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人に恋したペンギン

作者: 優稀
掲載日:2026/09/13

人に恋したペンギン



一 雨の日



母から電話があったのは、水族館の入口が見えてきたところだった。


栞は画面に表示された名前を見て、出なかった。


雨は朝から降り続いていた。駅前の横断歩道には浅い水たまりがいくつもできていて、面接用に買ったパンプスの先が濡れていた。


今日で十九社目だった。


結果はまだ出ていない。


ただ、たぶん駄目だろうと思った。


面接官が途中から時計ばかり見ていた。


「あなたが弊社を志望した一番の理由は?」


何度聞かれても苦手な質問だった。


本当の理由なんて、求人票に未経験可と書いてあったから。それ以上のものを用意しなければならないらしい。


家へ帰れば、母が聞く。


どうだった。

手応えは。

次は。


そういうものに答える気力がなくて、栞は駅とは反対方向へ歩いた。


しばらく行くと、小さな水族館があった。


海沿いに昔からある施設らしく、外壁の青はところどころ薄くなっていた。


入口の看板にはペンギンの絵が描いてある。


栞は立ち止まり、それから入った。


理由は特になかった。



平日の午後で、館内は静かだった。


クラゲを見た。


カニを見た。


魚の名前はほとんど覚えていない。


ペンギン舎の前には長いベンチがあったので、そこで休んだ。


ガラスの向こうを何羽ものペンギンが歩いていた。


泳いでいるときだけは速い。


陸へ上がった途端、よちよちになる。


一羽が岩の上で足を滑らせた。


栞は鼻で少し笑った。


そのペンギンは周りを見たあと、何事もなかったように歩き始めた。


「恥ずかしいのかな」


独り言だった。


しばらくすると、そのペンギンがこちらへやってきた。


栞の正面で止まる。


近くで見ると、胸の白い毛のあたりに小さな黒い模様があった。


栞は少し右へ動いた。


ペンギンも右へ動いた。


左。


またついてくる。


栞はガラスに近づいた。


「何」


ペンギンが首を傾げた。


栞もつられて傾けた。


その瞬間、馬鹿らしくなって笑った。


朝から一度も笑っていなかったことに、そのとき気づいた。


「私、何やってんだろ」


ペンギンはガラスに嘴をつけた。


こつ。


小さな音がした。


栞が指先をそこへ置く。


嘴の先と指が重なった。


もちろん、触れてはいない。



閉館の放送が流れた。


栞はベンチを立った。


そのペンギンはまだ近くにいた。


数歩歩いてから振り返る。


「じゃあね」


反応はなかった。


出口へ向かう。


なんとなくもう一度振り返った。


ペンギンは栞のいた場所から動いていなかった。



その夜、母から聞かれた。


「今日どうだったの」


「普通」


「普通って何よ」


「普通は普通」


冷蔵庫から麦茶を出す。


母は食卓で洗濯物を畳んでいた。


「次は?」


「まだ決めてない」


「休んでる場合じゃないでしょ」


「わかってるよ」


少し強く返した。


母は何か言いかけて、やめた。


栞も部屋へ戻った。


机の上に、今日もらった水族館のパンフレットがあった。


捨てようと思った。


でも結局、机の端へ置いた。



五日後。


栞はまた水族館にいた。


自分でも理由はよくわからなかった。


受付で年間パスポートを勧められた。


「三回くらい来るならこっちのほうがお得ですよ」


三回来るだろうか。


少し迷って買った。



ペンギン舎へ行く。


何羽もいる。


全部同じに見えた。


栞は前と同じベンチへ座った。


十分ほど経ったころ、一羽が水から上がった。


胸元に黒い模様。


「あ」


声が出た。


そのペンギンは濡れたまま歩いてきた。


栞の正面で止まる。


「覚えてるの?」


聞いてみる。


当然、答えはない。


後ろから男の声がした。


「そいつ、結構人の顔覚えてますよ」


作業着を着た飼育員がいた。


四十歳くらい。手にはモップ。


「本当ですか?」


「たぶん」


「たぶん?」


「ペンギンに確認できないですからね」


男は笑った。


「ルカっていいます」


栞はガラスを見る。


「ルカ」


呼んだ瞬間、ペンギンが顔を上げた。


二人とも黙った。


飼育員が言った。


「今のは出来すぎだな」


「やらせですか」


「俺そんな器用じゃないですよ」


栞はもう一度、


「ルカ」


と呼んだ。


今度は反応しなかった。


「聞こえてないじゃん」


飼育員が笑った。


その日、栞は前より長くいた。




二 白い石



ルカは栞が来ると、かなりの確率でガラスの近くへ来た。


かなりの確率、というところが大事だった。


毎回ではない。


寝ていることもあった。


魚に夢中で無視される日もあった。


一度、三十分待っても来なかったので、栞は腹を立てて帰ろうとした。


立ち上がったとき、後ろから大きな鳴き声がした。


振り返るとルカが立っていた。


「遅い」


栞が言う。


ルカは羽づくろいを始めた。


「そういう態度なら帰るけど」


羽づくろい。


「帰るよ」


羽づくろい。


栞はまた座った。


近くにいた飼育員――佐伯という名前だった――に笑われた。



面接の帰りに寄ることが多かった。


「今日も駄目そう」


ルカに話す。


ルカはガラスの前で目を閉じている。


「寝るなよ」


目を開ける。


「わかってんの?」


また閉じる。


「絶対わかってないよね」


人間に話すより楽だった。


励まされない。


正論も言われない。


大丈夫とも言わない。


栞が十分黙れば、ルカも十分そこにいた。



白い石を初めて見たのは、春の初めだった。


ルカが嘴に何かくわえて歩いていた。


よく見ると石だった。


白に近い灰色で、青い筋が一本入っている。


ルカは栞の前まで来て、その石を落とした。


ころん。


栞が見る。


ルカも見る。


「何」


嘴で石をつつく。


ころん。


「石じゃん」


後ろで佐伯が、


「あー」


と声を出した。


「何ですか」


「いや」


笑っている。


「何」


「それ、あげてるのかも」


「私に?」


「さあ」


「またそれ」


佐伯はモップを壁へ立てかけた。


「ペンギンって巣に石使うんですよ。気に入ったやつを運んだり。相手に持ってくこともあるし」


「求愛とか?」


「それはちょっと話を盛りすぎ」


「夢ないですね」


「動物番組じゃないんで」


ルカは二人が話している間も石のそばにいた。


栞はしゃがんだ。


「くれるの?」


ルカが石をつついた。


「受け取れないんだけど」


ガラスがある。


そもそも水族館の石だ。


「ごめんね」


栞は指でガラスを軽く叩いた。


その日、ルカはしばらく石を置いたままにしていた。



次に栞が行った日も、同じ石を運んできた。


「また?」


その次も。


「しつこいな」


佐伯が笑う。


「モテますね」


「ペンギンにモテてもなあ」


そう言いながら、栞は写真を一枚撮った。


白い石の横に立つルカ。


スマートフォンの中に保存した。



ある日、男の子がガラスの前でルカに手を振った。


ルカはちらりと見て、泳ぎに行った。


栞が来た。


十分後には白い石を運んできた。


佐伯が横で、


「差が露骨だな」


と言った。


栞は少し嬉しかった。


顔には出さなかった。




三 母



二週間、水族館へ行かなかった。


ルカはどうしているだろう、と考えた日はあった。


でも行けなかった。


母が死んだ。



朝、父から電話があった。


救急車。


病院。


廊下。


医者。


記憶はところどころ抜けている。


覚えているのは母の手が妙に冷たかったことと、父がずっと同じところを見ていたこと。


最後に母とまともに話したのは四日前だった。


また仕事のことで喧嘩した。


「いつまでこんなことしてるの」


「こんなことって何」


「就職活動よ」


「やってるじゃん」


「やってるって言うだけで全然決まらないじゃない」


栞はそこで、


「もうほっといてよ」


と言った。


母も怒った。


電話を切った。


最後だった。



葬式のあいだは忙しかった。


あの人に挨拶。


この人にお茶。


香典。


写真。


よく知らない親戚の昔話。


泣く時間がなかった。


一週間ほどして、家の中が静かになった。


そのころになって、栞は水族館へ行った。



ルカは寝ていた。


「寝てんのかよ」


栞はベンチへ座った。


何もする気が起きなかったので、ただ待った。


十五分。


二十分。


ルカが起きた。


周りを見て、栞のほうを向いた。


少し止まった。


それから歩いてきた。


いつもより速かった。


途中、岩の角に足を引っかけた。


よろける。


栞は少し笑った。


「相変わらずだね」


ルカはガラスの前に来た。


「お母さん死んだ」


栞は言った。


ルカは見ている。


「急に」


声が少し掠れた。


「最後、喧嘩してた」


ルカが一歩動いた。


「うるさいって言った」


言葉にすると、喉の奥が痛くなった。


「ずっと言われてたんだよ。ちゃんと働きなさいって。絵なんかで食べていける人なんて一部なんだからって」


目の前がぼやけた。


「正しいじゃん」


笑おうとした。


うまくいかなかった。


「正しいから嫌だったんだけど」


涙が出た。


隣に親子連れが来た。


恥ずかしくて顔を伏せた。


ルカがどこかへ行った。


「お前まで行くのかよ」


思わず言った。


自分でおかしくなった。


ペンギンに何を期待しているんだろう。



一分もしないうちに戻ってきた。


嘴に、白い石をくわえていた。


栞は顔を上げた。


ルカはいつもの場所へ石を落とした。


ころん。


少し転がった。


青い筋が上を向いた。


栞は何も言えなかった。


そのとき隣の小さな子が、


「ママ、ペンギン石持ってきた」


と言った。


母親が、


「ほんとだねえ」


と答えた。


ただそれだけのことだった。


ただのペンギンが石を運んだだけ。


わかっている。


栞はガラスへ手を当てた。


ルカは石をつついたあと、ガラスの近くへ来た。


嘴の先が栞の掌と重なった。


冷たいガラスがあった。


「……ありがと」


栞が言う。


ルカは離れなかった。


その日は栞が帰るまで、珍しく一度も水へ入らなかった。




四 ガラスがない日



その春、栞は水族館の売店で働き始めた。


求人を見つけたから応募した。


それだけだ、と周りには言った。


佐伯には、


「ルカのコネですか」


と言われた。


「クビにしてください、この人」


売店の店長に言った。


佐伯は笑って逃げた。



昼休みになると、栞はよくペンギン舎へ行った。


制服を着た栞を初めて見た日、ルカは岩の上から走ってきた。


本当に走った。


そして派手に滑った。


尻から落ちた。


栞は声を出して笑った。


ルカはすぐ立ち上がり、何事もなかったように逆方向へ歩いた。


「絶対恥ずかしがってる」


佐伯に言う。


「そんな高等な感情あるかなあ」


「あるって」


「栞さん、最近ルカに都合よく解釈しすぎですよ」


「うるさい」


五分後、ルカは戻ってきた。



夏の終わり。


人手が足りず、栞は清掃を手伝うことになった。


初めてペンギン舎の中へ入った。


ガラスがない。


それだけで怖かった。


「噛まれます?」


「噛むときは噛みますよ」


「先に言ってくださいよ」


「今言いました」


佐伯は長靴で水を流している。


ルカは少し離れたところにいた。


こちらを見ている。


栞が一歩歩く。


ルカが一歩。


また歩く。


ついてくる。


「何」


栞が振り返ると止まる。


歩く。


ついてくる。


「ストーカーだな」


佐伯が言った。


「本人の前で言わないでください」


「本人って」


栞がしゃがむ。


ルカは正面まで来た。


近い。


ガラス越しよりずっと大きく見えた。


目が小さい。


羽毛には水滴がついている。


手を出そうとして、止めた。


「触っていいんですか」


「ルカから来てる分には。頭の後ろあたりを優しく」


栞は指を伸ばした。


ルカの頭へ触れる。


思っていた感触と違った。


もっとふわふわしていると思っていた。


羽毛はしっかりしていて、少し湿っている。


そして温かかった。


「……あったか」


栞が言った。


ルカは逃げない。


目を細めた。


「なんか犬みたい」


「ペンギンに怒られますよ」


栞はもう一度撫でた。


「ルカ」


ルカがほんの少し顔を上げる。


「好き」


口から出た。


佐伯が咳払いをした。


栞は振り向いた。


「聞きました?」


「聞こえました」


「忘れて」


「無理ですね」


ルカが佐伯の長靴をつついた。


「あ、痛っ」


栞は笑った。


「ほら。喋りすぎ」


「お前、わかってんのか?」


ルカはもう一度佐伯の長靴をつついた。




五 尚人



尚人を初めて見た日から、ルカはあまり彼を好きではないようだった。


少なくとも、栞にはそう見えた。


尚人は空調設備の点検で水族館に出入りする会社員だった。


背が高く、よく喋る。


最初に栞へ言った言葉が、


「あ、ペンギンの人だ」


だった。


「売店の人です」


「いつもここいるじゃん」


「休憩です」


「ペンギン好きなんだ」


「まあ」


「どれが一番好き?」


栞がルカを指さした。


「この子」


「こいつ?」


その瞬間、ルカが水から上がった。


濡れたままこちらへ歩いてくる。


尚人の真正面で止まった。


「……俺、見られてる?」


「気のせいでしょ」


尚人が右へずれる。


ルカが二歩右へ。


左。


ルカも左。


「いや、絶対俺じゃん」


栞は笑った。


「嫌われてるんじゃない?」


「初対面だぞ」


ルカが大きな声で鳴いた。


尚人の肩が跳ねた。


栞は腹を抱えて笑った。


少し離れたところで佐伯が掃除をしながら、


「ルカ、距離感近い男嫌いなんですよ」


と言った。


「絶対嘘だろ!」


「さあ」


尚人はガラスの前で少し考え、


「どうも」


と頭を下げた。


「尚人です。よろしくお願いします」


ルカは動かなかった。


「怖いな、こいつ」


「こいつって言わないで」


「そこ?」


その日から尚人は、ルカのことを「先輩」と呼ぶようになった。



尚人と栞が付き合い始めたのは、冬だった。


帰り道が同じで、何度か食事をして、そのまま自然にそうなった。


栞は翌日、水族館へ行った。


ルカの前へ座る。


「彼氏できた」


ルカは泳いでいた。


「尚人。わかる?」


泳いでいる。


「まあ、わかんないよね」


ルカが陸へ上がった。


身体を震わせる。


栞の前へ来た。


「報告だけ」


ルカはしばらく栞を見ていた。


それから巣へ戻った。


栞は嫌な予感がした。


「いや、まさかね」


ルカが戻る。


白い石をくわえている。


「やめてよ」


栞は笑った。


本当にタイミングが悪い。


ルカは石を落とした。


「今?」


つつく。


「今それ出す?」


白い石が少し転がる。


「ずるいって」


笑っていたのに、なぜか目が熱くなった。


尚人のことは好きだった。


ちゃんと好きだった。


それでも、ガラスの向こうのペンギンに少し申し訳ないような気持ちになる。


馬鹿みたいだった。


「ごめん」


小さく言った。


ルカは白い石の横に立っていた。



尚人と二人で水族館へ来た日。


ルカは栞のところへは来た。


尚人がガラスへ近づくと二歩離れた。


「露骨だな、先輩」


尚人が言う。


栞が笑う。


尚人が栞の肩へ腕を回した。


ルカが鳴いた。


「ほら!」


栞が言った。


「今の絶対怒った!」


「お前が一番楽しんでるだろ」


佐伯だけは、


「偶然偶然」


と言いながら笑っていた。




六 行ってくる



母の部屋を片づけていたとき、高校時代のスケッチブックが出てきた。


栞は捨てたと思っていた。


母が持っていた。


中には昔描いた絵が何十枚もある。


後ろのページに母の字があった。


〈五月十六日 夜中まで絵〉


次のページ。


〈六月二日 また描いてる〉


その次。


〈七月九日 今日は人物〉


何のために書いたのかわからない。


褒めてもいない。


でも、ずっと見ていたらしい。


栞はその晩、久しぶりに絵を描いた。


三か月後、東京のデザイン会社から採用通知が届いた。



引っ越し前日。


栞は水族館へ行った。


ルカは岩の上で寝ていた。


「ルカ」


片目を開ける。


「東京行くよ」


起きた。


「仕事決まった」


ルカが歩いてくる。


「絵の仕事」


ガラスの前まで来る。


栞はしゃがんだ。


「お母さん、怒るかな」


ルカはガラスの端を嘴でつついている。


「まず給料聞かれそう」


少し笑った。


「あと休み何日あるのとか」


言っているうちに、母の声が頭に浮かんだ。


急に話せなくなった。


ルカが巣へ戻った。


白い石をくわえてきた。


「またそれ」


栞は笑う。


もう何回目かわからなかった。


「ねえ」


ガラスへ手を当てる。


「私、行っていいかな」


ルカが石を置いた。


答えにはなっていない。


「まあ、聞く相手間違えてるか」


閉館時間が近づいた。


栞は立った。


「また来るから」


ルカはガラスの前にいた。


「絶対」


少し歩く。


振り返る。


まだいる。


「……行ってくるね」


そう言うと、栞は今度こそ帰った。




七 待っていたもの



東京へ行って一年、栞は水族館へ行かなかった。


仕事は想像より忙しかった。


毎日遅くまで残り、休日は寝た。


尚人とは遠距離になった。


喧嘩もした。


一度別れかけた。


それでも一年は過ぎた。



二年目の夏。


久しぶりに水族館へ行った。


ペンギン舎へ近づく。


胸が少し速くなる。


ルカは奥にいた。


「ルカ」


聞こえたのかどうかわからない。


ルカが顔を上げた。


止まった。


次の瞬間、走った。


以前より少し遅い。


途中でまた滑った。


「変わってないなあ」


栞は笑った。


ルカが目の前へ来る。


栞はガラスへ手をついた。


「久しぶり」


ルカはすぐに巣へ戻った。


白い石。


「あったんだ」


栞の声が小さくなった。


二年。


それでも同じ石だった。


佐伯が横から来た。


「それね」


「はい」


「若いやつが一回持ってったんですよ」


「え?」


「ルカ、ものすごい勢いで取り返しに行った」


栞はガラスを見る。


ルカが石を足元に置いている。


「ほかの石なら別に気にしないんですけどね」


佐伯は言った。


「それだけ」


「……そうですか」


栞はそれ以上聞かなかった。



三年目は二回。


四年目は一回。


五年目は行けなかった。


六年目も行けなかった。


尚人から時々、


「先輩元気かな」


と言われた。


「私に聞かないでよ」


そう返していた。



七年目の春。


栞は左手に指輪をつけて水族館へ行った。


ルカは歳を取っていた。


昔のようには走らない。


ゆっくりとガラスの前へ来た。


「久しぶり」


栞が笑う。


「怒ってる?」


ルカは何もしない。


「結婚するんだ」


左手を上げた。


「尚人と」


ルカはしばらくそこにいた。


やがて巣へ戻る。


栞はもう笑っていた。


「はいはい」


予想通り。


白い石。


「ほんと、しつこい」


ルカが石を置く。


銀色の指輪の向こうに白い石があった。


栞はガラスへ手を当てた。


「七年だよ」


ルカを見る。


「七年もそれ渡してんの」


ルカは石を一度つついた。


「遅いよ」


栞は笑った。


涙が落ちた。


「ばか」




八 海



娘には海と名づけた。


尚人は、


「ペンギン関係ある?」


と聞いた。


「ない」


栞は答えた。


尚人は笑った。


「絶対あるじゃん」


「ないって」


それ以上は言わなかった。



海が三歳になったとき、三人で水族館へ行った。


「ペンギン!」


海は走った。


「走らない」


栞が追いかける。


ルカは群れから少し離れていた。


「どれがルカ?」


「あそこ」


「おじいちゃん?」


尚人が吹き出した。


「本人の前で言うなよ」


「本人って何」


栞も笑った。


海がガラスへ張りつく。


「ルカー!」


ルカが顔を上げる。


ゆっくり歩いてきた。


海が跳ねた。


「来た!」


ルカは海を見た。


それから栞を見た。


もう一度海を見る。


首を傾げる。


海も傾げた。


栞は息を止めた。


昔の自分を見ているみたいだった。


「ねえママ」


「ん?」


「ルカ、ママのおともだち?」


「うん」


「ペンギンなのに?」


「ペンギンだけど」


海は考えた。


「ママのこと好き?」


尚人が横で笑った。


「聞いてみれば」


海が大声で言う。


「ルカー! ママのことすきー?」


ルカは動かなかった。


「返事ない」


「振られたな」


尚人が言う。


「うるさい」


栞が笑う。


そのあと三人が別の展示へ向かおうとした。


海が先に走る。


尚人が追いかける。


栞も歩き出した。


数歩進んで、振り返った。


ルカだけがまだガラスの前にいた。




九 最後の日



二年後の冬。


佐伯から電話が来た。


「今日、来れます?」


それだけでわかった。



閉館後。


栞はバックヤードへ入った。


ルカは床に横たわっていた。


昔は大きいと思った身体が、小さく見えた。


「ルカ」


目が開く。


ほんの少し頭が動いた。


栞がしゃがむ。


「来たよ」


立とうとした。


脚に力が入らない。


「いい、いい」


栞は慌てて手を出した。


「そこにいて」


頭へ触れる。


昔より羽毛は乾いていた。


でも温かかった。


「海、もう字書けるんだよ」


何を話せばいいのかわからなかった。


「この前ね、尚人がお皿割った」


くだらない。


それでも話した。


「仕事もまだやってる」


ルカの目は半分閉じている。


「結構続いてるよ。自分でもびっくり」


栞は笑った。


「お母さんがいたら、何て言うかな」


答えはない。


少し黙った。


「私ね」


続きが出てこない。


幸せだと言おうと思った。


ありがとうと言おうと思った。


どれも急に嘘っぽく感じた。


栞はルカの頭を撫でた。


「……いっぱい話したね」


ルカの嘴が少し動いた。


栞の小指に触れた。


触れただけだった。


けれど栞は手を動かさなかった。


長いあいだ、そうしていた。



帰るとき。


扉のところで振り返る。


「ルカ」


目を閉じている。


「またね」


言ってから、少し後悔した。


また、はないかもしれない。


それでも言い直さなかった。



翌朝、ルカは死んだ。




十 石



一週間後。


水族館から小さな箱が届いた。


中には短い手紙と、白い石があった。


佐伯の字だった。



巣を片づけていたら出てきました。

館長にはちゃんと許可を取りました。

栞さんが持っていてください。


最後まで、これだけはほかのペンギンに触らせませんでした。



栞は石を掌へ乗せた。


冷たかった。


ところどころ滑らかになっている。


最初からそうだったのか。


何度も嘴でくわえたせいなのか。


わからない。


青い筋だけは、昔と同じだった。



「何それ」


海が来た。


「石」


「見ればわかる」


最近、口が達者になった。


「ルカの」


海の表情が変わった。


「ルカ、死んじゃったんだっけ」


「うん」


「それ、くれたの?」


栞はしばらく石を見た。


「たぶん」


「たぶんって何」


「ずっとくれようとしてたから」


海が手を伸ばす。


栞は反射的に石を握った。


「あ」


自分でも驚いた。


海がむっとする。


「ケチ」


「ごめん」


「じゃあ見せて」


栞は掌を開いた。


海が覗き込む。


「普通の石じゃん」


「うん」


「どこがいいの?」


栞は少し笑った。


「知らない」


「変なの」


海は部屋を出ていった。


栞は一人で石を見た。


「ほんとだね」


小さく言った。




十一 人に恋したペンギン



何年かして、栞は一冊の絵本を描いた。


仕事ではなかった。


休みの日に少しずつ描いていた。


一羽のペンギンと、一人の女の子の話。


女の子は雨の日に水族館へ来る。


ペンギンは何度も白い石を運ぶ。


女の子は大人になる。


遠くへ行く。


結婚する。


子どもを連れて帰ってくる。


それだけの話だった。


ペンギンには一度も喋らせなかった。


気持ちも書かなかった。


担当編集者に言われた。


「ペンギンは女の子に恋をしてるんですよね」


栞は少し考えた。


「たぶん」


「たぶん?」


「本人に聞いてないので」


「でもタイトルはこれなんですね」


机の上に題名があった。


『人に恋したペンギン』


栞は頷いた。


「これは変えたくないです」


編集者はそれ以上聞かなかった。



最後のページには、一枚の絵だけを描いた。


女の人の掌。


その上に白い石。


文章は入れなかった。



出来上がった本を海が読んだ。


もう小学生になっていた。


読み終えたあと、


「これルカじゃん」


と言った。


「似てる?」


「似てるとかじゃなくてルカじゃん」


栞は紅茶を飲んだ。


「ママも出てる」


「そう?」


「絶対そう」


しばらく本をぱらぱらめくっている。


「ねえ」


「ん?」


「結局、ルカってママのこと好きだったの?」


栞は答えなかった。


本棚に、小さなガラスケースがあった。


中に白い石がある。


「わかんない」


「またそれ」


海が不満そうな顔をする。


「じゃあタイトル嘘じゃん」


「そうかも」


「えー」


栞は笑った。


海は納得していない。


「でもさ」


「うん」


「ママは?」


「何が」


「ルカのこと好きだった?」


その質問には、すぐ答えられた。


「好きだったよ」


「どれくらい?」


栞は困った。


どれくらい。


そう聞かれると、言葉が見つからない。


雨の日。


十九社目の面接。


ガラスについた嘴。


何度も運ばれてきた石。


転んだくせに何もなかった顔をしたこと。


尚人にだけ露骨に近づかなかったこと。


東京へ行って二年ぶりに会ったとき、走ってきたこと。


老いてからも海の声に応えたこと。


最後の夜の小指。


全部思い出した。


「結構」


とだけ答えた。


「何それ」


海が笑う。



その夜、雨が降った。


栞は窓を閉めようとして、しばらく外を見ていた。


最初に水族館へ行った日も雨だった。


もう何年前なのか、少し考えないとわからない。


ガラスケースから白い石を出す。


掌へ乗せる。


冷たい。


ずっと冷たい石だった。


ルカの口にくわえられていたときだけは、もしかすると少し温かかったのだろうか。


そんなことを考えた。


「ねえ」


口に出した。


続きは出てこなかった。


栞は石を見ていた。


もしルカが本当に自分を好きだったのなら。


もし全部ただの偶然だったのなら。


どちらでも、もう確かめる方法はない。


向こうの部屋から、海の笑い声がした。


尚人も何か言っている。


栞は石をケースへ戻した。


部屋を出ようとする。


一度だけ振り返る。


白い石がそこにあった。


ずっとそうしてきたみたいに。


栞は小さく笑った。


「またね」


今度は返事を待たなかった。



――終――

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