序章
大陸北西部に位置する大国”神聖王国”フィレンツ。
”主神”オルディアの神殿を中心に栄える王都ルージアのすぐ傍に、まるで都を守護する騎士のように建つ王城の姿があった。
この城の主にして”主神”の最高司祭である”賢王”インファスト三世は、王城の最上階にある自室でソファに身体を預けくつろぎながら、窓から夜空を見上げる。
「今晩の月はまた一段と美しいな」
誰にともなく呟いたその言葉に、意匠を凝らした高価そうなテーブルを挟んで王の対面に座り、晩酌の相手を務めていた女性が同じように窓を見やって軽く微笑む。
「今宵は満月、月の魔力が最も高まる日。月に魅了され、闇に堕ちてしまわぬようお気をつけください」
王国の宮廷魔術師であり”魔王”の二つ名を持つ女性は、意味ありげな微笑みを王に向け直す。
見た目は三十路前にしか見えないが実際は自身の倍以上生きている相手の言葉を、老年にさしかかった王は豪快に笑い飛ばす。
「心配は要らぬ。月の風情も良いが、光の神々の主神たるオルディアの使徒として浮気はできんよ」
「全ての人が王の様に強い心で夜明けを待てるわけではありません。闇夜に人が恐怖するのもまた事実なのですから」
自分が産まれる以前から宮廷魔術師として王国に仕えている女性の言葉に含みを感じた王は、訝しげな視線を向けて問いかける。
「何か気に掛かることでもあるのか?」
王の言葉に女性は、この様な場所でお話しすることではないのですが、と前置きし、思案気な表情を浮かべて報告する。
「”闇神”グローヴェルの信者が王都に侵入した形跡があります」
「侵入……?」
フィレンツは”主神”への信仰を国教としてはいるが、他神への信仰を弾圧しているわけではない。わけではないが、秩序を旨とする”主神”と、自由を旨とする”闇神”の折り合いはお世辞にも良いとは言えない。
神話でも度々敵対し、信者同士も犬猿の仲と言って良い。
王都には”主神”以外の主要神の神殿もあるにはあるが、”闇神”の神殿は参拝する信者も管理する神職もおらず、王都の景観を損なわない様に国が最低限の修繕や清掃をしているような状況で、態々外から巡礼に来る様な所ではない筈だ。
そもそも、”神聖王国”の国内に”闇神”の信者は殆どいない。
数十年前に国境付近に信者が集まり集落を作ったのも、国内での肩身の狭さを物語っていると言えるだろう。
「ふむ……」
だからと言って、王都に入ってきただけで他神の信者を拘束するわけにもいかない。
暫くは様子を見るに留めるしかあるまい。と唸る”賢王”に”魔王”が物憂げに頷く。
「何も起こらなければ良いのですが……」
闇に浮かぶ満月の綺麗な夏の夜だった。