第51回(家=国家=小宇宙の神話以前・その3)
「この生体リズム…風太の奴に間違いないな」
風ちゃんのお部屋の扉にぴったりとおでこをくっつけ暫くの間身じろぎ一つしなかった姐御さんなのですが、不意に顔を上げると確たる口調でそう呟きました。うん、それでそんなん分かるんだ。姐御さんの正体の方はいよいよもって五里霧中ですネ。
「よし」
幾度か深呼吸を繰り返した後、姐御さんは決然と、しかし気配ははばかるようにそっと引き戸に手をかけます。朝駆けって意気込むくらいですから音も無く開けたいんでしょうがあいにくこれは使い込まれて25年の引き戸、開ける方がどれだけ気を遣おうがごろごろがたがた誰か来たでーと部屋の主には忠実で、それにね、いくら惰眠を貪りたい風ちゃんだっていい加減起きてても不思議じゃないからね、要するに姐御さん、あなたの野望は既に死んで、すーっ、すやすや。経験に容易く反し警報どころか摩擦さえ忘れたように開く引き戸、俄に明瞭となる穏やかな寝息。…ふっ。
「お~い。風太~…」
そのまま踏み込むかと思いきや、案に相違して姐御さん慎重姿勢です。引き戸はやっと顔が覗く程度に引いただけ、怖々といった感じで暗闇に話しかけています。すやすや。ああ君知るや、君が身を狙う影。その影の息遣いにはようやく躊躇いか恥じらいかが滲んだ様子、しかしそうであっても危機が避けられた訳ではありません、それなのに風ちゃんったら日常の寝息を正妻たるボクたちをそばに置いたままこうも易々と毒婦にまで聞かせちゃって、むぅ、なんだかだんだん腹立たしくなってきた。すやすや。う。けれどすぐに癒やされちゃう愛しき我らが夫の安らかな寝息。すやすや。おうっ。すやすや。このねっとりとした繰り返しが。すやすや。ね、ねっとりとしたストロークで。すやすぅーっすや。すやはぁーっすや。んん!? ボクらをイントロからサビへ、焦らしながらも誘うリズムはこうじゃない。なんだこの干渉波は。なに故ボクら一人上手にα波に溺れることを阻害する。して、源はいずこ。
「すぅーっ、はぁーっ。すぅーっ、うっ。…っ。はぁーっ」
気付いてみれば姐御さんは狭く開いただけの引き戸の隙間に無理矢理鼻先をねじ込み、だもんだから両頬の肉が後ろへ引っ張られちゃって今正面から見たらきっと酷いブサ顔してますよ、はーい大きく息を吸ってー。吐いてー。もっと大きく吸ってーぇ。おうふ。吐いてー。…おうふ、て。いや姐御さんね、風ちゃんのお部屋の空気を胸一杯に取り込んでのその吐息、やはりどうしてもですね、その行為によって姐御さんサビへ連れてかれちゃうのかなーとか、くふん、いやいや、なんかそんな邪推をですね、してしまうのでありまして。勿論そんな訳は。あれ。いやその。だからですね。つまり。姐御さん、あなた一体何してるですか。
「おうふっ! おー、おうっ、お、お、おーぉ、いえっすっ! うほっ、ぅあっ!」
うひっ、なんですか?? 姐御さんが突如奇声を発して飛び退ったのです、そして顔をぐっと仰向けると歯茎を剥き出し、ぞっとするような激しさで顕わになった喉元を掻きむしり始めたのでした。きっぱりと見開かれた両眼は白目ばかり、故に薄青く光を発するようで、どたんばたん、わ、わ、そんなに激しく身悶えしちゃ危な、どったん、ごろごろごろ。なんてゆーか、コントの中の酔っ払いの如きオーバーな危なっかしさでわっ倒れる、あっ倒れる、何度かボクたちを冷やっとさせた挙げ句、身を投げ出し、空中で間を取り、いざ落ち始める、そしてどたりと床に身を打ちつけるところまでもがやっぱりどこか見えざる観客への一芸のような印象で、だからかは分からないけど特に痛がる風も無く、なおも廊下を右へ左へと転がって、姐御さんが当人のものとは思えない薄気味悪いしゃがれ声で呻くのは、
柔らかい・暗い・室へ・戻るが良い
死…、死…、
縮んだろう
朽ちはしなかったろう
柔らかい・暗い・室を・蹴りつけ始めたろう
柔らかい・暗い・室を・引っ掻き始めたろう
柔らかい・暗い・室の・裂け目を探り当てたろう
そっと押し広げたろう
んっ
最初の一息だったろう
彼の男の汗に温もった・胎の外・大きく吸い込んだろう
おうふっ
空虚だったのだろう・満たされたろう
思い出したろう・そなた・誰
…私? 私っ…!
柔らかい・暗い・室の外へ・出るが良い・再び
私…私…ああっ
かゆっ、生まっ
とまあ、とにかく支離滅裂・論理的一貫性なんかなんにも見当たらず、だから却って凄まじさいや増すばかりだった姐御さんの口上を、なんとか意訳しまくれば大体こんな感じになると思われ。これ要するに、姐御さんの正体は巫だったってことか。いや、腐だろう。




