一.折翼
「いてぇ・・・・・・」
「全く、だから触るなって言ってたのに」
病院へ向かう途中。車内振動が骨身に沁みる。泣き叫びたいくらいだ。それをしないのは、ただの見栄。それが出来るくらいの余裕はあるのかもしれないが、強く瞼を閉じると涙が出てくる。
「いや、だってよぉ」
「言い訳無用。自分のせいでしょうが」
奥田健介は、腕を応急処置で固め、同僚である雨宮 悠の車で約三十分のところにある市立の病院へ向かっていた。
車中は俺の痛みに耐える呻き声と、悠の俺を呆れたように、うるさいとそれを一蹴する声と、ラジオから聞こえてくるDJのリスナーからの葉書を俺の気持ちを知らずに、笑いを交えて読む声だった。ムカついた。でも、痛みにそれどころでもなかった。
「腕一本で済んだんだから儲けものでしょ」
俺の様子などを特に気にしてないような抑揚のない喋り方。「大丈夫?」なんて心配の言葉なんて一言もかけちゃくれない。悪いこととした奴には冷たい奴だな。
「一本だからって、痛いもんは痛いんだよ」
迂闊だった。整備班には触るなと言われていたが、やっぱり自分の機体なんだから、少しは自分でも調整したいと思い、ドッグに入ったは良いが、まさか自分の知らないところで解体されてるとは思いもしなかった。
「大体、一言言うもんだろ? 普通はよぉ」
痛みに耐えながら、隣を見る。真っ直ぐに前を見ている、凛々しくてなかなか造形の整った悠の横顔があるが、綺麗だ、なんて感想を言う場合じゃない。痛いの一言しか出ない。
「言ったわよ。なのに健介が航空祭の打ち合わせに夢中だったから聞いてなかったんでしょうが」
言われてみて、記憶を遡ると、そんなことを聞いた覚えがあるようなないような、曖昧な記憶しかなかった。
「あんたねぇ、自分でラダーの効きが少し悪いって言うから、整備班が寝る間を惜しんで診てあげてたのに、自分のことで頭が一杯なんだから・・・・・・」
そう言われると、返す言葉が見つからない。でも、だからって俺の相棒を全解体に近いほどまでしなくても良いと思うんだけどな。
市内へ入ると道路の整備がされているから、車の振動も少なく、骨に響いていた地味な痛みもほんの少しだけ治まってきた。
「ほら、見えてきたわよ」
フロントガラスの先に、病院の表示が見えてきた。それほど大きな街ではないため、市内といえどそれほどの施設はない。最近は古雑貨や古本等の専門店がやっと出てきたくらいだ。
「やっと助かる・・・・・・」
「自業自得のくせに何言ってるのよ」
悠が鼻で笑いながら、病院の駐車場に車を止めた。駐車すると、折れた左腕を庇うように支えながら受付に向かう。
「健介、あんた座ってなさい。私が行ってきてあげるから」
俺は院内へ入ると、受付を悠に任せ、受付前の椅子に腰を下ろした。平日にも関わらず病院は人が多い。特に年配の人が、本当に診察が必要なのかも分からない様子でテレビで流れる国会中継を見て何かを言っていた。中には親と同伴の学生服の子もいるが、俺と同年代と思しき様な人間は少なかった。
「どうしました?」
柔らかな営業スマイルな看護師。分かっていても可愛らしくて、つい見栄を張ろうとする。
「馬鹿やって、折ったみたいなんです」
俺が言おうとしたら、悠が俺を馬鹿にしたようにことの経緯を伝えていた。
「あー、それは大変でしたね」
「そうなんですよ。全く。おかげで仕事の予定もパーですから」
悠の言葉に看護師さんが苦笑していた。
「もぅダメですよ。子供じゃないんですからね」
「・・・・・・はい、すみません」
子供を宥めるように言われると、流石に恥ずかしい。悠もほら見ろ、と言っているようで、何だか悔しい。
問診を済ませると診察までしばらく待つことになった。
「これが長いんだよなぁ」
鈍い痛みを堪えながら、待合室で順番を待つ。どう考えても、隣で新聞読んでいる爺さんよりも俺の方が重症だと思うんだけどな。救急で対応されてもおかしくないはずなのに。応急処置で我慢している俺って軽症なのだろうか?
「我慢しなさいって。骨折くらいでギャーギャー言わないの」
その時の悠が、母親に見えたなんて言ったら殺されるだろうな。そう思って言わないでおいた。
「ん? 何よ?」
「別に」
リノリウムの床に、消毒液の匂い。あまり病院に世話にならない俺には、落ち着かない雰囲気だった。
「奥田さん、奥田健介さーん」
ようやく名前が呼ばれ、悠に付き添われえながら診察室へ入る。
「どうしました?」
俺は診察を受ける時、思うことがある。目の前にカルテがあって、そこに症状が書かれているというのに、わざわざまた同じことを聞く必要があるのかと思ってしまう。
「見ての通りです」
他に言うこともないので、見たまんまを言った。
レントゲンを撮るまで、先ほど看護師に言ったことと全く同じことを悠が言ってくれた。そして、医師にも同じように苦笑された。こちらは痛くて早急に治療をして欲しいというのに。やがて流されるようにレントゲンを取り、しばらく待たされ、再び診察室で診断を受けた。
「これなら手術のほうが経過は早いんですが、どうします?」
「それは入院って事ですよね?」
俺の問いに勿論ですよ、と何故か可笑しそうに笑う医師。
「仕事を抜けるわけにもいかないので、通院じゃダメですかね?」
さすがにこれからは航空祭の準備やらで時間がない。入院なんてしている暇はない。金もないんだから。
俺の怪我は思った以上に軽症だったが、手術以外での治療は保存的治療のギプスでの固定を余儀なくされる上に、時間も掛かる。だが、仕事を考えると安易に入院と言うわけにはこの時期はいかなかった。何とか押し問答の末に納得してもらい、腕は固定されてしまった。
「これくらいでギャーギャー言うなんてね」
治療も終わり、俺の左腕は完全に固定された。慣れないことだからか、何だか少し気恥ずかしかった。
「うるせぇ。初めてなんだから仕方ねぇだろ」
受付で支払いを悠に済ませてもらい、車へと戻ろうとしていた。入院を免れただけでも、心なしかホッとした。
「ん?」
「どうかしたの?」
出入り口を出て、何か視線を感じ振り向くと、こちらを見下ろすニット帽を被った少年がいた。俺の視線を辿るように悠も同じ方を見上げた。こちらに気がついたのか、少年が奥へ消えて見えなくなった。
「なんだったのかしらね?」
「さぁ。ま、とりあえず帰ろうぜ」
入院していると外が恋しくなるのだろう。あの子も早く外に出て遊びたいように見えた。
「健介、そういえばさ」
治療を終え再び仕事場である、飛行場へ悠と戻っていた。
「あんた、これからどうするの?」
パイロットのため、骨折ともなれば仕事にならない。出来るのは地味な事務仕事の手伝い程度になるか。
「全治二ヶ月だからな。それまでは電話番でもするしかねぇか」
ただでさえ少ない給料だ。治療費だって馬鹿にならない。出来ることがあるなら何でもするしかない。
「そうじゃないわよ。私生活のほう」
悠はハンドルを握りながら、俺の腕をチラッと見た。そう言われて、初めて現状をまともに理解した気がした。言われるまで考えもしなかった。いつものように家に帰っても、これからしばらくの間は生活に支障が出ることなど、念頭にもなかった。
「そういや、そうなんだよな。ま、しばらくはコンビニ生活だな」
片手でも料理なんかは出来ないことはないが、手間と時間が掛かって面倒臭い。治るまでは弁当で良いだろう。洗濯とかは休みにまとめてするのが良いかもしれない。
「ダメでしょ、そんなの」
分かってはいる。パイロットには健康管理は当たり前だ。制限が多いから一人暮らしの俺には、結構しんどい生活が待っている。
「耐えるしかねぇだろ。どうせ治ったところで、それからもしばらくは乗れねぇんだしよ」
治療の間は、愛機と飛べないのは仕方ないな。それに治ったところで、筋力も技術も落ちているだろう。少なくとも三ヶ月は俺は相棒と飛ぶことは出来ないだろうな。
「はぁ・・・、本当にダメね」
悠が重たいため息を吐いていた。怪我した同僚を励ますでもなく、完全に呆れたように車を走らせていた。
「じゃあ、面倒見てくれよ」
そこまで呆れられると、結構痛いものがある。
「仕方ないわね。良いわよ」
冗談半分で言って、けなされて笑うつもりでいたのだが、開いた口が塞がらなかった。
「・・・・・・お前、俺の言ったこと聞いてたか?」
ハンドルを握る悠の横顔に向かって、冗談を真に受けるなと言い直そうとした。
「何? あんた自分で頼んでおきながら、逃げるわけ? 意外とチキンだったの?」
悠は何てことないように流して、俺のことをチキン呼ばわりしてきた。女の口からそんな言葉が出てくるとは思いもしなかったぞ。
「いや、普通ありえんだろ」
同僚だからって、普通私生活まで口を、ましてや顔を出すことはしないだろう。同性でもないんだから。
「別に良いんじゃない? お互い恋人いるわけじゃないんだし、問題ないでしょ? 昔から知り合ってるんだから」
そう言われると、返答に困るというか意識してしまう。
「お前、そういうところって軽いよな」
「そう? じゃあ一人で苦労したら?」
掴みどころがないというか、感情を読めないその言動には、これまでも散々振り回されてきたが、こういうことでも悠は何とも思っていないようだった。
「放置の方向は勘弁してくれ」
俺も俺だな。飛行場までは家からだと、車を使わないと無理だ。公共機関も金がかかる。出費が多い分、少しでも安くで済むならその方が良い。そう思ってしまう。
「じゃあ、しばらくは私のペットってことで。はい、お手」
片手でハンドルを握り、もう片方の手を俺に向ける。
「するかっ!」
出されて手を弾き返す。運転中は運転に集中してもらいたいものだ。
「全く、注文の多いお客は嫌われるわよ」
「一つも注文してねぇよ・・・・・・」
先ほどまでの妙な空気がそれで打ち消された。
「それはそうとこれから健介、あんたの家行くわよ?」
俺は頷いた。しばらくの面倒見を了承してくれたが、暮らすのは悠の家になるだろう。荷物を少しはまとめる必要がありそうだ。
「分かった。服くらいでいいか?」
「そうね、必要ならその都度で良いでしょ」
言わなくても相手が何を求めているのか、何のことを言っているのか空気だけで分かってしまう。阿吽の呼吸とか言うやつだろうか。俺たちも結構腐れ縁なんだな、と思った。
そのまま飛行場に戻る前に、一旦俺の家により数日分の着替えを持つと、再び仕事へ持った。俺と悠は基本的に仕事場が違うため、終わり次第落ち合うことにして、俺は職員棟の事務所へ、悠は格納庫へ分かれた。
「ただいま戻りました」
結局戻ってきた頃は、空が夕日に染まりだしていた。なんだかんだで三、四時間近くも出ていた。
「おっ、馬鹿が戻ってきたぞ」
上官が笑いながら他のパイロットや事務員を呼んだ。
「なんだなんだぁ」
「うわ、だっせーな、おい」
すぐに俺の周りに人が増えた。しかしそれは心配を匂わせるものではなく、全員が面白おかしそうに俺をからかいに来た者ばかりだった。
「ちょっ、やめろって」
すると中には俺のギプスにマジックで落書きを始める者も出てきた。ペンが走るたびに少々痛みが走る。ギプスで固定されていても、針を刺すような痛みは感じる。腫れが引くまでだと言われたが、信憑性があるのかには分からない。しかし誰もそんなことは気にするでもなく、次々と罵詈雑言にも似たことや関係ないことまで色々と書いていた。
「あーあ、何だよこれ・・・・・・」
それもほんの僅かな間だけ。ひとしきり盛り上がると、仕事に戻る者や飽きて雑談に華を咲かせる者などで俺のことは忘れ去れらた花のように、思い思いの時間を過ごしていた。一人残された俺のギプスは、あれほど包帯で真白だったのに、奇異な現代アート模様に様変わりしていた。
「奥田さん、お疲れ様です」
デスクに戻り、これからのことを考えようと思ったが、精神的な疲労にやる気が失われた。
「ありがとう」
事務員の小野原美友紀ちゃんがお茶を入れてくれた。彼女はここへ配属となって三年目だ。元々は市内の会社に勤務していたらしいが、自分に合わないからとここへ来た。まだ二十四の若い子だ。比較的男の多いこの職場。彼女のような存在はマドンナ的でもあった。そういう俺もまだ二十七なんだが。
「左腕、大丈夫ですか?」
ちょっと嬉しくなった。悠にさえ心配されず、ここへ戻ってきても誰も気に病むような表情を見せる者はいなかった。そのせいか、初めて俺を心配してくれる美友紀ちゃんが眩しかった。
「ありがとう。俺なら平気平気・・・・・・っ!」
つい調子に乗って左腕を動かしたら、激痛が走った。
「だ、大丈夫ですか!」
涙が出てきた。そんな俺を心配してくれる美友紀ちゃんは、本当に優しい子だなんて思いたかったが、痛さでそれどころではなかった。
「ふんっ、馬鹿者が」
そんな俺を、上官の藤沢孝雄が鼻で笑い飛ばしてくれた。
「おい、健介」
「あ、はい」
上官が俺を呼んだ。痛みが和らいだのを見計らって上官が呼んだ。
「お前、しばらく乗れないだろ。その間、ここの雑用だ。いいな?」
もう少し細かい説明とかあるかと思っていたら、その一言だけだった。しかし、有無を言わさないその目は、俺がここへ来てから未だに慣れない少々恐い目だった。
「分かりました」
「後、その間の給料も二割減だ」
「・・・・・・マジですか?」
「自分で何やったか反省しとるのか。降ろされないだけでもありがたいと思え」
そう言われると、反論も何もない。規則違反を犯したのは自分だ。それに伴う結果がこれなのだから、まだ乗れるだけありがたいことか。相棒に乗れなくなるよりはマシだと自分に言い聞かせ、上官に従った。人員不足のおかげなのかもしれない。
「それと、バードフライのメンバーは、お前の代わりに畑山が入ることになったからな」
「・・・・・・了解しました」
俺が勤務する、このバードフライ飛行場。飛行場とは言いながらも、規模はそれほどではない。本土最南端の中規模飛行場としては知る人ぞ知る飛行場で、地域住民や離島住民には重宝されている。整備班の連中も全て含めても、せいぜい百数十人程度。主な仕事は、航空機での離島や遠地への人員・荷物運搬業務、災害時の民間防災業務。最近は遊覧観光やスカイダイビングなどのエアースポーツ系などにも力を入れている。しかし、それだけではない。もう一つの顔がある。それはアクロバット飛行を民間パイロットで、チーム・バードフライとしてチームを組んでいる。このおかげでここの経営が持っているというのもある。
本来なら三ヶ月後の八月に行われる航空祭で、俺も参加するはずだったが、この様では到底無理だ。
「お前も馬鹿だよなぁ」
災難続きで覇気を失くした俺に、俺の代役で飛行することになった畑山智史が寄ってきた。元々メンバーの一人で、今回は外れていたはずだが、俺がダメになったせいで繰り上がった。
「ほっといてくれ。今は何も考えたくないんだ」
「まぁ、そう言うなって。お前の分まで俺が華麗に飛んでやっからよ」
肩を組んでくるこいつが、無性にむかついた。
「後で覚えてろよ」
「はははっ、さっさと怪我治しちまわないと、お前の椅子は俺が頂いちゃうぞ〜」
智史はそう言うと、そのまま帰っていった。よく見れば、残業組以外はもう終わりの時間だった。嫌がらせだけに寄って来やがったな、あいつ。
「奥田さん」
そろそろ悠も終わる頃だと思い、俺も帰り支度をしていると美友紀ちゃんが制服から私服に着替えて戻ってきた。
「あれ? まだ帰ってなかったの?」
「あ、はい。少し奥田さんが気になったものですから」
瞬間、同僚の男の目が俺に刺さるように見えたのは気のせいだろうか。
「俺のことは気にしなくていいよ。これくらいで落ちぶれるような真似はしないし」
実際は悠の世話にならなければ、ろくに何も出来ないだろう。何だかんだで知り合ってから長い付き合いだから、色々と面倒は見てもらっているような気がする。でも、それでも少しは男として見栄を張っておきたい気分だった。
「で、でも、その、食事とか、ふ、不自由じゃないですか?」
そこまで心配してくれるなんて、何と良い子なのだろう。無性に頭を撫でてあげたい気分だった。
「大丈夫大丈夫。当てはあるから心配要らないよ」
「そうですか・・・・・・」
おかしいな。心配かけまいと言ったつもりなのに、美友紀ちゃん、何だか残念そうな顔してるのは気のせいだろうか。
「健介、いる?」
作業着から私服に戻った悠が、ちょうど迎えに来た。
「あ、それじゃあ、先に失礼するね」
「えっ、あ、はい・・・」
美友紀ちゃんとそこで別れると、俺は悠と帰っていった。
「あいつ、雨宮のところに世話になるみたいだな」
「えっ!」
「おっ・・・・・・?」
藤沢上官の言葉に、美友紀がハッとしていた。その表情に逆に上官が驚き返していた。
「まぁ、奥田と雨宮は中学からの付き合いだとかですからね。今更なんじゃないですか」
他の同僚の言葉に美友紀は一人、優れない表情をしていた。
「それよりも、美友紀ちゃんこれから俺たちと皆で飲み行かない?」
「そうね。美友紀、あんたもたまには付き合いなさいよ」
「・・・・・・・ごめんなさい、先約があるのでこれで失礼します」
先輩たちの誘いも美友紀は断ると、そそくさと帰っていった。残された者たちはポカンとしたまま見送っていた。
「これから夕飯の買い物行くけど、必要なものとかあるならついでに寄るわよ?」
すっかり辺りは暗くなっていた。飛行場周辺は畑ばかりで、さらに暗く感じる。車の通りもそれほどないため、余計に夜が夜らしく見えた。
「そういや、飯代とかはいくらくらいだ?」
いつまでも引きずっていたところで、治るものはいずれ治る。今はそれよりも、これからの生活のことを考えるのが先決だろう。
「飯代って?」
信号待ちをしていると、悠が俺を不思議そうに見る。
「これから世話になるんだ。渡せるものは先に渡しとかないと、後々色々と金がいるからな」
治療費だって馬鹿にはならないだろうし、車のローンに家賃や保険もある。安月給の俺には痛いものばかりだ。払えるものは先に払っておいたほうが、身の為だろう。減給も言い渡されたばかりだし。
「いいわよ別に。あんたもお金は必要になるでしょ」
信号が変わり、車が走り出す。ラジオからは夕方の人気番組が流れていた。受験の時に聞いた記憶のある番組で少しだけあの頃の思い出が脳裏を過ぎった。
「いや、でもそれじゃ、お前が大変だろ?」
「一人が二人になったくらいで、そんなに大差ないわよ」
悠は断として受け取ろうとしない。かといって俺もそこで引いたら、ヒモみたいで癇に障る。俺は右手で何とか財布を取り出し、とりあえず入っていた三万をダッシュボードの上に置いた。
「いらないって言ってるでしょ」
チラッと見て、呆れたようにすぐに視線を前へ向けた。
「それじゃ俺の気が治まらん。これで今月の俺の飯を作ってくれ」
何か、言ってて恥ずかしさがあったが、ここで引きたくはないから、俺はそこに金を置いた。俺がこういうことに関しては我が侭だと知っている悠は、小さくため息をつくと、
「全く、昔から変わらないんだから」
それを言うなら、頑なに人の好意を受け取ろうとしない悠も同じだ。今日初めて悠のまともな笑顔を見た気がした。
市内に近付くにつれて、辺りから明かりが溢れてきた。町の公共事業の一環だとかで、数年前に大通りが綺麗に整備され、昼間よりも夜間の方がライトアップされ綺麗に見える。閑散とはしているが。
「着いたわよ」
途中で大型スーパーで買い物をして、悠の家に着いた頃には、八時を過ぎていた。
「すっきりしてるなぁ」
部屋に入って思ったのは、綺麗に整頓されて、余計なものがないといった感じだった。
「あんまりジロジロ見ないの。それとあんたの部屋はここね」
悠に連れられた部屋は、客室なのだろうか。長らく使われた形跡が見受けられなかった。
「悪いな。何から何まで」
とりあえず、生活の保障をしてくれたことに関しては、感謝している。
「いいわよ。お金ももらってるんだし。必要なことあれば言って」
「助かる。ありがとな」
俺が感謝の意を述べると、意外そうな顔をしていた。
「あんたにそんな風に言われたの久しぶりかも」
「そうか? まぁ言われてみれば、ここ最近はお前とは話す機会少なかったからな」
元同級生で同僚でもあるが、所属する部署が違うと、そう顔を合わせることは少ない。飛ぶ時は誘導してくれることもあるが、それは仕事だ。プライベートじゃ、お互いに時間が合わないことのほうが多い。そのせいなのだろう。
「そうかもね。でもこれからは、嫌でも毎日顔合わせるわね」
「嫌か?」
「そうね、毎日あんたの顔見るのは、飽きそう」
そう言いながらも、どこか楽しそうに自室へ着替えに行った。
「それもお互い様だ」
俺も久しぶりに人の温もりのある家に来たせいか、頬が緩みかけていた。薬が切れてきたのか、痛みが再発してきて結局頬は引きつっていた。
「やっと落ち着いたな」
悠の夕飯は、美味かった。元々器用な性格もあるためか、手つきが良い。俺が服を奮闘して着替えている間に用意できていた。俺が着替えるのに手間を取りすぎたせいもあるのかもしれない。
リビングからドラマの音声が聞こえる。しかし誰もそれを見てはいない。悠は風呂で、俺は今日一日の疲れからか夕飯を摂ったら何だかテレビも見るのが億劫なほど、疲れが押し寄せてきた。ベッドに大の字になり、左腕を持ち上げる。時折襲う鋭い痛みに顔が歪む。
「・・・・・・くそっ」
薬を飲んだが、すぐには効いては来ない。自分の情けなさがその痛みを助長するかのようだ。今更になって、自分が悔しかった。何気なく暮らしていた生活が瞬時に崩壊すると、なかなかついていけず、プライドが邪魔をして妙な悔しさが押し寄せてきた。微かに天井が霞んで見えた。
「はぁ・・・・・・」
しばらく天井と睨めっこして、痛みが引くのを待つ。満腹感からくる眠気と、疲労感が、次第に俺のまぶたを重くしてくる。
その時だった。心地良いまどろみの中に、やたらけたたましい音色が頭の上から俺を現実に引き戻す。枕元で携帯が俺を呼んでいた。
「・・・ふぁい?」
夢うつつの状態で、携帯を何とか取り通話ボタンを押し耳に押し当てる。
《あの、奥田さん、ですか?》
どこかで聞いた事のある声が聞こえてくる。頭が働かない今の状態では、誰だか思い出せない。
「どちらさん・・・・・・?」
《あの、小野原です》
控えめな声が返ってきた。頭をフル回転させて、その声の主を記憶の中の人物と照合させる。
「ごめん、誰だっけ?」
思い当たらなかった。単に頭が動かないだけなのだが。
《あの、美友紀ですけど》
その瞬間、俺の頭は完全に覚醒した。
「み、美友紀ちゃん・・・・・・っ!? ・・・いってぇっ」
勢い良く上体を起こしたら、左腕が足に当たり痛みに襲われた。波のない一定の痛みを堪えていたところに来る衝撃は、耐えられなかった。
《だ、大丈夫ですかっ?》
電話越しに美友紀ちゃんが慌てた声が耳に入ってくる。
「だ、大丈夫。なんでもないよ」
携帯を持っているせいで、擦ることも出来ず痛みの波が引くのを待つしかない。
「・・・それで、どうしたの?」
《あ、えっと、その具合はどうですか?》
そこまで俺は彼女を心配させていたのかと思うと、嬉しい傍ら申し訳ない気持ちになった。
「問題ないよ。もう寝ようと思ってたくらいだから」
《そうですか》
少しホッとしたような美友紀ちゃんの声。顔が見えない分、普段意識しない部分を感じることが出来る気がする。美友紀ちゃんの声が、俺の痛みを包み込んでくれた。
「でもどうしたの、こんな時間に。明日は早朝で配送荷物の申し込みがなかったっけ?」
俺の記憶では、明日は朝六時には地元の吉田工業の配送が入っているはず。
《ありますよ。担当は香田さんですね》
先輩の香田篤志。バードフライのリーダーでもあり、元々航自のパイロットだったそうだが、ここへUターンして飛行場へ再就職を果たした。航自にいた割には、畏まることなく、どちらかと言うと明け透けとして物事を軽視しているような態度だ。今の航自はみんながこういう人なのだろうかと思うが、それはただの偏見だろう。
「そっか。それならそろそろ休んだ方が良いんじゃない? 朝起きれないよ?」
《そうですね。奥田さんも早めに休んで下さいね》
どことなく美由紀ちゃんの声のトーンが、低いのは気のせいだろうか。
「ありがとう。それじゃ、また明日。おやすみ」
言いたいことを言えずに話が終わったという感じが、何となくだが感じられた。
《・・・・・・おやすみなさい》
美友紀ちゃんが切ってから、通話を切る。
「一体何だったんだ?」
ベッドに再び横になり、待ち受け画面を見る。そこには俺の相棒のスホーイsu‐26のフルートが写っていた。特に名づけの理由はないが、初めて乗った時に風を切るような音をエンジン音に紛れて聞いた。それがフルートの音のように感じられたため、それ以来俺は相棒にそう名づけた。競技専用のロシア製プロペラ機で、少々作りは荒いが、その分機動性とパワーに優れ、国内外の民間アクロバットで利用されることの多い機体だ。全長約七mほどで、重量は約七百kgと小柄のため、うちの飛行場でも十分に活躍できている。
「俺のこと、心配してくれたんだよな」
深呼吸をしながら、わざわざ電話をくれた美友紀ちゃんの履歴を見る。受付兼事務の美友紀ちゃんとは、毎日顔を合わせている。ただでさえ人員不足の飛行場だ。俺の怪我でも他の同僚に迷惑がかかることを気にしてくれたんだろう。明日お礼を言わないと、などと考えているうちに、大きな欠伸と共に再び睡魔が襲ってきた。
「だめだ、ねみぃ・・・・・・」
視界がぼやけてくると、もはや贖う気も失せる。そのまま俺はまどろみの世界へ堕ちていった。
「健介、お風呂良いわよ・・・って何よ。見てないならテレビ消しときなさいよね」
風呂を上がった悠が、バスタオルを頭にかけたままリビングに顔を出すが、そこに健介の姿はなかった。
「健介?」
悠が健介の部屋を覗く。
「全く、あんたは・・・・・・」
部屋を覗き、悠は苦笑した。ベッドに横になり、携帯を握り締めたまま既に深い眠りに就いている健介がいた。呆れたようでありながらも、悠は気持ち良さそうに眠る健介に毛布をかけると、静かに部屋の明かりを消した。
「おやすみ、馬鹿」
そのままドアを閉めた。
翌朝、いつまでも起きてこない健介の部屋に、悠が呆れたように入ると、毛布を剥ぎ取った。
「いつまでも寝てるんじゃないわよっ」
悠の怒声で、健介は飛び起きた。
「うほぉっ」
急なことで意味不明な声を上げ、健介が上体を起こすと、薬が切れているせいか忘れていた痛みに襲われた。
「健介、あんた昨日お風呂入ってないんだから、シャワー浴びなさい」
顔だけ再び覗かせると、寝着姿で髪も下ろした悠は朝食の支度に取り掛かった。
眠気と腕の痛みとで、健介はなかなかベッドから離れられなかった。ようやく起きて、悠に言われた通りシャワーを浴びようとしたが、初めて骨折した健介には、風呂の入り方が良く分からなかった。普通に入ろうとしても、腕のギプスは外せないからつけたままだろうが、かと言ってそのまま入るわけにもいかないだろう。
「これに腕入れて」
そんな健介に悠は大きめのビニール袋を差し出した。
「ギプス外すわけにはいかないんだから、これに腕入れて入りなさい。腕は後で拭いてあげるから」
言われるがままに健介はビニールで左腕を濡れないようにして、浴室へ向かった。
「あいつ、昔よりもさっぱりしてきたな」
風呂上り前に、悠が腕を拭きに来たが、腰にタオルを巻いただけの健介に、何てこともないように、そそくさと拭き終えると風呂を後にし、健介は悠の態度に内心、取り残されていた。
「ふぅ、さっぱりしたぁ」
濡れた髪をバスタオルで器用に拭きながら、リビングに顔を出すと、ダイニングから良い匂いが漂っていた。
「和食で良いでしょ?」
テーブルにはごく普通の家庭の和食が並んでいた。
「ああ、俺も朝は飯じゃないと持たないからな。それにしても全部作ったのか?」
俺も朝はなるべく和食を心がけているが、精々白飯に味噌汁と納豆くらいだ。
「そうよ。インスタントなんて栄養のバランス悪いじゃない」
健介が風呂に入っている間に、悠はご飯に味噌汁の他に、小鉢で三品、焼き魚と、どこぞの旅館の並みの朝食を用意していた。
「お前、すげぇな。これだけ出来るなら男の一人や二人すぐに捕まえられるだろ?」
「こんなので釣れても、嬉しくないわよ」
健介の言葉を流すと悠が先に座り、それに続いて向かい側に健介も座ると朝食が始まった。時計に針はまだ七時を過ぎたばかりだった。
「健介、食べ方汚いわよ」
健介が食べにくそうにしながら、時折ぽろぽろとこぼす様子を呆れたように見ていた。
「利き腕が使えないんだから、上手く食えないんだよ」
「まぁ分かってて言ったんだけど」
健介は悠をジト目で見る。左利きの健介には、急に右しか使えなくなると不便になることが増え、早速今がそうであった。
「あんた、今週はろくな仕事貰えそうに無いわね」
そんな健介を気にかけることなく、朝のニュース番組に目を向けながら箸を進める悠。生活を見てもらっているため言い返すことが叶わない。
「ほら、早く食べないと置いてくわよ」
悠は健介にフォークを差し出すと、残りの自分の朝食を食べ始めた。言葉じゃ、ほとんど励ましなどかけない悠だが、ちょっとした気遣いは人一倍だった。健介は悠にヒビを入れられた心が、少しだけ癒されたように感じながらも、やはりそれはただの思い違いだと思った。
「フォーク、小鉢に入らねぇじゃねぇかっ」
「あはははっ」
ガチャガチャと小鉢にフォークの先端しか入らない音が、無常にも健介の内心と、彼女が信用する人間だけに見せる悠の悪戯心を象徴していた。
「香田さん、整備の斉藤さんから連絡です」
「はいよ。もしもし――」
早朝のまだ六時。五月と言えど、田舎の朝は肌寒い。出勤してくる人はまだ少ないが、みな薄手の防寒着に身を包んでいる。大きな空港とかではないため、開場するにはまだ早い。それに早朝からの飛行も近隣住民への迷惑となるため、七時を過ぎなければ、緊急時以外は発進はしない。
「――はい、分かりました。すぐ行きます」
事務所内にはまだ数人しか出勤していない。ようやくエアコンが利きだしてきたせいか、まだジャケットなどに身を包んでいるパイロットや整備士の姿があった。
「小野原、ちょっとドックの方に行くから、先方さんや他に俺に何かあったら、そっちに連絡入れるように言っといてくれ」
「はい、分かりました」
今朝一番に飛ぶ予定の香田が事務所を後にすると静まり、残業で眠っている人の寝息がエアコンの駆動音に混じって聞こえる程度で、後は気象庁からの気象情報やニュース番組が聞こえる程度だった。
「はぁ・・・・・・」
朝一だからと早めに出勤しても、することが無い。みんなの机を綺麗にすることやお茶の用意も昔はしていたけど、今は私にも後輩がいる。新人の仕事だからと、今朝も香田さんに止められた。
「はぁ・・・・・・」
することも無く、給仕室で自分用にコーヒーを入れる。
「奥田さん、もう起きてるよね」
携帯の履歴の一番上には奥田健介と表示されていた。
予定表には、他のパイロットの人たちは、それぞれ予定が記されていたけど、奥田さんの所は空白だった。それを見て何故か私がため息を漏らしていた。
「結局、言えなかった・・・・・・」
美友紀がここへ就職した( た)理由。短大在学中の就職活動の真っ最中に、航空祭があった。航空機の一般、飛行展示から体験搭乗、バードフライのアクロバットの他にも、他の基地からのチームも飛行展示を行っていた。地域住民も、フリーマーケットや地域物産品等の出店など、その日はこの地域が一段と盛り上がっていた。
「格好良かったんだよねぇ」
誰もいない給仕室の壁に寄りかかり、携帯のデータフォルダに保存してある写真を見る。そこには、数年前の航空祭での健介と共に取った写真が数枚入っていた。
「もうそろそろ、来るかな」
画面に表示されている時計が、七時を過ぎていた。
美友紀が一つのカップを取り、少しだけ濃い目のコーヒーの支度をしていた。雨宮と来ることが分かっているから、少しでも会話のきっかけを持とうとしているようだった。
「なぁ、別に俺一人で良いぞ? お前まで遅れるわけにはいかないだろ」
食事を終え、着替えを済ませると普段ならとっくに出勤している時間だった。
「健介が良いなら、良いけど。でも、どうせそのままサボる気でしょ?」
人をなんだと思っているのだろうか。そりゃあ、昔は面倒臭くて、病気休暇を取ったこともあったが、そんなのは就職した頃の話だ。今じゃそんなことすれば、先輩たちや藤沢さんに何をさせられるか考えただけでも恐ろしい。
「別にこれ見てもらうだけだぞ。一人で十分だって。がきじゃあるまいしよ」
左腕を部屋で身支度をしている悠へ向ける。人前で化粧をしていても、気にした様子を見せず、逆に堂々とされるので俺のほうが少し気にしてしまい、リビングで八時のニュースに目を向ける。病院まで付き添うと言ってくれるが、俺からすれば病院まで送ってもらえれば、診察が終了次第、バスででも仕事には行ける。
「それくらいなら、そんなに時間取らないでしょ。それにさっき遅れること言っておいたから遠慮しなくて良いわよ。あ、それと診察の予約も入れといたから」
悠は手回しが良いとでも言うべきか、俺が知らない間にそこまで予定を組んでいたとは。
「分かったよ。それじゃ頼む」
「始めからそう言いなさいよ。素直じゃないわね」
「別にそんなつもりねぇよ。俺のせいでってのがちょっと嫌なだけだ」
「良いわよ別に。私は私のやりたいようにしてるだけだし」
「そうですかい」
しつこくない会話は気が楽でいい。それを悠も感じているから、俺も長い言葉は話さない。
「またか。一件出てくると、どんどん出てくるなぁ」
ニュースから毎日のように同じ報道が流れているように見える。人は不思議な生き物だと常々思う。たった一つの事件が発覚すれば、今まで出てこなかったものまで根掘り葉掘り持ち出してくる。しつこいったらありゃしない。過去のことまで持ち出し、ネチネチと全国ネットで愚痴のような論評をするコメンテーターにも飽き飽きする。そんなことは、家でテレビでも見ながら言うだけで良いじゃないかと思うのは俺だけだろうか。
「最近は多いわね。そういうことは家で勝手に言いなさいって感じよね」
悠が身支度を済ませ、部屋から出てくる。
どうやらそう思うのは俺だけじゃないらしい。こういうところで意見が合うからこいつとは割が合うと思うのだろう。
「行くのか?」
「予約も取ってあるからそろそろ出ましょ」
「おう」
テレビ越しに感情を持ち出し、朝から聞いてて疲れるコメンテーターの話を途中で切るように、リモコンを切る。いつもなら色々と手荷物があるのだが、しばらくは雑用だけだ。大した荷物はいらないだろう。持ってきたカバンは薄っぺらの状態で、家を後にした。
「相変わらず、クラシック好きなんだな」
「嫌いになる理由はないしね」
早朝の病院へ向かう車内には、ラジオではなく、眠気を誘うようなクラシックがかかっていた。
「それにしても、今でも吹いてるのか? 部屋に置いてあったけど」
悠がクラシックを好きなのは、元々姉がやっていたのを機に中学に入ってから吹奏楽部に所属したのがきっかけだった。
「たまにね。でも最近はめっきりよ。忙しくてそんな暇ないし」
自嘲的に悠が苦笑する。仕事が多忙なのはそれだけ飛行場としては良いのだが、それ相応に疲労は心身共に溜まる。だから仕事へ向かう車内くらいは気持ちの安らぎを求めるのだろう。
「しっかし、眠くならねぇ?」
クラシックはほとんど聞かない俺には、聞き覚えのない曲は睡魔を呼び起こすのに十分だった。
「あんた、知ってる曲には反応するくせに、知らないとなると一気に冷めるわね」
悠が俺のことを可笑しそうに見てくる。
「そうは言ってもなぁ。なんかそうなっちまうんだよ」
演歌もそうだが、良く耳にしている曲は自然と体が反応するが、そうじゃないのは、クラシックなんかは何度も聞かない限り、その良さは体が受け付けない。
「昔からそうよね、あんた。興味ないことは全然関心持たないし」
それは自覚している。だから悠の今の言葉が俺に対する貶しであろうが、俺には褒め言葉に値する。
「だから、今の仕事してるんだ。文句あるか?」
「別に。あんたらしいだけね」
そっけないというか、無関心な悠。元々こういう奴だから俺も気にもしない。
悠の家から病院までは十分程度の距離で、結局聴いた曲は二曲にも満たなかった。それでも悠のセンスなのか、俺の中にはその曲がしばらくの間、反芻していた。こうして聞いていれば、次第に気に入ってくるのかもしれない。
「それにしても、病院ってのはどうして朝ドラなのかねぇ」
予約時間まで少し早かったせいか、二人して待合室で朝の連ドラを眺める。
「そお? 面白いじゃない」
俺がため息交じりに見ているのに、悠は隣で他のご老人方と同じように見ていた。俺と悠の前の椅子には、ニット帽にパジャマ姿の子供まで、ドラマを見ていた。まだ小学校低学年らしき風貌なのに、戦前戦後の模様を描いている連ドラなんか見ても意味が分かるのだろうかと、心中で苦笑してしまう。
「お前、こういうの好きだっけ?」
他のドラマとは違って毎日やっているから、続きはすぐに見れて良いかも知れないが、俺としてはもっと大まかな内容で良い。連ドラともなると、細部にまで話が拘るものは少々俺には荷が重い。
「現実味があって良いじゃない」
画面を見ながらも、俺の問いには答えてくれる辺りは、真面目な性格の悠らしい。待っているだけで、他にすることはない。悠は見入っていて、邪魔するのは気が引ける。というよりも、悠と話す話題は少なすぎて、何を話せば良いのかよく分からない。手元にある雑誌も女性誌ばかりで興味も湧かない。
「健介、あんた呼ばれてるわよ?」
テレビを見ながら、悠が言った。一瞬何のことかと思ったが、看護師が俺のことを呼んでいた。
「んじゃ、ちょっくら行ってくる」
俺が立ち上がると、悠が頷いた。
「昨日の今日ですが、どうですか?」
どうですかと言われても、一日でどうこうなる怪我じゃない。痛みは感じるし、腫れから来る熱っぽさも否めない。でも我慢の許容範囲内だ。
「まぁそうですよね」
そう言って笑う医師。人が怪我をしているというのに、それを見て笑われた。信じていたものに裏切られた気分が微かにした。
「とりあえず、それ換えましょうか」
俺の左腕を見る。外すというなら歓迎だ。薬臭くて、痒い。風呂でもつけたままだったから、嫌で仕方なかった。潔癖症ではないが、それなりに自分の体を自由に洗うことも出来ないのは、初めてのせいか、気になって仕方なかった。
「少し痛むかもしれませんが、少しの間だけですからね」
昨日つけたものを外す。ただそれだけのことなのに、妙に緊張する。自分の体なのに、自分じゃないものを目の当たりにする感じと言ったところだろうか。今朝、風呂上りに悠に拭いてもらったが、全くの他人にされると、妙に力が入っていたような気がした。
「・・・・・・っ」
支えがなくなり、腕に力を入れないと垂れ下がる。その瞬間、鈍痛が走った。力を込めると、骨に響く。
「私に乗せて良いですよ。力を入れると痛みますでしょ?」
それを見て、看護師さんが俺の腕を支えてくれた。
営業スマイルなのだろうが、それでもその優しさは嬉しく、意味なくドキっとした。
改めて見る自分の腕は、掌から肘の間が右とは違って少々まだ腫れのせいか、微妙に湾曲していた。
「痛いですか?」
呑気に医師がそう言った。この人は本当に医者か? そう思ってしまったが、それは単なる痛みに耐える俺への気晴らしに言っただけなのだろう。その間に手早く消毒と処置を施し、何かを注射するとまた新しいギプスが着けられた。
「はい、良いですよ。まだしばらくは動かしたりは禁止ですよ。腕が曲っても良いのなら別ですが」
昨日は時間がなく簡単な固定バンドだったが、今日からは本格的なギプスに変わった。仕事に行けば、また昨日のように包帯がアートにされるのかと思うと、少々笑えた。
「お大事に」
決まり文句のようだが、その笑みは痛みを和らげてくれた。」
待合室へ戻ると、ドラマも終わり、ニュースが流れていた。
「それじゃあ、お金払ってくるから」
「悪いな」
悠が席を立って受付へと行く。身の回りの世話は、ほんと無意識に近いのだろうが、よく出来る奴だとつくづく思う。時計を見ると、既に出社時間は過ぎているが、予め連絡していたから問題はないだろう。悠に迷惑をかけることに対しては申し訳ないと思わざるを得ないが。
「おじちゃん、それ、けが?」
支払いを済ませている悠を待っていると、先ほどのニット帽の少年がこちらを見上げていた。
「・・・・・・俺?」
まだ俺は若いんだ。おじちゃんじゃない。しかし、少年の見上げる視線の先には、俺しかおじちゃんに値する可能性のある男はいない。他はおじいちゃんだ。
「うん。けがしたの?」
ギプスと包帯で固められた俺の左腕を指差す。
礼儀を知らないのは、仕方ない。子供なのだから、無邪気なのは当然だと思っている。
「そう、怪我したんだ。骨折」
俺の言葉に、へぇなどと関心した気配を見せず、あまり興味無さそうに頷く。自分から聞いておいて、適当な返しで終わらせる辺りは、どこかの誰かさんにそっくりな気がした。
「いたい?」
無垢な瞳で俺を見てくる。その目は世界を知らない子が、世界を知る人間に教えを請うかのようだった。
「ああ、痛いよ。でもこれくらいは我慢しないとな」
これくらいで喚いていては示しがつかないだろう。流石に子供じゃないのだから。
「何でがまんしてるの?」
不思議そうに俺を見るこの少年。何故かその目を見ていると、純真無垢と言うよりは、自分の置かれている境遇が如何なものかを探ろうとしている目に見えた。
「大人だからな。こういうことじゃ人前で泣いたり出来ないんだ」
自分を嘲るように言うが、少年は表情を変えない。
「なんで?」
本当に何も知らず、ただ理由を聞きたがっているその瞳が俺には眩しかった。
「このおじちゃん、こんなこと言ってるけど、おうちで痛い痛いって泣いてるのよ」
背後から支払いを済ませた悠が、俺の代わりに変なことを暴露してくれた。
「そうなの?」
「うん、そうなの」
少年が俺のことを、うわーこのおじちゃん、うそつきだー的な冷めた視線を送ってくる。大人の目も結構心にくるものがあるが、子供の目のほうが痛いのは俺だけなのか?
「悠、お前は余計なことを言うな」
睨みを利かせて悠を見るが、そんなことは気にも留めた様子もなく、少年と話をしていた。こいつには、そう言うのはまるで通用しないんだったな。
「ねぇ、君は何て言うお名前?」
悠は俺と話す時とは違い、優しい笑みを浮かべて少年と同じ目線に腰を下ろし話しかける。
「たかみねはやと。お姉ちゃんは?」
俺はおじさんなのに、悠のことはお姉ちゃんか。何か悔しいな。
「私は雨宮悠よ。よろしくね。ついでにこの人は奥田健介って言うの」
そう言って差し出した手を、はやとも小さな手で握り返していた。
その後も少し話し込んでいたが、そろそろ出勤しなければ、申し出時間を越えてしまう。
「それじゃあな、はやと」
「ええ、またね」
「ばいばい」
時間もなかったせいでほとんど話すことはなかったが、それでもはやとはどこか嬉しそうに俺と悠を見送ってくれた。そしてその目は、俺たちが出入り口を後にすると、寂しそうなものに変わった気がした。
「少し遅れるかもね」
「仕方ないだろ。ちょっくらいなら理由は何とでもなる」
病院から飛行場までは少々遠い。言い訳なら診察に時間が掛かったと言えば通用するだろう。俺としては仕事は雑用しかないので遅れようが良いのだが、悠はきちんと仕事が待っている。迷惑はかけられないだろう。かと言って何も出来ないのは仕方がない。
「あの子、どうして入院してるのかしらね」
前を見ながら珍しく悠が、他人の話題を積極的に持ち出してきた。
「さぁな。怪我って訳じゃなさそうだから、病気なんだろ」
俺たちと話している時も、時折看護師さんと言葉を交わしていた。慣れ親しんだ感があったから、入院して間もないというわけじゃないだろう。
「可哀想よね・・・・・・」
悠が気落ちしたような表情で呟いた。
悠がそう思うのは、俺にも分からないこともない。遊び盛りの少年が、何らかの理由で病院から出ることが出来ない。窓の外から見える同年代の子供を見ると、やはり疎外感や孤独感を感じるだろう。俺は入院したことはないからその気持ちは汲んでやれないが、何となく分かる気がする。
「経験者は語る、か?」
俺が横目で悠に言うと、悠は静かに頷いていた。
「やっぱり子供の頃に入院すると、それだけ子供でいられる時間が少なく感じるかも」
悠の言葉は単に思うことを口にしているわけではなかった。
「小児病棟じゃなかったのか?」
「違うわ。一般よ。だから周りは大人ばっかだったわよ」
そっけない悠の言葉。本人としてはあまり良い思いはなかったようだ。まぁ入院に良い思いなんてなかなかなさそうだけどな。
「どれだけ入院してたんだっけ?」
中学からの付き合いで、悠が入院したことがあることは聞いたことがあったが、詳細は聞いていない。
「最初に一ヶ月で、その後に別のを患って二ヶ月だったかしら。その後は自宅療養で結果として半年近くは学校は休んでたわね」
やはり悠の言葉には色がなかった。俺は知っている。いくらそっけない性格だとしても、その中にも悠は感情を含ませる。それを読み取るまでに俺は成人を軽く超えてしまった。我ながら恋人でもない人間のことをよく今まで気にかけていたな、と思うこともある。そして、今の言葉にはその感情がなかった。こういう時はそれ以上は聞かないで欲しい、思い出したくない等の意味合いを含んでいるため、これ以上は聞かなかった。
「じゃあ、はやとも似たようなものなのか?」
「どうかしら」
それ以上は自分のことも、はやとのことも何も言わなかった。
普通なら妙な空気が漂いそうだが、悠と居ればたまに会話が途切れることは多いため、特に嫌な間ではなかった。
「あれ、うちのヘリだよな?」
話題を切り替えようと流れて良く景色を見ていると、フロントガラスの先に、赤と白の模様の中型ヘリコプターが飛んでいた。四百フィートほどの上空を、さらに上へと機体を上昇させている。
「藤沢パイロットね。確かローカルテレビの上空撮影だとか聞いてたけど」
悠が一瞬俺と同じ方向へ目を向けると、すぐにハンドルを握る先へ視線を戻す。ヘリを見ればすぐに誰か分かる。何しろヘリパイは藤沢上官と若いのが二人。航空機部門には俺を含め八人という少ない人数だ。バードフライに五人併用しているが、他の三人は俺たちに指導係りでもある、ベテランばかり。その全員を束ねるのが藤沢上官だ。
「あー、なんかそんなこと書いてたな」
昨日、無駄だがいつもの癖で勤務予定表をチャックしていた時に、上官の藤沢さんの担当に、そんなのが入っていた気がする。大手でもない放送局なんかは、自社ヘリなんてものに予算は費やせないため、たまにうちのをチャーターしている。良い顧客だ。
「それにしても、藤沢パイロットの腕は相変わらず綺麗よね」
上昇飛行でなおも高度を上げていくヘリ。滑らかな操縦テクニックはあの人ならではだ。さすがは三十年以上のキャリアを持つ人間だと、パイロットとしては尊敬する。
「あの人はベテランだからな」
確か社長と飛行場を共に立ち上げた仲間らしい。元々は大手航空会社のパイロットだったらしいが、退社してうちのパイロットをやっている。滅多に自分のことを話す人ではないから、俺もプライベートにむやみに立ち入るつもりはなかった。身近に似たような人間を知っているからな。それにしてもヘリパイの中では重鎮だから、その腕は格が違う。
「あんたも見習いなさいよ。風の息を読めるくらいにならないと」
藤沢さんは、ヘリを操縦する際、風の息、つまりは風の流れを読む。でなければ、ヘリは風に煽られるからだ。だが、俺の乗る飛行機は違う。それでも風の息は読めないと、操縦桿を取られ、失速する。ヘリも飛行機も空に上がれば常に自然との格闘なのだ。
「そんなもん、すぐに身に付くかよ。藤沢さんと俺を比べるなって」
俺なんてまだキャリアになんて数えられない。それにあの人は俺の上司と言えど、ヘリのパイロットだ。俺は飛行機だ。同じ航空機と言えど、その操縦方法から、計器・エンジンまで扱いが違う。あの人に俺は追いつくことはない。俺がヘリパイロットにでもならない限り。
従業員用の駐車場に車を止めると、ようやく仕事の始まりだ。もう既にいつもよりも二時間も過ぎている。
「悪かったな。お前まで遅くなって」
「何度も謝らなくて良いわ。私が決めたんだから」
そう言われては頭が上がらない。俺のせいだというのに、特に気にした様子はない。それ以上は俺がごちゃごちゃ言っても、煙たがられるだろう。俺はそれ以上頭を下げることはしなかった。
「私このまま整備格納庫に行くから」
「了解」
俺は事務所へ、悠は格納庫へ。それぞれの仕事場へとそこで別れる。二時間も遅れれば、彼女にとっては少々取り戻さなければならないのだろう。俺と別れると小走りに格納庫へと向かっていっていた。
「早く治さないと、悠に迷惑かけっぱなしには出来ねぇか」
俺は悠を見送ると、事務所の裏口へと仕事へ向かった。
「おはようございます」
事務所へ行くと、待機のパイロット以外はほとんどが出払っていた。元々パイロットは飛行機、ヘリを含めて二十人もいないため、数人残っていることは、それだけ仕事が入っていないということの表れでもあった。
「健介、遅かったな」
予め伝えていた時間を越えていたが、治療が長引いたとしか、同僚たちは思っていないようで、軽く挨拶を済ませると、それぞれの仕事へ取り掛かっていた。
「おはようございます、奥田さん」
受付の美友紀が手が空いたようで戻ってきていた。
「美友紀ちゃん、おはよう」
美友紀は健介の腕に目を向ける。
「まだ二日目だからね。すぐには良くならないよ」
その視線に気がついたのか、健介が苦笑する。
「そうですよね。でも無理はしないで下さいね」
言いたいことを先に言われたように、美由紀が照れ笑いを浮かべながら、健介に一枚の紙を手渡す。
「藤沢さんが、奥田さんが来たら渡すようにと」
受け取って目を向けると、そこには俺のスケジュールが組まれていた。
「マジで雑用係だな、これ」
そこには所内の清掃から、運搬用の荷物整理、受付助手等などここへ入社したての頃のような雑用が、終業時間までみっちり組まれていた。
「ほんと人使い荒いな・・・・・・」
まだ入社して十年も経っていないからということなのか、日頃から健介は飛ばない日は新人並みにこき使われることが多かった。パイロットとして運行業務に組み込まれるようになってからは、比較的楽になったが、外された今は、もはや新人扱いに戻されていた。
「何でしたらお手伝いしますから、遠慮なく言って下さいね」
美友紀の言葉が健介には、光りを纏った女神にも感じられた。
昨日同様に、事務所で待機している先輩たちにからかわれながらも、書類整理から次の運行予定の打ち合わせの手続きを済ませていると、遅刻してきたこともあり、昼休憩となり、健介は一人管制塔の屋上へと足を運んでいた。飛行場内では一番高い場所のため、見晴らしがよく春風が心地良く吹き抜けていた。煙草に火をつけ、大きく吸い込み吐き出すと、空へと煙が消えていく。
「良いなぁ」
眼下では整備中の航空機が数機、日の光を浴びていた。午後発便が出発前に最終チェックを受けているようで、整備班の姿が忙しく動き回っていた。
「あいつも良く働くよな」
健介の視線の先には、副チーフとしてテキパキと指示を飛ばし、自分も率先して作業にかかっている悠がいた。
メリハリが利く悠は、仕事とプライベートを完全に切り離しているため、別人のようだった。そんな悠を眺めていると、自分が雑務に追われ根を上げていることが、小さく感じてしまう。怪我をしたのも、自分の単なる不注意。それに悠を巻き込むように世話になり、遅刻までさせてしまっているのに、彼女は忙しそうにしながらも、楽しそうに仕事をしている。それに比べると、愚痴をこぼしながら自分の怪我に甘え、今こうして空を飛べない代わりに、少しでも空に近いところで風を浴びている。
「まだまだ甘ちゃんだな、俺」
まだ半分も吸っていない煙草を携帯灰皿に押し込み、滑走路に向かって深く深呼吸をすると、背を向けた。
「健介、昼飯まだだろ? 食いに行こうぜ」
智史は午前の飛行がなかったため、整備班と共にドッグにいたようで、作業着姿だった。
「お前、何してたんだ?」
午後からの飛行が入っているはずだから、飛行経路の確認と天候チェック等としなければならないことがあったはずだ。
「何って、お前の機体の確認してたんだよ」
普段なら勝手に人の相棒を弄るな、などと言うのだが、今回に限っては何も言えなかった。しばらくはバードフライとしての活動にも携われないのだから、智史が俺の代役でバードフライに入るのだから、俺の相棒もしばらくはこいつと飛ぶことになる。
俺がいない間に倉庫入りをするよりは、ライバルとは言えど空を飛んでいるほうが、フルートにも良いだろう。ここは大人しく引き下がるのが、相棒を思ってこそだ。
「んじゃ、飯いくか」
二人して食堂へと行くと、午前の飛行から戻ってきたパイロットや、整備士で賑わっていたが、中には地域住民の姿もあった。うちの飛行場は見学は自由で、観光や地域住民ために食堂も開放していて、昔はいまいちだったらしいが、最近はメニューのバリエーションも増え、味質も向上しているとなかなかの評判だった。
「健介、席取っといてくれ。俺が買ってきてやる。いつものか?」
「了解。それと箸が使えないんだ。パスタ系で頼む」
利き腕が不自由なのは、色々と慣れないうちは不便だし、周囲に気を使わせてしまう。居心地の悪さを感じるのは否めなかった。
「健介、お前のその腕、全治いくつ?」
A定食をがっつきながら、開いている片手で気象図の確認をしながら、俺の怪我を聞いてくる。どれか一つに絞れよと言いたいが、時間が押していることもあるのだろう。
「全治二ヶ月ってとこだ。航空祭には無理だな」
自分のせいとはいえ、言ってて悲しくなる。
「じゃ、八月くらいまでは飛べねぇな」
「分かってるさ」
夏の空は好きだっただけに、飛べないのはいたい。
「無理して長引かせるなよ。フルートも俺よりもお前を待ってるぞ、きっと」
こいつは俺が飛べないから自分が飛べるというのに、それほど嬉しそうに見えないのは気のせいか。それとも俺を気遣っているのかよく分からないが、その言葉だけは受け取っておいた。
「じゃ、俺は支度あるから先行くわ」
俺がまだ半分ほどしか食い終わっていないのに智史は既に食べ終わり、食堂を後にした。普段なら俺もそれほど時間を取らないが、慣れない右腕だけではどうしても時間が掛かってしまう。
「奥田さん、隣良いですか?」
カルボナーラと奮闘していると、美友紀ちゃんが持参してきたのだろうか、可愛らしい巾着とケーキセットを手にしていた。
「いいよ」
昼時は混雑するため、なかなか席がない。一人で奮闘するのも虚しいから先ほどまで智史のいた隣を譲った。
「奥田さん左利きだったんですよね」
慣れない手つきでフォークを操る俺を見て、大変そうですねと声をかけてくれる。からかっていないのが良く分かるから、その気使いは素直に嬉しい。
「美友紀ちゃん、弁当は自分で作るの?」
俺なんかは食堂に頼りきりだが、女子社員の中には節約やダイエットなのだろうか、自分で作ってくる子が多い。朝も早いのに良くやるなぁなどと感心してしまう。
「妹が学生だから、ついでに用意してもらってるんです」
照れたような笑みで、弁当を突く姿は愛らしかった。
「実家暮らしだったんだ?」
妹さんが学生なら、母親がついでだからと用意してくれているのか。安上がりだと考える俺は野暮なのだろうかと、自嘲してしまった。
「はい、一人暮らしでも良かったんですけど、まだ社会人としての自覚が足りないみたいで・・・・・・」
最期まで言わずに照れてしまっていた。その様子から何となくその自覚とやらが何なのか予想できてた。俺も入社当時はよく似たようなことがあったからな。
そのまま午後も雑用があるが、比較的暇な俺は、食べ終わっても美友紀ちゃんが食べ終わるのを待っていた。
「美友紀ちゃんってケーキ好きなんだ?」
食後に俺はコーヒーを買って、美友紀ちゃんはケーキセットを食べていた。
「甘い物は比較的なんでも好きなんですけど、一番はケーキですね」
あんまり食べると太っちゃうから、週に一、二度なんですけどねと、笑いながら付け加えた。
「美味しい?」
何となく言葉が漏れた。幸せそうに食べている姿を見ると、味は問題ないのだとは思う。
「凄くって感じじゃないですけど、美味しいですよ。一口どうですか?」
レストランも兼ねるようになってから、質が向上し味も良くなったのだろう。普段ケーキは食べないからあまり良く分からないが。
「いや、俺は良いよ。ケーキ類は苦手なんだ」
洋菓子系はそれほど得意じゃない。あっさりしたものなら良いが、味がしつこいものが多くてあまり好きじゃない。
「そうだったんですか。ちょっと意外でした」
「そう?」
「奥田さんってあまりお酒飲まないですよね? だから甘いのはお好きなのかと思ってました」
確かに酒はあまり飲めないが、だからと言って甘いものもそれほど好きって訳じゃなかった。
「あっさりしてるのは良いんだけど、しつこいのとかはちょっとね」
「そうですか・・・・・・」
甘い物の好みを言っただけなのに、美友紀ちゃんが残念そうに見えたのは気のせいか。一緒に食べてあげたほうが良かったか。
「奥田さん、午後からも頑張って下さい」
昼食を終え、仕事のある美友紀ちゃんと別れる。俺も一応仕事だが、それほど時間のかかるものじゃない。書類の整理なら、何とか時間内には終わるだろう。
「ちょっと一服していくか」
すぐに動くと腹痛がする。それに煙草が吸いたかった。
「健介?」
食堂を後にして、近くのベンチで一服しているとやっと昼食なのだろうか、悠がいた。
「今、昼か?」
「あんまり時間無いからパンだけど」
やはり朝が遅くなったせいで、仕事が押しているようだった。
隣に腰を下ろし、パンを食べ始めた悠に煙草の煙が行かないように、風下に立つ。
「お前、これから朝は、俺のこと気にしないで良いぞ」
ろくに昼も休めない状態なのに、俺の負担を抱えさせてばかりでは、やはり立場がないのもあるが、性格上俺がそれを許せない。
「何よ、急に?」
やはり悠なのだと思ってしまう。全く気にも留めていないようだし、忙しいだけで、疲れを感じさせないように振舞ってくる。浅い付き合いというわけじゃない。もう十年近く知り合った仲だ。こいつがどんな性格で、どんな人間かなんて八割は分かっているつもりだ。
「無理してるだろ? 俺相手にバレてないとでも思ったか?」
正直言うと、さっきまで分からなかった。普段仕事中は決して素性を見せない奴だから、周囲も気づいてないか、気にするに値するほどではなかったのだろう。
「何のこと?」
惚けて見せる悠。こいつの悪い癖だ。人の心配はするくせに、他人に自分のことは心配させまいとする頑固な悪い癖。この飛行場に、こいつの癖を知っているのは、俺や藤沢上官くらいだろう。
「良くは見てなかったが、テールローターの調節でも指示してた時、他の連中がドッグに入って行った後、疲れたみたいにちょっとふらついてただろ?」
テールローターとは、ヘリコプターの主要心臓部の一つで、ブレードと呼ばれる天頂部のメーンローターが回転することで、その反作用によって胴体がローターの回転とは逆に回されるため、それを防ぐ役割をする機体後方部に取り付けられている小さなブレードのことだ。
ヘリコプターの整備中の様子を昼飯前に見ていた時、誰も見ていないから油断でもしたのだろう。俺はその様子を見逃さなかった。
「あんたまたサボってたわけ?」
疑惑の視線を向けてくるが、今の俺には通用しない。
「仕事が片付いて、一服入れてた時に見えたんだ」
実際はまだ片付いてないが、本音を言えば悠に呆れられる。
「別にふらついたわけじゃないわ」
悠はそう言うが、それ以上弁明をするでもないので、健介は自分の言っていることが間違いだとは思わなかった。下手に言い訳をしない潔さが、下手に嘘のつけない何よりの証だった。
「お前、最近忙しいくせに、自分から仕事入れてるだろ?」
あくまで推測だが、悠は俺が思っている以上に疲労を抱えていて、その上で俺の面倒まで見て、仕事場でも自宅でも思うように休むことが出来ず、妙な緊張状態に常に身を置いているため、その緊張が解けた時に一気に負担が襲ってきているはずだ。化粧の下の目の下に隈が出来始めている。
「心配するほどじゃないから」
反論する様子はない。図星だと思うことにした。
「お前が自分で仕事を入れて多忙にするのは別に関係ないが、その上俺のせいでってのは、俺が嫌なんだ」
「私は気にしてないって言ってる」
「俺が嫌だと言ってる。もう少し、他人よりも自分を労われ」
お互い一歩も引こうとしない。二人の悪いところがぶつかり合い、大したことじゃないのに、終わりが来ない。
「午後便の出発アシストがあるから、私行くわ」
逃げるように悠が腰を上げると、俺の前から静かに歩いていった。
「やれやれ。素直じゃないのはどっちだよ・・・・・・」
俺はその背を見送ることしかしなかった。下手に言っても拗れるだけだ。それは嫌というほど自覚している。
「俺も戻るか」
遠くから聞き慣れたエンジン音がいくつか混じって聞こえていた。そろそろ午後便が出発を開始するのだろう。その音に背を向けると、俺は事務所へと戻った。午後の仕事も手続きの書類の整理や、荷物の仕分けの伝票精算、帰社するパイロットのためにデスクの掃除等など雑務ばかり。入社当時となんら変わりない仕事が、これからも続くのかと思うとやる気も失せてくる。
「奥田さん、大丈夫ですか。お手伝いすることがあれば遠慮なく言って下さいね」
そんな中でもめげずにこなせるのは、受付の仕事で手が開いた時に俺を気遣いに戻ってきてくれる美友紀ちゃんの心遣いだ。その真っ直ぐな気持ちは本当に嬉しいが、あまり手が抜けなくなってしまうのまた、俺が順調に仕事をこなせる理由だろう。
「ありがとう。でも大丈夫だからその気持ちだけ受け取っとくよ」
強がってしまうのは、男の性だろうか。素直に甘えれば仕事はもっと速く片付くだろうが、周囲の同僚たちの目が針から刃物へ変わっていくのも確かだ。
「そうですか。でも遠慮しないで下さいね」
そういって再び仕事へと戻っていく美由紀ちゃんの背中を笑顔で見送り、心で惜涙した。
「それじゃ、お疲れ様でした」
パイロットの時はフライトスケジュールの調整等で、時間通りに終わることは少なかったが、今は俺が定時に終わっても誰も咎めることはなかった。裏口から出ると、まだ夜間飛行組みの仕事が活発に行われていた。
「健介」
外は既に夕闇の中に埋もれているが、寒さはそれほどではないため一息つくには心地良い夜だ。
「もうお前も終わりか?」
悠はまだ作業着だ。これから着替えにでも戻るのだろうか。
「そうじゃないの。もう少し時間掛かりそうだから、食堂で夕食摂ってもらえない?」
どうやらまだまだ仕事の途中のようで、やはり俺のせいだろう。腰に装着している無線機から悠を呼ぶ声が聞こえた。
「分かった。それよりも早く戻れよ、呼ばれてるぞ」
「終わったら私も行くからそれまで時間潰してて」
悠は言い残すと再び来た道を戻っていった。今の悠には、昼のわだかまりは感じられなかった。それだけ仕事が忙しいのか、性格からなのかは判断が難しいが、とりあえず悠とまた冷たい言い合いをすることが回避されただけでも儲けものだな。
「しばらくは食堂で時間を潰すか」
悠が来るまでどれほどの時間が掛かるかはわからないが、食堂なら二十三時まで営業しているから問題ないだろう。腹も減ったことだ、悠には申し訳ないが先に夕飯にすることにした。食堂は夜間組のパイロットや整備士たちばかりだが、その中で一人俺は慣れない右腕でオムライスと奮闘を続けていた。
「健介、まだ食べてたの?」
食堂のメニューは夜間に限り昼間に比べてボリュームがアップしていて、なかなか食べるのに苦労を強いられた。
「終わったのか?」
「うん。ここ良いでしょ?」
悠も仕事を追え、定食を手に俺の正面に腰を下ろした。
「はい、これ」
そう言って悠が自分のお盆から蓬団子を俺の前に置いた。
「おっ、くれるのか?」
俺の顔を見て少々可笑しそうに笑いながらも頷いた。これは願ってもないものだ。和菓子は好きだ。特に団子系はいくらでも食えるかもしれない。しつこくなく、あっさりとしていて腹に溜まる。これほど良い菓子はないだろう。昔の人はよくこんな美味なるものを生み出したものだと、感謝の極みを感じないこともない。
「相変わらず団子が好きなのね」
「当然」
目の前に団子を出されてから、水を得た魚のようにオムライスを食す俺の右腕はその動きを機敏にした。そんな俺を、子供を見る母のような目で悠は軽く笑いながらも、俺に合わせるように夕飯を食べていた。些細なことでも、気晴らしにはなっているようで、仕事の話をすることなく、俺たちは帰路に就いた。