第27回(図書館の彼女と魔性少女・その10)
ん。見守ってる。けれどそれで見えてくるのはなんでしょう。適当な説明を考えあぐねて唸っている姐御さんと、それをぼんやり眺め突っ立ってるリンちゃんという、まぁ当たり前のこっちゃけどわたしたちが主題と意識した二人の姿が、相も変わらず見えるだけでしょう。しかし、今ここで注目しなければならないのはこの構図の中に含まれていながら感覚として得られていないものなのでありまして、いやいやそんな五感に引っ掛からないものにそもそもどうやって注目しろってんだこんちくしょう、ノンノン、可視化等が不可能な現象であろうとも言語化は出来るものですよほら例えば多次元空間だって数式ってゆー日常的言語のお友達で語れちゃったりするんだし。てな訳で、リンちゃんと姐御さんの相互作用を Let's 言語的可視化。
言えます。まぁ“見えます”とか普通に言えればいいんでしょうがここでは仕方がないんです、そもそも可視化等感覚化するのはこれを聞いた知性の仕事だし、とにかく姐御さんの全身を包み込む雲か霞か網掛けか、何がなにやらぼんやりしたものが、姐御さんの頭から顔にかけては特に密に、組んでいる腕や無意識にこつこつと床を叩いている右足の爪先辺りには比較的に密に、全身のそれ以外の箇所では薄く滲む程度に、ほら言い表し得るようになってきただしょ。この雲か霞か網掛けみたいなものが姐御さんが放出している思考の場なのでありまして、見え方の濃淡は姐御さんの思考が場のその辺りに存在する確率の高低にそのまま関わっていますから、頭部周辺に特に濃く雲か霞か網掛けかが纏わり付くようなのはなるほどそのままなのであります。え、なんですって。なんじゃその“思考の場”っつーのはですって? そりゃ勿論思惟する生きものからだったらごく普通に放出されている実体のことですよ、他の実体と殆ど相互作用せず故に人間の感覚では無いも同然のものですけどね、なるほど直接的には経験できないから認識もしづらいのでしょうが、けれど誰かの胸の内が表情や仕草に表れるっていう、誰もが良く知るそれ自体が内的だった思考の外界への放出に外ならないのでは? つまり人間が表情筋などの電気的伸縮として観察する事柄は実は多面的なものなのであって、その事柄を他の面から眺められる才覚を身につける、あるいは言い表し得る言語的パートナーつまりわたしたちを得るならば、〔表情筋等の電気的伸縮現象=思考の場の濃淡の揺らぎ〕なる捉え方の等式を思い浮かべるのも容易になるでしょう。そのような訳で、組んだ腕や無意識に床に一定のリズムを刻んでいる右足の爪先辺りに雲っぽいものが比較的濃いのも、やっぱりそこに姐御さんの胸の内=思考の表れが高く期待されるからということに相成ります。ところで、思考の場はこれ単独で観測されるものではありません。同じ場の仲間である電場と磁場が、時間的な変化を考慮した際には常にペアでしか現れないように、思考の場は必ず存在の場と対になってあるものです。前二者では場の発生の起点になるものは運動する電荷ですが後二者ではなんなのでしょうね、ここで存在の場の“存在”というのは誰かが居るという在り来たりな意味の事なのですが、やっぱりその誰かが電荷の役割を果たすものなのでしょうか、生きている事が“運動”に当たるのでしょうか、実はその辺まだはっきりしてないのですが、とまれ存在がなければ思考は保証されず、一方思考はこれが認められるから居る“誰か”が確実に“あなた”になる、こっちはこっちで存在なるものを保証するようで、思考と存在の両場の間に電磁場的相互規定性があるのは確かです。思考の場と存在の場が大雑把ではあっても言い表し得るようになった所で先へ進みましょう。これらの両場について、今までは姐御さんの全体表から周辺へ広がっていくものについて眺めましたが、この二つの場は勿論姐御さんを見下ろして立っているリンちゃんの方からも放出されているものです。では、広がっていく二人の場が触れ合うとどうなるのか。これは二人の間にコミュニケーションのチャネルが開くか否かによって様子が違ってきます。二人の間にチャネルが開かない、つまりお互いが全くの無関心ならば、二人の場はただ擦れ違っていくだけです。けど今は、姐御さんは自分の難問に取り組みながらも目前に立ってるリンちゃんを意識してますし、これはあれですね、場合によっては何かいいアイディアがないか聞いてみようって事なんでしょうね、リンちゃんはリンちゃんで元より姐御さんにある働きかけをしたくってうずうずしている訳でして、二人の間にコミュニケーションチャネルはばっちり開いてます。チャネルが開いていれば互いの両場は結びつきを持ち始めるのですが、今くらいばっちり開いていれば、微妙な所もあるこの現象もかなりの細部まで言い表す事が出来るでしょう。そうですね、先ずは姐御さんの思考の場が大胆に分布の状況を変えていくようです、なんとなれば話す・著す・察せられる、そもそも思考は人から人へ移ろいやすく、誰かの考えが他人の知る所になるという事は、場のレベルではその考えが自身の在り得る領域を広げたという事、今の例に即して言えば、姐御さんが現在どんな事に頭を悩ませているかリンちゃんにはある程度分かる=姐御さんの考えがリンちゃんの方へある程度移ったと言える訳ですから、姐御さんの思考の場の濃く見える部分、この場合なら、リンちゃんに知られてる姐御さんの考えを場の何処かに探したいって? ならここら辺を探せば見付かる確率が高いぜ! という部分が、姐御さんが一人で唸ってるならこうはならないと申し上げるのは蛇足でしょうが、リンちゃんへ向かって吹き流されるように張り出して行きますし、リンちゃんの思考の場は彼女が一人で沈思黙考している場合の基底的分布状態から殆ど変化ないようだけれど、それでも姐御さんの方から流れてきた場と触れればそれと無理なく連続になれるように分布形状を変え結びあっていきます。一方で存在の場ですが、こちらは思考の場のように一端が引き伸ばされたりとか分布の在り方に極端な変形は示さず、両名どちらのものも二人の存在の重心点から同心球状に粛々と広がって、コミュニケーションチャネルが開かれている今は擦れ違おうというところで互いに立ち止まり、これは牽制でもしあっているのか、一方の場の最前面のある部分が押せば他方はその分後ろへ飛び退き、次の瞬間には攻守所を変え、触れ合えばこれうっかりとばかり両者慌てて分かれる、存在の場は全体としては静的とも言っていい広まりを示すものなのですが、今見るように自身の最外縁において他者を認める事態になれば、その最外縁では変位は微少なれど激しく、他者と反発するために分布の在り方を変えているのです。思考の場と違って条件が整っても素直に結び合わない存在の場の、素直じゃないというのはですね、一見相克ではあっても互いに関わっている以上“結びつき”はあるよねって事なんですが、この謂わば対立という結び合いの性質は、皮膚という強力無比な障壁に囲い込まれてしまった“個”が他の“個”との能う限りの合一を願えば絶望せずにはいられない、思索者たちが気付いたその真実を、場のレベルでも示したものと言えるでしょう。ふむふむ、存在そのものではなく思考によって結びつく。やっぱり人間はコミュニケーションの、言い換えれば社会的な生きものなんですネ。




