第一章5
弘太は眠れない夜を過ごしていた。家に帰ってきたのは、一時前。千鶴子は食べられず残った夕食を前に、呆然と座っていた。拓馬がいなくなってから、いつもそうだ。第一、食卓を囲む空気が食欲を失わせる物だから、仕方ないのかも知れない。残った食事は、千鶴子の朝食や昼食になっていた。
「俺には関係ないけどな」
弘太は寝返りを打つ。そして、携帯電話を手にした。メール画面を開き、ため息をつく。
『インハイ七位入賞
兄貴の最後の大会と一緒だ。悔しかった兄貴の気持ちがよくわかる。
来年は絶対、一番になるから。もう一度一緒に走ろう』
夕方に届いたメールの差出人は拓馬だ。大会の度、届くメールに弘太は一度も返事を返せずにいる。拓馬は何を思って一緒に走ろうと言っているのだろう。弘太は陸上を捨てたのだ。ゴミ箱にスパイクを投げ入れたあの日、もう陸上選手には戻らないと決めた。それでも、体は正直で、走りたいと弘太を急かす。
「いい加減、諦めろよ。俺はもう走れないんだ」
弘太は呟く。まるで、自分に言い聞かせているようだった。眠れない夜は続く。
明け方になって、ようやく浅い眠りが訪れた。どこか遠くで電話のベルが鳴っている。
「弘太さん、弘太さん。大変よ。起きてちょうだい」
ユサユサと揺すられ、弘太は目を開いた。寝不足のせいか、なかなか焦点が合わない。時間をかけて千鶴子の顔に焦点を合わせた。今にも泣き出しそうな顔で、弘太を揺すっている。
「……何?」
「大変なの。工藤君が……工藤君が……」
弘太は跳ね起きる。夜中に昴と会ったことは言わなかった。何があった?気づかれたのか?何にしろ、心中穏やかではない。嫌な予感がした。
そして、千鶴子は最悪な言葉を口にした。
「……工藤君が……亡くなったわ…」
「……え……」
ナンダッテ?クドウガナクナッタ?ソンナハズハ……。
「さっきの電話、学校の先生からだったの。……今朝、自宅マンションの裏で亡くなっている工藤君が発見されたって。屋上から飛び降りたみたいよ。工藤君の部屋からは書き置きが見つかったから、自殺で間違いないみたい」
一言零れると、後から、後から言葉が繋がる。弘太が呆然と聞いていた。
「お通夜は早速だけど、今夜、十九時から。お葬式は明日の十時からよ」
千鶴子が何を言っているのかわからない。その言葉を理解することを、頭が拒絶していた。
「俺、昨日工藤と会っていた。遅くまで一緒だったんだ。それでも?」
「……弘太さん……」
「そんなの嘘だろ!頼むから、嘘と言ってくれよ!ほんの数時間前まで一緒にいたんだぞ!」
弘太は悲痛な面持ちで叫ぶ。そんな息子にかける言葉を知らなかった。