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惨夢  作者: 花乃衣 桃々
◆最終夜
7/8

第7話


 深い闇の底へ落ちて、沈んでいく。

 前も後ろも右も左もない果てしない暗闇が、わたしを飲み込む────。


『死ね』


 耳元で彼女の声がした。


「……っ!!」


 はっと一気に意識が覚醒する。

 気道を空気が通り抜け、息が止まっていたことに気がついた。


「はぁ……はぁ……」


 肩で大きく呼吸する。

 知らないうちに滲んでいた冷や汗を拭う。


 それから胸に手を当てた。

 どく、どく、と速く打つ心臓。

 その音と振動をてのひら越しに確かめ、思わず呟く。


「生きてる」


 それは間違いなく、みんなのお陰だった。


 死は依然(いぜん)として後ろ髪を捉えたままだけれど、昨晩を生き延びられたのは、紛れもなくみんなの助けがあったからだ。


 その事実を噛み締めると涙が込み上げてきた。

 視界が光で満たされていく。


『今夜を最後にはさせないから』


 みんなが、わたしの命を繋いでくれたんだ。




     ◇




 今日は日曜日。

 普段なら嬉しい休日だけれど、いまは(わずら)わしかった。

 会って色々話したいのに、約束をとりつけないといけない。


 スマホを取り出すと何件かメッセージが来ていた。

 通知の一番上をタップする。柚だ。


【花鈴、生きてるよね?】


【おはよう、大丈夫だよ】


 そう返すと、すぐに既読がついて、立て続けに「よかった」と安堵してくれる内容のメッセージが届く。


 そんなに心配してくれていたんだ、と正直嬉しくなった。


【どこかで集まれないかな】


【夏樹が部活らしいから学校でいいんじゃない? 自習する人のために教室も開いてるらしいし】


【わかった。いまから行くね】


 柚とのやりとりを終え、大急ぎで支度を整える。


 ほかにも朝陽くんやみんなからメッセージが届いていたけれど、一刻も早く会いたい気持ちが(まさ)って、返信するより先に家を出た。




 教室には既に4人の姿があった。ほかに人はいない。

 夏樹くんは結局、部活には行っていないようだ。

 それどころじゃないと判断したのかも。


 中へ入ろうとしたとき、はっとした表情の彼らと目が合う。


「お、おはよう」


 視線を一身に浴びてたじろぎつつも笑いかけると、弾かれたように朝陽くんが動いた。


 目の前まで来た彼は、そのままわたしの方へ手を伸ばす。

 気づいたら、わたしは朝陽くんの腕の中にいた。


「え……っ」


 あまりにびっくりして、目を見張ったまま息が止まる。

 抱きしめられている、と認識した途端、鼓動が加速していった。


「……よかった。無事で」


 ささやくように彼が言う。

 柔らかい髪に、声色に、撫でられた耳がくすぐったい。


 ぎゅう、とますます強く抱きすくめられ、心が締めつけられた。

 身じろぎできないまま、揺れる感情に戸惑うことしかできない。


「はいはい、こんなとこでいちゃつかないでよ」


 手を叩きながら柚に言われ、はたと意識が現実に引き戻される。


 その瞬間、彼らの視線に気づいた。

 かぁ、と頬が一気に熱くなる。


「な……ちがうって! 俺は────」


「いいよ、誤魔化さなくても分かってるから」


 にやにやと頬を緩めながら、ばしっと朝陽くんの背中を叩く柚。


 焦ったように彼の手が離れていく。

 それが惜しいように感じられて、欲張りになっていることを自覚すると余計に恥ずかしくなった。


「でも実際、本当よかったよ! 花鈴、生き延びられたんだね」


 柚に眩しいくらいのあたたかい笑顔を向けられる。


「やるじゃん、おまえー。花鈴のこと守りきったんだな」


 今度は夏樹くんがにんまりと笑いながら、朝陽くんの肩に腕を回した。


「……まあ、何はともあれ確かによかった。また全員で顔合わせられて」


 いつもは表情の薄い高月くんの顔も、いまばかりはほっとしたように少しだけ(ほころ)んでいる。


 ────昨晩の夢を生き延びたのは、わたしだけだった。


 柚は(おとり)になって殺され、高月くんは鍵を見つけたものの捕まって死亡。

 夏樹くんは命懸けで鍵を回収した結果殺されて、朝陽くんは屋上を開けるわたしを庇って命を落とした。


「……みんな、ごめんね」


 わたしが犠牲を()いてしまったようなものだ。

 彼らの死の上で、わたしは今日を生きている。


「そこは“ありがとう”って言って欲しいけど」


 不満そうに口を(とが)らせ、柚が言う。

 それでいてまんざらでもなさそうな表情だった。


 みんなも同じだ。

 誰ひとりとして昨晩の結果を後悔していない。


「ありがとう」


 今朝以上に深く噛み締めながら、わたしは告げた。

 滲んだ涙で目の前が揺らいだけれど、精一杯の笑顔をたたえる。


 迷いのない頷きや微笑みが返ってきて、いっそう泣いてしまいそうになった。

 みんなの想いがあたたかくて嬉しい。


(……わたし、生きててよかった)


 だけど、いよいよ大詰めだ。

 終局(しゅうきょく)を迎えようとしている。


 わたし、朝陽くん、高月くんの3人はもう残機が1であとがない。


 今日のうちに決着をつけなければならない。


 そうでないと、恐らくそのうちひとり以上は、確実に命を落とすことになるだろう……。




     ◇




 わたしたちは結局、いつも通りに屋上へ移動した。

 何となくここが落ち着く場所になりつつあった。


 日差しはあたたかく、のどかな空気が流れている。

 身に迫る危機とはあまりに似つかわしくなくて、何だか悲しくなってくるほどだ。


「お、走ってるー。陸上部かな」


 ふちの少し高くなっている部分に夏樹くんが腰を下ろした。

 外側を向いて座り、足を投げ出している。


 怖がりな割に、高いところは平気みたいだ。

 夢の中で飛び降りたことがあるから、大して危なっかしいと思えなくなっているのかもしれない。


 風に乗って微かに、グラウンドの方からかけ声が聞こえてくる。


「5月なのに暑いくらいだよね。走ったら汗だくじゃん」


 だれたように柚が言い、夏樹くんと少し離れた位置に座った。さすがに内側を向いて。

 購買で買ってきたオレンジジュースのストローに口をつけていた。


「今日が日曜日でよかったー。体育あったら地獄だったわ」


「あってもどうせサボるだろ」


「大正解」


 目の前で普段通りの何気ない会話が繰り広げられるけれど、わたしの意識は勝手に逸れていってしまう。


 足元に目を落とした。ざらついたコンクリートの表面。

 ふちの方へ歩み出ると、昨晩の最後が思い出される。


「昨日────」


 ほとんど無意識のうちに口を開いていた。

 記憶をなぞっているうちに言葉がこぼれ落ちた。


「飛び降りる直前、名前を呼んだの」


「……誰の? 白石芳乃?」


 きょとんとした柚に尋ねられ、こくりと頷く。


「結局すぐに殺されそうになったけど、一瞬動きが止まった。声が届いてた」


 そう言うと、あの血走った恐ろしい目が鮮明に蘇ってきた。

 耳にこびりついて離れない「死ね」という言葉も。


「意外だな。話すことは一応可能なわけか」


 高月くんが思案顔で腕を組んだ。


「でも、だからってどうにもなんねーよな。“助けてくれ”とか頼んだところで聞いてくれるわけないし」


「せいぜい……一瞬の足止めくらい? いや、それももう通用しないか」


 夏樹くんに朝陽くんが続く。

 ふたりが悲観的なわけではなく、実際そうだと思う。


(でも)


 怖い、死にたくない、逃げ出したい、そんな弱気な感情に押し負けることなく、浮かんできたある考えが心に居座っていた。


 もう一度、ちゃんと白石芳乃と話したい。


 無謀(むぼう)かもしれない。

 昨晩だって“一度”にカウントできるほどまともに話せたわけじゃない。


 だけど、真っ向から向き合うべきだと思った。

 わたしが“裏切り者”かもしれないから。


 ずっと、その可能性が引っかかっていた。


 朝陽くんの口にした場面がうまく思い出せなかったりとか、そんな曖昧(あいまい)な記憶が自分自身への疑惑を強めていくのだ。


 (たび)重なる記憶の改ざんによって、何か不具合のようなことが起きているのかもしれない。

 そのせいで、書き換えられた記憶に齟齬(そご)が生まれてしまったのかも。


 いずれにしても、わたし自身を完璧に信用しきれなくなっていた。


『死ね』


 だからこそ、そんな彼女の言葉を真に受けて、圧倒されてしまった。


 でも、逃げちゃいけない。

 尽くしてくれたみんなを裏切るような真似だけはしたくない。


「わたし、もう1回試してみる」


 強い意思を持ってそう告げると、それぞれ顔を上げた。


「試す、って何を?」


「まさか化け物との対話をか?」


 困惑の表情や不審がるような視線を受け止め、真剣に頷いて答える。

 みんなの瞳が驚愕(きょうがく)で見開かれた。


 悪夢を終わらせる方法は“裏切り者”を特定して殺すこと。

 だとしても、芳乃が望んでいるのはそれだけじゃないはずだ。


 いつか話したことを思い出した。


『────あの子はもしかしたら、知って欲しいのかもしれない』


 闇に(ほうむ)られた死の真相を。

 事故や自殺ではなく、殺されたのだという真実を。


 それでも、無関係な人たちを呪いに巻き込んで殺す、というのはやっぱり度を越していると思う。


 ただ憎しみを募らせ、復讐したいという激情に突き動かされているだけの可能性はあった。


 だから彼女は最初、5()()という人数が揃ったときに現れた。


 10年前、芳乃が呪い殺した生徒も5人だった────自分を苦しめた彼ら彼女らに見立て、悪夢に閉じ込めて死に追いやっているわけだ。

 今回はたまたまわたしたちがそのターゲットになっただけ。


 そうやって、延々続けていくつもりなのだろう。

 自分本位な復讐を。


 そう考えると、芳乃と話ができる可能性は限りなく低いように感じられる。


(だけど、やっぱりそれだけじゃないはずなんだ)


 心の内でかぶりを振って、気を持ち直した。


 真相を知って欲しい、と望んでいる。

 自分に手をかけた“裏切り者”を暴いて殺して欲しい、とも。


 そのためにメモで情報をくれたり、残機という猶予(ゆうよ)が与えられたりしてきた。

 それなら、懸けてみる価値はある。


 何よりわたしが“裏切り者”なのだとしたら、彼女に言わなきゃならない言葉がある。

 果たすべき責任がある。これはけじめだ。


 納得してくれるかどうかは分からない。許してくれるかどうかだって。

 でも、呪いを解くまではいかないにしても、いまここにいるみんなのことだけは、解放して欲しい。


「……化けもんと話すったってさ、頼んだら助けてくれんの? いまさら?」


「そうよ……。結局襲いかかってくるって、あんたさっき自分で言ってたじゃん」


 ふたりの言葉を(くつがえ)せるような合理的な反論は、残念ながらできなかった。


「もうあとがない。そんな不確実なことを試してる余裕はないだろ」


 高月くんが冷静に追い討ちをかけてくる。


「そう、だけど……」


 わたしは一度うつむき、両手を握り締めた。

 それでも、考えを曲げるには至らない。


「でも、じゃあ……この中の誰かを殺せる?」


 そう言うと、一拍置いてから瞬間的にそれぞれの視線が交錯(こうさく)した。


「まだ“裏切り者”が誰なのかも分かってない。それこそ不確かな中で、殺せるの?」


 わたしがいくら自分を疑っても、そうと口にできなかったのは、結局のところ身勝手なエゴかもしれなかった。


 みんなに嫌われたくない。(さげす)まれたくない。

 彼らの手で殺されたくない。

 そう思ってしまった。


 偽物の思い出と偽物の関係でも、わたしにとってはこの上なく大切なものだったから。


 それに何より、みんなに手を汚して欲しくない。

 たとえ既に死んでいるとしても、殺すなんてことはさせられない。


「……無理、だな。俺には」


 ややあって、ぽつりと朝陽くんが呟く。


「正直、誰のことも疑えないし。この()に及んで」


 それを聞いて、思わず眉根に力が込もった。


 降り積もった疑念をぜんぶ吹き飛ばして、可能性ごと投げ出したくなる。


「…………」


 この中に“裏切り者”なんていなければいいのに。


 わたしじゃなかったらいいのに。……ううん、誰であって欲しくもない。


 だけど、だからこそやるしかないと思った。

 誰のことも殺したくない。殺せない。殺されたくないからこそ。


「……わたしがひとりで試すから。今夜、白石芳乃と話してみる」


「花鈴……」


「だから、みんなはいつもと同じように鍵を探して。うまくいかなかったときのために。朝陽くんと高月くんは、もう死ねないんだから」


 うまくいかなかったときの保険は、わたしにかけるんじゃない。


 みんなの命が優先だ。

 そうじゃないと、臆病になる。気持ちが揺らぎそうになる。

 昨晩みたいな無理はもうさせられない。


「何があっても、悪夢は今日で終わらせる」


 半分は自分に言い聞かせながら、覚悟を決めるために宣言した。


 今夜で最後にする。

 誰のことも死なせない。




     ◇




 授業はないのに、あっという間に放課後の時間帯になった。

 時間が飛ぶように過ぎていく。


 普通にお昼を食べて、普通に話をした。

 いつも通りの日常を装った。


 でも、4人が4人とも何か言いたげな顔をしていた。

 屋上でわたしの考えを伝えて以降だ。


 それでも、その中身がまだはっきりと形になっていないのか、それについては何も口にしないし聞いても曖昧に流されるだけだった。


「花鈴」


 そろそろ解散、というような雰囲気で廊下を歩いていたときだった。

 速度を緩めてわたしの隣に並んだ朝陽くんに呼ばれた。


「一緒に帰ろ」


 春の日差しみたいに優しい声だ。

 たったそれだけで、きゅっと胸が締めつけられる。


 前を歩いているほかのみんなが、無関心を装いながらもわたしたちに意識を向けているのが何となく分かった。

 途端に照れくさくなってくる。


「う、うん」


「……あのさ、俺」


 頷いたわたしを見やった彼は、何かを言いかけて一度言葉を切った。

 つい見上げると、真剣な瞳に捕まる。


「ずっと伝えたかったことがある」


 朝陽くんから目を逸らせないまま、速いリズムを刻む自分の鼓動を聞いた。


 そう前置きした意図。

 熱っぽくて揺るぎない眼差し、頬の色。


 それらの意味に、そして待っているであろう話の内容に、まったく見当がつかないほど、わたしは鈍感じゃなかった。


「……うん」


 小さな声で答える。

 わたしも、と言いかけて慌てて飲み込んだ。


 正直、いまこの瞬間も想いがあふれて止まらない。

 伝えてしまいたい。


 わたしの淡い初恋は、散りもせずにただ思い出の中で埋もれていくはずだった。


 切なくても、不甲斐(ふがい)なくても、思い出の一部になってくれたならまだよかったと思う。


 でもわたしは、脳裏(のうり)をよぎった残酷な可能性を無視できないでいた。


(……本物なのかな)


 彼との過去は。そのとき抱いていた気持ちは。いま、わたしの心に宿っている想いは。

 そして何より、朝陽くんがわたしに向ける感情も。


 作られたものなのかもしれない。

 “裏切り者”のわたしを苦しめるために。


 いまある心が本物だという保証はどこにもない。

 確かめる方法もない。

 だけど、ちゃんと存在している。重みを感じる。


(もし……)


 朝陽くんの“伝えたいこと”が、勘違いじゃなく思った通りのものだったら。


 どうしたらいいのだろう……?

 わたしには、彼を傷つけることしかできない。


「……よし! じゃあここで解散で」


 立ち止まった柚が声を張った。


 いつもみたいに冷やかしたりしないのは、少なからず“いつも”とちがう雰囲気を察しているからだろう。


 だけど、内心までは知らないはずだ。

 わたしの抱く残酷な可能性も。


「おー、そうだな。じゃ、いっぱい飯食って休んで夢に備えるか!」


「休むのはいいが寝落ちするなよ」


「誰がするかよ!」


 夏樹くんは強気に返したものの、高月くんの言葉に青い顔をした。

 “日没前の夢”は現実と直接リンクしている、ということを思い出したのだろう。

 うっかり寝落ちすることは自殺行為と言えた。


「またあとでね、ふたりとも」


 柚に手を振られ、わたしも反射的に振り返した。

 浮かべた笑顔は少しぎこちなくなって、自分の不器用さを思い知る。


「また」


 朝陽くんはいつもの調子で返すと、わたしに向き直って「行こ」と声をかけてくれる。

 3人と別れ、ひと足先に学校をあとにした。




 日の傾いた風景を目にしたとき、わたしの中にしまってあった思い出が光ったような気がした。


 彼との記憶はこの時間帯の出来事が多い。

 学校から帰る道だったり、一度帰ってから公園で集まって遊んだときのことだったり。


「……俺ね、昔を思い出すたび考えてたことがある」


 おもむろに朝陽くんが口を開いた。

 同じように回顧(かいこ)していたのか、穏やかな表情と声色だ。


「なに?」


「もし俺が引っ越してなかったら。花鈴と同じ中学に通ってたら。……どうなってたんだろう、って」


「え」


「あ、もちろん四六時中考えてたわけじゃないからな? ただ、たまに、何となく気になったりしてさ」


 わたしの反応を気にしてか、言い訳っぽく彼は言う。

 だけど、その“何となく”はわたしにも分かった。

 同じだったから。


 小学校を卒業して、春休みの間に朝陽くんは引っ越していった。

 桜が咲く頃にはもう、会えなくなっていた。


 小さな手で握り締めた恋心は忘れられなくて、手放すこともできなくて、だから(ふた)をしておくことにしたんだ。


 でも、たまに。

 ふとしたときに、その蓋が開くことがあった。


 朝陽くんと帰った道を歩いたとき。

 一緒に遊んだ公園を通りかかったとき。

 彼に貸したことのある消しゴムを使ったとき。


 朝陽くんはいま、どうしているんだろう?

 彼のことを思い出してはそんなことを考えていた。


 彼と仲のよかった男の子たちが談笑する姿を見たときもそうだった。


 彼らはいまも朝陽くんと遊んだりしているのかな、なんて、わたしには関係ないはずなのに気になったりした。


「……朝陽くんも同じだったんだ」


 小さく笑いながら呟くと、彼は驚いたようにこちらを向いた。

 その眼差しを受け止めながら続ける。


「わたしも、ずっと気になってた」


 いまさら想いに蓋なんてできなかった。

 積み上げてきた過去の一部として受け流すことも。


「────俺は」


 朝陽くんは足を止め、身体ごとわたしに向き直った。

 地面に影が伸びて傾く。


「あのとき、花鈴のことが好きだったよ」


 微笑んでいるのに悲しげに見えて、心が切ない色に染まっていく。

 儚い雰囲気に飲まれていく。


 速く打つ鼓動が現実感を知らしめてきた。


 幼い頃のあどけない面影(おもかげ)が、大人びた彼の表情の中に覗いている。


 あの朝陽くんが、本当に目の前にいる。

 そのことをいまさら実感した。


「朝陽くん……」


「初恋だった。どうしたらいいのか分かんないで、何もできないうちに会えなくなってさ」


 言いながら視線を落とす。

 その頬に夕日が当たって(あかね)がさした。


「偶然同じクラスになって再会したときは、本当にびっくりしたけど……嬉しかった。そのくせびびってなかなか声かけられなかったけど」


 眉を下げ、朝陽くんが笑った。

 それから再びわたしを捉えた瞳は、息をのむほど優しかった。


「だけど、俺もずっと気になってた。離れてた間も、また会えてからも。……それで、気づいた」


 瞬きも忘れてその瞳を見つめる。

 覚悟を決めたように、彼は息を吸った。


「俺は花鈴のことが好き。その気持ちは、いまも変わってなかった」


 心音が響く。

 苦しいほど速く、でも心地いい、どこか懐かしいようなリズム。


 わたしも忘れていなかった。

 変わっていなかった。

 あの頃抱いていた想いは、いまも胸の奥で光ったまま。


(……やっぱり、好きだなぁ)


 朝陽くんの態度は真剣さを帯びていたけれど、(やわ)らいだ表情のお陰でわたしが追い詰められることはなかった。


 ふ、と目を伏せるように視線を逸らし、彼が前を向く。


「……まだやりたいことが色々ある。こんなところで終われないよ。死にたくない」


 そうだ、彼もわたしと同じ状況に置かれている。

 残機は1。

 あと一度でも殺されたら、死ぬ。


「……そうだよね」


 漠然(ばくぜん)と考えていた将来が想像で終わるなんて嫌だし、朝陽くんと一緒にどこかへ出かけたりもしてみたい。


 思わず唇を噛み締めて返したとき、彼はいっそう真剣な顔になった。


「花鈴にも死んで欲しくない」


 その眼差しが突き刺さり、呼吸を忘れる。


「…………」


 そう言ってくれるのは嬉しかった。

 本気で心配してくれていることが伝わってくる。


 だけど、だから“やめておけ”と言いたいのだろうか。


 化け物と直接相対(あいたい)して話をする、なんてあまりにも無謀で危険すぎるから。

 ……そのことは、わたしも分かっている。


 顔を合わせた途端、あっさり殺されて終わるかもしれない。

 話をする段階にも及べないまま。


 せっかくこうしてまた朝陽くんと会えたのに、距離が近づいたのに、再び離れ離れになんてなりたくはない。

 しかもその場合、もう二度と、一生会えない。


「だからさ。今夜どうなるか分かんないけど……ひとりでなんて背負わせないから」


「えっ」


 続けられた言葉は意外なもので、わたしは思わず目を見張った。


「どうなっても、何があっても、最後まで一緒にいる」


 優しく掴まれたてのひらを、ぎゅ、と握られる。

 繋いだ手から体温が溶け合って、つい泣きそうになった。


「……っ」


 何か言おうと思ったのに、開きかけた唇からは震える吐息がこぼれるばかりだ。


「花鈴……? ごめん! 嫌だった?」


 慌てた彼が手を離そうと指をほどく。

 わたしはとっさに力を込めて(はば)んだ。


「ちがうの。……嬉しくて」


 そう伝えるだけで精一杯だった。

 同時にそれが、伝えられる本心の“限界”でもあった。


 わたしも朝陽くんのことが好き。

 初恋だったし、そうじゃなくてもきっとその優しさに惹かれていたと思う。


(でも……)


 彼との思い出を手繰(たぐ)るたび、彼との時間に満たされるたび、心は不安の色を濃くしていくのだ。


(わたしはいま、生きてるのかな)


 確かにちゃんと現実世界に存在している。

 こうして朝陽くんの手を握って、その体温を感じている。


 でも、この感覚は本物なのだろうか?

 わたしや彼、みんなの頭の中にある記憶や心の中にある気持ちは、本物なのだろうか?


 わたしは実在しているのだろうか。


 確かめる方法はない。

 死んで初めて答え合わせができる。


「……そう言う割に辛そうだけど」


 的確に見抜かれてしまい、喉の奥が締めつけられた。

 ゆらりと視界が揺らいで、慌ててうつむく。


 いっそう強く彼の手を握る。しがみつくように。


(……苦しい)


 わたしが“裏切り者”で偽物なら、わたし自身がぜんぶを否定することになる。


 朝陽くんの想いも。みんなとの絆も。

 過去も現在も、わたしを取り巻くすべてを。


 だから、いまは何も言えない。


 結局は真実を突きつける羽目になるけれど、いまだけは彼の温もりに(すが)っていたい。

 最後のわがままだ。


 偽物だと証明されてしまう前に、彼の心を知れてよかった────。


「!」


 ふわ、と頭に手が乗せられる。

 どこか遠慮がちに、だけどしっかりと、朝陽くんが頭を撫でてくれていた。


「昨日、小日向さんが言ってた通りだ」


「え……?」


「花鈴の手、冷たい」


 思わずどきりとした。


(わたしがもう死んだ人間だから……?)


 眉を下げて笑う彼の瞳から逃れるように視線を彷徨(さまよ)わせる。


「やっぱ怖いよな」


 わたしが自分に向ける疑惑なんて知るよしもない彼はそう解釈したようだった。

 そして、それもまた確かだ。


 ……怖い。怖くてたまらない。

 今夜の行く末も、不確かな生死も、残酷な真実も、何もかもが不安で押し潰されそうだ。


 ぎゅ、と右手が強く包み込まれた。

 途端に震えが止まり、強張っていた身体に感覚が戻っていく。


「でも、きっと大丈夫だから。花鈴のことは死なせない。約束する。一緒に悪夢を終わらせよう」


 何があっても最後までそばにいる、と言ってくれた朝陽くん。

 夢から覚めるまでなら、この想いに身を(ゆだ)ねても許されるだろうか?


「そしたら。そのあとでいいから……」


 そう続けた彼の瞳を見上げる。

 窺うような眼差しとともに首を傾げられた。


「さっきの返事、聞かせてくれる……?」


 ゆっくり、自然と頬が綻んでいた。

 余計な力が抜けると、不思議と笑うことができた。


「うん」


 普段と比べると、随分と弱々しい笑顔になっていたと思う。

 だけど、朝陽くんはそれでもほっとしたように笑い返してくれた。




 わたしたちは手を繋いだまま、夕暮れ時の道を歩いた。

 踏み出す一歩一歩が、流れる一秒一秒が、惜しくてわざと歩調を緩める。


 この時間がいつまでも続けばいいのに。

 これからも朝陽くんの隣を歩けたらいいのに。


「…………」


 “返事”なんて本当はとっくに決まっている。


 目が覚めたら、一番に伝えたい。

 ……もし、夜明けを迎えられたら。


「……ありがとう、朝陽くん」


「ん、なにが?」


「ぜんぶ」


「何それ」


 朝陽くんは嬉しそうに笑った。

 彼が笑うと、なぜかわたしも笑顔になれた。


 あたたかくて優しい体温が染み渡っていく。

 この温もりを失いたくない。忘れたくない。




     ◇




 ──キーンコーンカーンコーン……


 耳障りなノイズとともに割れたチャイムが鳴り響いた。

 目を覚まし、そっと身を起こす。


 暗闇の中を白い光が漂っていた。

 取り出したスマホで照らすと、ちょうど同じようにしている4人の姿があった。


「始まったかぁ」


 夏樹くんの声が聞こえる。


 嫌いな授業が始まってしまった、くらいのテンションだった。

 当初に比べると信じられないくらいの余裕と落ち着きぶりだ。


 静かに立ち上がり、誰からともなく黒板の前あたりに集まる。


「……最後になるかな」


 朝陽くんが呟いた。少し不安気に聞こえる。


「そうなるだろうな。僕たち全員、それか少なくとも僕と日南と成瀬は」


 高月くんの言葉を受け、左腕の傷が頭に浮かんだ。

 残機1という追い込まれた立場にあることを改めて実感する。


「…………」


 ひっそりと息をついた。


 大丈夫、と声に出さずに返す。

 そうはさせないから。彼らを死なせたりはしない。


「じゃあ、わたし────」


「ちょっと待った!」


 化け物の元へ向かおうとしたところ、柚に引き止められた。


 その勢いの割に、ふたこと目が出てくるまでに間があった。

 慎重に言葉を探しているのだと思う。


「あたし……やっぱり、いま頭の中にあるこの記憶が偽物だなんて思えない」


「え?」


 突然、何を言い出すのだろう。

 予想外の言葉に驚いてしまう。


「てか、思いたくない。この中に“裏切り者”がいるのは分かってるけど……それが誰だろうと殺せるわけないと思う。だから」


 こちらに向き直った柚は、まっすぐな眼差しを注いできた。


「あたしも花鈴の言ってた可能性に懸けてみたい。一緒に」


 化け物と、白石芳乃と話してみる、という方法のことだろう。

 まさか賛同してもらえるとは思わなくて、目を見張ったまま彼女を見つめてしまう。


 でも、思えばそうだった。

 柚はいつでも、わたしを信じてくれていた。


 わたしには本心を見せてくれたし、命懸けで守ってもくれた。

 一度は道を逸れたけれど、あんなことが繰り返されることは二度とないと言いきれる。


「俺も!」


 すぐさまそんな声が上がって、見ると夏樹くんが手を挙げていた。

 わたしと目が合うと、少し気まずそうに逸らして腕を下ろす。


「だって、花鈴だけに背負わせるんじゃ、おまえが犠牲になりに行くようなもんだろ? いや、もちろんうまくいくって信じてるけどさ」


 慌てたようにそう言うと、ひと呼吸置いた。

 眉を下げつつ、続きを口にする。


「色々あったけど……てか、色々しちゃったけど。ひとりを見殺しにするとかできない。あのときは本当ごめん」


 その“ごめん”はわたしだけじゃなく、この場にいる全員に向けての言葉だと思った。


『別にいいだろ、どうせ夢の中のことだし。実際に殺したわけでもねーし』


 一度は正気を失って、自分のことしか考えられなくなっていた。


 だから殺されたけれど、衝突したけれど、いまはそのことを深く反省しているように見える。


『それで俺を殺してくれていいから。おまえの残機、返させてくれよ』


『逃げろ!』


 昨晩の行動からしてそうだ。

 夏樹くんの言葉に疑いの余地はない。


「……とか言って。花鈴に何かあったら自分のせいみたいになるから、それが怖いだけでしょー」


「ち、ちげーよ! 本当に花鈴が心配で……! 償いたいだけだって」


 茶々を入れる柚に彼はそう返した。

 どちらもあるだろうけれど、どちらも本心なのだろう。

 思わず小さく笑ってしまう。


「……まあ、僕も」


 いつものように平板(へいばん)な声で高月くんが言う。


「どのみちひとりじゃ鍵なんて探せっこない。あと1回しか死ねないし、こうなったら日南を信じるしかない」


 言葉の割には、渋々といった様子はなかった。


 何だかんだでここまで、彼は常にみんなのことを第一に考えてくれていたような気がする。


 時に冷徹(れいてつ)に先を見据え、進むべき方向へ正しく導いてくれた。

 個と全体を気にかけながら指針になってくれた。


「みんな……」


 それぞれの強い意志と覚悟を受け、圧倒されつつも素直に嬉しかった。


 もしかしたら、わたしたちが帰ったあとに話し合った結果なのかもしれない。

 つい泣きそうになりながら、朝陽くんを振り返る。


 彼はいつも通りに微笑んで、何も言わずに頷いてくれた。

 心強さを得て頷き返したわたしはみんなに向き直る。


「ありがとう」




 全員で教室を出た。

 暗闇の中にライトの光を振り向ける。


 伸びた廊下の先、東側の突き当たりに“それ”はいた。

 血まみれな上に表示灯に照らされ、全身が真っ赤に染まっているように見える。


 長い黒髪と制服から滴る水の音は、この位置でもしっかりと拾えた。


 折れた首を傾け、ぎらつく鉈を握り締める化け物が、こちらをまっすぐに捉えている。


「お待ちかねだな」


「ちょうどいいじゃん……」


 油断なく化け物を見つつ、朝陽くんと夏樹くんが言う。

 後者は強がりつつもどこか怯んだ様子だ。


「みんな」


 おもむろに柚が呼びかける。


「巻き込んじゃってごめん」


 泣き笑いのような言い方だった。

 その表情まではっきりと想像がつく。


「いつものことだろ」


 ふ、と高月くんが笑った気配があった。


 緊迫(きんぱく)した状況に変わりはないのに、わたしもつい同じ反応をしてしまう。

 たぶん、みんなも。


 彼らと同じ時間を過ごせてよかった。


「!」


 瞬いた瞬間、ほんの1メートル先くらいの位置に化け物が立っていた。


 はっと息をのむ。

 黒々とした双眸(そうぼう)()めつけられる。


 真横を何かが通り過ぎた。朝陽くんだ。

 彼が庇ってくれるようにして立っている。


 その肩越しに化け物に目を戻すと、勢いよく鉈を振り上げたところだった。

 ぎらりと刃が光る。


「白石芳乃!」


 その名前を叫んだ途端、ぴたりと化け物の動きが止まった。


 たったそれだけなのに、恐怖と緊張のせいで息が切れる。

 空気が重く、酸素が薄い。


「あなたは……本当は殺されたんでしょ?」


 両手を握り締め、震える声で続けた。

 心臓が暴れている。


 まさに一触即発(いっしょくそくはつ)だ。

 わたしも、朝陽くんも、ほかのみんなも、一秒後には殺されているかもしれない。


 それほどに凍てついた空気感が漂い、首元を圧迫してくる。

 わたしたちより後ろにいる3人は、固唾(かたず)を呑んで状況を見守っていた。


「…………」


 化け物は何も言わない。動かない。

 けれど、刃は朝陽くんの身体に向けられたまま。


 わたしは息を吸った。


「あなたはいじめを受けてた。自殺ってことになってるけど、本当は加害者のうちのひとりに殺された。ちがう……?」


 いじめを苦に自殺を図った、とされているが、実際には芳乃を殺害した犯人が存在している。

 それ自体はほとんど確信を持っていた。


 だけど、ひとつでも言動を間違えば、朝陽くんが殺されてしまう。

 そんな恐怖と焦りが忍び寄り、余計に呼吸を苦しめてきた。


「その犯人は……“裏切り者”は、この中にいる。だから────」


 その先に続ける言葉はもう決めていた。


 帰り道、朝陽くんと話したときから。いや、もう少し前だ。

 自分自身を疑いながら、今夜で終わらせると決めたときから。


 それでもためらってしまったのは、みんなと離れたくない、と思ったせいだ。

 心からわたしを心配して、信じてくれている。

 そんな彼らを失望させたくなかった。


 認めたくなかった。受け入れたくなかった。

 わたしが“裏切り者”だなんて。ぜんぶが偽物だったなんて。


 ……でも、もう決めたことだ。

 みんなを守るには、すべてを引き換えにするしかない。


 わたしは決然(けつぜん)と顔を上げた。


「もしそれがわたしなら、わたしだけを殺して。ほかのみんなのことは解放して」


 言い終える頃には既に迷いを捨て去れていた。

 化け物に対する恐れも、白石芳乃に対する哀れみも。


 す、と鉈がわずかに彼から遠ざかった。

 通じた……?


「花鈴、なに言って……っ」


 慌てたように朝陽くんが振り返った。

 きっと、わたしの発言すべてに困惑している。


「そうよ! あんたが“裏切り者”なわけないでしょ!?」


「冗談やめろって。ありえねーよ、そんなの……。てか、なにひとりで死のうとしてんだよ!」


 柚と夏樹くんは怒っていた。

 混乱、拒絶、そんな感情をあらわに激昂(げきこう)する。


「……そんなこと、まかり通るのか? 僕たちの手で“裏切り者”を殺さなくても自白で終わる?」


 そんな中でも高月くんはやっぱり冷静だった。

 一歩先を見ている。


「ばか言わないで。花鈴が“裏切り者”なんて、あたし認めないから!」


「おまえが認めるかどうかは関係ないだろ。事実は事実だ」


「じゃあ何だよ。おまえは花鈴が死んでもいいって言うのか!?」


「そうは言ってないし、そもそも本当に“裏切り者”なら……もう死んでる」


「朔! あんたね────」


 言い合う3人の声を聞きながら、わたしはそろそろと視線を朝陽くんに移した。

 彼は呆然(ぼうぜん)と青ざめた顔でわたしを見つめていた。


「そんなはずない……」


 力なく首を横に振りながら、呟いたその声はほとんど音になっていなかった。


 ごめん、朝陽くん。

 前もって何も言えなくて本当にごめんね。


「……っ」


 何か言葉を返そうと口を開いたとき、唐突(とうとつ)に地鳴りが響いてきた。


 ──ゴォォオ……!


 足元が傾き、校舎がぐらぐらと揺れ始める。

 とっさに足に力を込め、倒れないよう踏みとどまった。


「きゃ……っ! いきなりなに!?」


「危っぶね……」


 さすがに口論も止み、それぞれが戸惑っていた。

 よろめいて壁に手をついた夏樹くんが、はっとしたようにあたりを見回す。


「おい、化けもんがいない!」


 そう言われて初めて気がついた。

 つい先ほどまですぐそこに迫っていた死の気配が、いつの間にか消えている。


 ふいに高月くんが吹き抜けの方へ駆け寄った。

 手すりにしがみつくような勢いで下を覗き込む。


「まずい、崩落(ほうらく)が始まってる……!」


 弾かれたように柚と夏樹くんも手すりに飛びつく。

 わたしも階下(かいか)を見下ろしたとき、ちょうど1階が崩れ去ったところだった。


 けれど、崩落は止まらない。

 2階までもが瓦礫(がれき)と化しつつあった。


「何で!? ベルもチャイムも鳴ってないのに」


「てか、鍵さえ見つけてねーって!」


「でもこれ、上に逃げるしかないよな?」


 焦ったように朝陽くんが言う。

 このままでは2階も、そしていまいる3階も崩落して、わたしたちは闇に飲み込まれてしまう。


「急ごう」


 高月くんが東階段の方へ駆け出した。

 柚、夏樹くんも慌ててそのあとを走っていく。


(わたしは……)


 その場から動けなかった。


 もしかしたら、このまま崩落に飲まれて死ぬのが正解なのかもしれない。

 それが白石芳乃の望みなのかもしれない。

 みんなを守る代償なのかもしれない。


 そう思ってしまった。

 彼女の姿は消えたけれど、わたしの申し出を受け入れてくれた、という手応えは正直ない。確信が持てない。


「花鈴!」


 ぐい、と手を引っ張られて我に返った。

 戸惑いながらも、朝陽くんに連れられるがまま廊下を駆け出す。


「あ、朝陽くん……。わたし────」


「約束しただろ。花鈴のことは死なせない」


 真剣な横顔に何も言えなくなった。

 唇を噛み締めて前を向く。


「……っ」


 強く握り締めてくれる彼の手は、わたし以上に冷たい。

 きっと怖いんだ。怖いけれど、わたしを守ってくれようと必死なんだ。


 その覚悟を振りほどくことは、到底できなかった。




 速度を上げ、迫りくる崩落の波から逃げ続ける。

 4階に上がる階段の踊り場で3人に追いついた。


「ねぇ、屋上って開いてんの……!?」


 ひときわ不安そうに柚が尋ねる。

 開いていないなら逃げたところで意味はない。


 最終的に全員で崩落に巻き込まれることになる。

 その場合、わたしが芳乃の怒りを買ってしまったことを意味するのかもしれない。


「分からない。けど、これじゃどのみち鍵なんて探してられないだろ」


「頼むよ、マジで……。死にたくない!」


 祈るように夏樹くんが言う。

 最上階へと続く階段にさしかかったとき、唐突に光が射し込んできた。


「何これ!? 明るい」


 屋上のドアにある()りガラスの小窓は、赤色に近いオレンジ色に染まっていた。

 ぼんやりと光っていて、夕焼けのように見える。


 いつものような、墨で塗り潰したみたいな暗闇は広がっていなかった。


 高月くんがドアノブを(ひね)って押すと、ドアは何の抵抗もなく開いてくれた。


「開いた……!」


 眩しいくらいの夕日に照らされ、思わず目を細める。

 太陽は柔らかいのに、たなびく雲は血みたいに赤く染まっていた。


 夕暮れ時。

 なぜか不安を覚える、不気味な風景だ。


「どうなってるの……?」


 いままで、一度もこんなことはなかった。

 悪夢の中は真夜中よりも暗くて、どんな光も差さなかった。


 一瞬“日没前の夢”に迷い込んだのではないかと肝を冷やしたけれど、眠ったのは確かに夜だったしちがうはずだ。


「ここから飛び降りたら……終わる?」


 ふちへ歩み寄った柚が誰にともなく尋ねる。

 いつになく自信なさげな声色だった。


 無理もない。

 今夜はすべてがこれまでとちがっていたから。


「化けもんが消えたってことは、そういうことなんじゃねーのかな……」


「日南の言葉を受け入れた?」


「そうかも」


 夏樹くんと高月くんのやりとりを耳に眉を寄せる。

 そうなのだろうか。

 そうだったらいいけれど、何となく胸騒ぎがする。


「ねぇ、どうすんの?」


「とにかく時間がない。飛び降りるしかないだろ」


 高月くんもふちへと近づいていった。


 校舎は轟音を響かせながら依然(いぜん)として揺れ続けていて、どんどん崩落していっている。

 ここが壊れるのも時間の問題だ。


「僕たちや“裏切り者”がどうなるか分からないが……ひとまず悪夢から覚めよう」


 わたしたちに言った高月くんは前を向いた。

 一歩、踏み出して屋上から落ちていく。


 それを見た夏樹くんは、恐怖や躊躇(ちゅうちょ)を吐き出すように深呼吸した。


「よし……。じゃ、またあとでな!」


 はつらつと言ってのけると一直線に駆け出し、ふちから飛び降りていった。

 まるでプールに飛び込むような勢いだった。


「……そうね、うん」


 柚もどうにか不安に折り合いをつけたらしく、ひとりで頷くとこちらを振り向いた。


「花鈴、あんたも飛び降りてよ? 信じてるからね」


 念を押すように告げると、今度は朝陽くんの方を向く。


「成瀬、引きずってでも花鈴を現実に連れてきてよ」


「大丈夫、分かってる」


 柔和(にゅうわ)ながら凜然(りんぜん)と返され、柚は安堵したようだった。

 小さく笑い、覚悟を決めたように空中へ飛び込んでいく。


 わたしと朝陽くんだけが残った。


 ──ゴゴゴゴ……


 轟音がいっそう大きく鼓膜を震わせる。

 猶予はあとわずかだ。


「花鈴」


 朝陽くんの手から抜け出そうとしたのに、先にそう呼ばれて(はば)まれた。

 ぎゅ、といっそう強く握られる。


「言ったよね。何があっても最後まで一緒にいる、って」


「もう“最後”なの……!」


「ちがう! この手が離れるまでは、最後になんかしない」


 心が震えて、また泣きそうになった。

 それなら朝陽くんは、この手を離すつもりはないということだ。


 わたしがここに残るなら、自分も一緒に死ぬ気でいる。

 そんなふうに言われたら、わたしも飛び降りるしかなくなってしまう。


 何もかもが偽物かもしれないのに。“裏切り者”かもしれないのに。

 そんなわたしが現実世界へ戻っても、結局は何も変わらないだろうに。


 今夜の結末も曖昧(あいまい)なまま、また悪夢に閉じ込められる日々が続くだけ。


 わたしを殺さない限り、わたしが死なない限り、みんなに死が迫るだけ。


「でも、それじゃ終わらせられない……」


「ここで花鈴が死ぬよりいい。お願いだから、ちゃんと守らせて。もう離れたくない」


 切実な朝陽くんの表情を見て、それ以上の反論は口にできなかった。


 それでは、死の瀬戸際(せとぎわ)で決断を先延ばしにするだけだ。

 分かっているのに、拒めなかった。


 朝陽くんのことが好きで、大切で、わたしも離れたくなかったから────。

 彼の言葉を信じてみたかったから。


「行こう、花鈴」


 ……わたしは強く頷いた。

 その手をしっかりと握り返したまま、ふちの手前に立つ。


 一度深く呼吸をして、(くう)へと足を踏み出した。


 ────けれど。


「……?」


 ふいに朝陽くんがぴたりと動きを止めた。


 つられて立ち止まる。

 というよりは、彼が止まったことで(おの)ずと引っ張られてしまった。


「朝陽、くん?」


「…………」


 不思議に思いながら見上げると、心底困惑したような横顔が窺えた。

 する、と繋いだ手が力なくほどける。


 戸惑いと胸騒ぎで心臓が重たく拍動(はくどう)していた。


 彼は力なく腕をもたげ、目の前の虚空(こくう)()()()


「え……?」


 何も見えないのに、確かにそこに実体があるようだった。


 おかしい。

 3人は何にも阻まれることなくここから飛び降りていった。

 目の前には何もないはずなのに。


「……っ」


 ずる、と朝陽くんの手が虚空を滑り落ちた。

 愕然(がくぜん)としたまま、くしゃりと髪をかき混ぜる。


「……うそだろ……」


 そう呟いた声は掠れていた。

 わたしも信じられない気持ちで彼を見つめていた。


 朝陽くんは屋上から飛び降りられないようだ。

 見えない壁のようなものに阻まれている。


 現実に戻ることは許さない、と芳乃が示している。


「朝陽くんが……“裏切り者”?」


 ひとりでに言葉がこぼれ落ちていった。

 ほとんど声にならないような、ひび割れた呟きになった。


「そんな……。そんなわけ……」


 うわ言のように繰り返す。

 心臓が早鐘(はやがね)を打ち、呼吸が浅くなっていった。


 朝陽くんとの思い出が、記憶が、頭の中で蘇ってはぐちゃぐちゃに混ざり合って溶ける。


 目の前が滲んで揺れた。

 足から力が抜けて思わずたたらを踏んだとき、左手に乾いた感触を覚えた。


(なに……?)


 (いぶか)しみながら見やると、1枚のメモを握っていた。

 こんなもの、手にした覚えはないのに。

 震えながら開いてみる。


「“不完全”……?」


 それだけ記してあった。

 (まご)うことなき芳乃の言葉だ。


 何が不完全なのだろう。

 何が足りなかったのだろう。

 そもそもいま、何が起きているの……?


 もうわけが分からない。

 状況を理解することを、真実を受け止めることを、脳が拒んでいる。


「……ふふ。あははっ」


 唐突(とうとつ)に笑い声が響いてきた。

 いつの間にか揺れはおさまり、轟音も聞こえなくなっている。


 混乱しながら振り向いた。

 屋上のドア前に、腕を組んだ女子生徒がひとり立っていた。


 血まみれでも濡れそぼってもいなければ、鉈を持ってもいないし、全身が折れてもいなかった。

 だけど、分かる。

 彼女は白石芳乃だ。生前の姿なのだろう。


「残念だったわね」


 彼女はもたれていた背を起こし、わたしたちの方へと歩んできた。

 不思議と恐怖は感じない。ただただ混乱した。


「どういう、こと……?」


「あなたの推理。惜しかったけど、不完全」


 それは最後の部分だろうか。

 わたしが“裏切り者”なら、と告げたところ。


 それともそれ以外の部分?

 “不完全”ということは、根本的に的外れということはないのだろうけれど……。


 いや、そんなのいまはどうだっていい。


 朝陽くんは結局、何なのだろう?

 どうなるのだろう?

 わたしは、ほかのみんなは、悪夢は……。


「色々と例外だけど、今回は特別。遊びはこれで終わりにしてあげる。……あたしのこと、分かってくれたから」


 わたしの胸の内にはびこった疑問を読み取ったかのように、芳乃はそう言った。


 それは彼女の正体や死の真相のことだろう。……不完全らしいけれど。


 紛れ込んでいる“裏切り者”を暴いて殺す────。


 その終了条件を完璧には達成できなかったものの、白石芳乃という人物や他殺であることにたどり着いたお陰で、例外的に悪夢から解放してくれるようだ。


 そうか、と思った。


 終了条件を満たすには、彼女が白石芳乃であることやいじめを受けていたことなんかを暴く必要まではないのだ。


 それでも、ほとんど成り行きとはいえそれを突き止めたことが功を奏した。


 芳乃は満足したのだろう。

 真相を知って欲しいんじゃないか、という推測はある意味正しかった。


 ともかく、わたしたちは解放される。

 悪夢から抜け出せる。


(助かる……)


 なのに、そうと分かっても全然心の(もや)が晴れない。


「それに……結構面白いもの見れたしね。この裏切り者が初恋だなんだって右往左往(うおうさおう)してたとこ。笑っちゃう」


 芳乃は冷ややかに笑う。

 この裏切り者、と朝陽くんの方をおざなりに顎でしゃくって示していた。


「朝陽くん……」


「…………」


 動揺を隠しきれないまま、わたしは彼を見やった。

 放心状態の彼は、地面に視線を落としたまま唖然(あぜん)としている。


「……分からない?」


 ふと芳乃が表情を消し、こちらを見据えた。

 不機嫌そうに苛立っている。


「“成瀬朝陽”なんて人物は存在しないの。記憶も思い出もぜんぶ偽物」


 そう畳みかけた彼女は、容赦なく追い討ちをかけてくる。


「あなたが抱いてる気持ちも、ただのまやかしだから」


 射られたように胸が痛くなった。

 見えないけれど、(えぐ)れて血が止まらない。

 代わりに涙となってあふれ出した。


「朝陽くん……。ねぇ、嘘だよね……?」


 ふらふらと歩み寄り、(すが)るように腕を掴んだ。

 彼の視線が彷徨(さまよ)いながらわたしの目に定まる。


「俺、は────」


 いくら待ってみても、その先に言葉が続けられる気配はなかった。


 何でもいいから口にして欲しかった。芳乃の言葉を否定して欲しかった。

 言い訳でもして信じさせて欲しかった。


 そこまで考えて、やっとひらめく。

 わたしはずっと勘違いしていた。


 “裏切り者”の記憶だって「本物」なんだ。

 でたらめな思い出が刻み込まれているわけじゃない。


 今回はたまたま噛み合わなかっただけで、本来はすべての記憶が確かなものとして植えつけられるから、記憶の整合性はとれる。


 そのように全員の記憶が改ざんされているから。

 偽物だけれど「本物」なのだ。


 “裏切り者”は、自分がそうだとは知らない。

 お互いの記憶に齟齬(そご)があることは“裏切り者”と疑う根拠にはならない。


(そっか……)


 黒猫の話。かくれんぼの話。


 (たび)重なる記憶の改ざんで不具合が起きていたのは、わたしではなく朝陽くんの方だった。


 本来の記憶や過去に植えつけられた偽物の思い出と混同していたりしたのだろう。


「……っ」


 力なく彼を離した。

 うつむいて唇を噛み締める。


『────日南は変わってなさそう』


『俺も嬉しかった。“朝陽”って呼んでくれたの』


『何でそう自分のことしか考えないんだよ! 昨日だって、花鈴はおまえのこと心配してたのに────』


『花鈴は……特別だから』


『俺は花鈴のことが好き。その気持ちは、いまも変わってなかった』


『どうなっても、何があっても、最後まで一緒にいる』


 先ほどの比じゃないくらい、彼との記憶が濃く強く押し寄せてきた。

 言葉、表情、仕草、そのひとつひとつが克明(こくめい)に思い出される。


 思い出もこの日々も偽物だった。

 想いもまやかしだった。


 それが分かっても、少しも揺らがない気持ちが痛くて息が苦しくなる。


「……こいつを絶望させるだけでよかったのに、あなたのことまで無駄に傷つけちゃったわね」


 芳乃がせせら笑った。

 そう言いつつも悪びれてはいない。


「さてと、もう十分でしょ。さっさと飛び降りてくれる?」


 彼女の言葉を信じるなら、いまここから飛び降りれば、目覚めたときには悪夢から解放されている。


 だけど同時に、朝陽くんという存在も抹消(まっしょう)されてしまうはずだ。


 こんなに、わたしの心を大きく()めている彼が消えてなくなるなんて受け入れられない。

 もう二度と会えないなんて。


「……信じたくない……」


 思わずそう呟くと、じわ、とまた涙が滲んだ。

 芳乃はうんざりしたようにため息をつく。


「だったら、あなたもここに残る?」


 顔を上げると、目の前に鉈の刃が迫っていた。

 いつの間に、どこから湧いて出てきたのだろう。


「やめろ!」


 とっさに駆け寄ってきた朝陽くんが、彼女の腕ごと払い除けて鉈を遠ざけてくれた。


 それから身体ごとわたしに向き直り、泣きそうな顔で笑う。

 切なげで、儚げで、(もろ)く見えた。


「ごめん、花鈴。……返事、聞けそうもないな」


 帰り道でのことを思い出した。

 今日の出来事なのに、なぜか遠い昔のように感じられる。


「俺は……永遠に夢から覚められない」


 そう言った彼の手が伸びてきたかと思うと、肩のあたりに衝撃が走った。


 次の瞬間、全体重が後ろ側にかかり、ぐら、と傾いた身体が夕空に投げ出されていた。


「……っ」


 浮遊感に包まれながら、必死で上に手を伸ばした。

 届かないと分かっているのに。


(朝陽くん……!)


 彼が、校舎が、遠ざかっていく。


 こぼれて虚空に浮かんだ涙が、水中で揺れて立ち(のぼ)る泡のようだった。


 夢から覚めたら伝えるはずだった想いをぜんぶ抱えたまま、わたしは奈落へ延々と落下していく────。


 力が抜けて、そっと目を閉じた。

 いつの間にか、そのまま眠るように意識を失っていた。




     ◇




 風が肌を撫でていく。

 意識のうち半分も目覚めていないような状態でまどろんでいた。


 肌寒さを感じて脚を重ね合わせたとき、身体に痛みを感じた。

 ごろん、と仰向けになると、腕が滑り落ちて肘を打ちつけた。


(痛……)


 その衝撃で目を覚まし、肘を押さえながら目を開ける。


「?」


 視界には見慣れた自室の天井ではなく、朝の空が広がっていた。

 水色にさらに白を混ぜたような柔らかい色合い。


 絵筆を軽くはたいて描いたみたいな雲を、朝日が照らしている。


 困惑したまま上体を起こした。

 きょろきょろとあたりを見回す。


「プール……?」


 わたしはなぜか学校のプールサイドで眠っていたようだった。

 硬い地面で寝ていたせいで身体のあちこちが痛んだけれど、どうにか腰を持ち上げて立った。


 近くには柚と夏樹くん、高月くんの姿もあった。

 一様に目を閉じていて、まだ眠っているらしい。


(……そうだ!)


 はっとした。

 昨晩とここ1週間ほどの出来事が、雪崩(なだれ)のように押し寄せて蘇ってきた。

 大慌てで左腕を確かめる。


「ない……」


 刻まれていた切り傷は、綺麗さっぱり跡形(あとかた)もなく消えていた。

 もともとそこには何も存在していなかったみたいに。


 思わず胸に手を当てた。

 心臓はちゃんと動いている。


(よかった……)


 残機がゼロになって死んだわけではなさそうだ。

 芳乃は本当に解放してくれたんだ、と思ったとき、頭の中が夕方の色に染まった。


「花鈴……?」


 小さく呼ばれ、そちらを向く。

 寝ぼけ(まなこ)の柚が、のそりと身を起こしたところだった。


「柚」


 おはよう、と(つむ)ぎかけた声は中途半端に消えた。


 先ほどまで眠気で目を(こす)っていたとは思えないくらいの速さで柚が立ち上がり、勢いよくわたしに抱きついたからだ。


「よかった! やっぱあんたは“裏切り者”じゃなかった」


 この流れは初めてじゃない。

 柚ではなかったけれど、昨日、朝陽くんも同じことをしてくれた。


(そうだ、朝陽くん)


 彼はどこにいるのだろう?


「ねぇ、柚。あの────」


 言い終える前に柚が離れた。

 わたし以上にびっくりしたような、戸惑ったような、そんな顔をしている。


「柚?」


「“裏切り者”って……何の話だっけ?」


 眉を寄せる彼女の瞳は真面目そのものだ。

 本気で分からないといった調子で、自分自身の言葉に首を傾げていた。


「え……?」


 いまさら何を言っているのだろう。

 訝しむものの、困惑が(まさ)ってとっさに言葉が出てこない。


「……あー、痛てて。なに? 誰の声?」


 うなじに手を添えながら起き上がった夏樹くんが、わたしたちの姿を認めて目を丸くした。


「えっ? おまえら何で俺ん()いんの?」


「どっからどう見てもあんたん家じゃないでしょ。よく見なさいよ、ばか」


「え? ……うわ、マジだ! プール? 何で?」


 立ち上がった彼はあくびをしながらあたりを見回す。

 ()が漂う緑色の水面を見ると、露骨(ろこつ)に嫌そうな表情をした。


「朔! あんたも早く起きてよ」


 仰向けで姿勢よく眠っている高月くんを、柚がばしばしと叩いて起こす。

 顔をしかめつつも目を覚ました彼は、この状況に驚きながらもすぐに飲み込んだようだった。


「昨晩は……そうか。屋上から飛び降りたんだ」


 ばっ、と袖をめくり、傷を確かめる。


「残機が消えてる。呪いから抜け出した、のか?」


「……朔。おまえさー、寝ぼけてんの?」


 呆れたとでも言いたげな顔で夏樹くんが首を傾げていた。


「なに?」


「飛び降りたとか呪いとか。どんな悪夢見てたんだよ」


 面白がるように笑う夏樹くん。

 彼もまた、冗談を言っているようには見えない。


「あ、あの……どうしちゃったの? ふたりとも。覚えてないの?」


 不安になって思わず口を挟んだ。


「何が? 何の話?」


 夏樹くんは相変わらずきょとんとしていて、柚もまた思い当たらないようだった。

 高月くんと顔を見合わせる。


「日南は覚えてるよな? あの悪夢のこと」


「当たり前だよ。“終わらせよう”って昨日、みんなで……」


 そこまで言いかけて、浮かんだ別のことが先回りしてきた。

 今度こそその名前を口にする。


「朝陽くんは……」


「成瀬? そういえば見当たらないけど、どうしたんだ?」


 そう尋ねられ、屋上でのことを思い出した。

 意識を満たし、動揺で冷静さを失う。


「あ、あのあと、白石芳乃が現れて。朝陽くんが“裏切り者”だって分かって……」


「え?」


「屋上から降りられないみたいだった。たぶん、芳乃の呪いのせいで」


 彼の最後の言葉が浮かんできた。


『俺は……永遠に夢から覚められない』


 芳乃に(とら)われている彼はこれからもきっと、何度も記憶を操られて、何度も殺され続ける羽目になる。


 そのたび、ああして絶望を味わいながら。


「……ねぇ、何の話してんの?」


「あさひ? って誰だよ」


 柚と夏樹くんは困惑したままわたしたちを見比べていた。


(本当に覚えてないんだ……)


 悪夢のことだけじゃなく、朝陽くんのことも。

 信じられない気持ちで愕然(がくぜん)としていると、高月くんがとりなすように言う。


「まあ、この話はあとだ。一旦帰って登校し直そう」


 前半はわたしに向けて、後半はみんなに向けての発言だろう。

 彼の言葉で一度解散となり、それぞれ帰路についた。




     ◇




 朝の支度を整えながら、わたしはずっと考えていた。


(どうしてわたしと高月くんは覚えてるんだろう……)


 いや、柚も最初は何となく覚えていたように見えた。

 “裏切り者”と自ら口にしたのだから。


 だけど、それからすぐに分からなくなってしまったようだった。


 そう思い、はたとひらめいた。

 もしかしたら、時間が経つにつれて記憶が薄れていくのかもしれない。


 思えば夏樹くんはほとんど朝陽くんと行動をともにしたことはなかった。

 話したり関わったりは当然したけれど、たぶん4人の中では一番関係が薄かったと思う。


 次点はきっと柚だ。

 6日目の夜は一緒に行動したけれど、せいぜいそれくらいだった。


 そして高月くん。

 彼はよく朝陽くんと関わっていた。というか、わたしたち3人で。

 みんながばらばらになったときもそうだったし、わたしを除いてふたりで調べ物をしていたこともあった。


 関係が深いほど、関わりが多いほど、恐らく記憶は長く持続しているのだ。

 ……でも、いつかは消える。


 柚の忘却(ぼうきゃく)はほとんど一瞬だった。

 高月くんもわたしも、きっともう長くは覚えていられないだろう。




 学校へ着き、昇降口で靴を履き替える。


 プールサイドで目を覚ましたことを思い、もしかしたら悪夢に取り込まれた最初の夜からずっとそこで眠り続けていたんじゃないか、と考えた。


 けれど、どうやらそんなことはなさそうだった。

 家にも学校にも、ちゃんと現実世界で生活していた痕跡(こんせき)があった。


 教室へ入ると、机に鞄を置いて“彼”の席を探した。


(……ない)


 やっぱり、というべきかどこにも見当たらない。


 不自然に間が空いているとかそういうこともないし、風景は何ら変わっていないのに“彼”の席だけが忽然(こつぜん)と消えている。


「おっはよ! さっきぶりだね」


 そのとき、登校してきた柚に声をかけられた。

 いつも通り向日葵みたいに眩しい笑顔をたたえている。


「おはよう」


 そう返し、日常が戻ってきたことを改めて実感した。

 本来あるべき毎日が、死に怯えることのない日々が、こうして手元に。


 だけど、何だか心に穴が空いている。


「でも何であたしたち、あんなとこで寝てたんだろうね?」


「……そうだね。わたしも覚えてないな」


 柚に合わせてそう言ったつもりが、何だか本当にそんな気がしてきてしまう。

 慌ててかぶりを振った。


(悪夢に、白石芳乃に、朝陽くん……。大丈夫、まだ覚えてる)


 だけど、どうしてそんな悪夢に閉じ込められる羽目になったんだっけ?

 どうしてわたしたちが集まったんだっけ?


「おはー。ねむ……あー、今日絶対寝るわ」


 能天気な夏樹くんの声がした。

 プールサイドで目覚めたときみたいに大きなあくびをしている。


「今日ってか、あんた毎日寝てんじゃん。……あれ、でもここ1週間はそうでもなかったっけ?」


「そう……かも。何でだろ?」


 ふたりがそんなやりとりを交わしているうち、高月くんが教室へ入ってきた。


「高月くん」


 思わず呼び止める。

 たまらなくなった。曖昧(あいまい)な記憶が、無性に心細くて。


 “彼”のことは、誰も知らない。元から存在しなかったかのように。

 覚えているのはもう、わたしたちだけだ。


「……ああ、日南」


 高月くんは少し意外そうに顔を上げ、わたしを認めた。


 そういえば、わたしはどうして高月くんと話すようになったんだったっけ?

 もともとは接点なんてないに等しかったはずなのに。


「あのね…………朝陽くんのことなんだけど」


 自分で自分に戸惑った。

 その名前は頭の中に浮かんでいたはずなのに、口にしようとしたら引っかかって、一瞬抜け落ちた。


「あさひ?」


 不思議そうな顔で聞き返され、呼吸が止まる。


「それ、誰だ?」




     ◇




 チャイムが鳴る。

 1時間目の授業が終わった。


 ことあるごとに、渦巻く思考につい意識を引っ張られる。


 もう、誰も覚えていない。

 わたし以外には誰も知らない。

 そんな“彼”のことを何度も考えていた。


 ────あのとき、屋上から突き落とすことでわたしを現実へ(かえ)してくれた。

 助けてくれた。


 “彼”はいったい、何者だったんだろう?


 本当の“彼”はどんな人だったんだろう?


 右のてのひらをじっと見つめた。

 まだ感触が残っている気がするのに、その温度も“彼”の顔もいつの間にか忘れてしまった。


 桜みたいにはらはらと、記憶の断片(だんぺん)が散っていく。


(────くん)


 もう、名前も思い出せない。

 だけど“彼”は確かに存在していた。


 わたしの思い出の中で。すぐ隣で。

 果たしてあれは夢だったのだろうか。


(あれ……?)


 はたと我に返った。

 戸惑いながら首を傾げてしまう。


 わたし、誰のことを考えていたんだっけ?


「花鈴!」


 楽しげな笑顔をたたえた柚がスマホ片手に駆け寄ってくる。

 (かか)げられた画面には掲示板のようなサイトが表示されていた。


「学校裏サイトである怪談見つけたんだけどさ、今夜試してみない?」


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