獣人の王様に"番"として攫われ、溺愛されています。ただ一つ——真夏の夜、遠くの獣たちの遠吠えが、いつも、わたしの居場所を、あの人に報せているみたいなのです
その夏の夜、わたしは、攫われた。
村の外れで、夕涼みをしていたときだった。
音もなく、大きな影が、わたしを、ふわりと抱き上げたのだ。
「——見つけた。俺の、番だ」
低く、痺れるような声だった。
見上げると、銀灰の髪に、獣の耳。
琥珀色の瞳が、月明かりの中で、わたしを、食い入るように見つめていた。
「あ、あなたは……」
「グレイル。……この国の、王だ」
狼の獣人王、グレイル様。
荒々しく、苛烈だと、人間の村にまで、その名が轟いている、あのお方だった。
「こわがらなくていい」
彼は、わたしの震えを感じ取ったのか、そっと、腕の力を緩めた。
「俺は、番を——お前を、傷つけたりは、しない。……絶対に、な」
その声が、あんまり真剣で。
わたしは、なぜだか、こわいとは、思わなかった。
「歩けるか。……いや、いい」
グレイル様は、わたしを抱えたまま、夜の森を、風のように駆けた。
「あの、王様。わたし、ただの人間ですよ。番だなんて、何かの、間違いでは」
「間違うものか」
彼は、きっぱりと、言った。
「お前の匂いを嗅いだ瞬間、俺の中の狼が、吠えたんだ。……"この娘だ"、と」
そう言われて、心臓が、どうしようもなく、跳ねた。
こんなにも、まっすぐに、誰かに求められたことなんて。
生まれて初めて、だったから。
* * *
獣人国での暮らしは、驚くほど、あたたかかった。
荒々しいと恐れられる王様は、まるで嘘みたいに、わたしを甘やかした。
「腹は減っていないか。……ほら、こっちの肉のほうが、やわらかい」
「暑いだろう。冷たい果実を、持ってこさせよう」
大きな手で、不器用に、わたしの世話を焼くグレイル様。
その尾が、わたしを見るたびに、ぱたぱたと、揺れているのを、わたしは知っている。
「グレイル様は、優しいのですね。荒々しいって、噂だったのに」
「……番の前で、荒れる王が、どこにいる」
彼は、ばつが悪そうに、そっぽを向いた。
その耳の先が、赤くなっているのを見て、わたしは、思わず、笑ってしまった。
彼は、わたしが少しでも塞ぎ込むと、すぐに気づいた。
大きな鼻を、わたしの首筋に、ふすふすと寄せて。
「……匂いが、沈んでいる。何か、あったか」
「もう。犬みたいに、嗅がないでください」
「狼だ」
むっと言い返す彼が、あんまり可愛くて。
わたしは、この荒々しい王様に、少しずつ、心を許していった。
獣人国の夏は、人間の国より、ずっと、濃かった。
むせ返る緑の匂いと、じりじりと照りつける、陽。
けれど、グレイル様のいる城は、いつも、涼やかだった。
「暑いか。……ほら、こっちへ来い」
大きな尾で、ぱたぱたと、わたしを扇いでくれる王様。
「ふふ。うちわ代わりに、しないでください」
「文句を言うな。……番を涼ませるのも、王の務めだ」
そう言って、得意げに尾を振る彼が、たまらなく、愛おしかった。
——攫われた、最初の夜のこと。
寝所で眠ろうとしたわたしの耳に、遠くから、音が届いた。
あおーん、あおーん、と。
森から、山から、いくつもの遠吠えが、夜空に、響いている。
「あの……あれは?」
「ああ」
グレイル様は、わたしの髪を撫でて、目を細めた。
「皆が、君を、歓迎しているのさ。……新しい妃の、お披露目だ」
「まあ。獣人の皆さんが?」
「そうだ。……賑やかで、いいだろう」
わたしは、その遠吠えを、子守唄みたいに聞きながら。
その夜、ぐっすりと、眠りに落ちたのだった。
* * *
獣人国での日々には、ひとつ、不思議なことがあった。
わたしが、どこにいても。
危ないときには、決まって、グレイル様が、現れるのだ。
庭の石段で、足を滑らせかけたとき。
「——危ない!」
どこからともなく、グレイル様が飛び出して、わたしを、抱き止めた。
森で、道に迷いかけたとき。
木立の向こうから、迷わず、彼が、迎えに来た。
「グレイル様は、どうして、いつも、こんなにちょうどよく来てくださるの?」
わたしが尋ねると、彼は、にやりと笑った。
「番の、勘だ」
「勘、ですか」
「ああ。……お前が、俺を呼ぶより先に、分かるのさ。お前に、何かありそうなときはな」
その言葉を、わたしは、この上ない優しさだと、思った。
一度、街の市で、酔った男が、わたしの腕を、強く掴んだことがあった。
その瞬間だった。
どこか近くで、低い、唸るような、遠吠えが、ひとつ。
次の瞬間には、グレイル様が、わたしと男の間に、割って入っていた。
男は、王の姿を見るなり、悲鳴をあげて、逃げていった。
「……怪我は、ないか」
彼は、わたしの腕を、そっと確かめて、そこに、鼻先を寄せた。
「大丈夫、です。……でも、どうして、すぐに、分かったの」
「言っただろう。番の勘だ、と」
そのときは、まだ、わたしは知らなかった。
その"勘"の正体が、あの、遠吠えだということを。
——ただ。
グレイル様が現れる、その、すぐ前に。
決まって、遠くで、ひとつ、遠吠えが、聞こえることに。
わたしは、まだ、気づいていなかった。
* * *
夏が深まるにつれ、遠吠えは、わたしの中で、少しずつ、別の色を帯びていった。
森を歩けば、木々の奥から。
厨で果実を摘まめば、屋根の上から。
沐浴をしていても、どこか遠くから。
いつも、どこかで、獣たちが、鳴いている。
ある夕暮れ、湯浴みをしていたときのこと。
高い窓の外、屋根のあたりから。
くう、ん、と、小さな、鳴き声。
まるで、わたしが無事かどうか、そっと、たしかめているような。
わたしは、なぜだか、湯の中で、肩を、縮めた。
まるで、わたしが、どこにいても。
その居場所を、たしかめているみたいに。
「ねえ。夜も、昼も、いつも遠吠えが聞こえるのは、どうして?」
わたしは、世話係の獣人の娘に、そっと尋ねた。
彼女の、ふさふさの耳が、ぴくりと、動いた。
「……さあ。獣人の国では、よくあることですから」
「そう……。気のせいかしら」
「妃殿下。どうか、あまり……お気になさいませんよう」
娘は、それきり、口をつぐんでしまった。
——その頃、城を訪ねてきた老いた獣人が、酒の席で、ふと漏らした。
「陛下も、変わられましたなあ」
「変わられた、というのは?」
「ええ。あの、妃殿下を、一度、攫われかけた騒ぎ以来ですよ。……人が、いや、狼が、変わったように、あなたのことばかり」
老いた獣人は、朗らかに、笑っていた。
けれど、その言葉は、なぜだか、わたしの胸の奥に、小さな棘のように、残った。
その夜、わたしは、寝台の中で、ぼんやりと、考えた。
一度、攫われかけた。だから、あの人は、こんなにも。
——けれど。
いつも、どこかで、獣が鳴いている、この暮らし。
それは、守られている、ということ?
それとも……見張られている、ということ?
そこまで考えて、わたしは、慌てて、頭を、振った。
いけない。こんなに優しいグレイル様を、疑うだなんて。
そう思い込んで、わたしは、目を、閉じた。
* * *
眠れない、夏の夜だった。
わたしは、遠吠えに誘われるように、寝所を出て、王の間へと、向かった。
薄く開いた扉の隙間から、そっと、覗く。
——グレイル様が、玉座に、座っていた。
目を閉じ、身じろぎもせず。
まるで、遠くの音のひとつひとつに、耳を、澄ませているように。
あおーん、と、遠くで、遠吠えがひとつ。
すると、グレイル様の耳が、ぴくりと、動く。
また、別の方角から、遠吠えがひとつ。
彼の耳が、また、動く。
——聞いて、いた。
いいえ。
耳を澄ませ、そして——見て、いた。
国じゅうの、獣たちの、目と、耳で。
森を、山を、城を。
わたしの、いる場所を。
「……ノーラ?」
ふいに、グレイル様が、目を開けて、こちらを見た。
その琥珀色の瞳が、わたしを捉えた瞬間、ふっと、安堵に、緩む。
「どうした、こんな時間に。……眠れなかったか」
「グレイル様。あの、遠吠えは……」
わたしの声は、少しだけ、震えていた。
「いったい、何を、あなたに、報せているのですか」
グレイル様は、静かに、立ち上がって、わたしの前に来た。
そして、少しだけ、困ったように、笑った。
「……君を、守るための、声だよ」
「守る……?」
「この国じゅうの獣に、俺は、君の匂いを、覚えさせた」
彼の大きな手が、わたしの頬を、そっと包んだ。
「君が、どこにいても。誰かが、そばで、見ていてくれるように。何かあれば、すぐに、俺に、報せてくれるように」
その手が、微かに、震えていた。
「あの夜、俺は、あと少しで、君を、失うところだった。……もう二度と、あんな思いは、したくないんだ」
「知っている。度を、越している、とな」
彼は、自嘲するように、耳を、伏せた。
「人間のお前には、息が詰まる、かもしれん。……だが、俺は、どうしても」
すがるような、その目。
荒々しい獣人王が、こんなにも、寂しそうな顔を、するなんて。
「グレイル様……」
「気味が悪い、と、思うか。……こんな、俺を」
わたしは、首を、横に振った。
——だって、この人は。
わたしを喪いかけた恐怖から、まだ、抜け出せずに、いるのだ。
そのことが、ただ、痛いくらいに、伝わってきて。
「思いません。だって、それは……わたしを、大切に想ってくださっている、証でしょう?」
わたしがそう言うと、グレイル様は、泣きそうな顔をした。
そして、崩れるように、わたしを、抱きしめた。
「……ありがとう。ありがとう、ノーラ」
その腕の中で、国じゅうの遠吠えが、いっせいに、夜空に、響いた。
まるで、王の安堵を、うたうみたいに。
* * *
夏の終わりに、わたしは、正式に、獣人国の妃になった。
城は、相変わらず、遠くの遠吠えに、包まれている。
そして、わたしはもう、その声を、こわいとは、思わない。
だって、その声がするたびに、思うのだ。
ああ、わたしは今、この国の皆に——この人に、見守られているのだ、と。
妃になってから、グレイル様は、前よりずっと、よく笑うようになった。
夏の庭で、二人、冷たい果実を分け合いながら。
「グレイル様。ひとつ、お願いがあるんです」
「言ってみろ。番の頼みなら、なんでも、聞いてやる」
「あの遠吠え。わたし、好きになったの。……これからも、聞かせてくださいね」
わたしがそう言うと、彼は、一瞬、目を見開いて。
それから、この世でいちばん、幸せそうに、尾を、振ったのだった。
「ノーラ」
その夜、寝所で、グレイル様は、わたしを腕に抱いて、名を呼んだ。
「なんですか?」
「怖くは、ないか。……こんな、束縛の強い、狼で」
「いいえ」
わたしは、彼の胸に、頬を寄せた。
「不思議ですね。あなたといると、わたし、どこにいても、ひとりぼっちじゃない気が、するんです」
グレイル様の腕に、ぎゅっと、力がこもった。
「ああ」
彼は、わたしの髪に、頬をすり寄せた。
「君は、これから先も、決して、ひとりにはならない。……この国じゅうが、いつも、君を、見守っているからな」
その約束が、どれほど深く、どれほど途方もないものなのか。
——わたしは、生涯、知らないままだった。
けれど、それでよかったのだと思う。
だってわたしは、どこにいても、ひとりきりの夜さえ。
この人と、この国の皆に見守られて、こわいくらいに、幸せなのだから。
その夜も、遠くで、あおーん、と。
夏の夜空に、優しい遠吠えが、ひとつ、響いた。
蜜月 憂です。夏の音シリーズ、今作は獣の遠吠え。荒々しい狼王グレイルの、番への一途すぎる想い——あの遠吠えが本当は何を報せているのか、ノーラは知らないまま、皆に見守られて幸せに笑っています。「きゅんとして、ゾクッ」を楽しんでいただけたら。




