在るべきものが……
これでよしっと!
自分の着付けが完了する。
幼い頃からやっているので、着物を身に着けるのは容易だ。
…………まったく親父は何を俺にさせていたんだよ。
今思えば仲居の手伝いとか、女装をさせていたってことじゃん。昔は制服のつもりで着ていたからなんとも思ってなかったけど、やっぱり変だよなぁ。
まさか親父にそういう趣味が!?
……いや、考えないでおこう。思い出はきれいなままにしたい。
扉を開けて廊下に出る。
「おー、すごーく似合ってるにゃ」
猫耳の娘は俺の周りをぐるりと一周見回して感想を述べる。
「特に体のラインがいい感じ。すらっとしててうらやましいにゃー」
うらやましいって言われても、嬉しくはないなぁ。
――てかあんたも十分細いでしょうが。
「やっぱりこれ! この服は胸の小さいウチらにとってはありがたいものと感じるにゃよね?」
同意を求められても……。
俺は小さいって言うか、まず当たり前だけどないんだよ? はと胸とかでもなく本当に。
「あのさ、俺のこと男だって分かってる?」
「んにゃ? あ、あー分かってる分かってるにゃ。男性目線から見てどうかにゃーてことにゃ」
…………絶対嘘だ。
しかし片手をくるっと丸めほっぺに添え、笑顔で言われたらもう、ね。とりあえずかわいいから許す。
「まあ確かに胸が小さくても格好つくし。むしろあまり大きい人だとかえって違和感に感じるかもなぁ」
「センカみたいに?」
センカ……ああ、あの女将のことか。
「そうそう」
ボボンッ!(そびえる双丘)
キュッ。(くびれ)
クネッ。(蛇の尾)
――って感じだった。特に胸は『!』マークがつくのが大事なくらい。
「センカはいっつも窮屈そうに着てるにゃ。さすがに売ってる物でサイズの合うやつがないみたいにゃ」
「この着物は人から買っているんだっけ?」
「そうにゃ。普通の布なら魔物のつてでも手に入るけど、この繊細にゃ色使いの織物でできた服は人間から買うしかにゃいし」
「ふーん……」
ちょうどいいサイズのが見つからなかったってことか。
「そう考えるとやっぱり小さい方が便利だしいいのにゃ、ふふん」
彼女はない胸を張る。
結論――貧乳最高ということ? いやいや。
「でも俺としては胸はあったほうがいいと思うけどな」
見る分にも。(まだ機会はないけど)触る分にも。
「にゃにー! 胸で判断するのはよくにゃい! 女の子を見るとき気にしちゃいけない部分にゃ。分かってるにゃ?」
「はいはい分かってますとも。内面も大事だよね。内面『も』」
「きしゃー! からかってるにゃね。ウチと同類の癖にー!」
髪の毛を逆立て、猫耳をピーンと立てて威嚇される。
同類って? ああ胸のなさね。……そろそろ性別の壁を立てられてもいいんじゃないかな?
……それにしても初対面で胸の話とか最初にすることかよ。それだけこの娘が気にしているってことかもしれないけど。
まあそろそろ話を切り上げるべきだろう。性癖をどんどん知られかねないし。
「まあまあ落ち着いて。ここで話してるのも他の人に悪いしそろそろ仕事しに戻らないか?」
「――ん? ああそうにゃね。給料引かれるのも嫌だし、そうするかにゃ」
冷静さをすぐに取り戻してくれた。気持ちの切り替えは早いみたいだ。
受け付けロビーに向かって俺達は歩き出す。
もちろん着物を着ているのに全力で走ったりなんかはしない。さすがに裾を踏みそうになるし、なによりお客さんにあまり慌しい姿を見せるのはよくないからだ。
ただ早歩き位ならいいと思うんだけど……。
「あのさ、急がないの?」
隣を歩くスピードが遅い。俺だけ先に戻るのはおかしいからペースを合わせているけどこんなにゆったりしていいのか不安になる。
「どうせ今日は――今日も忙しくはならないにゃ。楽できるときは楽すべきにゃ」
確かに息抜きは必要と思うけど、仕事初日からそれはどうなんだろうか?
「まあ話でもしながら向かおうにゃ。……そうにゃ、そういえばお互い名前を聞いてにゃかったし、お互い自己紹介でもするかにゃ。ウチはカトレア。見たまんまの化猫にゃ。呼び方はにゃんでもいいけど、みんなからはだいたいカトレアってそのまま呼ばれてるにゃ」
「ふーん、じゃあ俺もカトレアって呼ぶことにするかな。俺はクレス=オルティナ。呼び方は……まあクレスでもオルティナでもなんでも構わないぜ」
「くれすおるてぃな――って長い名前で覚えにくいにゃー」
首をひねられ、顔をしかめられる。
名前ひとつでそんなに!? 八文字しかないけど!?
「クレスオルティナって一括りじゃなくて、クレス、オルティナ、ね」
「ああそうにゃ。そういえば人間だったかにゃ。まったく二つも名前があるとか面倒にゃ制度だにゃあ」
名前二つじゃなくて、正しくは『苗字』『名前』なのだけど。そういえば魔物は『名前』しかないんだったっけ。そのあたり文化の違いを感じるなぁ。
「まあクレスでもオルティナでもなんでも呼んでいいよ」
「んー、じゃあ『ティナ』で」
「……なんで?」
苗字、名前の二択で聞いたつもりだった分、その返しは予想外。
「にゃんでって言われてもにゃんとにゃく似合っているからにゃ」
「にゃ」が多いね! ――っていやそんなことはどうでもいいんだよ。
『ティナ』ってなんかさあほらいかにも女性って感じの名前じゃない? 似合っているっていうのはそういう意味から?
「にゃにか問題あるかにゃ?」
「いや別に……」
問題あるかといわれればあまりない。むしろその呼び名だと客に男だとばれることも少なくなりそうだ。……まあもとよりクレスでもオルティナでも男女どっちとも取れる名前なんだけどなぁ……。
「じゃあ決定にゃ。それで『ティニャ』は――」
「ちょっと待てい! やっぱり呼び辛いだろ! クレスでいいんじゃないか!?」
いきなり「にゃ」が入ってきてるじゃん!
「噛みましたにゃ」
ぺろっと舌を出し、にやけられる。
……ん? にやけてるってことは……それにちょっと強調して言ってたような気が。
「違う。わざとだろ」
「かみゃみゃしたにゃ」
――わざとじゃない! あざとかわいい!
「ってほんとに呼び辛くはないんだよな」
「みゃあ名前は気をつけて発音するから大丈夫にゃ。まあさっきからかわれた仕返しにゃ」
「ならいいけど。次からはちゃんと呼んでくれよ」
「任せろにゃ。それに多用するのはよくにゃい気がするし」
ふぅ、それは助かる。時間の無駄を省く意味でも、よく分からないけど別の意味でも。
――っとそんなやりとりをしている間にセンカさんの後ろ姿が見えてきた。
そりゃあそうだよな。ゆっくり歩いていたとはいえ、さっきの空き部屋と受付ロビーはそんなに離れていないんだし。
カトレアの歩くスピードが急に速くなる。
(こいつは……)
ずる賢いというかなんというか。
「センカー、着替え終わったにゃ」
「ふーん、思ってたより早かったじゃないかい。この着物にもっと手間取ると思ってたんだけどねえ」
こっちとて十年近く着付けてきたんだ、なめてもらっちゃ困る。
…………はぁ、小さいときから何やってきてんだろ俺。
「それじゃあ早速仕事にうつってもらおうかねえ」
おっとようやくか。
初日、どんな仕事が与えられるんだろうか。
受付?
清掃?
給仕?
どれきても大丈夫だ。経験がある。さあ来い!
「とはいえ昨日はお客さんいなかったし、とりあえずカトレア、この子をいろいろ案内してやんな」
「はいにゃー!」
カトレアがセンカさんに向かって笑顔で敬礼する。
兵士かよ……っていやいや、そんなどうでもいいところに突っ込んでる場合じゃないだろ。
ありえない発言がさらっと飛び出したんだけど!?
昨日――休日にお客さんゼロだって。そんな馬鹿な話が……あっ。
今に至るまでを思い出す。
確かにそうだわ。朝起きてからずっと一人の、一匹のお客さんともすれ違ってないや……。
俺はようやくこの旅館『魔天楼』の深刻な経営状態を理解することになった。
途中のくだりはもちろん迷子の蝸牛さんからです。文中にも書きましたが今後は使わないと思います、たぶん。いやしかし、あえて使い続ける勇気!――――はやっぱりないかなぁ。