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04 静かな朝の「おはよう」

 目覚ましより先に、隣の部屋から聞こえる小さな音で目が覚めた。針を通すような、細い糸が擦れる音。まだ薄暗い廊下に、彼女の作業音だけがぽつりと響いていた。


 布団の中で少しだけ躊躇してから、俺は顔を洗いに行くふりをして廊下へ出る。薄手のカーテン越しに見える隣のドアの隙間、光はまだ弱い。紗弥の影が、開け放たれた窓辺で小さく揺れているのが見えた。


 ドアをそっと開けると、彼女は箱を膝に乗せて真剣な顔で糸を引いていた。朝の光が彼女の髪に触れて、いつもと違う優しさを帯びさせる。


「……おはようございます」


 彼女の声は朝の冷えた空気に溶けて、驚いたように小さく震えた。俺は冗談めかして言う。


「早起きだな。何か大事な準備でも?」


 紗弥はしばらく言葉を選び、ようやく膝の箱を抱え直す。


「ちょっと、展示の最後の手直しです。渡す日は決めているんですけど、朝のうちに確認しておきたくて」


 その「渡す日」という言葉に、胸がぎゅっとなる。彼女は顔に表情を出さないが、指先は細かく動き、どこか落ち着かない。


「手伝おうか。運ぶの得意だぜ」


 と言うと、紗弥は一瞬目を泳がせた後、わずかに笑った。


「……いいんですか。邪魔になるかもしれませんけど」


 箱の端に小さな紙の切れ端が貼ってあって、端に青い文字が見える。読めそうで読めない。心のどこかがそれを追いかける。


 俺はティッシュを取りに戻るふりをして、ポケットに忍ばせていた昨日の青い糸を握りしめた。何でもないつもりで言葉を重ねる。


「朝ごはんはもう食べたか?」


「まだです。少ししか時間がなくて」


「じゃあ俺の分もついでに持ってく? 朝はちゃんと食えよ」


 その気遣いに、紗弥の目が驚くほど柔らかくなった。彼女は小さく首を振り、恥ずかしそうに笑う。


「……ありがとうございます。じゃあ、お願いします」


 箱を持つ手が少しだけ軽くなった気がした。廊下を並んで歩くと、戸惑いながらも互いの呼吸が少し同期する。


 外はまだ冷たい空気が満ちていて、俺たちは傘を持たずに出る。階段を下りるとき、紗弥が小さな声で言った。


「……相原さん、今日、午後に少しだけ時間ありますか?」


 その問いに、俺はすぐには答えられなかった。午後。彼女は何を、誰に渡そうとしているのか。だが同時に、胸の中に小さな期待が生まれた。


「あるよ。何か手伝えることがあれば言って」


 紗弥はその答えに照れて、また小さく笑った。箱の端の紙片が、日差しにほんの少しだけ光る。


 帰り際に彼女の肩越しに、ふと昨日の雨の記憶がよみがえった。あの時の相合傘の軽さ、傘越しの彼女の笑顔──それが、午後を待つ理由になっている気がした。午後、少しだけでも彼女の側にいられるなら、それだけで充分だと思った。小さな約束でも、俺には大切だ。朝の始まりが、心に染みる。


 昼下がりの教室は、どこか眠たげな空気に包まれていた。窓際の席でノートを閉じたとき、スマホの画面が震える。紗弥からのメッセージだった。


『図書室の前で待ってます』


 胸の鼓動が一段早まる。彼女が自分から誘ってくれることは珍しい。俺は荷物をまとめ、急いで廊下を歩いた。


 図書室前のベンチに腰掛ける紗弥は、膝の上にあの箱を置いていた。朝よりも落ち着いた顔で、それでもどこか緊張が隠し切れない様子だった。


「来てくれて、ありがとうございます」


 彼女はそう言って、小さく頭を下げた。俺は隣に腰を下ろす。


「で、その箱……。やっぱり誰かに渡すのか?」


 問いかけると、紗弥は視線を落とし、ゆっくりと息を吐いた。細い指がリボンを撫でる。


「はい。実は……明日、展示に出すんです。クラスで作った共同制作の一部なんですけど、私は最後の仕上げを任されていて」


 なるほど、と胸の奥で少し安堵が広がる。てっきり誰か特別な相手に渡すのかと身構えていた自分が、少し可笑しかった。


「それで、相原さんに……その、見てほしいんです」


 言い終わると同時に、彼女は箱の蓋を開けた。中には鮮やかな折り鶴や小さな花の飾りがぎっしり詰まっている。ひとつひとつが丁寧に作られていて、そこに費やされた時間がありありと伝わってきた。


「すごいな……。これ、全部紗弥が?」


「いえ、一部はみんなで。でも、色合いとか並べ方は……私が考えました」


 その声は小さいが、自分の仕事に誇りを持っているのがわかる。俺は心からの言葉を探した。


「すごく綺麗だよ。見てるだけで元気が出る」


 その瞬間、彼女の頬がわずかに赤く染まった。目元は伏せられているのに、嬉しさが隠せていない。


「よかった……。実は、自分のことを表に出すのが苦手で。誰かに見てもらうのは、勇気がいるんです」


 その言葉が心に刺さった。秘密を抱えている彼女の一端が、少しだけ見えた気がした。誰にも話せないことを隠して、それでも誰かに見てほしいと願っている。


「俺は、いつでも見せてくれていいよ。紗弥の作ったものも、紗弥自身も」


 思わず口にすると、彼女は一瞬驚いたように目を見開いた。だがすぐに、ふわりと小さく笑った。


「……相原さんって、時々ずるいですね」


 そう言いながらも、彼女の横顔は確かに柔らかくて。午後の光に照らされて、隠された秘密がほんの少しだけ近づいたように思えた。


 図書室の窓から差し込む光が二人を包み、静かな時間が流れる。俺はその瞬間が永遠に続けばいいと願った。

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