惚れ初め
登場人物:九尾の狐と女子高生
日差しうららかな三月中旬、只今は短針が三の文字にかかるおやつ時だ。
いつもなら境内に入るとすぐ出てくるお狐さまも、今日はなかなか出てくる気配がない。私に時間がないのはわかってるはずだし、うたた寝でもしてるのかも。『春眠暁を覚えず』、気持ちはわかる。私だって今も少し眠たいくらいだ。
十数年続けた神社通いアローンも残すところこれが最後。最近は可能な限り隙間時間を縫って来てたけど、それもそろそろ厳しくなってきた。
荷物ももうまとめちゃったし、早いとこ送らないと。業者さんの到着は明後日。明日は親戚が入れ替わり立ち替わり挨拶に来る予定になっていて、息をつく間もあるのかどうか。
私ひとりが発つのに大げさな、と思わなくもないけど、まあいまさら。
「お狐さま」
独り言より小さいボリュームで呼んで、返事がないのを確認。念のため素早く周囲を見回して人がいないかもチェックする。クリア。無人だ。
つま先でそろりそろりと賽銭箱に近づき、音を立てないようにコートのポケットから便箋を取り出す。賽銭箱の中を覗くと、小銭の影すら見えなかった。
表裏を間違えないように慎重に、私は手紙を底に落とす。絶対に読めないように、宛先だけは見えるように。
真っ白の封筒が着地に成功した。光の届かない木箱の底で、白地に黒の文字が目立つ。
「ふう……」
長く、ゆっくりと息を吐いた。ひと安心して警戒を解く。セーフ、お狐さまが来る前に済ませられた。あの人は頑なに受け取らないって言ってたから、こうでもしないと。
「お狐さまー?」
白々しく、今度は大声でお狐さまを呼ぶ。いかにも待ちわびているという風に。
「呼んだかい?」
瓦屋根の上から声と足音がして、目の前に狐が降りてきた。
八つに割れた尾が揺れる。お狐さま、参上。ずっと屋根の上にいたのか。
(あれ、私のこと、ひょっとして気づいてた?)
さすがに上までは確認しなかった。心拍数が上昇するのを必死で抑えて、私は強引ににっこり笑顔を作る。笑顔メーターがあるなら「Excellent!」間違いなしのレベル、パーフェクト営業スマイル。
「こんにちは、今日は挨拶をしに来ました」
ここで頬がひきつるような素直さが、もしも私にあったなら。
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私について。
ゼロ年代生まれ、A型。誕生日は秋で、今年で十と八年を生ききったことになる。
右利き。
こけし顔。
中学受験に成功、中高一貫の私立校に入学。
小一で父を亡くし、現在まで母と二人暮らし。親戚は正月に顔を合わせるだけでも二十人超え。もちろん母方だけで。いとこは四人。
好きなもの、ケーキと佃煮。嫌いなもの、結構たくさん。
初恋の上塗りを繰り返すこと五年目の愛が重い女。
つづいて化け物こと、お狐さまについて。
自他共に認める妖怪で、詳しく言うと九尾の狐。
年中ふわふわの毛が、真ん中から先端にかけて白くなっている。装備品は特になし。
神社住み。本人曰く宿を借りているとのこと。
年齢不詳。推定五百歳の誤差百年。
性別、男。これは確定。
一人称は俺、二人称はお前。
ファーストコンタクトは私が小学一年生の時。父を亡くした不幸な少女の前に現れ、びっくりマジックショーで警戒を解いて親しくなるという離れ業を見せた。
狐の時はもふもふ。人間に化けると美人。ものすごく。男女どちらでも化けられるし、両方美形。正装は狩衣で、黒髪に茶色の目。もちろんキツネ目だ。
性格――優しい。これもものすごく。表情からはわかりにくいけど、べたべたに甘やかすのが好き。
友達は紹介してもらったことがない。会わせたくない知人がいっぱいいるとは聞いてたけど。
自称千里眼。胡散臭いことこの上なし。
小学生の私に「お前には才能がある」と宣い、中学生の私に「月が綺麗だ」と囁き、高校生の私に「お前とはもう二百年の付き合いになる」と嘯いた不審者。
私の初恋。
それでは今日は化物の話だ。お狐さまがただの野狐から妖狐へと成り上がり、十二人のこけしちゃんに出会うまでの話。
主役もさきほど登場したことだし、最後に取っておいたお楽しみの蓋を、ようやく開けることにしよう。
遡ること二年と二ヶ月、高校生になって初めての迎春。吐く息も金に染まりそうな満月の下で聞いた、お狐さまの昔語り。
はじまりはじまり。
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「俺が神社に来た頃? そんなものが知りたいのかい。お前には想像もつかない昔だというのに」
「んー、想像なんてつかなくてもいいの。ちょっと気になっただけ。ダメ?」
三が日の最終日。昨日一昨日に挨拶できなかった親戚を訪ね、大混雑の神社で初詣を済ませた帰りのことだ。
詣でるというならここもそうか、と思って、私はお狐さまのおわす寂れた神社に足を運んだ。
しかし時刻は遅く、家を出たときは時計が五時半を指していた。あたりはもう結構薄暗い。
「まあ、お前ももう十六。知りたいというのなら頃合としてはちょうどいいのかもしれん」
小声で自問自答していたお狐さまが、やがて何事か決心した表情で私に向き直った。あれ、そんなに重い話に水を向けたつもりはなかったんだけど。
自然、私も居住まいを正す。
「現在齢は五百を超える俺が、生まれたのは今から三百年前。黒船の影さえ見えぬ昔のことだ」
お狐さまの声は低く、日の沈みかけた真っ赤な境内で、二人分の影が長く伸びていた。
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三百年前、俺は野狐として山に生まれた。親も兄弟も元はたくさんいた気がするが、どんどん里に降りては死んでいったものだから、どれが身内だか他人だかもわからないような有様だった。
ある日のことだ。他の者たちと連れ立って、俺も里に降りていった。もちろん食料を探すためさ。あの時代、飢えていたのは人間だけではなかったからね。他にも熊や猪も、畑を荒らしに行っては手酷い傷を負って、というのを繰り返していた。
しかしそこで連れの一匹がしでかしてね、人間に見つかった。おかげで俺たちは皆して銃を向けられ、片手以上はいたはずの仲間が気がついた頃には半分も残っていなかった。鉄砲にやられたもの、農具で殴り殺されたもの、色々だった。
かく言う俺も弾を一発食らった。血は止まらないし、仲間なんてもう構う暇もない。俺は死に物狂いでその場を離れ、がむしゃらに山道を駆けた。
重い体を引きずっていると、そのうちに拓けた場所に出た。そこにはたいそう美しい空気と、それよりいくらか控えめな社があった。
ここだ。
俺はもう尻尾すら持ち上がらない状態で、境内の中央まで這うのがやっとだった。死ぬんだろう、とぼんやりと思ったけれど、狐ゆえ特に感慨もない。できるなら番でも持って、子孫の数匹残してから死にたかったとか、そのくらいがちらりとよぎったくらいだ。
ところが幸か不幸か、死にかけの狐の姿は神の同情を買った。御眼鏡に適う、というならまさにこのことだろう。
当時ここにはまだ神がおわし、偶然にもその御目に止まったというわけだ。
かくして俺はありがたい神の力で見事蘇り、神使のような存在になった。
神使、といってもあまり馴染みがないだろう。神の使いといえばわかりやすいか? 蛇や狛犬や牛と同じ、神の言葉を現世に伝える存在だ。
そしてそんなものになった以上、当然ただの狐と群れることは敵わなくなる。知能も寿命も跳ね上がったからな。出る杭は打たれる……というのとは、少し違うが。
特にすることもない俺は、この神社で形式上仕えていた神とともに、六、七十年ほどを過ごした。
あまり深くは考えていなかったが、俺はそれが永遠に続くんだろうと勘違いしていた。
俺が八十歳になったあたりで、神の方に先に寿命が来た。時代は大きく動き、取り残された社に信仰を失った神が一柱では、もはや太刀打ちができなかった。神が消える、ということだった。
しかしさすがは俺を拾った神。これがにわかには信じがたいほどのお人好しだった。自分が死ぬことは避けられぬが、それなら代わりに俺に神気を与えようと言い出したのさ。そうすれば自分は消えても力は残り、俺も神社も数百年は無事でいられると。
信仰を失った神の末路を知っているかい? 崇め奉られぬそれは神足りえず、ただの妖に成り下がる。この国で神と妖など、あまり大差あるものではないのさ。
人に名を呼ばれぬなら、妖であるのと同じだ。
かつてこの地の民は穀物の豊作や子供の健康、その他都合のいい諸々を願う存在として、山を神に見立てた。
いわばここの神というのは、信仰を集めた妖怪が『成った』ものではなく、神であれと言われて生まれたものだったのさ。ゆえに神でなかった時がない。そうするとね、信仰を失っても妖になることができない。
なぜか? そういう在り方を知らないからだ。
神たることも能わず、さりとて妖たることも能わずとなると、それはなんと形容されよう? そんなものはあってはいけないのに。
存在する権利も、居場所も、形式もなくなれば、神は塵一つ残さず消えてしまう。需要がないんだもの、当然だ。
ところが俺の主はそれをよしとしなかった。それでこの有様だ。『どうせ消えるなら』と、そう考えて、俺に神気を喰らえといった。
そうとも、トチ狂った話だ。今ならばね。ただの居候の狐に――それもたかだか尻尾が二、三あるだけの三下に――、力をやるから大妖怪になって生きよというのさ。あまりに寛大、あまりに慈悲深すぎる。
しかしそれよりなおおぞましいことに、俺はそれを受けた。
死ぬくらいならという意地だろうな。数年でたやすく移ろう世の末を、見てやろうとでも思ったのかもしれない。与えられるままに天上の気をまとい、九尾にまでなってしまった。それも半分神の生成り妖怪、神に並ぶ力の妖だ。文字通り、いやそれ以上の化け物か。
そして俺はひとり生き続け、戦争の時代を超え、やがてお前に出会った。齢およそ三百いくらにして。
なんだ、辻褄が合わぬと? うん、そうとも。これから合うのさ。
これからどんどんあっていく。お前に。
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「……これが、前半。つづいて後半となるが、どうしようか。休むかい?」
んー? 別に、休憩とかはいらないよ。お狐さまこそ、疲れてない?
普段あんまり多く喋る人じゃないから、大丈夫だろうか、こんなに喋らせて。
「俺は平気だが。……そうだ、なあ、お前は自分が、一体何番目だと思う?」
閑話休題とばかりに、お狐さまがそんな質問を投げかけてきた。やっぱり休憩はするらしい。
「何番目って? なにそれ、なんの順位づけの話?」
「無論、俺の中でさ。お前は俺の中で、何番目だと思う?」
うーん、好感度ランキングだろうか。
どうしよう、あんまり自惚れるのはなぁ。結果を聞いたときにショックを受けそうだ。
「十といくつか……くらいかな」
覆して欲しい、せめて一桁でという、若干の期待を込めた返答だった。
対するお狐さまは。
「おお、鋭い」
慈悲を忘れた回答よ。鋭いのはどっちの言の葉だ。
「正確には十二番。数え間違いなどなくな。――さて、それも念頭に置いた上で、後半だ」
お狐さまは容赦なく、心密かに傷ついている私を置き去りに話を進めていく。
これが関わってくる話とは、ろくな予感がしない。が、聞いたのは私だ。
パンドラの箱を開けた以上は、最後に残る希望を見届けずして終われまい。
化け物と私の話は、始まってすらいないのだろうから。
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初めのお前に会ったのは二百年前。この場所で、同じようなきっかけだった。違うのはお前から声をかけたことだ。お前にはいつも俺が見えた。十年以上を共に過ごし、お前がこの地を離れるまでの間、ずっと。
面白いやつがいたと思った。人の子にも色々なものがいると。俺が野狐であった頃とは似ても似つかぬ、想像だにしないような時代が来ていたことも知った。
それを俺は楽しみ、里に降りて行けたらどんなにいいかと考えもした。しかしそればかりはできない。俺の力は未だに社に縛られているからね。降りること能うたとしてせいぜいが一日。そんなものはいらん。
やがてお前が去って、また十年。なんとこの社が取り壊されることになった。どうやら神の残した上等な結界のおかげでそれまで目立たなかったものが、かの方の消滅より数百年の時をしのいでようやく人の目にさらされたらしい。
無理もない。ちょうどいい頃合だと思った。
これで社が壊されれば俺も晴れて自由の身。年功でも実力でも大抵の妖怪には勝っていると自負していたし、食いっぱぐれるということはないだろう。
いつまでも喪に服すのは性に合わん。いっそ国中を放浪でもしてやろうかと思っていたくらいだった。
ところがそうはいかなかった。社が解体され始めた途端、俺の全身も悲鳴を上げた。あれほどの痛みは初めてだった。三百年前に鉄砲を受けたのなんて、比にもならないくらいの激痛だ。
これはまずい。俺は焦った。どうやら社と俺は運命共同体らしい。このままでは俺も死んでしまう、と。
何か方策はないかと考えを巡らせ、その末に一つの案を思いついた。それはもう天啓よろしくな。
深く考える猶予もない。俺は闇雲に力を使い、考えを実行に移した。あまりに無茶をしたせいか、成功したという手応えを感じた瞬間、俺は気を失った。
果たして俺の目論見通り、目が覚めたらそこは元の境内だった。誰もいない空間で、結界の気配もあった。
何もかもが元通り。
苦肉の策が成功し――俺は、時の遡行に成功した。
時の遡行、つまり時間を遡れたということさ。これで社の解体は先延ばしになった。
わずかだが時間稼ぎができた、そう思って俺は安堵した。
となれば次に考えるべきは身の振り方だ。今後の方針と言いかえてもいい。
壊される社をどうするか。
初めに考えたのは、結界を張りなおせばいいのではということだった。しかしそれはすぐに不可能だとわかった。なに、俺には手に余る代物だったというだけだ。
神が全盛期だった頃に張った結界をどうこうするには、俺には圧倒的に力が足りなかった。
続いて考えたのは、このまま何度も遡行を繰り返すという案だ。これは実行できそうだった。幸いなことに時間を遡行すれば、消費した力も元に戻るらしかったからね。
けれどこれには俺の精神面の問題があった。すなわち何故生き続けるのか、という。考えるにはいささか遅すぎる気もするけれどね。それまでの俺には一応、世の末を見るという目標というか、指針があった。ところがそれが叶わないとなった今、これ以上生きる意味とはなんだ? 俺は答えに詰まり、しばらく考え続けることになった。
その最中だった。お前がここにやってきたのは。
考えてみれば無理もない。時を戻ったのだから、同じ展開もあろう。するとここはおよそ二十数年前か。俺は自分の遡行がどれほどのものだったかを把握し、再びお前に声をかけられるのを待った。
ところが、だ。お前は俺に声をかけなかった。以前のお前と行動が違っている。些細な違いではあったが、これは重大なことだった。俺に声をかけないという選択肢があるなら、社が壊されない選択肢もあるかもしれない。俺はにわかに希望を抱き、喜び勇んでお前に声をかけた……。
……結論から言えば、社は必ず壊される運命にあった。この事実を認めるまでに俺は五回時を遡って――六人のお前に出会った。そうまでしてようやく受け入れられたのさ。結界は風化し、摩耗し、やがて消える。神の後を追って。
それは腹をくくるのに絶好の機会だった。けれどその手を俺は選ばず、お前と出会い十数年を過ごし、結界の切れぬうちに過去へと戻る――この道ばかりを選び続けた。
おとなしく神社と心中しておればよいものを、執着とはかくも恐ろしい。俺は今でも死ぬ気がないんだ。
何度もお前と出会った、別れた。
お前が泣くのも笑うのも、数え切れないくらいに見た。
会うたびにお前は違う娘で、俺のことを知らなかった。
そして百年、二百年。戻ること十一回目、出会うこと十二人目にして、お前だ。
二百年以上を費やして、俺はお前に会いに来たのさ。
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「二百年以上を費やして、俺はお前に会いに来たのさ」
詩人のように告げるお狐さまに、私ははじめ、泣きそうになった。
だってそんなの嘘っぱちだ。こんなことを言う日が来るなんて思わなかったけど、そんなのは私であって私じゃない。違う性格の私が今までに十一人いて、その全てを彼は知っていて、知ったからこそ私に会いに来たと?
狂気の沙汰でもぬるすぎる、これを、なんと言おう。
十二回も同じ人に会うなんて、会い続けて飽きないなんてでたらめ。神を失い限られた時間の中で、生き続ける理由を私一人に求めるなんて。
いくらなんでも重すぎる。
二百年同じ人といるのは一体どんな気分だ。神より私と長くいるというのは、一体。
「……それってねえ、どんな気分なの?」
ホワイではなく、ホワット。
なぜなんて聞かない。
時間を超えてまで会いに行く人がいて、それを十数回繰り返しているとして、これからも繰り返すつもりだとして、それが愛でなくてなんだろう? 愛だというならなんだろう?
なんでも愛といえば許されるのはアメリカ映画のノリだ。父が娘のために世界すら救えるのは外つ国の話だ。ジャパニーズムービーでそんなのはネタにしかならない。
パンドラの箱に希望以外が残るなんて許されるのか。
そんなものを負って負わせて、この人は十年間私と過ごしてきたのか。
「どう、とは。俺にもよくわからん。死にたくはないし、過去に行けばまたお前がいる。それだけだ」
最悪の回答がここに。
『また』私がいる。それが当たり前で、多分この人は、ある日もぬけの殻になった神社を訪れる私の気持ちなんて、これっぽっちも理解できないんだろう。
(化け物尺度で接されたんじゃ、私なんて太刀打ちできるわけないのに)
置いていかれるのを嘆く不老不死ってのが定石だろうに、それを克服した結果がこれか。
つくづく私も男運がない。
「怒っているかい」
「ものすごく。察しがいいね。だけどそれ以上にショック」
ショックの意味はお狐さまに分かるんだっけ。多分今までの十一人の私のうち、だれか一人くらいが教えてるだろう。
バレンタインも知ってたくらいだ。……そういえばチョコレートも、何度ももらってきたに違いない。
(でもまあ、わかんなかったら、伝わらなくてもいいや)
自分が一番じゃなかったことが、こんなにも私を揺らしたなんて、伝わらなくてもいい。
「そりゃそんな目をされればな。……悪い」
「何を謝ってるの」
「お前にこれを教えたことを」
さらりと言われた的外れな回答に、怒りも忘れてポカンとした。本気で言ってるのか、この人。
教える教えないとかいう問題?
「馬鹿じゃないの」
水が滑り落ちるように自然に、そう口にしていた。
謝るべきはそこじゃない。謝ってほしいことなんてない。
私はそれきり何も言わなくて、お狐さまも黙ったままで、じっとうつむいて二人、肩を並べて沈んでいた。
地面とにらめっこを続けても、どちらもクスリとも笑わなかった。
なんでこんなことになってるんだろう。お狐さまの昔話を聴きに来ただけのつもりだったのに。
(いきなり二百年とか言われても正直荷が重いっていうか。だからどうしたっていうか。十一人の私なんてしょせん別人なんだから悋気噴出しまくり当然っていうか)
結局そんなの関係ないっていうか。
ねえ。
膝の間に顔をうずめていると、腕にぱさぱさと当たる毛並みが。揺れてるし多分尻尾。かと思えば膝に頬ずりをされた。媚を売ってるつもりか。ご機嫌が取れるとでも。
(小動物としては可愛いけど、相手は仙人級のご老体だしねぇ……)
向こうは私の反応がないのにまだ尻尾を当て続けている。頬ずりはとりあえずやめた。割と冷静に出方を見てるらしい。
さっきからうなじに毛先があたっているのはわざとだろうか。くすぐったいけど、今折れるのはちょっと。
こちょこちょこちょ。
さわさわさわさわ。
すりすりすり。
「……あぁ、もう!」
いい加減にしろよ! 肩揺らさないようにするのも大変だってのに。
「意味わかんない、なんで続けんの。だいたい媚びてくるのも鬱陶しいし、そんなんで効果あるとか思わないでよ。馬鹿じゃないの。何がしたいの」
通り一遍の暴言を吐いて、キッとお狐さまを睨みつけた。
迫力? あるわけない。
「ばっかじゃないの」
私を見返したのは、もふもふの毛並みの中で爛々と輝く、細められた目。あれは明るいところで見たら茶色に見える。小粒のアーモンドみたいで形がいいんだ。毛並みは太陽にも月にも映える金。先の方は白いからプラチナゴールドみたいにも見える。私はそれを知っている。
二百年の二十分の一の時間で、たった十年で、私はそれを知っている。
時間なんて、後付けかもしれない。
「お狐さま、馬鹿だよ。よっぽど頭がおかしいとかさ、病気かも」
「それを言うなら四百四病の外だ」
また私の知らない言葉。こんな思い空気なのに会話はいつも通りだ。
知ってる? 恋の寿命は三年なんだって。
二人とも、とっくに過ぎちゃったね。
馬鹿なのはきっとお互いさま。
腹をくくるべきは私だ。
お狐さまの鼻面を見据えて、私は言った。
「謝らなくていいよ。いまさらだし。――全部、織り込み済みだって」
口に出して自分に言い聞かせた。
お狐さまのネジが一本ブッ飛んでることも、言葉なんて結局半分しか通じてないことも、承知の上でここに来てるんだから。百も千も万も承知の、その上でここにいるんだから。
数世紀が、どうした。
「霊感少女なめんなっての」
衝撃とドン引きの間から、私は叫んだ。
二百年連れ添うのが愛なら、それに音を上げないこれも愛だ。置いてかれることを受け入れるのも、十二番目に甘んじるのも愛。
「あーあ」
つくづくどうして見る目がない。
相手はキングオブじじいって年齢だし、空気も読めなきゃ頭もスペックもイカレてるし、こんなに規格外なのに。
「俺に、嫌気が差したかい」
おずおずと、心なし上目遣いで、お狐さまが尋ねてきた。
正直目を見張る。今の台詞のあとでまだそれを聞くか。私が是といえばどうするつもりだ。……その時はすぐに時を戻るのか。チートは嫌いだ。
「あのね、絶対ないって言ってるのよ」
「なぜ?」
「なんでって――《Because this is love》?」
尺度の違いは埋めがたく、すり合わせても整わず。
それでも『君が好きと言う』。
この場合、好きと言ったのは誰なのか。
お狐さまが、キョトンとした顔で私を見た。
「なんだそれ」
「んー、秘密」
二百年かけても英語はマスターできなかったらしい。ざまぁみろ、十一人と一匹。ささやかな意趣返しだ。意味なんて絶対教えてあげない。
「もういい。そろそろ帰るよ」
満月は高く空に昇り、幸い足元も明るい。懐中電灯が必要だったらどうしようかと思ったけど、いらぬ心配だったみたいだ。
「……うん」
なに、その生返事? もっと怒ると思ってた? 聞いたのは私だけど、あれだけ饒舌に話してくれたのにそれってどうなの。
「言っとくけど、怒ってるよ。最初に教えとけって思ってる。だけど気にしてもしょうがないし、ひとまずは責めません」
仕方なく私から助け舟。お狐さまは目に見えてホッとした。それでもまだ複雑そうではあったけど。
「でも、あんまり他の私には言わないほうがいいかもね、その話」
この先にお狐さまが会うであろう数人の私に、先輩からの洗練と救済のつもりで、そんなことを言った。
「そうか……」
しゅんと耳までうなだれるお狐さま。いまさら後悔してるのかもしれない。額が地面につきそうだ。
「正直聞いたときは引いたしね。心底気持ち悪い、その話」
ごめんね、どうしてもこれだけは言おうと思って。
笑顔で付け足してやると、狐は今度こそ見事に地面に顔を伏した。
「行くよ」
私は立ち上がって歩き出した。お狐さまもあとから追いつくだろうから、ほったらかしで。
《this is アイ》
《this is アイ》
あなたはきっと、知らないだろうけど。
~~~~~~~~~~
後日談を兼ねて二年後。
前述のとおり、そんな重大な過去を知っても、なんと私は相も変わらずお狐さまの元に通っていた。最初のうちはお狐さまも戸惑っていたが、やがて何も言わないまま、いつも通りの生活に戻った。賢明な判断だ。
別にタブーなわけじゃない。だけど論じても何も変えられない。
大妖怪・九尾の狐に「私のために死んで」なんていう覚悟は、私にはなかったから。
ハリボテの神の神域で不老不死の花嫁になる覚悟も、私にはなかったから。
曖昧なのはそのままに、せいぜい未練の手紙を残しておくのが関の山だ。
そしてまさに今。
お狐さまとのあまり楽しくない会話が終わって、私は鳥居を潜ろうとしていた。
最後にもう一度だけ振り返って、再びの営業スマイル。今度はおブス度メーター指数100間違いなしの泣き笑い。
もっと格好よく締めたかったんだけど。
「――――――――!」
陽の光にお狐さまの姿が眩む。白い影のお狐さまの口が動いたのが、かろうじてわかった。
唇を、すぼめて伸ばして大きく開いて。ウ・イ・ア。
(……ああ)
あなたは一体いつ気づくだろう。あの手紙に。あの、呪いじみた宛先に。
『十二回目の私から、最初で最後のあなたへ』
「聞こえないよ」
叫んで私は背を向けた。