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獣人の王様に"番"として攫われ、溺愛されています。ただ一つ——真夏の夜、遠くの獣たちの遠吠えが、いつも、わたしの居場所を、あの人に報せているみたいなのです

作者: 蜜月 憂
掲載日:2026/07/14

その夏の夜、わたしは、攫われた。


村の外れで、夕涼みをしていたときだった。


音もなく、大きな影が、わたしを、ふわりと抱き上げたのだ。


「——見つけた。俺の、番だ」


低く、痺れるような声だった。


見上げると、銀灰の髪に、獣の耳。


琥珀色の瞳が、月明かりの中で、わたしを、食い入るように見つめていた。


「あ、あなたは……」


「グレイル。……この国の、王だ」


狼の獣人王、グレイル様。


荒々しく、苛烈だと、人間の村にまで、その名が轟いている、あのお方だった。


「こわがらなくていい」


彼は、わたしの震えを感じ取ったのか、そっと、腕の力を緩めた。


「俺は、番を——お前を、傷つけたりは、しない。……絶対に、な」


その声が、あんまり真剣で。


わたしは、なぜだか、こわいとは、思わなかった。


「歩けるか。……いや、いい」


グレイル様は、わたしを抱えたまま、夜の森を、風のように駆けた。


「あの、王様。わたし、ただの人間ですよ。番だなんて、何かの、間違いでは」


「間違うものか」


彼は、きっぱりと、言った。


「お前の匂いを嗅いだ瞬間、俺の中の狼が、吠えたんだ。……"この娘だ"、と」


そう言われて、心臓が、どうしようもなく、跳ねた。


こんなにも、まっすぐに、誰かに求められたことなんて。


生まれて初めて、だったから。


* * *


獣人国での暮らしは、驚くほど、あたたかかった。


荒々しいと恐れられる王様は、まるで嘘みたいに、わたしを甘やかした。


「腹は減っていないか。……ほら、こっちの肉のほうが、やわらかい」


「暑いだろう。冷たい果実を、持ってこさせよう」


大きな手で、不器用に、わたしの世話を焼くグレイル様。


その尾が、わたしを見るたびに、ぱたぱたと、揺れているのを、わたしは知っている。


「グレイル様は、優しいのですね。荒々しいって、噂だったのに」


「……番の前で、荒れる王が、どこにいる」


彼は、ばつが悪そうに、そっぽを向いた。


その耳の先が、赤くなっているのを見て、わたしは、思わず、笑ってしまった。


彼は、わたしが少しでも塞ぎ込むと、すぐに気づいた。


大きな鼻を、わたしの首筋に、ふすふすと寄せて。


「……匂いが、沈んでいる。何か、あったか」


「もう。犬みたいに、嗅がないでください」


「狼だ」


むっと言い返す彼が、あんまり可愛くて。


わたしは、この荒々しい王様に、少しずつ、心を許していった。


獣人国の夏は、人間の国より、ずっと、濃かった。


むせ返る緑の匂いと、じりじりと照りつける、陽。


けれど、グレイル様のいる城は、いつも、涼やかだった。


「暑いか。……ほら、こっちへ来い」


大きな尾で、ぱたぱたと、わたしを扇いでくれる王様。


「ふふ。うちわ代わりに、しないでください」


「文句を言うな。……番を涼ませるのも、王の務めだ」


そう言って、得意げに尾を振る彼が、たまらなく、愛おしかった。


——攫われた、最初の夜のこと。


寝所で眠ろうとしたわたしの耳に、遠くから、音が届いた。


あおーん、あおーん、と。


森から、山から、いくつもの遠吠えが、夜空に、響いている。


「あの……あれは?」


「ああ」


グレイル様は、わたしの髪を撫でて、目を細めた。


「皆が、君を、歓迎しているのさ。……新しい妃の、お披露目だ」


「まあ。獣人の皆さんが?」


「そうだ。……賑やかで、いいだろう」


わたしは、その遠吠えを、子守唄みたいに聞きながら。


その夜、ぐっすりと、眠りに落ちたのだった。


* * *


獣人国での日々には、ひとつ、不思議なことがあった。


わたしが、どこにいても。


危ないときには、決まって、グレイル様が、現れるのだ。


庭の石段で、足を滑らせかけたとき。


「——危ない!」


どこからともなく、グレイル様が飛び出して、わたしを、抱き止めた。


森で、道に迷いかけたとき。


木立の向こうから、迷わず、彼が、迎えに来た。


「グレイル様は、どうして、いつも、こんなにちょうどよく来てくださるの?」


わたしが尋ねると、彼は、にやりと笑った。


「番の、勘だ」


「勘、ですか」


「ああ。……お前が、俺を呼ぶより先に、分かるのさ。お前に、何かありそうなときはな」


その言葉を、わたしは、この上ない優しさだと、思った。


一度、街の市で、酔った男が、わたしの腕を、強く掴んだことがあった。


その瞬間だった。


どこか近くで、低い、唸るような、遠吠えが、ひとつ。


次の瞬間には、グレイル様が、わたしと男の間に、割って入っていた。


男は、王の姿を見るなり、悲鳴をあげて、逃げていった。


「……怪我は、ないか」


彼は、わたしの腕を、そっと確かめて、そこに、鼻先を寄せた。


「大丈夫、です。……でも、どうして、すぐに、分かったの」


「言っただろう。番の勘だ、と」


そのときは、まだ、わたしは知らなかった。


その"勘"の正体が、あの、遠吠えだということを。


——ただ。


グレイル様が現れる、その、すぐ前に。


決まって、遠くで、ひとつ、遠吠えが、聞こえることに。


わたしは、まだ、気づいていなかった。


* * *


夏が深まるにつれ、遠吠えは、わたしの中で、少しずつ、別の色を帯びていった。


森を歩けば、木々の奥から。


厨で果実を摘まめば、屋根の上から。


沐浴をしていても、どこか遠くから。


いつも、どこかで、獣たちが、鳴いている。


ある夕暮れ、湯浴みをしていたときのこと。


高い窓の外、屋根のあたりから。


くう、ん、と、小さな、鳴き声。


まるで、わたしが無事かどうか、そっと、たしかめているような。


わたしは、なぜだか、湯の中で、肩を、縮めた。


まるで、わたしが、どこにいても。


その居場所を、たしかめているみたいに。


「ねえ。夜も、昼も、いつも遠吠えが聞こえるのは、どうして?」


わたしは、世話係の獣人の娘に、そっと尋ねた。


彼女の、ふさふさの耳が、ぴくりと、動いた。


「……さあ。獣人の国では、よくあることですから」


「そう……。気のせいかしら」


「妃殿下。どうか、あまり……お気になさいませんよう」


娘は、それきり、口をつぐんでしまった。


——その頃、城を訪ねてきた老いた獣人が、酒の席で、ふと漏らした。


「陛下も、変わられましたなあ」


「変わられた、というのは?」


「ええ。あの、妃殿下を、一度、攫われかけた騒ぎ以来ですよ。……人が、いや、狼が、変わったように、あなたのことばかり」


老いた獣人は、朗らかに、笑っていた。


けれど、その言葉は、なぜだか、わたしの胸の奥に、小さな棘のように、残った。


その夜、わたしは、寝台の中で、ぼんやりと、考えた。


一度、攫われかけた。だから、あの人は、こんなにも。


——けれど。


いつも、どこかで、獣が鳴いている、この暮らし。


それは、守られている、ということ?


それとも……見張られている、ということ?


そこまで考えて、わたしは、慌てて、頭を、振った。


いけない。こんなに優しいグレイル様を、疑うだなんて。


そう思い込んで、わたしは、目を、閉じた。


* * *


眠れない、夏の夜だった。


わたしは、遠吠えに誘われるように、寝所を出て、王の間へと、向かった。


薄く開いた扉の隙間から、そっと、覗く。


——グレイル様が、玉座に、座っていた。


目を閉じ、身じろぎもせず。


まるで、遠くの音のひとつひとつに、耳を、澄ませているように。


あおーん、と、遠くで、遠吠えがひとつ。


すると、グレイル様の耳が、ぴくりと、動く。


また、別の方角から、遠吠えがひとつ。


彼の耳が、また、動く。


——聞いて、いた。


いいえ。


耳を澄ませ、そして——見て、いた。


国じゅうの、獣たちの、目と、耳で。


森を、山を、城を。


わたしの、いる場所を。


「……ノーラ?」


ふいに、グレイル様が、目を開けて、こちらを見た。


その琥珀色の瞳が、わたしを捉えた瞬間、ふっと、安堵に、緩む。


「どうした、こんな時間に。……眠れなかったか」


「グレイル様。あの、遠吠えは……」


わたしの声は、少しだけ、震えていた。


「いったい、何を、あなたに、報せているのですか」


グレイル様は、静かに、立ち上がって、わたしの前に来た。


そして、少しだけ、困ったように、笑った。


「……君を、守るための、声だよ」


「守る……?」


「この国じゅうの獣に、俺は、君の匂いを、覚えさせた」


彼の大きな手が、わたしの頬を、そっと包んだ。


「君が、どこにいても。誰かが、そばで、見ていてくれるように。何かあれば、すぐに、俺に、報せてくれるように」


その手が、微かに、震えていた。


「あの夜、俺は、あと少しで、君を、失うところだった。……もう二度と、あんな思いは、したくないんだ」


「知っている。度を、越している、とな」


彼は、自嘲するように、耳を、伏せた。


「人間のお前には、息が詰まる、かもしれん。……だが、俺は、どうしても」


すがるような、その目。


荒々しい獣人王が、こんなにも、寂しそうな顔を、するなんて。


「グレイル様……」


「気味が悪い、と、思うか。……こんな、俺を」


わたしは、首を、横に振った。


——だって、この人は。


わたしを喪いかけた恐怖から、まだ、抜け出せずに、いるのだ。


そのことが、ただ、痛いくらいに、伝わってきて。


「思いません。だって、それは……わたしを、大切に想ってくださっている、証でしょう?」


わたしがそう言うと、グレイル様は、泣きそうな顔をした。


そして、崩れるように、わたしを、抱きしめた。


「……ありがとう。ありがとう、ノーラ」


その腕の中で、国じゅうの遠吠えが、いっせいに、夜空に、響いた。


まるで、王の安堵を、うたうみたいに。


* * *


夏の終わりに、わたしは、正式に、獣人国の妃になった。


城は、相変わらず、遠くの遠吠えに、包まれている。


そして、わたしはもう、その声を、こわいとは、思わない。


だって、その声がするたびに、思うのだ。


ああ、わたしは今、この国の皆に——この人に、見守られているのだ、と。


妃になってから、グレイル様は、前よりずっと、よく笑うようになった。


夏の庭で、二人、冷たい果実を分け合いながら。


「グレイル様。ひとつ、お願いがあるんです」


「言ってみろ。番の頼みなら、なんでも、聞いてやる」


「あの遠吠え。わたし、好きになったの。……これからも、聞かせてくださいね」


わたしがそう言うと、彼は、一瞬、目を見開いて。


それから、この世でいちばん、幸せそうに、尾を、振ったのだった。


「ノーラ」


その夜、寝所で、グレイル様は、わたしを腕に抱いて、名を呼んだ。


「なんですか?」


「怖くは、ないか。……こんな、束縛の強い、狼で」


「いいえ」


わたしは、彼の胸に、頬を寄せた。


「不思議ですね。あなたといると、わたし、どこにいても、ひとりぼっちじゃない気が、するんです」


グレイル様の腕に、ぎゅっと、力がこもった。


「ああ」


彼は、わたしの髪に、頬をすり寄せた。


「君は、これから先も、決して、ひとりにはならない。……この国じゅうが、いつも、君を、見守っているからな」


その約束が、どれほど深く、どれほど途方もないものなのか。


——わたしは、生涯、知らないままだった。


けれど、それでよかったのだと思う。


だってわたしは、どこにいても、ひとりきりの夜さえ。


この人と、この国の皆に見守られて、こわいくらいに、幸せなのだから。


その夜も、遠くで、あおーん、と。


夏の夜空に、優しい遠吠えが、ひとつ、響いた。

蜜月 憂です。夏の音シリーズ、今作は獣の遠吠え。荒々しい狼王グレイルの、番への一途すぎる想い——あの遠吠えが本当は何を報せているのか、ノーラは知らないまま、皆に見守られて幸せに笑っています。「きゅんとして、ゾクッ」を楽しんでいただけたら。

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