第一章2
父親の正行。母親の千鶴子。それから、弘太。一つ下の弟、拓馬が陸上だけでなく、勉学の面においても有名な宮浜大学の付属高校の体育科へ進学し、クラブ寮に入ってしまった時から、この家に三人で暮らしている。弘太が陸上を辞めたことによって正行との不仲が顕著となり、会話と呼べそうな物は喧嘩だけとなった。家中に重苦しい空気が流れている。今も食事中だが、会話が全くないので、せっかくの夕飯が大変不味い物になっていた。その空気を破ったのは、一本の電話だった。
「はい、金居でございます」
『母さん、俺。拓馬』
「まあ、拓馬さん。どうしたの?元気にしてた?」
電話向こうから聞こえてきたのは、拓馬の声だ。電話を取った千鶴子の声色が変わった。いくら慣れたといえども、あの空気を好きになることはできない。正しく、天の助けだった。
『ああ、元気だよ。前に言ってただろ。今日はインハイの一〇〇メートルだったんだ。優勝はできなかったけど、七位に入賞したよ』
「まぁ!拓馬さん、素晴らしいわ。おめでとう。それで、いつ帰ってくるの?」
『終わるのが六日だから、次の日には帰るよ』
「そう。ごちそうを用意して待っているわね」
『母さんのご飯は美味しいから楽しみだな。寮の飯は不味いんだ』
「ふふ。拓馬さんのお祝いだもの。腕に縒りをかけて作るわ。お父さんか弘太さんに変わった方がいいかしら?」
拓馬からの電話と言うことで、正行の纏う空気は心なしか柔らかく、反対に弘太の纏う空気は硬くなる。
『いいよ。あっ、兄貴はどう?相変わらず?』
「……ええ」
『そっか。今回は会えるかな……。あ、ごめん。先輩が呼んでいるから切るよ』
「そう。楽しみにしてる。お休み」
『ああ。お休みなさい』
プツリと切れた受話器を置き、千鶴子は夕食の場へ戻る。拓馬の入賞という吉報は、珍しく夕食の場に色を付けるだろう。
「お父さん、拓馬さんがインターハイで七位だそうですよ。七日に帰ってくるようなので、皆でお祝いをしませんか?弘太さんも……」
「俺、バイト」
弘太は最後まで言わせなかった。元々、その日に拓馬が帰ってくると予測していたのだ。だから、遅くまでバイトを入れたのだし、顔を合わせなくても良いよう、バイトの先輩にしばらく泊めてもらうように頼んだのだ。敗者には敗者なりの意地がある。弘太は拓馬を恨むことはしたくなかった。それは、できなかった。だから、顔を合わせ、見たくもない自分すら気づいていない内心を晒したくないのだ。
「でも、弘太さん。せっかくのお祝いなのよ。一日くらい休んだっていいじゃないの」
「バイトの後、先輩の家に泊まるから」
弘太は夕御飯の途中にも関わらず、立ち上がる。こんな話しを続けていれば、不味い食事がますます不味くなる。
「弘太、飯の途中に立つんじゃない。行儀が悪い」
正行が淡々と言う。温度を感じさせない、威圧的な口調だった。弘太が何か言い返そうとした時だ。ポケットの中の携帯電話が振るえる。昴からのメールだった。
『今から会えないか?岬団地入口の公園にいる。来れたら来てくれ』
この夏休み最初の連絡。そして、昴が学校に来なくなってからも、初めての連絡だった。
「弘太!」
正行の怒鳴り声が聞こえるのもかまわず、弘太は財布を取りに部屋へ駆戻る。
「弘太さん、待ちなさい」
玄関を飛び出そうとした弘太の腕を、千鶴子が取った。
「こんな時間にどこへ行くの?」
「関係ない。あんた等は俺のことなんかほっといて、あいつのことだけ考えてればいいんだよ」
弘太は千鶴子の手を振り払う。乱暴な行動に千鶴子は戸惑い、振り払われた手を反対の手で握り締めることしかできなかった。
「おい、千鶴子。なんだ、またなのかよ。お前がそんなんだから、あいつはああなったんだろ。ったく、何してんだ」
変わらず尊大な正行に千鶴子は肩を震わせる。
「……ごめ……ごめんなさい……」
そして、か細い声で謝った。食卓に並ぶ夕食だけが、何も変わらず色鮮やかに机を飾っている。食欲など失せてしまった。