いつもと違う二人の姿
「旅館『魔天楼』をよろしくお願いしますね♪」
場所は俺の働く旅館より徒歩で約二時間のところにある草原。(早めに歩いたので一時間強で着いた)
晴れ渡る空の下、作り直したチラシをふよふよと丸い、人間の頭一つ分くらいの大きさの半透明で水色の生物――スライムに配っていく。
チラシを受け取ってくれたスライムは、器用に頭(?)に乗せて持つ。中には丸めて体内に取り込むものもいた。……後で体内から取り出すことは可能らしい。
「――よければいらしてください」
また一枚チラシを手渡す。やはりスライムにとっては旅館の宣伝が珍しいらしく、そいつらの方から近づいてチラシを持っていくこともあった。もちろんスライム相手なので人間の俺には興味を持ってくれたかどうか表情は読み取れないけど……。
うーん、もうかれこれ四時間くらい経っただろうか。
チラシは少しずつではあるが確実に減ってきている。それはいい。しかし――
「どうかしたのかにゃ?」
ふとカトレアが声をかけてきた。俺は目線を下の方に向ける。
「いやあ、思っていた以上につらいな…………スライムに『手渡す』ってのは……」
なんせコタツ机の高さもない相手だ。手渡すのはどうしてもかがまなければならない。
「もう何回スクワットしたかなぁ……」
「にゃははは、いいじゃにゃいか、運動になって」
「ここに来るまでに十分歩いたよ……ああ帰りもあるんだ……」
「そんにゃ悲観するにゃって。いいじゃにゃい。明日休みにゃんでしょ?」
「そうだけどさ。筋肉痛で一日つぶれるってのも嫌なんだよ。どうせなら旅館の周りでも散策しようと思ってたんだから。…………いいよなー、カトレアは。かがまなくてもいいんだから」
そう、今のカトレアの姿は猫そのもの。『化猫』の能力『獣化』によるものだ。
人間の姿のときの髪と同様の黒い毛で全身を覆い、しなやかな体は妙に艶かしい。人間の姿のときよりも……なんて言ったら怒られるか? あの姿は色気よりかわいさが勝っているんだよなぁ。
「ふふん」
カトレアは得意げに鼻を鳴らす。
…………えいっ!
なんとなく余裕そうなのがむかついたので、鼻を小突いてやった。
「んにゃ!? なにするにゃ! 鼻は敏感にゃのよ!」
「あははは、悪い悪い。つい、な」
「まったく……さっき配ってたときみたいなかわいさをもうちょっと普段からしてほしいものにゃ」
「えっ!? かわいさ!?」
「それとプラス上品さもあったかにゃ? 一瞬別人かと思ったにゃ」
「そ、そうか……」
やっぱりそうなってしまったか……。
かわいさを作り魅せるという幼少期からの親父の教え。お客に接する心構えとして、相手に安心感を持たせるよう自らやわらかな雰囲気を出す。
徹底した親父の指導の下、心構えを完璧に身に付けたおかげで一時期は親父の旅館で看板娘まで登りつめた。――この黒歴史は記憶から消し去りたい。
とはいえ、今も結局仲居として働いているんだよなぁ。お客に対しては無意識に過去の癖が出てしまうか……。
「なに落ち込んでるにゃー、ほらまたスライム来たにゃよ?」
「えっ? あっ、旅館『摩天楼』をどうぞ――っていません!?」
「うっそにゃー♪ すごい変わり身の速さ。声も微妙に変わるんにゃね」
「もうっ、からかわないでくださいよー……神経使うんだよこれ」
まあ実際はほぼ無意識だから神経なんて使わず自然に出るんだけど……カトレアも嘘ついたからこれでおあいこってことで。
「はいはい、わかったにゃ。とりあえず辺りの風景見て落ち着くにゃ」
「ああ――」
言われたとおり辺りを眺める。
緑一面の草原。寝転べば柔らかな緑の自然のクッションが体を包んでくれる。
近くを流れる川は非常に澄んでいて、覗けば泳ぐ魚がはっきりと見えるほどだ。
雑多なものは無く、シンプルな風景。
面白みは無くとも心やすらぐ良い場所だ。
「リムも来たら良かったのににゃ」
「リムは今日休みの日なんだから仕方ないだろ」
二日ずらせば三人一緒に来れたのだろうけど、できるだけ早く宣伝は開始したかったし、リムからも『そこの宣伝は任せる』と一書きもらったので今日に決定した。
「まあチラシ配りはここだけじゃないし、また次に一緒に来ようか」
どうせお客さんが来ないんじゃ旅館でやる仕事ほとんどないし。
「そうにゃねー。ただここより遠くなるとしたら移動手段を考えた方がいいかもしれにゃい」
「確かに。ここへ来るだけでも結構疲れるしなー」
「三人くらい乗れる魔物でも力を借りるかにゃ?」
魔物に乗っていくのか……。人間の世界では移動手段としたら馬車か、高額だけど大掛かりな魔法による転移が主だから、いままで魔物の背に乗って移動したことはない。まあスピネルから遠出をしたことが無くて、馬車すら乗ったことはないんだけど。
「妖精のいる森へ行くときは遠いからご主人様にでも相談するかにゃ」
「そうだな」
何の魔物を呼ぶかは知らないけどお金もかかりそうだし、ルシフには一言相談しておくべきだろう。
「それにしてもこんな近場で配っていても意味あるのかにゃ?」
今になってその疑問を口にするのか……。どうせなら出発前に聞いて欲しかったな。意味はないって言ったらどうするんだ?
「意味はあるさ。ここのスライムだけを狙っているわけじゃない。当然この辺りにいるやつらも他の地域のやつらと交流があるだろ。そのときに泊まる場所として『魔天楼』っていう旅館があるってことを知ってもらえればいいんだ。競争相手の旅館はほとんどいないしな」
ほとんど、というのは旅ラン上位の旅館を除いてということだけど。トップ3ともなれば種族を越えて伝わっているだろうし(『名声』も常に100RPに近い)。ただそんなところは予約で満室だから急に泊まりたいと思って泊まれるようなところじゃない。
「にゃるほどー、じゃあ急に客が増えるってわけでもないんにゃね」
「そう。でも一ヶ月もしたらちらほら入ってはくれると思うんだよ。来てくれさえすれば、あとは俺らの頑張りで最低限『評価』はあがるはずだ」
RP(旅館ポイント)が急上昇したとなればゲンゾーさんも認めてくれて、さらに旅館自体の質が上がると考えている。
……まあなので今期の旅ランはほぼ諦め気味で。
「わかったにゃ。じゃあ残りも頑張って配るかにゃ。ちょうどまたスライムたちが見えてきたし――はむっ」
そう言ってカトレアはチラシの入った木のバスケットを口でくわえる。
「ひゃあ、ひぃへふるふぃあー」(訳:じゃあ、いってくるにゃー)
軽やかに歩き出すカトレア。疲れは全然見えない。
…………よし、足は痛いけど俺ももうひと頑張りしますか。底辺旅館の再建のために!
――さてまた配りに行くわけだけど……
「待ってください。私もすぐに追いつきます」
この口調になるのはもう仕方ないですよね?