第5話
「うぅ……ああっ」
悲鳴にも似た呻き声が聞こえた。
肩で息をして、喉がひりついて、それが自分から発せられたものだったのだと遅れて気がつく。
つい項垂れるように目を閉じると、心臓に包丁を突き立てられた瞬間のことが思い出された。
(わたし、殺された……)
あろうことか夏樹くんの手によって、昨晩は命を落とす羽目になってしまった。
柚もそうだ。彼に殺された。
「!」
びりっ、と左腕に電流が走ったかのような刺激が訪れる。
慌てて袖をめくると、傷から煙が上がっていた。
「うそ……」
あの化け物に殺されたわけじゃなくても、残機は減ってしまうようだ。
“死”には例外も温情もない。
「……っ」
歯を食いしばり、傷が焼け焦げていく激痛に必死で耐えた。
何度味わっても、この痛みには慣れそうもない。
シュウ……と徐々に落ち着いて、傷がひとつ跡形もなく肌に溶ける。
手持ち花火が消えていく瞬間と似ているな、なんて余裕のない頭で思った。
残機は2────昨日、教室で目にした夏樹くんの腕と重なる。
彼と同じ状況に置かれた。追い込まれた。
わたしも冷静でいられなくなるかもしれない。いつ正気を失うか分からない。
そしたら、わたしも理不尽を呪って仲間を殺したくなってしまうのかもしれない。
「もう嫌。死にたくない……」
泣きそうな気持ちで顔を覆った。
早く何とかしないと。終わらせないと。
そのためにも協力は不可欠だ。
だけど昨晩あんなことがあった以上、絶望的と言えた。
少なくとも昨日以上の衝突は避けたい。
早く学校へ行って、夏樹くんや柚を止めないと。
◇
パンッ! と乾いた音が響く。
柚が夏樹くんの頬を思いきり打ったところだった。
その瞬間、教室が静まり返る。
朝陽くんと高月くんの姿はまだないけれど、先に問題のふたりが顔を合わせてしまったみたいだ。
(遅かった……)
戸枠のところからその光景を見たわたしは愕然とした。
いまのは、ふたりが完全に決裂した合図だ。
「最っ低」
柚が夏樹くんを憎々しげに睨めつける。
湧き上がる怒りを握り潰すみたいに強く拳を作っていた。
「あんた、自分のしたこと分かってんの? 朝の仕返しのつもり!? だとして、よく……よくもあんなことできたよね」
冷静に非難したものの、だんだん感情が膨張したのか途中で金切り声に変わって、また元に戻った。
信じられない、といった軽蔑のニュアンスが強まっている。
そればかりはわたしも同感だと言わざるを得ない。
彼はどうしてあんなことができたのだろう。
いくら責められて腹が立ったからって、追い詰められているからって、人を殺すなんて正気の沙汰じゃない。ましてや友だちを。
ふたりを止めるべきだと分かっていたけれど、わたしはどうしても動けなかった。
「……はは」
夏樹くんは冷ややかに笑った。
予想外の反応だ。
少なくとも昨晩しでかしたことに関しては、微塵も悪びれていない。
「なに笑ってんの!? この人殺し!」
彼女は勢いよく夏樹くんの肩を突いた。
だけど彼は半歩ほどあとずさっただけで、わずかにも怯んでいない。
「別にいいだろ、どうせ夢の中のことだし。実際に殺したわけでもねーし」
完全に開き直った態度だった。
平然とそんなことを言えるなんて信じられない。
頭を鈍器で殴られたみたいな衝撃を受け、直後に体温が上がったのを感じた。
確かにあれは現実じゃない。
だから柚もわたしもこうして生きている。
だけど、それが殺していい理由には絶対になり得ない。到底許されることじゃない。
命は命だ。
それに、昨晩の時点では知らなかったかもしれないけれど残機だって減ってしまった。
リアルでも間接的に殺されたわたしたちは、また一歩死に近づいたのだ。
彼は名実ともに人殺しだ。
(……ひどい)
ようやく感情が追いついてきた。
正直、昨日の様子を見て夏樹くんに同情していた部分があったのだと思う。
一度も悪夢を生き延びることができていなければ焦るし、希望が持てなくなっても仕方がない、と。
だから昨晩のこともできれば大事にはしないで、柚のこともたしなめて、丸くおさめられればいいと思っていた。今朝目覚めたときは。
そんなわけがなかった。
ことの重大さを全然理解していなかった。
彼に対する怒りを覚える。
たぶん、半分近くは夏樹くんの態度がそうさせている。
魔がさしたとか、冷静さを欠いていたとか、言い訳が何であれ真っ先に謝罪を口にしてくれていたら、またちがっていたかもしれない。
でも、夏樹くんはかけらも反省していない。
そもそも自覚がない。ことの重大さを分かっていないのは彼も同じだった。
「はぁ!? あんたマジで最低のどクズ。だったらさ、今夜あたしに殺されても文句言えないよね!?」
「やれるもんならな。おまえには無理だろ」
柚が畳みかけても、彼の余裕は崩れない。
何だか昨日までとは人が変わったように見えた。
何なのだろう。
本当におかしくなってしまったとでも言うのだろうか。
「……ねぇ、何ごと?」
いつの間にか隣に立っていた朝陽くんが、声を落として尋ねてくる。
困惑を滲ませた顔で教室内を窺っていた。
まったく気づかなかったけれど、その奥に高月くんもいる。
「ちょっと……」
とっさに答えかけたものの、説明しようにも言葉を続けられない。
口を開くと感情があふれ出しそうで、こらえるように唇を噛んだ。
それと同時に、自分の一部が冷静に分析した結果の判断でもあった。
一連の出来事を伝えて、ふたりまで夏樹くんと相容れなくなったら、と思うとためらってしまう。
そうしたら、夏樹くんとは敵対していくことになる。
3人がそうならわたしも追従するしかなくなる。
彼のしたことは、簡単には許せない。
けれど、みんなが分裂してばらばらになってしまうのは嫌だ。
残機に余裕のなくなった夏樹くんは、このまま死ぬくらいなら、と捨て鉢になってあんな行動に及んだのかもしれない。
もう助からないのだと諦めて、それならとことん嫌がらせして妨害してやろう、と考えて。
だとしたら、別に悪に染まったわけじゃない。
おかしくなったわけでもなくて、ただ単に心が弱かっただけだ。
恐怖に押し潰されて負けてしまっただけ。
行動は異常と言わざるを得ないものの、そういう心の動きは理解できなくもない。
肯定するつもりはまったくないけれど。
それなら、やっぱり対立するべきじゃない。いや、そうじゃなくても本来はそうだ。
同じ立場にあるわたしたちは、協力するべきなんだ。
「……本当信じらんない。残機、あと2なんでしょ? さっさと殺されて死んでよ」
ふたりの口論の中、ひときわそれがはっきりと聞こえた。
はっと我に返る。
「おい、柚。乾も……何があったんだ」
さすがに高月くんが割って入った。
険しい表情を変えないままこちらを一瞥した柚は、腕を組み直して射るように夏樹くんを捉える。
「昨日……こいつに殺されたの、あたし」
朝陽くんが「え」と驚きをあらわにし、高月くんも目を見張った。
「それで、ほら見てよ! 残機も減っちゃった」
ばっ、と袖をまくり上げて腕を掲げる。
そこには3本の切り傷が刻まれていた。確かにわたしと同じように、ひとつ減っている。
「…………」
わたしは思わず自分の左腕を強く握り締めた。
「何でだよ……。夏樹」
心底戸惑ったように朝陽くんが尋ねる。
それでも彼はやっぱり、余裕と開き直った態度を崩さなかった。
「ムカついたからだけど、何か悪い? 夢の中でならいくらでも憂さ晴らしできるじゃん。死ぬまでだけど」
へら、と軽薄な笑みをたたえている。
それに触発されたのか、柚がまた髪を逆立てた。
「ふざけないでよ! 何であんたに殺されなきゃなんないわけ!?」
「だからさ、ムカついたからだって。どうせこのままじゃ真っ先に俺が死ぬじゃん。ちょうどいいから道連れにしてやろうと────」
「勝手なことしてんじゃないわよ! あたしたちは真面目に終わらせる方法考えようって進んでたのに……っ」
「聞けよ、最後まで。いちいちうっせぇな」
うっとうしがるような口調でおざなりに夏樹くんが言った。
どう見てもいつもの彼とは様子がちがっていて、わたしたちだけでなく柚も口をつぐんだ。
気圧されて従ったというより、困惑している部分の方が大きい。
「で、道連れにしてやろうと思ったんだよ。正直もうやけくそだったし、おまえに関してはマジで仕返しでしかなかったけど」
柚に言ったあと、夏樹くんは身体をこちらに向けた。
「でもそしたら、これだよ」
そう言うと、袖まくりをした腕を上げて見せる。
そこには残機である切り傷が刻まれているのだけれど、あまりに予想外なものだった。
「え……?」
昨日の時点で2本しかなかったはずの赤い線が、いまは4本にまで増えているのだ。
「どういう、こと?」
浮かんだままの疑問が口をついた。
さすがの柚も驚愕に飲まれ、噛みつく気力をなくしている。
「誰かを殺せば相手の残機を奪えるんだよ!」
その意味を理解した途端、目眩がした。
愕然として目の前が暗くなる。
残機を増やす方法があればいい、とは思っていた。
それは希望になりうると信じていた。
そんなことはまったくなかったのだ。
“誰かを殺すこと”が条件なら、それを奪うという形なら、最悪でしかない。
これでは、わたしたちの中で殺し合いが始まってしまう────。
「……ちょっと待って」
普段より低めた声で朝陽くんが言う。
ふと一歩踏み出すと、そこからは迷いのない足取りで一直線に夏樹くんの元へ進んでいった。
「おまえ、それ2本増えてるよな」
確かめるような口調で、凄みをきかせたまま彼の腕を掴む。
「増えてるけど?」
夏樹くんは、それが何だ、とでも言いたげだった。
憎らしいほど泰然自若としている。
「まさか……」
朝陽くんが結論を口にする前に、素早く高月くんが動いた。
わたしの左腕を取り、半ば確信を持ったような動きで袖をめくる。
そこに傷は2本しかない。
それは紛うことなき事実だった。
「……っ」
慌てて腕を引っ込める。
本当は、できれば言いたくなかった。
これ以上、険悪になってこじれてしまうのが怖くて。
夏樹くんに対する怒りや哀しみはあるけれど、それは自分の中でどうにか折り合いをつければ、閉じ込めておけると思った。
それよりも、みんなで協力することを優先したかった。
でも、どのみち無理だった。
奪い、奪われるというシステムなら、残機数の計算が合わなくなるから隠し通せない。
「ふざけんな!」
事態を飲み込むと、今度は朝陽くんが夏樹くんに怒りをぶつけた。
飛びかかるような勢いで胸ぐらを掴んでいる。
「何でそう自分のことしか考えないんだよ! 昨日だって、花鈴はおまえのこと心配してたのに────」
じわ、と気づいたら目の前が滲んでいた。
急に込み上げてきて自分でもびっくりしてしまう。
わたしがさっさと諦めた、わたしのために怒るという感情と権利を、朝陽くんは認めてくれた。
自分で投げ出したことだけれど、代わりに怒ってくれたことでちょっと救われたように思えた。
「だーかーら」
夏樹くんがため息混じりの面倒そうな言い方で反論する。
「残機、返して欲しいなら俺を殺しに来ればいいじゃん」
気だるげな動きで、朝陽くんの指を一本ずつ剥がしていく。
そういう問題じゃない。
そんな話をしているんじゃない。
だけど、その言葉は間違ってもいない。
少なくとも、倫理や道徳を抜きにした理論上は。
「ま、返り討ちにしてやるけどな」
そう言うと、最後に朝陽くんの手を払い除けた。
不機嫌そうに彼を見据えたまま、乱れた襟元を正している。
「……最悪」
ぽつりと柚が呟く。
もはや激しく罵る気力も湧かないといった具合だった。
本当に最悪だ。最悪の状況だ。
その場に崩れ落ちそうになるのを、わたしはどうにか気力でこらえていた。
◇
重たい空気のままホームルームと授業が始まって、わたしはその時間中、集中できずに何度もみんなの様子を窺ってしまった。
特に柚と夏樹くん。
席が近いから以前はそれでよく話していたけれど、いまはお互い目を合わせることもしなかった。
いないもの、見えないものとして扱いながら、少し身体を外側に向けてそっぽを向いている。
(どうしたらいいんだろう)
このままでは本当に殺し合いが始まりかねない。
柚の性格からして、ああやって焚きつけられた以上、今夜にでも夏樹くんを殺そうとしてもおかしくない。
それに、そもそもわたしだって安全じゃない。
夏樹くんはもう殺すことに対する抵抗感をまったく持っていないから、昨晩わたしがそうだったみたいに誰であれ標的にされる可能性があった。
朝陽くんや高月くんも、いつ豹変するか分からない。
誰に命を狙われてもおかしくない。
いまでこそ正気を保っていられるけれど、仲間に殺されたら残機を取り返すべく躍起になるかもしれない。
「…………」
ぎゅう、と無意識のうちに左腕を握り締めていた。
残機はもう2しかない。
昨晩は生き延びられるはずだったのに、夏樹くんのせいでひとつ無駄にした。
奪われた。
わたしの命が、人殺しの彼を延命するのに利用された。
(取り戻さないと……)
自然とそこまで考え、はっと我に返る。
ちがう、とかぶりを振った。だめだ。
わたしは絶対、誰も殺したりしない。
たとえ夢でだって友だちを殺したくなんてないし、とてもそんなことできない。
残機が尽きる前に、終わらせる方法を考えるべきなのだ。
せっかくその足がかりや化け物の正体にたどり着けたんだ。
諦めるわけにいかない。
終わらせる方法はある。
みんなで協力すれば、それを見つけるのも実行するのもきっと不可能じゃない。
危なかった。
わたしまで悪意や利己主義に飲み込まれるところだった。
(怖い……)
何より、そうやって自分を見失ってしまうのが。
誰も信じられなくなることが恐ろしくてたまらない。
◇
休み時間を迎え、夏樹くんを除いた4人で集まった。
彼はすぐにどこかへ姿を消した。
意図的にわたしたちとの接触を避けている。
「あいつマジで狂ってる。頭おかしいよ」
柚が低めた声で言った。
誰のことを言っているのかは明白で、全員の脳裏に今朝のことが蘇った。
『残機、返して欲しいなら俺を殺しに来ればいいじゃん』
挑発するかのように言ってのけた彼。
『ま、返り討ちにしてやるけどな』
あれは本気だった。
本気でわたしたちを敵とみなして殺し合うつもりでいる。
「……確かに、まともじゃない」
朝陽くんも同調する。
また、空気が重たく尖った。
吸っているだけで肺に毒が溜まっていく気がして息苦しい。
「まあ……無視はできないな。こうなった以上」
「てか、あんたも殺されたんでしょ? 腹立たないわけ? 何でそんな冷静なのよ」
唐突に矛先がわたしに向いて戸惑った。
理解できない、というふうに眉をひそめられる。
「わたしは……できればもうあんまり思い出したくないっていうか、考えたくない」
「いや、でもさ────」
「昨日、新しく分かったことはない? メモ見つけたとか」
無理やり話題を変えた。
これ以上、夏樹くんを悪者として非難し続けていても仕方がない。
悪夢を終わらせるという目的には近づけない。
わたしは決して冷静なわけじゃなかった。
恐れているだけなのだ。
感情的になって夏樹くんを恨んだら、ばらばらになった関係性を修復できなくなりそうで。
生きて、みんなで悪夢から解放されること。
その可能性を諦めたくない。
「花鈴……」
「わたしはC組の教室で見つけた。これ」
スマホを取り出し、おさめた写真を見せる。
“呪い殺してやる”という内容のものだ。
「!」
それを見た3人の顔が一拍置いて驚愕に変わった。
柚に至ってはおののいたように真っ青だ。
「……?」
「か、花鈴……。それ!」
「え?」
ぐい、と手を押し返すようにして画面をこちらに向けられる。
それを見て息をのんだ。
“オマエダ”。……おまえだ。
もともとの文言が消え、血の滲んだ文字に変わっていた。
「な、何これ!?」
おまえを呪い殺してやる────そう言いたいのだろうか。
怖くなって、慌ててスマホの電源ボタンを押した。
スリープではなく電源ごと落とした。
凍えるように落ち着かない呼吸を繰り返し、震える両手を握り締める。
「……びっくりした。こんなことあるんだ」
「もー、マジ勘弁して欲しいよ。そういう怪奇現象は夢の中だけで十分だっての!」
朝陽くんがこぼすと、頭を抱えた柚も嘆いた。
白い手、臓物、偽物の朝陽くん……ああいう目に遭っているのはわたしだけじゃないみたいだ。
「どんなことが起きたの……?」
「え? んーと、たとえばトイレの個室一面に大量のお札が貼ってあったり、理科室で人体模型に追い回されたり」
「人体模型に? 捕まったらそれも殺されるのか?」
高月くんが口を挟んだ。
柚もなかなかハードな現象に見舞われている。
「分かんない、捕まったことないし。でも化け物とはちょっとちがう感じ。追ってくるのは理科室の中だけで、目合わせとけば動かない」
「だるまさんが転んだ的なこと?」
「そうそう! だからひとりだと鍵探すのもひと苦労だったよ」
想像して苦い気持ちになった。
それを聞いてしまうと、鍵が開いていても、あるいは鍵を見つけても、理科室にはあまり近づきたくなくなる。
暗転したスマホに目を落とした。
怖い思いをしたけれど、いまは逆に助かったかもしれない。
夏樹くんから意識が逸れて、柚が普段通りの調子に戻ってくれた。
「あ……脱線したね。メモだっけ。俺も見つけたよ」
「あー、そうだ。ごめんごめん。あたしも」
「もしかして全員か? 僕も見つけた」
それぞれがスマホを取り出す。
意外ではあったけれど、喜ばしい展開だった。
メモは言わばヒントだし、多く見つかるならそれに越したことはない。
「さっきみたいなのやめてよー?」
柚が自分のスマホに言い聞かせ、それから写真を開くと机の上に置いた。
ふたりも追随する。
“嘘つき”。
“おまえも同じ目にあえばいいんだ”。
“許さない”。
それぞれそんな内容だった。
過去に見つかったメモと照らし合わせると、何となく事情を推し量れそうな気配がある。
「白石芳乃は殺されたとして……その“裏切り者”が犯人ってことかな?」
ほとんど確信を持って口にしたものの、即座に別の可能性が湧いた。
そしてそれを高月くんが口にした。
「その可能性が高いけど、そうとも限らない。殺しそのものはいじめの加害者がやったのかも。故意かどうかは別として」
いじめが度を越して、結果的に白石芳乃が命を落とす羽目になったのかもしれない。
「てか、そもそも“裏切り者”といじめっ子が別とは限らないでしょ。同一人物かもよ」
そんな柚の指摘は正しいと思った。
たとえばもともとは友だちだった相手が、ある日を境に白石芳乃をいじめるようになった可能性がある。
その場合、それは彼女にとっては裏切り行為と言えるだろう。
“裏切り者”と呼ぶのは自然だ。
「何にしても、犯人を突き止めればいい、ってことで合ってる?」
誰にともなく朝陽くんが尋ねる。
難しい顔で「恐らく」と高月くんは頷いた。
「うーん……」
柚は腕を組み、長々と息を吐き出すようにうなる。
「厳しいよね。俺ら、白石芳乃と知り合いなわけでもないし」
朝陽くんの言う通りだ。
犯人なんて、正直分かるはずもない。
そもそもわたしたちは白石芳乃という人物を知らないのだ。
入学後、生徒が飛び降りたなんて話も聞いたことがない。
「そういえば、それっていつの話なの? 白石芳乃が亡くなったのって」
ふと思い立ってそう尋ねると、高月くんはいっそう眉間のしわを深めた。
「……10年前」
「10年!? そんなんなおさら知るわけないじゃん!」
柚が喚いた。
わたしたちが白石芳乃を知らないのは当然のことだったのだ。
ただ、何にせよ彼女が屋上から落ちて亡くなっているという事実は変わらない。
いじめを受けていた、というのは憶測だけれど。
どの記事も“不明”と濁して原因を明言していないのは、学校側がそれを隠蔽したからかもしれない。
その可能性はありそうなものだった。
「でも、じゃあ……たとえばいじめてた奴らが犯人だったとしたら、当時の同級生を当たって探せばいい?」
朝陽くんが小首を傾げる。
「無駄じゃないか? 10年も黙ってた加害者がいまさらいじめてたことを認めるわけない」
「ま、いじめっ子が犯人じゃなくてもね。同級生とか先生とかの中に犯人がいるならさ、なに聞いたってそいつも正直に言うはずない」
柚が口をへの字に曲げ、腰に手を当てる。
ふたりの反論はもっともだけれど、だったらどうすればいいのだろう。
「“裏切り者”……」
顎に手を当てて考え込み、呟くように言った。
「“裏切り者”ねぇ。……それ言うなら夏樹でしょ」
わたしの言葉を繰り返した柚は、再びそう気色ばんだ。
話題が一周してしまった。行き詰まったせいで。
焦りが込み上げ、何か言おうと顔を上げたとき、図らずも唐突にひらめきが降ってきた。
「“人殺し”っていう“裏切り者”は……わたしたちの中にいるのかも」
はっとしたり、困惑を滲ませたり、それぞれの反応を目の当たりにする。
「どういうことだ?」
高月くんに聞き返されるけれど、わたしも深い意図を持って発言したわけじゃなかった。
うまく説明できる自信がないながら言葉を紡ぐ。
「その……なんていうか、わたしたちの中に別の目的を持ってる人が紛れ込んでるんじゃないかって」
「それが、俺たちを殺すこと?」
「ううん、そうとは限らないっていうか、言いきれないんだけど」
自分でも分かるくらい曖昧な主張だ。
何が言いたいのか、わたし自身も捉えきれていない。
「そうかも。てか、それだ。やっぱり夏樹がその“裏切り者”なんだって。あいつ人殺しだもん!」
柚の声に熱が込もる。
心から理解して同調してくれているというより、彼女の場合は正直、夏樹くんを悪者にしたいだけのように思える。
「だが、黒板にその文字が現れた日は、乾はまだ誰も殺してなかっただろ」
「それはそうだけどさ……」
高月くんの真っ当な反論に、柚は返す言葉を見つけられないようだった。
でもわたしは逆に、それでまたひらめくものがあった。
「それなら別の、白石芳乃の事情に関係ある人が、本当にこの中にいるんじゃない?」
もっと言えば、白石芳乃を殺害した犯人が。
うまく言葉にできなかった違和感の正体を掴むことができた。
“裏切り者”が誰にとってのものか、ということだ。
白石芳乃を、ではなく、わたしたちを裏切っている存在がいるのかもしれない。
「……えっ?」
「つまり白石芳乃を殺した犯人が僕たちの中にいて、そいつは僕たちのことまで殺そうとしてる。そう言いたいのか?」
こく、と高月くんの言葉に頷いた。
「……そういうことか。俺たちにとっての“裏切り者”」
朝陽くんが言ったものの、高月くんは「でも」と不可解そうな表情をする。
「ちょっと引っかかるよな。そうなると、白石芳乃が何で犯人を野放しにしてるのか。これじゃ協力関係にあるみたいだ。真っ先に呪い殺されてもおかしくないのに」
どんな理由があって“裏切り者”がわたしたちを狙っているのかは分からないものの、それで言うと、そもそも白石芳乃の呪いを利用する必要もない。
「それもそうだし、この中に犯人がいるなんてありえないでしょ! 10年前なんてあたしたちまだ小学生だよ?」
ふたりの言い分は、確かにその通りだ。
高月くんの言う違和感も無視できないし、柚の言葉も正しいと思う。
たとえば覚えていないだけで彼女と知り合いだった可能性もありえなくはないけれど、殺すなんてさすがに非現実的すぎる。
現場はこの学校の屋上なのだ。
小学生だったわたしたちが怪しまれずに出入りできる場所じゃない。
「……犯人、もう死んでるとしたら?」
そんな朝陽くんの声はやけに響いて聞こえた。
「死……。え? なに言ってんの?」
柚が首を傾げた。
「だって朔の言う通りじゃん。呪い殺すとかそんなことができるならさ、まず自分を殺した奴のこと殺るでしょ」
「じ、じゃあなに? あたしたちの中に幽霊が紛れ込んでるってわけ!?」
実際に白石芳乃に手を下して取り殺された犯人が姿かたちを変えて化け、誰かに成り代わっているのかもしれない。
その“誰か”は乗っ取られているのか、あるいはもともとは存在しない人物が溶け込んでいるのか、分からないけれど。
いずれにしても、朝陽くんが言っているのはそういうことだ。
柚の出した結論は合っている。
「……そうかもな」
意外なことに高月くんはすんなり納得したようだった。
「マジで言ってんの?」
「実際、平凡な高校生でしかない僕たちが、何の情報もない“無”の状態から未解決事件の犯人を突き止めるなんてどだい無理な話だろ」
「ま、まあ、それはそうだけど……」
だんだんと突飛な可能性ではなくなってきたように思う。
犯人を特定する、という行為の意味合いが変わってきた。
わたしたちの中にいつの間にか紛れ込んでいた、偽物の存在を見つけ出す。
それが“裏切り者”の正体。
◇
放課後になると、教室を出る前に教卓へ歩み寄った。
そこに置かれている出席簿を開いてみる。実質クラス名簿だ。
「何してるの?」
声をかけられて顔を上げると、鞄を肩にかけた朝陽くんが立っていた。
ほかの3人の姿は既にない。
「あ、えっと。もし犯人の幽霊が紛れ込んでるなら、これ確かめれば分かったりしないかなって」
「あー、確かに。見てみよう」
どさりと近くに鞄を下ろした彼は、こちらへ近づいてきて隣に並んだ。
ふわっと爽やかな香りが揺れて、どきりとする。
手元の名簿を覗き込むと、思いのほか距離が近くなってどぎまぎしてしまった。
「うちのクラス、39人だよね。俺たちの名前は……」
朝陽くんの睫毛が揺れる。
いつの間にか、その綺麗な横顔に釘づけになっていた。
見つめていると、とん、と肩がぶつかって、そのわずかな衝撃で我に返る。
「あ、ごめ────」
慌てた朝陽くんが顔を上げ、こちらを向く。
びっくりして息が止まった。
あと一歩で触れそうなほど、間近な位置に彼の顔がある。
自分の速い鼓動に、そのときやっと気がついた。
「……あ」
ぱっと慌てて視線を逸らす。
たぶん、朝陽くんもほとんど同時にそうしたと思う。
余計に心音を意識させられた。
頬が熱を帯び始める。
「…………」
うつむいた顔を上げられなくなって、逃げ出したいくらい照れくさくなる。
見つめていたこと、ばれちゃったかな……。
ふ、と息をこぼすような柔らかい笑い声が降ってきた。
つい見上げると、はにかむ朝陽くんと目が合う。
「何かさ……懐かしい。この感じ」
何となく、言いたいことが分かった。
小学生の頃のくすぐったい気持ちを思い出したのだ。
あのときもそうだった。
気になって、気にして、そのくせ気づかれたくなくて。
ふいに目が合うとこうやって、慌てて逸らした。
だけど次の瞬間にはまた、瞳の中に彼がいた。
「……ね。わたしも」
余分な力が抜けて、頬が綻んでいく。
あのときの彼は、あのときのわたしと、同じ気持ちだったのだろうか。
それはさすがに自意識過剰かな、なんて。
────ややあって「あ」と我に返った。
名簿を調べていたのだった。
「これ確かめないと……」
「そうだった」
クラスの人数は39人。
番号順に見ていくものの、どの人もちゃんとクラスメートとして知っていた。
乾夏樹。小日向柚。高月朔。成瀬朝陽。日南花鈴。
わたしたち5人の名前もあるし、名簿の中に知らない名前が紛れ込んでいる、ということもなかった。
「ちがったのかな。犯人が……知らない誰かが化けて紛れ込んでる、っていうのは」
「数えてみよう」
1、2、3……上から順に指でなぞりながら、人数を数えていく。
番号は振ってあるけれど、あてにできなかった。
ただし、紛れ込むのではなく“成り代わっている”のなら、人数自体は変わっていないはず。
「……37、38、39────40」
自分でも信じられない気持ちで、最後の数字を口にした。
「40……」
彼も動揺を隠せない様子でそう繰り返す。
40。このクラスは全員で39人のはずなのに、そのあと何度数え直しても40人いた。
振られている番号は39までなのに。
ひとりひとり指で追って確かめているのだから、数え間違えてもいないはずなのに。
「ひとり増えてる」
いったい、いつからだろう……?
奇妙な違和感と言いようのない不気味さが、膨張して圧迫してくる。
「紛れ込んでるんだ、やっぱり」
白石芳乃を殺した犯人が。
あの悪夢に閉じ込められているわたしたち5人のうちの誰かが、増えたひとりにちがいない。
◇
そのあと、朝陽くんとふたりで学校を出て帰路についた。
だけど、いまは彼と一緒に帰れることへの嬉しさより、先ほど確信した事実の方に気をとられていた。
お陰で思考の渦に放り込まれ、会話もほとんど生まれない。
(わたしたちの中に犯人がいる……)
そしてその人は既に亡くなっていて、姿かたちを変えて化けている。
白石芳乃が殺されたのは10年前のこと。
犯人が当時の同級生にしても学校関係者にしても、いまのわたしたちと同級生ということはありえないからだ。
(でも、紛れ込んでるなんて本当にありえるの?)
考えるほど、信じられないという思いが強まっていく。
ちら、と朝陽くんを窺った。
少なくとも彼とわたしは小学校の時点で出会っていて、そのときからお互いのことを知っている。
柚と高月くんのふたりもまた中学校時代から一緒で、共通の思い出がある。
過去を共有しているということは、どう考えてもちがう。
紛れ込んだ犯人なんかじゃない。
(だったら、夏樹くんが……?)
消去法ではそうなる。
わたしたちの中では、彼だけがある意味で異質と言えた。
夏樹くんとは、全員が高校で出会った。
このクラスになってから初めて知り合った。
それに何より、彼は確かに柚とわたしをを躊躇なく殺害してしまった。夢の中とはいえ。
そのことを思い出したとき、ひたひたと恐怖心が忍び寄ってきた。
するりと心の隙間に入り込み、思考を靄で覆っていく。
(どうしよう……)
今夜もまた、夏樹くんに殺されてしまったら。
今朝の様子からして、その可能性は大いにありうるものだと思えた。
残機を5以上貯められるかどうかは知らない。
でも、彼が“殺られる前に殺る”という考えなら、残機云々によらず全員に殺意を向けてくる。
わたしが死ねるのはあと2回だけ。
もう、たったの2回。
夏樹くんに殺されなくても、そもそも化け物の餌食になる可能性だって十二分にある。
「……っ」
息苦しくなってきた。
震えが止まらない。
怖くて、不安で、どうしようもない。
「────花鈴」
ふいに朝陽くんに呼ばれ、ぱちん、と泡が弾けるように恐怖の呪縛が解けた。
はっとして見上げる。
「今夜、夢で俺のこと殺していいよ」
「え……?」
何を言われたのか、理解するまでに時間がかかった。
すぐには受け止められない言葉と、彼の清々しいほどに迷いのない眼差しがなおさら混乱を招く。
「なに言ってるの……!?」
「俺の残機あげるから」
もともとそう言おうと決めていたのか、その答えは間を置くことなく当然のように返ってきた。
だけどわたしは、そう“当然のように”は受け入れられない。
「いい……。いらない」
ふるふると半ばおののくように首を左右に振った。
朝陽くんは不思議そうに眉を寄せる。
「何で?」
「わたしたちは協力し合うべきなんだよ! なのに、そんな殺し合いとか」
「これも協力じゃないの? 残機分け合うのって」
「それは……」
「花鈴に死んで欲しくないから言ってんだよ、俺は。……お願いだから守らせてよ」
とっさに言葉が出てこなかった。
朝陽くんの優しさを否定したくない。できない。
きゅ、と唇を噛み締めたまま、何も言えずにその瞳を見返す。
わたしが間違っているのだろうか。
残機を分け合うことは確かに“協力”と呼べるかもしれない。
その残忍な手段に惑わされているだけで、その考えが実際には正しいのだろうか。
(……ううん、やっぱりだめだ)
傾きかけた考えを打ち消す。
たとえ夢の中でだって、本当の死じゃなくたって、それだけは越えちゃいけない一線のはずだ。
「ごめん……。気持ちだけ受け取るね」
「なんで────」
「本当にありがとう」
彼が間違っているとは思えないし、そこまで言ってくれたのも嬉しい。
やっぱり朝陽くんは優しくて、自分より人のことを先に考えて想ってくれている。
それを改めて知れただけで十分だ。
「……正直、嬉しかったよ。今朝も」
納得のいっていない表情の彼を見つつ、そう告げる。
わたしを思って、わたしのために怒ってくれた。
自分でも無意識のうちに蔑ろにして、端へ追いやっていた感情や気持ちを、真っ先に見つけて守ろうとしてくれた。
「救われた気がした」
なぜだか、喉の奥が締めつけられる。
蓋をしていた本心に向き合おうとすると、たまに泣きそうになる。
「花鈴……」
「ありがとね、朝陽くん。でも本当に十分だから……殺せなんて言わないで」
彼は何か言おうと息を吸い込んで、少ししてから吐き出した。開きかけた唇を閉じる。
「……分かった」
眉を下げ、目を伏せると一応は頷いてくれた。
本当に納得してくれたのかは分からない。
してくれていたとして、どの程度かも分からない。
でも、これでよかった。
提案を受け入れて朝陽くんを殺したら、残機数はわたしが3、彼が2になって、結局は入れ替わるだけ。
一時的な、そして虚しくて取るに足らない安心感のためだけに、一線を越えたくはない。
彼を殺したくなんてない。
この考え方が正しいのかどうかは分からないけれど、曲げたくなかった。
だからこそ前を向いていられる。
◇
──キーンコーンカーンコーン……
音割れしたチャイムが、不快感を伴いながら重たく鼓膜を揺らしてくる。
ふと目を開け、身体を起こした。
真っ暗闇の中に、白い光がふたつ。
わたしも急いでライトをつける。
光は柚と夏樹くんのスマホが発しているものだった。
夏樹くんは昨晩のように、何も言わないまますぐさま教室から出ていってしまう。
それを見て焦った。
のんびりしていると、鍵を探すどころじゃなく殺されるかもしれない。
慌てて、だけど静かに立ち上がると、朝陽くんと高月くんを起こしに向かう。
「柚……」
彼らが目を覚ましたのを確かめると、ほとんどひとりでにそう呼びかけていた。
黒板のあたりに立つ彼女を軽く照らす。
険しい表情で固く口を結んでいる。
「……悪いけど、今日はほっといて」
こちらに目を向けないまま言った。
その声には確かな怒りが、いや、それよりもっと深い憎しみが宿っているように感じられる。
夏樹くんと改めて顔を合わせたことで、その感情がぶり返したのかもしれない。
「あいつ……絶対、殺す」
そう静かに息巻くとさっさと扉の方へ歩き出し、闇の中に溶けていってしまう。
そこら中に漂う死の気配をかき分けながら。
「ま、待って……。柚!」
「やめとけ、日南」
追いかけようとしたものの、即座に引き止められた。
狼狽えたまま高月くんを振り返る。
「でも」
「あいつらがいがみ合うのは、はっきり言って仕方ない。昨晩や今朝のことを思えば、乾だって殺されても文句言えない」
「そんなこと」
「一旦放っておくしかない。下手に近づいて、僕たちまで殺されたんじゃたまらないだろ」
高月くんの言葉がまったくもって理解できないわけじゃなかった。
でも、だからこそ素直に引き下がれない。
柚と夏樹くんの殺し合いを傍観していることが正しいとは思えない。
ましてやどちらかの、あるいはどちらともの死を前提にするなんて。
「分かってるのか? 今夜は3人で鍵を探すしかないんだ。急がないと」
わたしの心をまるごと見透かしたみたいに、口にする前から反論をねじ伏せられた。
それで分かった。
彼は、ふたりがどうなってもいいなんて思っているわけじゃない。
すべてを理解した上で、葛藤を経た上で、それでも冷徹に割り切ったのだ。
いまやるべきことを見失っていたのは、わたしの方だった。
「……そうだね。ごめん」
何があろうと秒読みは止まってくれないし、化け物は常に命を狙ってくる。
いまできるのは、屋上の鍵を見つけて生き延びることだけだ。
「じゃあ、さっそくだが────」
「俺は花鈴と一緒に動く」
堂々と朝陽くんが言う。
普段とちがって、そうしてもいいか、と確かめるようなニュアンスではなかった。
「特に残機に余裕ないし、狙われたら怖いから……」
守る、と言ってくれようとして、だけど高月くんの手前、ちょっと気後れしたみたいだった。
「……ありがとう」
朝陽くんの思いやりを噛み締めながら告げる。
こんな状況だからこそストレートに染みた。
「そうだな、じゃあおまえらと僕とで手分けしよう」
「待って。高月くんも一緒にいよう」
面子的に何となく初日と重なって、反射的にそう言っていた。
特にいまは3人で固まっていた方がいいように思える。
「僕は男だし、もし乾に襲われても何とか抵抗できるが」
「いいから、朔。警戒するべき対象が増えたんだし、身の安全を優先しよう」
化け物に襲われたらそのときはそのときだけれど、それ以外なら何かあっても3人いれば対処できるはずだ。
「効率悪そうだが……仕方ないな」
◇
わたしたちは1階へ移動して、まずは昇降口から調べ始めた。
また臓物が飛び出してくるんじゃないか、と終始ひやひやしていたけれど、今回は何ごともなく済んだ。
ただし、鍵も見つからなかった。
ホールへ戻り、あたりの様子を窺いながら耳を澄ませてみる。
「…………」
しん、と静まり返っている。
化け物の音も、柚や夏樹くんが争っているような声も聞こえてこない。
「……いまのとこ、平和だな」
朝陽くんがささやく。そうみたいだ。
ふたりが既にどこかでこと切れている可能性は否めないとはいえ。
「次、北側行こう。厄介な職員室がある」
そう言った高月くんは素早く歩いていく。
身をもって体験したような言い方だった。
さっさと終わらせておきたいのだろう。開けば、の話だけれど。
わたし自身はまだ探しに入ったことはないものの、確かに想像が及ぶ。
2日目の夜に足を踏み入れたとき、雑然とした印象を受けた。
とにかくものが多いのだ。
その分、鍵の隠し場所も増えて探すのに手間がかかる。
職員室へ向かう前に順番に見ていった。
北校舎西側の一番端は事務室だ。
──ガタッ
ドアが揺れる。でも、開かない。
取っ手に手をかけていた高月くんは、特に落胆することもなく隣へ移動する。
わたしたちもついて歩いた。
(次は校長室……)
今度も高月くんが取っ手を掴んだ。
そのまま捻って押し込むように力を込めると、キィ、と軋んだ音を立てながらドアが開く。
「開いた」
思わず呟き、彼に続いて足を踏み入れる。
ふか、と靴裏が沈み込んで、床全面にカーペットが敷かれていることに気がついた。
そっと静かにドアを閉め、室内を照らす。
正面に木製のデスクがあり、革製の椅子がおさまっている。
突き当たりの壁は大きな窓だ。
向かって左側の壁に沿ってガラス張りの棚とサイドボードが置かれている。
何かのトロフィーや表彰盾が並んでいた。
「……校長室、初めて入った」
「意外と狭いんだね。ソファーとかテーブルとかもない」
部屋の中央あたりに置かれているイメージだったけれど、それらは見当たらず広々としている。
壁の高い位置に歴代校長の写真が飾られているのは、想像通りだったけれど。
「隣に応接室があるからな」
「へぇ、そうだったんだ。別れてるんだね」
そういえば、そんな室名札があったような気もする。
普段はなかなか通らない場所だから意識していなかった。
「お陰で探す手間も2倍だ」
「そう変わんないだろ。応接室なんてもの少ないし」
3人でいるお陰か恐怖心が抑えられ、軽口を叩き合う余裕が生まれていた。
これほど心にゆとりを持ってこの時間を過ごすのは、初めてな気がする。
それぞれ手分けして鍵探しにあたった。
棚の中、サイドボードの中、デスクの中────どこもファイルや書類が並んでいて、なかなか骨が折れる。
いつか進路指導室でそうしたみたいに、そういうものに挟んで入れ込むような隠し方はされていない、と決め打って無視することも考えた。
でも、鍵はそうでもメモはちがうかもしれない。
重要なヒントであるメモを見落とすことは避けたくて、ことさら丁寧に調べていった。
「……ないな」
立ち上がった高月くんが呟く。
結局、校長室からは鍵もメモも出てこなかった。
床に散乱したファイルや紙の束を見下ろしながら息をつく。
「やばいよ、時間が」
スマホで時刻を確かめた朝陽くんが焦りを滲ませた。
0時24分。
1階はまだ昇降口とここしか調べられていないのに見つかった鍵はゼロ。
開くかどうかは分からないけれど、厄介だという職員室も残っている。
このペースでは到底間に合わない。
「やっぱり手分けする……?」
「いや、ここまで来たら少なくとも職員室を確かめてからがいい。開かないならそれで解散して分担、開くなら調べ終えてから別れよう」
「そうだな」
こくりと頷いた朝陽くんがドアへ寄った。
わずかに隙間を開け、廊下の様子を窺う。
少ししてこちらを振り返った彼は「大丈夫」と言った。
「化け物はいない。ふたりの気配もないよ」
その言葉にひとまずほっとしながら、わたしたちは廊下へ出た。
隣の応接室は結局開かなかったため、さらに隣の職員室へ移る。
くぼみに手をかけた朝陽くんが力を込めると、ガラ、と何にも阻まれることなくスライドした。
「マジか……。開いちゃった」
そう言いたくなる気持ちは分かった。
けれど、開かなくても結局どこかには鍵が隠されているわけで、閉まっている教室は探さなくていい、という意味合いではない。
「急ごっか」
素早く中へ入り、ぴしゃりと扉を閉めておく。
やはりものは多いけれど、無秩序に散らかっているわけではなく、誰かが立ち入った形跡はない。
柚と夏樹くんのふたりは、ここへは来ていないようだ。
「とりあえず僕と成瀬でデスクを調べるから、日南は周りの棚とか書庫の方頼む」
「うん、分かった」
「鍵優先?」
「……そうだな、仕方ない」
見落としても、メモは明日見つかるかもしれない。
だけど、鍵はそうもいかない。
一旦、割り切るしかないだろう。
それぞれが割り振られた位置へ散った。
わたしは廊下側の壁際へ寄ると棚を開け、中を照らして確かめていく。
本やファイル、書類を無視していいのなら、こちらは調べる箇所をかなり絞れそうだ。
早く終わらせて、デスクの方を手伝いにいかないと。
そんなことを考えたときだった。
──ズ……
一瞬だけ、重たげな音が聞こえた。
何かを、いや、折れてしまった足を引きずるような化け物の足音。
気のせいだろうか。
瞬間的で、そしてあまりに微かで、確信が持てない。
──ぴちゃ……
──ズズ……
「!」
今度は確かに聞こえた。
扉を閉めた室内にいてこれほどはっきり拾えたということは、もうかなり近い位置にいる。
慌ててライトを消した。
「ふ、ふたりとも……」
叫びたいのをこらえ、声を潜めたまま振り返る。
顔を上げた彼らは手を止めた。
「来てる……!」
そんな自分の言葉で、思い出したかのように恐怖心が湧き上がる。
ぞわぞわと肌が粟立ち、身体が芯から強張った。
「化け物か」
「うん、もう……すぐそこにいるかも」
ふたりがライトを消すと、あたりは完全な闇に包まれた。
何もかもを吸収してしまったかのような闇。何も見えない。
──ぴちゃ……ぴちゃ……
水音しか聞こえない。
もしかしたら、壁を挟んだ向こう側に立っているのかもしれない。
(どうしよう)
動けなくなった。呼吸さえままならない。
いますぐ逃げ出したい。
ふたりの方へ行きたい。
だけど、一歩でも動いたらその音でここにいることに気づかれてしまうかもしれない。
もしくはとっくに気づいていて、いまはただ恐怖で弄び、楽しんでいるのかも。
──ぴちゃん……
心臓が暴れていた。
その音さえ聞こえてしまうんじゃないかと不安でたまらない。
扉を開けられたらどうしよう。
このまま息を潜めてやり過ごせるだろうか。
いや、無理だ。化け物にはぜんぶ見えている。
ここへ入ってきたら終わりだ。
のしかかってくるあまりのプレッシャーに泣きたくなった。
(怖い……。もうやだ……っ)
ふたりとも、ちゃんと近くにいるよね……?
そう心配になってしまうほど、暗闇の中にはわたしと化け物以外の気配を感じられない。
──ガン……ッ
静寂を破るように鈍い音が響いた。
何かと何かがぶつかる衝撃音。
(え……?)
いまのは廊下の方から聞こえた。
化け物が何かをしているのだろうか。
──ガン……ッ
──ガン……ッ!
また同じような音が聞こえてくる。
いったい、何をしているの……?
「フフ……アハハ……」
ひゅ、と喉の奥を冷たい空気が通り抜けた。
奇妙な音と化け物の笑い声がこだましている。
「アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハッ」
──ガン! ガン! ガンッ! ガンッ!
突如としてつんざくように響き渡った声と音に、びくりと肩が跳ねた。
(何なの……!?)
──ガンッ! ガンッ! ガンッ! ガンッ! ガンッ! ガンッ! ガンッ! ガンッ! ガンッ! ガンッ! ガンッ! ガンッ! ガンッ! ガンッ! ガンッ! ガンッ!
止まない打撃音。
狂った笑い声と合わさって、聞いていると頭がおかしくなりそうだった。
意味が分からない。怖い。気味が悪い!
耳をふさぎ、思わずその場にうずくまる。
(もうやめて……!)
絶対、わたしたちに気がついている。
こうやって追い詰めて楽しんでいるにちがいない。
──ガンッ! ガンッ! ガンッ! ガンッ! ガンッ! ガンッ! ガンッ! ガンッ! ガンッ! ガンッ! ガンッ! ガンッ! ガンッ! ガンッ! ガンッ! ガンッ! ガンッ! ガンッ! ガンッ! ガンッ! ガンッ! ガンッ! ガンッ! ガンッ! ガンッ! ガンッ! ガンッ! ガンッ! ガンッ! ガンッ! ガンッ!
脳を直接揺さぶられているみたいに頭が痛くなってくる。
息が苦しい。
あまりの恐怖に目眩がした。
「……俺が囮になる」
ふいにそんな朝陽くんの声が聞こえ、はっと目を開ける。
激しい音が響いているのに、どうしてかそれは切り取られたみたいにはっきりと聞き取れた。
「本気か?」
「試したいことあるし、ちょうどいい」
思わず振り返ると、ぼんやりとした光が闇を裂いていた。
ライトではなく画面の明かりを頼りに、朝陽くんが扉の方へ向かっている。
(待って……)
そう思うのに口には出せないまま、震えながら彼を目で追うことしかできない。
ぱっと光がひときわ強くなった。
ライトをつけた朝陽くんが何の躊躇もなく一気に扉を開ける。
──ガララッ
その瞬間、音と笑い声がぴたりと止んだ。
「来い、化け物! こっちだ」
たっ、と彼が床を蹴った。
駆けていく足音が徐々に遠ざかっていく。
──ズズ……ッ
化け物が動いた気配があった。
見えないけれど、恐らく朝陽くんを追っていったのだろう。
「……っ」
呼吸と全身を震わせながら、わたしは動けないでいた。
朝陽くんがいなかったら、きっと正気を失っていた。
あのまま発狂していたかもしれないし、耐えられなくて廊下へ飛び出していたかもしれない。
その場合、衝動的な行動でしかなく、間違いなく殺されていた。
「……大丈夫か、日南」
ややあって高月くんに声をかけられる。
「だ、大丈夫……」
喉がからからで、張りついた声は掠れてしまう。
それでも何とか感情を落ち着けて、平静を取り戻そうとした。
「助かったな。いまのうち、さっさと鍵を探そう」
「うん……」
あのままいたら、きっと時間だけが無駄に消費されていただろう。
鍵を探すことも逃げ出すこともできず、ただ恐怖しているうちに時間切れになっていたかもしれない。
そういう意味でも、わたしたちは朝陽くんに助けられた。
(本当にごめん……。ありがとう、朝陽くん)
棚を支えにふらふらと立ち上がる。
膝に力が入らないけれど、倒れそうになるのを気力でこらえた。
やれることをやるしかない。
彼のためにも。
「あったか?」
「ううん……」
棚も書庫もデスクも調べ終えたけれど、メモどころか鍵のひとつも出てこなかった。
昨晩のスムーズさが嘘のように思えるほど、一向に見つかる気配がない。
「まずいな」
結局、職員室には30分近く時間を奪われた。
1階はまだ半分以上手つかずだというのに。
「さすがに分担した方がいいよね」
「ああ、さっき言った通りに……」
「じゃあわたしが南校舎行くよ。高月くんはこのまま北校舎の残りをお願い」
「分かった。終わったら手伝いにいく」
こく、と頷き返して扉の方へ向かおうとしたとき「日南」と背中に呼びかけられた。
振り向くと、彼が歩んでくる。
「これ持ってけ」
差し出されたのははさみだ。
「心もとないけど護身用に。家庭科準備室の鍵が手に入ったら包丁に替えればいい」
そう言われ、昨晩のことが蘇ってきた。
左胸に沈み込む、冷たい感触とあの激痛。
「何、を……」
「いざというときは殺せ。乾でも、柚でも」
「え……っ!? そ、そんなことできるわけない!」
「やるしかないだろ。成瀬の言う通り、残機に余裕がないんだ。綺麗ごとばかりも言ってられない」
どく、と強く打った心臓が痛かった。
いまは刺されていないはずなのに。
高月くんほどの冷徹さを、わたしは持ち合わせていない。
だからそう簡単には割り切れないし、受け入れられない。
でも、思考は混乱に飲まれきってはいなくて、彼の言葉の意味をちゃんと理解していた。
柚は夏樹くんへの報復、それと残機の奪還、夏樹くんは奪った残機の保持(むしろ増やす)をそれぞれ目論んでいるとすると、果たすまでわたしたちとは協力しないだろう。
それどころか、邪魔をしてくるはずだ。
というより、わたしたちまで餌食になる可能性がある。
特に夏樹くん。
もし彼が見つけるなり奪うなりして屋上の鍵を手に入れてしまうと、最上階で待ち伏せて、自分たちに襲いかかってくるかもしれない。
残機は5以上増やせるのかもしれない。
残機を増やしたって根本的な解決にはならないと分かっているはずだけれど、きっと誰より残機に囚われているのは彼だ。
目先の“生”に縋って執着しても無理はない。
「…………」
渋々、はさみを受け取った。
もし使うとしたら本当に“いざというとき”だけだ。
身を守るためにやむを得ないときだけ。
「またあとで。気をつけろよ」
「……ありがとう。高月くんも」
あたりを警戒しながら廊下へ出る。
ぎゅ、とはさみを握り締めた。
どうか、使わなくて済みますように────。
「!」
ふと、壁に光が当たって息をのんだ。
職員室前の壁、その一部分に、塗料をぶちまけたみたいに鮮やかな血の跡が広がっている。
ちょうど目線の高さくらいだ。
そこから垂れた血が、床にも染みを広げていた。
(まさか……)
あの化け物が何かをしていた痕跡だろうか。
何を、と考えかけてすぐにひらめく。
恐らく、頭を打ちつけていたのだ。
何度も何度も何度も何度も、狂ったように笑いながら。
ぞっとした。
その様を想像し、悪寒が止まらなくなる。
わたしは逃げるようにその場をあとにすると、南校舎側へ駆けていった。
東階段を通り過ぎ、まずは一番端である保健室へ向かう。
そのときだった。
「ねぇ」
ふいに声をかけられ、驚いて肩が跳ねる。
身を硬くしながら振り向いた。
「……柚?」
いつもの彼女らしくない、感情の乏しい無機質な声色だった。
訝しく思いながら照らすと、階段から柚が現れる。
「夏樹知らない?」
彼女の姿を見て、一瞬ぎょっとした。あの化け物が現れたのかと。
「柚、それ……っ」
顔にも制服にも真っ赤な血飛沫を浴びている。
怪物の手形みたいな返り血が、濃くべったりと染みていた。
彼女が緩慢とした動きで腕をもたげ、逆手で握り締めている包丁を見下ろす。
光を弾き、鈍色にぎらついた。
「刺そうと思ったんだけど……逃げられちゃった」
ゆったりとした口調が、常軌を逸していることを如実に示す。
いまの柚は箍が外れている。
ぞくりと背筋が凍えた。
「あんなんでもやっぱ力強くてさぁ、死ぬ気で抵抗されて。包丁奪われそうになったから適当に振り回したら、たまたまあいつの首が切れて。……でも、逃げられた」
自嘲でもするかのように力なく笑っていたけれど、ふとその顔から表情が消える。
温度が抜け落ちる。
「ねぇ……夏樹、知らない?」
その問いが繰り返される。
低めた声に込もっている明確な殺意を肌で感じ取った。
冷ややかなのに滾るような、射るほど鋭い眼差しに怯んでしまう。
「柚……」
「聞いてる? 知ってんだったら教えてよ。あたし、殺さなきゃなんないの……あいつだけは絶対。殺す。殺してやる……」
うなるような調子でうわ言みたいに繰り返し、きつく包丁の柄を握り締めている。
憎悪に歪んだ表情を目の当たりにして、気圧されながらも悲しくなった。
「……やめようよ、もう」
つい口をついてこぼれる。
すると、ぴた、と柚の動きが止まった。
「お願い。殺し合いとか、もうやめて……。協力しようよ」
「…………」
必死の思いでそう訴えかけると、少しの間黙り込んでいた彼女が一歩踏み出した。
つかつかと歩み寄ってくる気迫が恐ろしくて、思わずあとずさる。
「ゆ、柚……」
とん、と背中に壁が当たった。
目の前まで迫ってきた柚が、包丁を振り上げる。
「……っ」
ぎゅ、と目を瞑った。
だけど、覚悟したような痛みや衝撃は一向に訪れない。
恐る恐る目を開ける。
すぐ真横に鋭い色が見えた。刀身だ。
先端はわずかに壁に埋まっている。
「……邪魔しないで」
それだけ告げると、包丁を引き抜いてこちらに背を向ける。
念を押すような恨みがましい視線を残し、漂うみたいな足取りで闇に溶けていった。
夏樹くんを見つけたら、不意をついて襲撃するつもりでいるんだ。
だから明かりをつけないで彷徨っているんだ。
そんなことに気がついて、でもそれ以上は何も言えなくて、わたしはずるずるとその場にへたり込んだ。
(わたしの知ってる柚じゃない……)
今回はたまたま助かったけれど、きっと二度目はない。
邪魔をするならわたしでも殺す。
去り際の眼差しはそういう意味だ。
右手に重みを感じた。
はさみを持っていたことをいまさら思い出す。
これを使おう、なんて発想は一瞬たりとも湧いてこなかった。
「もう、嫌……」
掠れた声で呟くと、はさみを放って投げ捨てた。
カシャン! とどこか闇の中で何かにぶつかった音がする。
(何でこんなことになっちゃったんだろう……)
──ジリリリリリリ!
唐突に非常ベルが鳴り響いた。
反響具合からして恐らくこの階じゃない。吹き抜けから聞こえているだけだ。
──キーンコーンカーンコーン……
屋上が開けられた。
この早さからして、鍵が見つかったのは4階だろうか。
(逃げなきゃ……)
──ゴォォ……!
轟音が響き、校舎が揺れ出している。
間もなくここも崩落し、奈落へ吸い込まれて跡形もなく消え去ってしまう。
頭では分かっているのに、身体が動かなかった。
ショックが抜けきらなくて、愕然としたまま立ち上がる気力が湧かない。
床についた手に力を込めても、腰が持ち上がらない。
──ゴゴゴゴゴ!
すぐ近くで地響きがした。
お腹の底に響いてくるような重たい音。
横を向くと、奈落が迫ってきていた。
ひびの入った床がものすごい速度で崩れて落ちていく。
押し寄せる波のようだった。
「……!」
気がついたら、全身が浮遊感に包まれていた。
床の感触が消えて、ぶわっと下から強い風が吹いてくる。
なぜかすべてがスローモーションのように感じられた。
あたり一面、深淵の闇だ。
スマホの明かりが瓦礫を照らし出す。
仰いでみると、かなり上に天井が見えた。
それももう半分以上闇に侵食され、奈落へと押し出されていっている。
「……っ」
瓦礫の雨が降り注ぐ中、わたしは目を閉じる。
崩落する校舎とともに常闇を落下していった。