音のないあめ
梅雨前の何ともけだるい午後。ぼくが大学に飽き、将来への希望もやりたいことも見失い講義をサボって喫茶店でだらだらしていた時の事だ。
朝からぐずついた天気で、ついにぽつりぽつりと降りだしたかと思うとそのまま雨脚が強まった。ばしばしと叩くような勢いだったためか、いつの間にか喫茶店は客で一杯。窓際の席でぼんやり外を眺めながら、「ああ、あの娘、可愛いな」とか暇を持て余していたボクもコーヒー一杯で粘るのはまずいかなぁと感じお代わりを頼んだ。
「お客様、相席でもいいですか」
新たな注文を伝票に書き加えたウエイターは、続けてそう聞いてきた。
相席を求められたことはこの喫茶店では初めてで面食らったが、入り口でウエイターとボクのやりとりをじっと見ていたのがさっきボクがぼんやり眺めていた女性だったので快く肯いた。外の雨音はいつの間にかばしばしからべちゃべちゃへと変わっていた。
ウエイターに招かれた女性が一礼してボクの向かいの席に座る。後ろで束ねた髪の生え際、露出したうなじがあまりに白く、鼓動が大きく跳ねるのを感じた。座り終えて伏し目がちだった視線を上げる様にゆっくりほころぶ梅の花を連想し、会釈した後も上目遣いで見とれていた。
「変わった、天気ですね」
彼女は、窓の外をしきりに気にしていたウエイターにココアを「ホットで」と注文してから、話しかけてきた。
「そう、ですね」
言ってから窓の外を見た彼女に習うように外を見て、返す。通りには緑色のカエルが降っていた。べちゃべちゃと音が店内まで聞こえる。ウエイターは、入ってくる客を断らず相席を求めてきたわけだ。
「こういうのも、『雨』っていうんですかね?」
続ける彼女。視線は、窓の外。
「さあ。『雨』でいいんじゃない? 『血の雨』って言うし」
窓の外、今度は血のような赤い液体が振りはじめた様子を見てボクは返した。彼女が驚かないので、何となくボクも周りのように騒ぐ気になれない。いや、見ず知らずの彼女と同席し話していることが夢のように感じられるので、窓の外の世界の出来事など所詮夢物語という感じもある。
「今度は、お金」
彼女は瞳を陰らせ頬杖をつき、けだるそうに言う。小さな顎のラインが目に焼き付く。外はちゃりんちゃりんとうるさい。彼女の視線を追うと、降り注ぐ硬貨をわれ先にと争いながら拾う人々の姿があった。気になって周りを見ると、あれだけ客がいた店内はがらりと空になり静けさだけが漂う。お金の雨は、まだやまない。硬質的でかん高い音が響き渡る。
「……拾いに行かないの?」
愚問だな、と思いつつボクは聞いてみた。彼女は苦笑し、「あなたは?」と返してきた。
「こうして二人で一緒にいる時間の方が、価値があるから」
とは、口には出せなかった。出したとたん、彼女が飛んで消えてしまいそうに思えたからだ。
しばらく黙っていると、ウエイターがぼくのお代わりと彼女のホットココアを持ってきた。
「コーヒーが、冷めてしまうから」
「私も、ココアが冷めちゃうから」
彼女は私の表現を真似て、悪戯そうに笑った。細く目尻が下がり、甘たるく破顔する。ホッとしたような、見るからに心からの笑顔だった。思わずボクも彼女のように顔を崩した。
「血にお金に争い。なんだか世の中そのものみたい」
天使のような笑顔が一転した。少し視線を落とし、ため息とともに彼女は寂しそうな言葉を漏らした。
「……カエルは?」
元気づけようと冗談交じりに言うと、彼女は「だって、カエルは苦手だもの」と言って先ほどの笑顔を取り戻したがそれはわずかの間だけ。また肩を落としまつげを震わせた。
「もっと、いいものが降ればいいのにね」
そう、元気づけた。目を上げ「そうですね」と微笑む彼女。が、その笑顔はすぐに固まった。
――ぐわん、ぐわん!
何と、今度は窓の外に爆弾が降り始めたのだ。人が血をまき散らしながら吹き飛ぶ。お金も、カエルも吹き飛ぶ。喫茶店も、吹き飛んだ。ボクと彼女と、二人が座る窓際の席を残して。
「い、いや。『いいもの』っていうのは爆弾じゃなくってさ……」
彼女の責めるような視線に気付き、自分が望んだことではないことを強調した。もちろん、自分にそんな力はない。
「……そうよね」
彼女は安心したように表情を緩めると、無事だったカップに手を伸ばしホットココアに口を付けた。ボクも見習い、やはり無事だったお代わりのコーヒーを味わう。温かかった。
「それじゃあ、『いいもの』って、何なの?」
彼女が、ぐっと身を乗りだして聞いてきた。期待の視線に耐えかね視線を落とした先に、ざっくり開いたカットソーから覗く白い胸元。肌に浮かび上がった鎖骨にどきりとして窓の外の風景に逃げた。絨毯爆撃ともいうべき破壊の雨は、すでにやんでいる。窓が、ここだけ奇跡的に無傷で残っていることに今気が付いた。途切れた雲から覗く日の光でガラスが一瞬きらめく。人々は皆、傷つき苦しんでいる。
「希望、かなぁ」
返答に困ってぼそりと漏らすと、彼女は「そうよね」と言うと立ち上がった。
「ありがとう。おかげで『やりたかったこと』を思いだした」
何をするのかと見上げると、彼女のざっくり開いたカットソーの肩口から白く大きな翼が一対、生えていた。にっこり微笑むと羽ばたき、そのまま飛んでいった。奇跡的に残っていた窓を飛び越え、窓の外に。ぐるりぐるりと町の上空をくまなく掃き過ぎるように。
やがて、羽毛がひらひらと舞いながら降ってきた。窓の外に、町全体に。
そしてボクの上にも、音もなく。たくさん、たくさん――。
これも雨だろうかと思ったが、今までと比べあまりに優しくやわらかい。
「彼女のあめ、だな」
発音に優しさを込めて言ってみて、満足した。立ち上がり、町を見渡す。
奇跡的に無事だった人が、苦しんでいる人を助け始めた。
ボクも、けだるく飲んでいたコーヒーから手を離し立ち上がった。
ココアももちろん、一緒にテーブルに残っている。
おしまい
ふらっと、瀬川です。
他サイトで「音のないあめ」というタイトルで作品を書くという企画に参加したときの旧作品です。
コーヒーの温もりを感じてください。