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01 隣の彼女は雨の日に微笑む

 ざあ、と窓を叩く雨音で目が覚めた。


 寝不足気味の頭を抱えながらベッドから体を起こすと、外は梅雨らしい重たい雲に覆われていた。灰色の世界の中、アパートの前に広がる細い路地まで雨粒が溢れ

出している。


 六月の雨は、どうしてこうも人を憂鬱にさせるのだろう。駅に向かう人影は傘の色だけがやけに鮮やかで、誰もが黙々と歩いている。


俺──相原凛は、そんな景色をぼんやり眺めていた。


 アパートの隣の部屋には、まだ引っ越してきて数か月の住人がいる。年齢はたぶん俺と同じくらいで、同じ高校に通っている女の子。名前は花咲紗弥。


 とはいえ、隣に住んでいるとはいえ会話らしい会話をしたことはない。朝の登校で顔を合わせれば軽く会釈する程度。彼女は控えめで、クラスでも静かなタイプとして知られていた。


 ただ一度、俺は偶然、彼女の横顔を見たことがある。夜、窓越しに小さな机の灯りに照らされて、手を動かしている姿を。細かい手芸か、何かを組み立てているような作業。


 そのときの表情は、教室での無表情に近い姿とは違っていた。夢中になって糸を通し、指先を動かす真剣な眼差し。ほんの数秒の覗き見だったのに、妙に印象に残っている。


 そんな彼女の姿を思い出しながら、俺は登校の準備を始めた。鞄を肩にかけ、玄関の傘立てを覗く。……傘が一本、見当たらない。昨日コンビニに寄ったとき、どうやら置き忘れたらしい。


 仕方ない。走れば何とかなるだろうと諦めかけたそのとき、玄関の前から小さな物音がした。


 ドアを開けると、ちょうど隣の部屋から紗弥が出てくるところだった。

 深い藍色の傘を手に持ち、制服の袖口を気にするように整えている。視線が合うと、彼女は一瞬きょとんとした後、小さく会釈をした。


「……おはようございます」

「あ、うん。おはよう」


 声を聞くのは、これが初めてかもしれない。澄んだ小川のような声で、少しだけ息が詰まった。

 その直後、俺は彼女が何かに気づいたようにこちらを見て、傘に視線を移すのを感じた。俺が手ぶらなのを見て取ったのだろう。


「……傘、ないんですか?」


 小さな声。だが、雨音にかき消されずにはっきり耳に届いた。

 俺は苦笑して肩をすくめる。


「忘れたっぽい。今日は走るしかないかな」

「……風邪、ひきますよ」


 紗弥はほんの少し迷ったように瞼を伏せ、それから持っていた傘を差し出した。


「……よければ、一緒に使いますか?」


 思わぬ申し出に言葉を失う。彼女の声は控えめなのに、不思議と断りづらい温かさがあった。

 そして次の瞬間、ぱっと広がった傘の下、彼女は雨に濡れながら小さく微笑んだ。

 ──隣の彼女が、笑ったのを初めて見た。

 傘の布地を叩く雨音が、やけに近くに聞こえる。

 紗弥の傘に並んで入ると、必然的に肩と肩が触れそうな距離になった。制服の袖にしみ込んだ冷たい雨粒とは裏腹に、隣の温度がやけに意識されて落ち着かない。


「……ごめん、無理に誘わせたみたいで」

「いえ。どうせ、一人で使っても濡れるんです。相原さんが風邪をひいたら大変ですから」


 さらりと言ってのける。そんな理由を思いつけるあたり、優しいのか、それともただの常識人なのか。どちらにせよ、俺は軽く頷くしかなかった。

 二人で歩き出すと、傘の下は不思議な小さな世界になった。雨に遮られた外の喧騒から切り離され、まるで時間がゆっくり流れているようだ。


「……相原さんって、普段から傘を忘れる人なんですか?」

「いや、今日はたまたま。昨日コンビニに寄ったときに置き忘れたみたいで」

「ふふっ」


 小さな笑い声が零れる。思わず彼女を見やると、紗弥は唇に指先を当てて表情を隠そうとしていた。

 教室で見かける彼女は真面目でおとなしいイメージだったから、その仕草が意外で、俺は少し驚かされる。


「……笑うんだな」

「笑いますよ、普通に。あまり人前ではしませんけど」

「それは……もったいない気がする」

「もったいない?」


 小首をかしげる仕草が、雨粒を弾いた亜麻色の髪を揺らす。

 言葉にするのは気恥ずかしいが、素直に思ったことを口にした。


「その……笑った顔、けっこういいと思うから」


 沈黙が落ちた。

 しまった、余計なことを言ったか──そう思った瞬間、紗弥の耳朶がかすかに赤く染まっているのが目に入る。


「……ありがとうございます」


 消え入りそうな声。だが確かに聞こえた。

 彼女はそれ以上何も言わず、傘の先を前に向けて歩調を整える。俺も黙って並んで歩いた。

 駅へ向かう途中、細い路地に差しかかると風が吹き込み、雨が斜めに降り込んできた。傘の隙間から水滴が入り込み、制服の肩口を濡らす。

 それに気づいた紗弥は、さりげなく傘をこちらに傾けた。結果、彼女自身がより濡れてしまっている。


「おい、自分が濡れるだろ」

「私は平気です。風邪は滅多にひかないので」

「だからって……」


 抗議しかけて、彼女の表情を見て言葉を飲み込む。

 無理をしているようには見えなかった。むしろ、自然に人を優先してしまうような顔だった。

 数分後、駅前の屋根のある広場にたどり着いたときには、二人の肩口は少し濡れていた。だが、不思議と嫌な気分はしなかった。


「ここまでで大丈夫です。ありがとうございました」

「いや、助かったよ。ほんとに」


 紗弥は小さく会釈して、改札の方へ歩き出した。

 その後ろ姿を目で追いながら、俺は妙な胸のざわめきを感じていた。

 ──隣に住んでいて、ほとんど話したこともなかったはずの彼女。

 たった数分の相合傘で、なぜかずっと前から知っているような親しみを覚えてしまった。

 雨の日の偶然。それだけで終わるかもしれない。

 だが、俺の中で何かが小さく動き出したのを確かに感じていた。

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― 新着の感想 ―
紗弥ちゃん物静かな感じなのに秘密を抱えていると言うギャップ……! ちょっとした仕草のかわいさもいいですね。続きが楽しみです
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