強硬手段
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男は苛立っていた。
『魔天楼』の保有する土地を奪う――その目的を達成するためにまずはその旅館を潰してやろうと色々仕掛けているのに全く上手く事を運べていないのである。
――従業員を引き抜いてやろうと上手い話を持ちかけてもらうよう便宜を図っても誰も話に乗ってこなかった。
――お造りや海鮮丼を出すようになったので、食中毒を引き起こして業務を停止させようとするも、なぜか人工的に作ったイクラだとばれてしまい、事件にもならなかった。
厄介なことに後者はイクラを混入させた疑いで事情を聞くため、似顔絵をもとに私のことを探すことになったとあいつから聞いた。おかげで普段から身を隠さねばならなくなり、かなり動き辛くもなった。都市スピネルを拠点に悪事を働いていた身としては厄介な状況になってしまったのである。
早いところあいつから多大な報酬を得て、遠くへと拠点を移したいというのが男の本心だ。
今までは自分の正体をできるだけ隠し、勝手に問題を起こした風を装い潰させる方法をとってきた。しかし、今や自分のことがばれつつある状況だ。少々強引な方法に切り替えることも視野に入れる。
「以前あいつがチンピラを使って旅館の従業員を襲わせていることがあったしそれを真似るか…………いや止めておこう」
『摩天楼』の従業員のほとんどが魔物で見たところ隙のある奴は少なかった。それに隙のある襲えそうな奴はいることはいるが、悪事を専門に行っていないあいつの真似をするのは彼自身のプライドが許さなかった。
「もっと良い方法があるはずだ…………確実に潰せるだけの大きな事件、不祥事を起こす何か………………」
男は物思いに更けながら、新聞を手に取り、ぼーっと記事を眺める。ざーっと目を通していくと一つの記事が目に飛び込んできた。
『川に注意!
昨日のお昼ごろ、○○川で子供二人が流され溺れる事故が発生しました。二人は意識不明の重体とのことです。事故が起きた背景としましては局地的に流れの急になっているところが存在し――』
「川で溺れて、か…………溺れ…………まてよ、そうか、あの方法があるな」
男は新聞を床に投げ捨て、片手で口を隠すように覆う。外からは見えないが彼の口はにやりと大きくゆがんでいた。
肩まで伸びていた髪をばっさりと切り短く、目元まで隠す大きめのサングラスを装着し、口調をやや高圧的なものに変え、以前泊まった人物とは全くの別人であることを装う。
見た目をがらりと変えれば親密な者以外にばれることはまずないことを男は今までの経験から知っていた。変装して相手の情報を盗む、内部から崩していくのは何度もやってきたことだ。今回はにおいに敏感な者もいるという情報を得ていたので、事前にきつめの香水も付けてきていた。そうそうばれることはないだろうと確信していた。
…………案の定、旅商人として来ていたときとは別名義で易々と旅館『魔天楼』に宿泊することができた。そして何事も起こさず一泊し、次の日ある場所へと向かった。
雲一つない青空。ギラギラと照りつける太陽の暑さに負けず、多くの人や魔物がわいわいとはしゃいでいる。
ここはそう、旅館『摩天楼』の運営するプール施設である。室内プール、子供用プール、大型スライダーと揃っていて規模はかなり大きい。しかしただ大きいだけではない。このプールには都市部にある他のプールとは違う特徴がある。それはマーメイドによるプールでの短い生歌ライブが週一回のペースで行われているのである。激しいロック調の曲に最初は慣れない者もいるが、ライブ後半にはほぼみんなが拍手や声援を送る光景が毎度のように繰り返されている。
――そして今日がそのライブ予定の日だった。
水着に着替え、念のため目を隠すゴーグルを着用した男はプール端でここに来ている人々を注意深く観察する。ゴーグルを着けているので外からは分からないが、その目はいまから狩りを行うような鋭い目つきだ。
「…………あいつが適任だな」
しばらく観察を続けていた男は一人の少年に目をつけた。
その少年はお世辞にも泳ぎが上手いとは言えず、十メートル進んではプールの底に足を着くというのを繰り返していた。家族と離れ一人で泳ぐ練習をしているだろうと簡単に推測できた。
「やあ坊ちゃん、練習は捗ってるかい?」
男は気さくな風を装い少年に声をかける。感じの良さそうな男に少年はさほど警戒せず返事をした。
「ううん、あんまり。息つぎの仕方がよく分からなくってさ」
「それなら私が教えてあげようか?」
「いいの!? やったあ! 周りで泳げないの僕だけだから早く泳げるようになりたいんだ」
「コツさえつかめばすぐ泳げるようになるとも。……他の方の邪魔になるといけないから少し場所を変えようか」
「うん!」
男はプールの端――マーメイドのライブ会場から離れた場所、中でも周りに人の少ない場所へと少年をいざなった。
「まずは姿勢から。プールの端を掴んで足をばたばた動かして。背筋は伸ばして一定の間隔で水面から顔を上げてみるんだ」
まずは普通に泳ぎ方を教える。少年に、そして周りの者たちに警戒心を与えないためである。
まだ事を起こすべきではない……もう少し……もうすぐだ……。
男は少年に対しにこやかに笑いながらも、内心ではどす黒い思いが渦巻いていた。
…………――。
ぴょんぴょんと魚の尾で器用にプールサイドを跳ねながら、三人のマーメイドがライブ会場へと集まってきた。
「……あー、あ~、テステス……マイクのテスト中……」
「ギターの準備は万全っすよ!」
「…………いつでもOK」
星型の刺青が目元にあるメルがマイクを、三日月形の刺青が目元にあるマイがギターを持ち、髑髏型の刺青が目元にあるディアはプールに浸かり水面に手をかざす。
全員の準備ができたことを確認したメルは水面をバシャン! と叩き、大きな水柱を発生させる。その水柱に多くの人の目が集まる。
ライブ開始の合図を知らない者は何事かと驚き、噂を聞き知っている者はついに始まるのかと期待の眼差しを彼女らに向けた。
「プールに来ているお前らー! 楽しんでるかー!」
メルがマイクを観客――もといプールに遊びに来た客に向ける。多くの人は監視員が何をやり始めたんだと疑問に思い、「Yeah-!」や「Foo!」といった声はわずかにしか上がってこない。
「なんだぁ、今日はノリが悪いじゃねえか。おいマイ、こういうときはどうすればいいと思う?」
「そりゃもちろん盛り上げるんっすよ! うちらのロックでソウルに響かせましょう!」
「だよなぁ! じゃあ早速かますぜ! ディア!」
「……スタート」
ディアが水面に指を打ち付ける。すると波紋が幾重にも重なった音を生み出し、それがプール全体に響き渡る。
続いてマイがギャウウウン、とギターを鳴らす。速弾きから始まり、その弦捌きに多くのギター好きの目を引きつける。
そしてボーカルのメルはまず絶叫から入った。耳を劈くような絶叫であるにもかかわらず、なぜかその声は澄んでいて聞く者の体をいい意味で震わせた。
ライブ開始直後はなんで急に歌いだすんだよと冷ややかな目を向けられたが、十分も経つと泳いでいた者すら一旦泳ぐのを止め、彼女らに向かって腕を突き上げるようになった。
徐々にプールにいるほとんどが彼女らの演奏に熱狂するようになっていった……。
「よーし、良い感じだ。次は別の練習にしよう」
マーメイドたちによるライブが始まって少し経ってから男は少年に声をかけた。
「実際に前に進む感覚をつかもう。次はプールサイドではなく、私の手を掴んでくれ。あとはさっきと同じだ。君の進むスピードに合わせて私は後ろ歩きをする、いいね?」
「うん……でもさっきからわくわくするような音楽が聞こえてくるんだ。それを聞きに行ってからじゃダメかな?」
「ダメだ。続けて練習をすることに意味がある」
男は険しい顔で少年の要望をきっぱりと断る。だがすぐに、にこりと表情を変えた。
「しかし、五分もすれば感覚をつかめるさ。そうすればひとまず一区切り。ライブを聞きに行くといい」
「……うん、わかった! じゃあ早速練習しよっと」
少年は男の手を握る。そして先ほどと同じようにしてバタバタと足を動かし泳ぎ始めた。
少年の練習に付き合いながら男は周りの状況を注意深く観察していた。体の内側まで響く思考を邪魔する音楽も無視し、ひたすらにチャンスを窺っていた。
マーメイドによる演奏によりプール施設の熱気は上昇している。
ほとんどの人、魔物は彼女たちに釘付けとなっており、プール端にいる自分たちのことなんて気にも留めていないだろう。ライブをしているマーメイドも同様だ。
では、ここで自分の腕をプールの底へ持っていったらどうなるだろうか? と男はここに来る前から考えていた。
少年が溺れるのは明白。大事なのはその後である。
溺れた少年を放置し、自分は何食わぬ顔をしてここを去る。そんなことができるかという疑問に対して、男はできるという自信を持っていた。
水中で少年の声はほとんど聞こえない。激しい音楽が鳴り響いている状況ならなおさらだ。犯行現場を少々見られても問題ない。少年の息つぎのタイミングに注意し、酸素を使いきったであろうタイミングで腕を下げれば溺れさすのに一分もかからない。短時間ならまさか溺れさせているなんて思われないだろう。気付くのは少年が一向に動かないのを確認したとき、そのときはもうここを去った後だ。
顔を見られていても問題はない。犯罪者として追われても問題はない。数々の悪事を行ってきた男にとってそんなこと今までとなんら変わらないのである。
誰かが少年を溺れさせたということは別に発覚してもいい。大事なのはそのときプールの監視員であるマーメイドがライブに興じていたという事実である。
職務怠慢。
それによって一人の尊い命が失われたのであれば、世間のバッシングは確実にその監視員に向かう。実際悪いのはそんな事件を起こした犯人なのだが。
バッシングは監視員だけに留まらないだろう。ライブを容認していたはずのプール施設を運営する旅館『魔天楼』にも向かうはずである。そうなれば後は潰れるまで時間の問題だろう。後はあいつから多大な報酬をもらい、身分を偽って遠くに逃げてしまえばいい――男はそう思い描いていた。
…………さてそろそろ頃合だろう。
ライブが盛り上がりを見せる中、男は冷徹に決断をする。
「……ぷはっ、……ぷはっ」
少年が一生懸命息つぎをする中、タイミングを見計らって男は水中に潜り、一気に腕をプールの底へと引き摺り下ろした。
「……!?」
いきなり腕を引っ張られた少年は驚愕し、目を見開く。目の前の男は先ほどとは全く違う表情をしていた。笑っているのに変わりはないが、にこやかとは到底言えない。非常に不気味な笑みをこちらに向けているのだ。
やばい! ――そう思ったときにはすでに肺に残るほとんどの空気を使い果たしていた。もがこうにも腕は拘束され、足は頭より上に浮いていてどう動かせばいいか分からない。
ただ少年はひたすらに足を動かした。それしかできることがなかった。そんなことをしても男の拘束は解けないと分かっていても。
混乱と絶望の表情が少年の顔に浮かぶ。
これでこの少年の命、そしてこの旅館の命も終わりだ――男はあいつから報酬を確信した。
だが男は潜っていたため大事なことに気付いていなかった。
ライブ真っ最中で激しく奏でられていた音や声がぴたりと止んでいることに……。
――なにっ!?
今度は男が驚きの表情を見せる。
自然の流れではありえない下から上へ押し上げる水流が発生し、少年と男を押し上げたのである。




