は互いに補い合うのがここの特徴かもな」

 そう続けるのはヘリの整備士の藤村さん。他の方をあだ名で呼ぶから、誰が誰だか分からない。

「ガッサンは、小笠原さんで、ミッキーはあたし、マッチは岡野君で、ユーダイは小島君、ともちゃんは新穂さんのことだからね。大川君はカッチン、足立さんはアーミンってあだ名がついてるのわけ。今岡さんは班長、大浪さんはそのまま機付長ね。上司だから」

 そう教えてくれる吉原さん。なるほど。皆名前をもじったということなのね。

「ってことで、悠ちゃんは、はるちゃん、ね」

「はるちゃん?」

 ね? と笑顔と共に方に手を置かれ、思わず、へ? と隣を見た。

「良いっすね、はるちゃん」

「でも、はるちゃん、綺麗だから、もう少し綺麗なものでも良いんじゃない?」

 岡野さんは一人興奮、と言うのか勝手に喜び、今岡さんは私のことをじっと見てきて、少し恥ずかしい。

「良いと思いますよ。雨宮さんには可愛いものが似合いそうじゃないですかぁ」

 足立さんがのんびりと手を合わせながら私に微笑む。この人は性根がのほほんとしているみたいで、目があっても別段恥ずかしいと言う気持ちはなく、すこし友人に似ている気がする。

「俺は別に何でも良いぜ」

「俺も」

「僕も良いと思いますよ」

 藤村さん、大川さん、小島さんはとりあえず関心がないようで、ただ賛意を示しただけに見える。別にそれは構わないんだけれど、最初に決めるようなことなのかしら? と思わずにはいられない。

「何でも良いだろうが。それよりも決めることがあるだろ」

 全く私と同じ意見の大浪さんが、じっと視線をぶつけてくる。そう。私が考えるべきことは、あだ名ではなく、担当する機種。てっきり一つだけだと思っていたのに、二種―――しかも、別の組み合わせだなんて。

「バードフライ飛行場は整備士もパイロットも元々不足がちなの。今年はうちの部署は一人取れたけど、なかなっ希望者がいなくてね」

 だからこその人事なの、とその視線には気づく。けれど、それはそれ。これはこれ、じゃないかしら。やれというならやるしかないけれど、それが強制ではないのだとしたら、私はそこまでする気というものは起こらない。願わくば希望するのはあれだけだから―――。

「まぁそう言うわけで、明日までに考えてきてくれ」

 結局、それからは色々と聞かれはしたけれど、どれも受け流す返答に終わり、私は帰路についた。

「それじゃ、はるちゃん、帰り大丈夫? なんなら送ろうか?」

「いえ、それほど遠くないですから。ここまでありがとうございました」

「あ、そう……うん、それじゃ、明日からよろしく」

 帰りは出入り口まで岡野さんが見送りに来てくれたけれど、私の頭の中には、どうするべきなのか、という考えで一杯で、岡野さんがバスに乗り込むまでそこに立っていたことにも、バスに乗り込んで発車してからも気づかなかった。

 その日の夜、私はベッドに横になり、悩んでいた。

「う、ん……」

 明日のしたくは出来ている。入社式の後は早速業務開始。だから明日は真新しいスーツと予め支給された作業着を使う。まだ皺もろくについていない二つを見ると、明日から社会人として歩き出すという実感を感じるけれど、それ以上に早速の選択に、どうするべきか、なかなか答えが出ない。

 静かな室内。支度は整った。後は寝るだけなんだけれど、何だか考えがまとまらなくて、寝付けない。

 枕元においている携帯を取り出すと、暗くなった室内に液晶画面の明るさが少しだけ眩しい。新着メールも着信履歴もない静かな携帯電話。意味もなくアドレス帳を開く。高校からの地元の友人、家族、整備士学校の友人でその大半は埋め尽くされている。その中で指が止まる名前。恐らく今の私を知る人の中で、誰よりもこの職業に関してまっすぐな奴。私をこの道に引き込むだけ引き込んで、自分は夢を追い続ける馬鹿。もう会わなくなって三年目に入る。なのにどうしてかしら。あまり遠い存在には思えない。

「健介、もう、寝ちゃったかな……」

 画面の時計は二十三時を過ぎた所。まだ早いかもしれないし、健介は寮生活。だから消灯かもしれないし、それは分からない。

「あ……」

 その名前を見ていた瞬間、私の心が小さく跳ねた。私の手の中の携帯も震えた。

「……はい?」

《もしもし、悠か?》

 大したことじゃない。でも、私の心はその声に、再びドキドキと小さく、少し激しく鼓動していた。

「……何?」

 まさかこんなタイミングで電話が来るとは思わなかったから、自分でも焦るくらいに言葉がすぐに出なかった。

《あ、いや、別に大した用じゃねぇんだけどよ》

 そんな私の心なんて全然知らない健介の拍子抜けする声に、息を吐いて落ち着く。

《お前さ、明日から仕事だったよな?》

「そうだけど、それがどうかしたの?」

 質問に質問で返すのは、私のいつものやり方。何となくそっけないことで話題が終わるのが嫌だから、言葉になる、続けられる言葉で返す。そうすれば会話はまだ続くから。

《いやぁ、なんつーかさ、すげぇなって思ってさ》

 電話越しに軽く笑う健介の声に、何が凄いのか主語のない言葉を理解出来なかった。

《最初は俺がお前を引き込んだのに、今はお前の方が先に夢に辿り着いちまったんだ》

「大げさすぎ。別に私がこの道を選んだのは自分自身だし、健介とは学ぶ時間が違うんだから当然でしょ」

 私の答えに、健介はやっぱり、お前らしいな、と笑ってきた。その人を分かりきったような声色と私の落ち着いた心を跳ね上げる言葉に、うまく自分を演じることが出来たのか、少し分からなくて、胸が少し痛みのない痛みに手を添えた。

《そういやさ、結局飛行機の方になるのか?》

 相変わらず話題は自分から。健介と話すときはいつもそう。私はただそれに答えるだけ。そして、今の話題はピンポイントに私の全身を駆け抜けた。

「う、ん。たぶん、そうかな……」

 もともとの希望はそう。でも、大浪さんたちに提案されたのは両方。

「ねぇ、健介」

《ん?》

「ヘリと飛行機、どっちかを選ぶなら、健介はどっち?」

《は?》

 私は一体何を求めたのだろう。相手は健介。目指す夢も目標も違う。なのに、私の口は自然とそう、紡いでいた。横になっていた体を起こし、返事を待つ。

《いや、何が?》

「だから、どっちかって言ったら、あんたならどっち?」

 詳しい理由は悩む時間を与えるから言わない。考えちゃダメ。早く返事が欲しかった。私を引き込んだ人間なら、どう判断を下すのか知りたくなった。

《どっちかって言ってもなぁ。俺はどっちも好きだけどなぁ》

 健介は健介なのね。優柔不断の答えを出さない言い方。

「じゃあ、どうして飛行機のパイロットになろうとするわけ?」

 あぁ、私は何を聞いているのかしら。健介の言葉を待つ私と、そんな私を遠くから見ている私が、同時にこの暗い室内にいる。何を得たいの、私? 聞いてどうする気? そんな自問が健介の答えを待つ間にループする。

《どうしてって、そりゃ、空を自由に飛べるからだろ?》

 でも、そんな考えをめぐらす前に、健介は唯一つの答えを、躊躇いもなく、何を今更だと私に言うように答えた。

《ヘリよりも操縦性を考えるとやっぱ飛行機だろ? それに俺はあくまでもインパルスみたいな飛行がしたいからな。ヘリじゃ無理だろ。つーか、何でこんなこと聞くんだ?》

「……変わらないわけ、ね、あんた」

 健介の語りは、あの頃と何も変わってない。空想していた世界から飛び出し、現実を知った今でも、その夢はただ一筋を辿る飛行機雲のように、空を目指している。

《変わらないのは、お前もだろ》

 そんな健介に、置いていかれたくない、なんて思っていた私の心は、静かにその慟哭を静めていく。ただ、まるで縮まっていないのだという現実を知るだけだった。

「違うわよ。健介は何も知らないだけ」

 そう、だから健介はありのままの姿で努力して、このままの姿でそこにいる。

《いーや、お前も昔からのまんまだ》

 それなのに、電話口の向こうではやっぱり分かりきったような言葉が星空の下を駆け巡って私の耳に届いてくる。

《何があったかは知らないけどよ、お前はきっかけはどうであれ、自分でやるって決めたらやるだろ? 俺の目標は話したとおりだけどよ、じゃあ、お前の目標って何だよ?》

 はっとさせられた。

《単純に俺が興味も足せたから続けたわけじゃないんだろ? じゃないと普通は続かないしな。お前は難しく考えすぎだ。何考えてるのか知らないけどさ、もっと簡単に考えろよ》

 あまりにも突拍子もなく出てくる、その淡々とした言葉。それに私は返す言葉を考えられなかった。人を気遣っているのかそうじゃないのか曖昧な言葉でも、その中に含まれる言葉には、核心を突かれてしまう。

「そう簡単にいかないことも、あるのよ」

《ねぇよ、んなもん》

 クッと胸に来る。あまりにもの即答。あるのよ、と返事しようにもその四文字すら、止まってしまう。

「……あんたは、簡単に言いすぎよ」

《難しく考えるより、単純な目標か夢に進む方が、楽しくなるんだぞ? まぁ、俺はまだ学生だし、働くことはよく分からないけどさ》

 そうよ、あんたは学生。私は社会人になるの。だから、あんたみたいな楽観主義だけじゃ、困ることもあるのよ。なんて言おうにも、それを言ってしまえば、健介に悪い気がしてしまう。

《まぁ、なんつーかさ、どっちかを選ぶなんてことはしなくても良いだろ。空が好き、航空機が好きでこの仕事に就くなら、どっちも好きで良いだろ》

 簡単に言う言葉には、本当に難しいことなんて考えていないことが良く分かる。やっぱり健介は健介のまんまなんだと思う。

「どっちも、ね」

 なかなかそう簡単にはいかないと思うのは確かだけど、健介のその何も考えていない言い方には、私の悩みが小さく思えてくるから不思議。どうしてこんな奴がパイロットを目指して、大学校にまで進学しているのか、少し分からない。

《そうだ。それによ、両方やっておけば、何かあった時とか、再就職する時にでもどっちでも資格でいけるだろ? 損するもんはないと思うぜ?》

 そういわれると、確かにそう。ただ、自分の当面の負担が増加するということだけで、得られるものは、確かに多い。

《な? 悪くないだろ?》

 気楽に言ってくれちゃって。ほんと、人事だと思ってるわね、健介。

「……そうね。そうかも。でも、明日から就職するのに、再就職なんて考えてないわよ」

《ははっ、そりゃそうだな》

 まだ働いていないのに、もうやめた後のことを考えても仕方がないじゃないのよ。それとも健介は私が、長続きしないと思ってるのかしら? それはそれで甘く見られて、少し嫌かも。

《……健介、教官が集合だとよ。先行くぜ?》

《おっと、集合だ。悪いな、別のこと聞こうと思ってたけど、また今度にする》

 電話の向こうで、誰かの声が混じった。

「ええ。忙しそうね、そっちは」

《まぁな。あと二年あるけど、今が一番忙しいみたいでな。そんじゃあ、またな》

 よほど急がなければならないのか、健介は言うだけ言うと、通話を切る。それと同時に室内には耳鳴りがしそうなほどの静けさが私を飲み込む。起き上がった体が、自然とベッドに倒れこみ、薄暗い天井がわずかな時間でも、楽しめた余韻を祭りの後のように残す。

「聞きたいことって、何だったのかしら……?」

 最後にそんなことを残して通話を切られると、一体健介は何のために私に電話をしてきたのか気になる。まるで私の話題にだけ付き合ってくれた、だけ、の、よう、な……あれ?

「資格って、どうして健介、分かったの……?」

 今までのやり取りがふと脳裏を過ぎって、疑問を残す。一体どうして健介は、私の悩みに気づいたのかしら? そんなことは一言も言ってなかったと思うのに。

「分かりやすいのかな、私って……」

 そんなことはないと思うんだけど、健介には、私のことが分かってしまうの? 

 何も見えない天井に、電話越しに私を笑っているような健介の、最後に見た幼い顔の健介が浮かんだように見えた。


閲覧ありがとうございました。


もうしばらくは悠に視点を置いた、過去の話になります。


今後の流れとしましては、悠の整備士としての成長と、健介との再会、美由紀の登場、そして隼斗たち家族の登場で本編とクロスさせ、悠視点で流れは本編に沿いながら、中身は本編とは少し変化させた物語にしたいと思っています(確定じゃないです^^;)


さて、次回更新予定作は《マリーとサイファー〜》です。



更新予定日はGW明けを予定しています。

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