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黄泉ノ刻印  作者:
1/1

命、焦がれて ―火喰らいの少年―

――血のにおいが、雨に溶けていた。


 黄櫨刻真はぜ こくまはその日、妹の手を握っていたはずだった。

 細くて、冷たくて、小さな手。けれどもう――それは、指の一本一本まで、禍々しい黒に染まり、まるで別人のようだった。


「に……い……ちゃ……」


 顔は妹、声も妹、けれどそれはもう「ヒト」ではなかった。


 穢れに触れられた者は、「禍人まがひと」と呼ばれる存在へと変貌する。感情の奥底にある怒りや憎しみ、悔しさ――そういった負の感情が身体を蝕み、やがて心を奪っていく。

 そして完全に禍人と化した者は、かつての記憶も、家族も、感情も……すべてを失う。


「ごめん……俺が……」


 刻真の声は震えていた。

 震えて、崩れて、今にも泣き崩れそうだった。


 でも、泣いてなどいられない。


「……斬る」


 ――この手で、斬るしかない。


 妹の胸元へと手を差し出す。掌に刻まれた、赤黒い「封印紋様ふういんもんよう」がじわりと浮かび上がり、灼けるような熱を帯びた。


 紋様を使った術は、使えば使うほど命を削る。

 それでも止めなければ、妹はもう人を喰らい、世界を壊すだけの存在になってしまう。


「《封ノ刻・参ノ印──火喰らい》」


 刻真の身体を、赤い炎が奔った。

 瞬間、禍人と化した妹の身体が焼かれ、そのまま炭のように崩れ落ちていく。


 何も言わず、何も残さず。


 ただ「静寂」だけが、その場に取り残された。

 


 それから数日後。

 刻真は、「刻印士こくいんし」を養成する施設――黄泉宗家に身を寄せていた。


「お前……十歳そこらで《火喰らい》を使ったって?」


 呆れたように声をかけてきたのは、同じ訓練生の少女・**蔦見柚季つたみ ゆずき**だった。


 長い黒髪を一つにまとめ、鋭い目つきをした彼女は、見た目よりずっと気が強い。


「普通はあれ、一回でも使えば数日寝込むのに。しかも妹を相手に、よくまあ……」


「……うるさいな」


 刻真は冷たく返した。けれど柚季は気にした様子もなく、ふん、と鼻を鳴らした。


「いいじゃん、別に。本音言えば、お前には興味あるし。刻印、見せなよ」


「……なんで」


「だって私と同じ、"喰らう系"っぽいでしょ。術式の系統が似てるなら、組まされる可能性高いから」


 組まされる、という言葉に刻真の眉がわずかに動いた。

 禍人を討つには、刻印士同士の連携が必要不可欠。だがそれは、信頼関係がなければ不可能に等しい。


 ──信頼なんて、もう。


 人間はいつか禍人になる。

 それが妹を通して刻真が知った「現実」だった。


「悪いけど、俺は組まない。誰とも。死にたくないなら、近づかないでくれ」


「はあ?」


 柚季は目を見開いて、笑った。


「なにそれ、カッコつけ?」


「……違う」


「それともビビってんの? 人がまた化けるかもしれないって?」


 刻真の目が鋭く光った。


 柚季はそれを見て、少しだけ声を落とす。


「……あんたさ、まだ"喰われかけてる"ね」


「……何が言いたい」


「妹を祓った時、心の一部を"穢れ"に食わせたでしょ。だからまだ、あんたの中で火が燻ってる」


 言葉に詰まる刻真。

 柚季は静かに続けた。


「私もね、前に大切な人を喰らいかけたことがあるの。術に呑まれそうになって、自分が禍人になりかけた」


「……」


「でも、生きてる。だからあんたも、ちゃんと"吐き出す"べきなんだよ。誰かと戦うって、そういうことだから」


 柚季の言葉は、何の慰めでもなかった。

 ただ、燃え残った刻真の心に、小さな火種を落とした。

 


 初任務の日が来た。


 刻真と柚季は、ある村に向かっていた。最近、連続して「変死」が相次いでいるという。


「今回の対象は……まだ完全に禍人化していないっぽい」


 柚季が地図を広げながら言う。


「まだ“ヒトの顔”をしてるかもしれない。……それでも、斬れる?」


「……それでも斬る。斬らなきゃ、誰かが喰われる」


 その言葉に柚季は一瞬、笑みを見せた。だがその笑みは、どこか寂しげでもあった。


 


 村に着いたとき、異変はすぐにわかった。


 空気が重く、どこか生臭い。

 そして、畑の中にぽつんと立つ、一人の少年。


「……あれか」


 少年は、手に血まみれの包丁を持っていた。

 目は焦点が合わず、笑顔のまま、唇を震わせていた。


「おかあさん、どこ……? ぼく、おなかすいたの……」


 刻真の動きが止まった。


「……まだ、完全には……」


「止まって、刻真!」


 柚季が叫んだ瞬間、少年の背から禍々しい黒煙が噴き出す。

 それは人の形を捨てた“異形”――完全な禍人だった。


「くそっ!」


 刻真の掌に、再び封印紋様が現れる。だが、迷いが指を鈍らせる。


「《封ノ刻・参ノ印──火喰らい》!」


 先に叫んだのは柚季だった。

 彼女の術が、禍人を炎に包む。


「……なんで、俺が……躊躇して……!」


「まだだよ、まだ完全に消えてない!」


 二人で一斉に踏み込む。


 柚季が前に出て囮になり、刻真が渾身の一撃を放つ。


「《封ノ刻・壱ノ印──断炎》!」


 赤い光が、夜を切り裂いた。


 禍人は、静かに燃え尽きた。

「……迷ってたね、途中」


 柚季が焚き火を前にして、ぽつりと呟いた。火は小さく、だがあたたかく揺れている。


「……ああ」


 刻真はうつむいたまま、拳を握った。


「でも、ちゃんと斬った。あんたは、自分の手で終わらせた。……それだけで、十分だよ」


 焚き火の炎が、彼の瞳に映る。まるで、妹の最後の光のようだった。


「俺は、また見捨てるところだった。……"ヒト"に見えた。それだけで、足が止まった」


「それでいいじゃん」


 柚季は、肩をすくめて笑った。


「斬ることに慣れたら、あんたはあんたじゃなくなるよ」


「……?」


「あんたは、斬ることに"躊躇できる"人間なんだ。そこが強いところ。私は逆に、迷ったら終わる。だから、迷えるあんたがうらやましい」


 その言葉に、刻真は何も返せなかった。だけど、なぜか心の奥に、小さな何かが灯った。


 あたたかくて、消えそうで、けれど確かにそこにある――そんな何かだった。


 ふと、柚季が空を見上げる。


「……禍人って、さ。元は誰かの大切な人なんだよね」


「ああ」


「だったらさ。私たちはそれを"終わらせる"だけの存在じゃなくて、"弔う"ためにいるんだと思う」


 刻真は目を見開いた。

 その言葉は、どこか妹の記憶と重なった。


「弔う……か」


「うん。だから、これからも一緒にやろうよ。あんたが止まった時は、私が背中を押す。逆も、ね」


 そのとき、はじめて刻真はうなずいた。

 小さく、だけど確かに。


「……わかった。なら、俺が止まっても、背中を蹴るくらいしてくれよ」


「おっ、言ったな。蹴るどころかぶん殴るから覚悟しといて」


 二人は焚き火の前で、肩を並べて笑った。

 その火はまだ小さいが、闇の中でも確かに、希望のように揺れていた。


 その夜、誰にも知られずに一人の刻印士が、黄泉宗家の屋根の上で空を見上げていた。


 男の掌には、奇妙な紋様が刻まれていた。通常の封印紋様とは違い、禍人のものに酷似していた。


「……また一人、目覚めるか」


 彼はそう呟くと、夜の帳に溶けていった。

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