命、焦がれて ―火喰らいの少年―
――血のにおいが、雨に溶けていた。
黄櫨刻真はその日、妹の手を握っていたはずだった。
細くて、冷たくて、小さな手。けれどもう――それは、指の一本一本まで、禍々しい黒に染まり、まるで別人のようだった。
「に……い……ちゃ……」
顔は妹、声も妹、けれどそれはもう「ヒト」ではなかった。
穢れに触れられた者は、「禍人」と呼ばれる存在へと変貌する。感情の奥底にある怒りや憎しみ、悔しさ――そういった負の感情が身体を蝕み、やがて心を奪っていく。
そして完全に禍人と化した者は、かつての記憶も、家族も、感情も……すべてを失う。
「ごめん……俺が……」
刻真の声は震えていた。
震えて、崩れて、今にも泣き崩れそうだった。
でも、泣いてなどいられない。
「……斬る」
――この手で、斬るしかない。
妹の胸元へと手を差し出す。掌に刻まれた、赤黒い「封印紋様」がじわりと浮かび上がり、灼けるような熱を帯びた。
紋様を使った術は、使えば使うほど命を削る。
それでも止めなければ、妹はもう人を喰らい、世界を壊すだけの存在になってしまう。
「《封ノ刻・参ノ印──火喰らい》」
刻真の身体を、赤い炎が奔った。
瞬間、禍人と化した妹の身体が焼かれ、そのまま炭のように崩れ落ちていく。
何も言わず、何も残さず。
ただ「静寂」だけが、その場に取り残された。
それから数日後。
刻真は、「刻印士」を養成する施設――黄泉宗家に身を寄せていた。
「お前……十歳そこらで《火喰らい》を使ったって?」
呆れたように声をかけてきたのは、同じ訓練生の少女・**蔦見柚季**だった。
長い黒髪を一つにまとめ、鋭い目つきをした彼女は、見た目よりずっと気が強い。
「普通はあれ、一回でも使えば数日寝込むのに。しかも妹を相手に、よくまあ……」
「……うるさいな」
刻真は冷たく返した。けれど柚季は気にした様子もなく、ふん、と鼻を鳴らした。
「いいじゃん、別に。本音言えば、お前には興味あるし。刻印、見せなよ」
「……なんで」
「だって私と同じ、"喰らう系"っぽいでしょ。術式の系統が似てるなら、組まされる可能性高いから」
組まされる、という言葉に刻真の眉がわずかに動いた。
禍人を討つには、刻印士同士の連携が必要不可欠。だがそれは、信頼関係がなければ不可能に等しい。
──信頼なんて、もう。
人間はいつか禍人になる。
それが妹を通して刻真が知った「現実」だった。
「悪いけど、俺は組まない。誰とも。死にたくないなら、近づかないでくれ」
「はあ?」
柚季は目を見開いて、笑った。
「なにそれ、カッコつけ?」
「……違う」
「それともビビってんの? 人がまた化けるかもしれないって?」
刻真の目が鋭く光った。
柚季はそれを見て、少しだけ声を落とす。
「……あんたさ、まだ"喰われかけてる"ね」
「……何が言いたい」
「妹を祓った時、心の一部を"穢れ"に食わせたでしょ。だからまだ、あんたの中で火が燻ってる」
言葉に詰まる刻真。
柚季は静かに続けた。
「私もね、前に大切な人を喰らいかけたことがあるの。術に呑まれそうになって、自分が禍人になりかけた」
「……」
「でも、生きてる。だからあんたも、ちゃんと"吐き出す"べきなんだよ。誰かと戦うって、そういうことだから」
柚季の言葉は、何の慰めでもなかった。
ただ、燃え残った刻真の心に、小さな火種を落とした。
初任務の日が来た。
刻真と柚季は、ある村に向かっていた。最近、連続して「変死」が相次いでいるという。
「今回の対象は……まだ完全に禍人化していないっぽい」
柚季が地図を広げながら言う。
「まだ“ヒトの顔”をしてるかもしれない。……それでも、斬れる?」
「……それでも斬る。斬らなきゃ、誰かが喰われる」
その言葉に柚季は一瞬、笑みを見せた。だがその笑みは、どこか寂しげでもあった。
村に着いたとき、異変はすぐにわかった。
空気が重く、どこか生臭い。
そして、畑の中にぽつんと立つ、一人の少年。
「……あれか」
少年は、手に血まみれの包丁を持っていた。
目は焦点が合わず、笑顔のまま、唇を震わせていた。
「おかあさん、どこ……? ぼく、おなかすいたの……」
刻真の動きが止まった。
「……まだ、完全には……」
「止まって、刻真!」
柚季が叫んだ瞬間、少年の背から禍々しい黒煙が噴き出す。
それは人の形を捨てた“異形”――完全な禍人だった。
「くそっ!」
刻真の掌に、再び封印紋様が現れる。だが、迷いが指を鈍らせる。
「《封ノ刻・参ノ印──火喰らい》!」
先に叫んだのは柚季だった。
彼女の術が、禍人を炎に包む。
「……なんで、俺が……躊躇して……!」
「まだだよ、まだ完全に消えてない!」
二人で一斉に踏み込む。
柚季が前に出て囮になり、刻真が渾身の一撃を放つ。
「《封ノ刻・壱ノ印──断炎》!」
赤い光が、夜を切り裂いた。
禍人は、静かに燃え尽きた。
「……迷ってたね、途中」
柚季が焚き火を前にして、ぽつりと呟いた。火は小さく、だがあたたかく揺れている。
「……ああ」
刻真はうつむいたまま、拳を握った。
「でも、ちゃんと斬った。あんたは、自分の手で終わらせた。……それだけで、十分だよ」
焚き火の炎が、彼の瞳に映る。まるで、妹の最後の光のようだった。
「俺は、また見捨てるところだった。……"ヒト"に見えた。それだけで、足が止まった」
「それでいいじゃん」
柚季は、肩をすくめて笑った。
「斬ることに慣れたら、あんたはあんたじゃなくなるよ」
「……?」
「あんたは、斬ることに"躊躇できる"人間なんだ。そこが強いところ。私は逆に、迷ったら終わる。だから、迷えるあんたがうらやましい」
その言葉に、刻真は何も返せなかった。だけど、なぜか心の奥に、小さな何かが灯った。
あたたかくて、消えそうで、けれど確かにそこにある――そんな何かだった。
ふと、柚季が空を見上げる。
「……禍人って、さ。元は誰かの大切な人なんだよね」
「ああ」
「だったらさ。私たちはそれを"終わらせる"だけの存在じゃなくて、"弔う"ためにいるんだと思う」
刻真は目を見開いた。
その言葉は、どこか妹の記憶と重なった。
「弔う……か」
「うん。だから、これからも一緒にやろうよ。あんたが止まった時は、私が背中を押す。逆も、ね」
そのとき、はじめて刻真はうなずいた。
小さく、だけど確かに。
「……わかった。なら、俺が止まっても、背中を蹴るくらいしてくれよ」
「おっ、言ったな。蹴るどころかぶん殴るから覚悟しといて」
二人は焚き火の前で、肩を並べて笑った。
その火はまだ小さいが、闇の中でも確かに、希望のように揺れていた。
その夜、誰にも知られずに一人の刻印士が、黄泉宗家の屋根の上で空を見上げていた。
男の掌には、奇妙な紋様が刻まれていた。通常の封印紋様とは違い、禍人のものに酷似していた。
「……また一人、目覚めるか」
彼はそう呟くと、夜の帳に溶けていった。