神の微笑
僕の隣の席に座る神瑞希は、このクラスの中では一番のべっぴんだったし、もしかするとこの高校の第二学年の中でも指折りの、所謂マドンナだったのかもしれない。
かもしれない、というのは、僕自身彼女と一度も話したことがないからだ。僕の友人は誰もが口を揃えて「神ちゃんの隣に座るお前は男の敵だ!」などと謂れのない言いがかりをつけてくる。毎日のように。だから、もう二ヶ月になるお隣さん生活に僕も辟易していた。神ちゃんはそんな僕を気に留めることもなく、流麗な黒髪を初夏の風に揺らしながら、八時登校十六時下校を週五回繰り返していた。
『神ちゃん』というのは、彼女の愛称だった。今では彼女と全く関係のない他クラスの生徒から先輩後輩まで、誰もが皆口を揃えてそう呼んでいる。とはいえ、彼女自身は見ず知らずの人間に馴れ馴れしくそう呼ばれていることに何の反応も示さない。そう呼ばれていること自体知らないのかもしれないし、実は気に入っていて照れ隠しをしているのかもしれない。
ともかく、寡黙で高潔な彼女をまるで女神だとでも言うように、その苗字になぞらえて誰もがそう呼んでいた。
僕も、その一人だった。友人と共に彼女のことを話す時は、彼女の耳に届かないよう細心の注意を払いながら、それでいて彼女のことを頭の片隅に置きながら、神聖な彼女の渾名を呼ぶのだった。
「神ちゃんさ、お前といい感じかもよ」
少し暑くなり始めた昼下がりに、友人が眉を顰めながら言った。
「バカ言うなよ」
「意外とあるって! お前話したことないんだろ? めっちゃ悔しいけど仕方ないわ。いっぺん話してみろよ」
この男の無責任な口ぶりはいつものことなので気にはならない。だが何を根拠にそんなことを言うのかは気になった。僕と神ちゃんが? まさか。僕は日曜に礼拝なんてしないし、参拝も年に一回、初詣をするくらいだ。そうして動揺しているうちに、昼休みが終わった。
五限目は古典だった。かつて暇を持て余した人々の色恋沙汰を暴く授業だ。
教師が彼の者の歌の意図を汲んだつもりで恍惚と話している時、半分ほど消費していた消しゴムが、それを取ろうとした僕の指に弾かれ机から転げ落ちた。
消しゴムはワックスの剥げた床を三、四度跳ね、あろうことか神ちゃんの足元にまで到達してしまった。
僕は葛藤した。無言のまま手を伸ばすには壁が高く、話しかけて取ってもらうにもまた壁が高い。しばらくは板書を写し間違えないよう気をつけながら授業を受けていたが、元来字の汚い僕はいとも簡単に『まだれ』を『やまいだれ』にしてしまった。頭を抱えた。
その時、ふと僕の肩を叩くものがあった。振り向くと、神ちゃんが僕の消しゴムを持った手をこちらに差し出していた。
僕は唖然としかけて、努めて平静を装いつつ、そのきめ細かい絹のような肌を纏う手に触れないよう注意しながら、消しゴムを受け取った。
「あ、ありがとう」
小さく呟いた僕を、一片の感情の機微も感じられない目で一瞥した神ちゃんは、何事もなかったかのように黒板に視線を戻した。
その表情に変化はなかった。静謐で透明な顔のまま、熱心に愛を語る教師を見据えていた。なんだ、あの男の言っていたことは根も葉もない、ただの嘘ではないか。あの時動揺した自分を殴ってやりたい。これでは奴の掌の上だ。
小さく開けた窓から、白藍の風が木々を揺らしながら教室に吹き込んだ。まだ夏の始まりかけの、わずかに湿った爽やかな風だった。僕はふと、消しゴムの残り数ミリしか残っていないカバーに、小さなノートの切れ端が挟まっているのに気がついた。
ゆっくりとその切れ端を抜き取る。小さな字で、中に何か書いてある。鳩尾のあたりがきゅっと上がった。手に汗が滲んで、少し口が渇いた。
淡い期待を抱いた。滑稽なまでの煩悩と胸の高鳴りに僕は一瞬で支配されていた。支配されていながらも、僕はまるでたまたま道端でそれを拾い上げたような表情を浮かべながらそれを開いた。
『買い換えた方がいいよ』
彼女の性格を表したような整った文字で綴られたその言葉は、僕に何ものをも熱心に伝えてこようとはしていなかった。どれだけ吟味しても、咀嚼しても、そこから味は一切してこなかった。
僕は神ちゃんを見た。僕の視線に気がついた神ちゃんは、僕にゆっくりと振り向いた。
そして、静かに笑った。
薄絹のような美しい外装は、恐らく天界から授かった羽衣であるに違いない。言い逃れできないくらい、彼女は僕の心に剣を突き立てた。
彼女は紛れもなく神なのだ。それを知ったのはたぶん、僕だけだと思う。いや、僕だけでありたい。風に撫でられて熱を持っていることを知った僕の頬が、静かにそれを訴えていた。