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惨夢  作者: 花乃衣 桃々
◆第二夜
2/8

第2話


「……っ!」


 熱いものに触れたみたいに、びくりと身体が跳ねて目を覚ました。


 一瞬、ここがどこなのか分からなくて戸惑う。


(わたしの部屋……?)


 見慣れた天井に柔らかい布団の質感。

 確かめるように触れながらベッドから下りる。


「あれ……?」


 寝た気がしないけれど眠気なんてなかった。

 それよりも大きな困惑が拭い去れない。


 いったい、いつの間に家へ帰ってきたのだろう?


 昨晩のことはよく覚えている。


 柚や夏樹くんに誘われ、合流した朝陽くんと高月くんも一緒に深夜の学校へ忍び込んだ。


 プールで怪談を試したら本当に幽霊が現れて、わたしたちは校舎に閉じ込められた。


 まず夏樹くんが殺されて、柚や高月くんの安否は分からないまま、わたしも殺された。

 朝陽くんも恐らくは────。


「夢だったの?」


 本当に……?

 思わず怪訝(けげん)な呟きがこぼれる。


 現にいま生きていることを考えると、自ずとその結論に落ち着く。


 目にした残酷な光景も、身体を断ち切った(なた)の感触も激痛も、この上なくリアルだったけれど。


 そんなことを考えていたとき、ふいに左腕に鋭い痛みが走った。


「痛っ」


 慌てて袖を捲り、驚いて目を見張った。


「何これ!?」


 腕の内側に5本の切り傷が刻まれていたのだ。


 どれも3センチくらいの大きさでぱっくりと赤い。

 深い引っかき傷のようだ。


 そのうちのひとつが、シュウ……と小さな音を立てながら消えようとしている。


「い、痛った……っ! なに!?」


 腕をおさえたまま顔を歪めた。


 傷口から煙が上がっている。

 焼け焦げるような激痛がおさまると、やがて跡形もなく傷が消えた。


 ほかの4本に変化はない。恐る恐る触れてもなぜか痛みは感じなかった。


(こんな怪我、いつの間に……)


 まったくもって身に覚えがない。


 それ以前に、そもそもいまのはどういうことなのだろう。

 混乱したまま、腕をまじまじと眺める。


 傷がひとつ、焼けるようにして突然消えた。ありえない現象だ。


「……あ、あれ?」


 そうしているうちに、自分が制服姿であることにいまになって気がついた。


 このまま眠っていたみたいだけれど、しわひとつない。


 だけど、やっぱり着替えた記憶もベッドに入った記憶もなかった。


 戸惑う頭にちらつくのは、あの(むご)たらしい夢のこと。


 腕の傷やそのうちのひとつが唐突(とうとつ)に消えた不可解な現象と関係があるのかもしれない。


 ありえない、そんなわけがない、ただの夢だ────なんて流せないのは、奇妙な違和感が胸の内に巣くっていたからだ。


「昨日の……どこからが夢だったの?」


 そんな自分自身の言葉が(なまり)のように重く心にのしかかってくる。


 もしかしたら実際のところはとっくに寝落ちしていて、学校には向かっていなかったのかもしれない。


 夜に家を出たこと自体が夢だったのかも。


(でもそのことも、そのあとのことも、こんなに細かくはっきり覚えてるのに……)


 ()せない不気味な感覚がぞわぞわと背中を這う。


 夢と現実との境界線が分からなくなっていた。




     ◇




「全員、同じ夢を見た……!?」


 柚が驚きをあらわにそれぞれの顔を凝視する。


 教室で会したわたしたち5人は、何となく窓際に寄って集まっていた。


 あの夢の話を切り出した夏樹くんに柚が同調し、なんと全員がまったく同じ夢を見ていた、ということが判明した。


 真夜中の校舎に閉じ込められ、鉈を持った幽霊に殺される悪夢を。


「“これ”も……みんな同じ?」


 わたしは袖を捲り、腕を差し出して見せた。

 鮮やかな赤い切り傷が4本刻まれている。


「同じだな」


「ひとつ消えたよね? めちゃくちゃ痛かったんだけど」


 どうやらその点まで共通しているようだった。

 こうなった以上、あの夢と腕の傷、それらが無関係だとは言えない。


「夢じゃ、なかった?」


 単なる夢なのだとしたら、こんなふうに現実に影響を及ぼすなんておかしい。ありえないことだ。


「いや、夢は夢でしょ……。だってほら、死んだのに生き返ってるし」


 それは確かにそうだ。

 夜の出来事そのものは、やっぱり現実ではない。




 くしゃりと髪をかき混ぜた夏樹くんが、いらついたようなため息をついた。


「マジで最悪……。死ぬって、あんな痛くて苦しいんだ。いまも何か気持ち悪いし」


 お腹のあたりを押さえながら言った彼の顔色は確かに悪い。


 その悲惨な遺体と自分の死に際を思い出し、わたしも思わず眉を寄せてしまう。


 夢の中では痛覚(つうかく)がない、なんて誰が言ったんだろう。


 身体を真っ二つに切断されたあの感覚と激痛は、生々しく染みついて残ったままだ。


「……それな。何が“願いを叶えてくれる”よ」


 神妙(しんみょう)な顔で柚が腕を組む。

 やっぱり、あの夢自体はその怪談と関係しているんだ。


 水面に姿を映すことは、あの幽霊を呼び出すトリガー。


 ただし、彼女は願いを叶えてくれる存在ではなくて、殺そうとわたしたちに襲いかかってくる……。


「元はと言えばおまえのせいだろ」


 顔を上げた夏樹くんが不機嫌そうに柚を睨んだ。


「おまえのせいで俺は殺されたんだよ!」


「はぁ? あたしだってあんなことになるなんて知らなかったし! てか、あたしも殺されたんですけど」


 彼女は同じ調子で夏樹くんに向き直る。


 ただでさえ不可解な状況に(おちい)り、ふたりとも精神的な余裕を失っているのが目に見えて分かった。


「んなもん当たり前だろ、おまえがあの化け物呼び出したんだから!」


「あんただってノリノリだったじゃん! 人のせいにしないでよ」


「ち、ちょっとふたりとも……」


 口論が喧嘩へと発展しそうな勢いで、わたしは慌てて割って入る。


 それでも怒りを宿したふたりの眼差しはお互いのことしか捉えていなくて、余地を見出せなかった。


 その火の粉を浴びるのが怖くて、ただおろおろと見比べることしかできない。


「まあまあ」


 (とが)った空気をものともしない柔和(にゅうわ)な声が降ってくる。


 一歩踏み出した朝陽くんが、文字通りふたりを分かつようにして立った。


「そんなこといまさら責め合ってたってしょうがないって。どっちの言い分も本当のことでしょ」


「それは……まあ」


 反論しかけた柚だったけれど、勢いを()がれて気まずそうに顔を逸らした。


 最初に怪談の話をして“試してみよう”と言い出したのは確かに彼女だし、夏樹くんがそれに乗ったのも事実。


「俺たちもさ、最終的には自分の意思で乗っかったわけだし。誰かひとりの責任ってことはないんじゃない?」


 わたしや高月くんを一瞥(いちべつ)してから、ふたりに向き直った朝陽くんはそう続ける。


 柚と夏樹くんの顔から毒気が抜けていくのが目に見えて分かった。


「……そう、だな。まあ、もう終わったことだし」


 ばつが悪そうに後頭部をかき、夏樹くんが言う。


「悪い、柚。八つ当たりして」


 それを受けた彼女は口端を結び、ちら、と夏樹くんの方を窺いつつ告げた。


「……あたしも、ごめん」


 その様子を受けてわたしは驚くと同時に、素直に感心してしまう。


(……すごい、朝陽くん)


 彼がいなかったら、ふたりが仲違いするのをなす(すべ)なく見ていることしかできなかった。


 よかった、そんな事態にならなくて。

 ほっと息をつくと、朝陽くんも気を抜いたような笑みをたたえていた。


「────“もう終わったこと”か? 本当に」


 ひときわ鋭い高月くんの声が空気を揺らす。


 それまで沈黙を貫いていただけに、なおさら重々しく感じられる。


 彼は真剣な眼差しで自身の腕の傷を眺めていた。

 わたしたちの注目を集めた上で顔を上げる。


「むしろ始まったところなんじゃないか」


 その言葉にどきりとした。

 一気にかき立てられた不安がうごめく。


「……なに言ってんだよ、朔。もう十分怖い思いしたじゃんか」


「そうよ。あの怪談はでたらめで、願いを叶えてもらえるんじゃなくて“悪夢を見せられる”ってのが実態だった。そんで全員殺される悪夢を見た! それで終わりでしょ?」


 そんな夏樹くんと柚の言葉を信じたいけれど、それでは腑に落ちない部分が残っている。


 そしてそのことを、たぶんふたりとも頭のどこかではちゃんと理解しているはず。


「だったらこの傷は何なんだ」


 高月くんは腕を掲げ、現実を突きつけた。


 鋭い4本線を目の当たりにし、口を閉じるほかなくなる。


「僕たちはきっと(とら)われた」


 彼はゆっくりと腕を下ろし、袖を戻す。


「囚われたって……何に?」


「さあ。あの悪夢か、化け物か、どっちにしても続くってことだ」


 昨晩のような、恐ろしい夢が。

 あるいは殺される日々が、という意味だろう。


「何でそう思うの?」


「……この傷が何なのか考えてた。ひとつ減った意味も」


「で……分かったわけ?」


「可能性はふたつだ。ひとつは日数。5日間というタイムリミットが(もう)けられてるのかも」


 確かにありうるかもしれない。

 何のためのリミットなのかは、いまのところ全然分からないけれど。


「もうひとつは、残機(ざんき)


「残機? って、ゲームとかの?」


「そう、プレイヤーストックのことだ。つまりは“死”が許される回数」


 心臓が沈み込むように鳴った。


 昨晩、実際に殺されて、以前よりも“死”というものが身近になった。


 想像じゃない。身をもって経験して、その単語の重みに身震いしてしまう。


「夢の中で、あと何回死ねるか……」


 気づけば小さく呟いていた。

 高月くんが「ああ」とこともなげに頷く。


「ちょっと待てよ。じゃあ、またあの夢を見る羽目になるってことか?」


「そういうことだ」


「何で……。俺もう昨日殺されたじゃん!」


 夏樹くんが蒼白な顔で喚いた。


 あの苦痛を思えば無理もない。どうしたって何度も耐えられるものじゃない。


「じゃあ、つまり……5日経つか5回死ぬまで、俺たちは悪夢から解放されない?」


 朝陽くんの言葉に、高月くんは「恐らくな」とまたしても淡々と首肯(しゅこう)した。


 感情を失ったロボットみたいだ。

 どうしてそうも冷静でいられるのか分からない。


「嘘でしょ……。とんだクソゲーじゃん」


 顔を歪めた柚は頭を抱える。


 わたしも言葉を失ってしまい、目眩(めまい)を覚えた。


「だけど、()()()()に待ち受けてるのはきっと……“救済”なんかじゃない」


 そこで初めて高月くんの表情が変わった。

 眉を寄せ、いっそう険しい顔つきになる。恐れの潜む気配があった。


 “そのあと”というのは、腕に刻まれた切り傷がすべて消えたあと、ということだろう。


「リミットを迎えたら、それか残機を失ったら、きっともう生き返れない。というか目覚められない」


「そのまま、本当に死ぬ……」


 ぞっとした。

 言い知れない恐怖心が背中を滑り落ちていく。


「いや……いやいやいや! そんなんありえねーって。な?」


 笑みを浮かべて余裕ぶろうとしている夏樹くんだけれど、青ざめた顔は引きつっていて正直だった。


 同意を求めるようにわたしたちを見回したものの、誰も声を上げられなかった。


「ちょ……。何だよ、そのリアクション! たまたま……そう、たまたま5人全員がおんなじ夢を見たって可能性もあるだろ!?」


 もちろん、ないとは言えない────けれど。


「そうだとしたら、やっぱり腕の傷に説明がつかないだろ」


 高月くんの言う通り、腕の傷の存在があらゆる希望的観測を打ち砕いてしまう。


「受け入れるしかないんだよ。あれは……ただの夢なんかじゃない」




     ◇




 あの悪夢が現実とリンクしている可能性。


 それを(しん)に受け止めても、能動(のうどう)的に向き合う気にはどうしてもなれない。


 高月くんの言葉が正しいとは思う。分かっている。

 だけど、怖い。


 このままじゃ、何もできずに死んでしまうということだ。




 ほとんど(うわ)の空で授業を受け、昼休みを迎えた。


 わたしたちは朝のように集まって机を囲む。


「今夜も強制的にあの夢を見て、閉じ込められるってことだよね。化け物がうろついてる校舎に」


 箸を持つ柚の手は震えていた。


 彼女だけじゃなく、全員の表情が暗く沈んでいる。


「……そうだね」


「でもさ、どうしろっていうの? 外にも出られないし……あの化け物を倒せってこと? あんなばかでかい鉈持った幽霊を!?」


 昨晩のことを思い返してみた。


 自在にワープして、わたしたちを瞬殺した化け物────“倒す”なんてとても現実的ではないように思える。


「いやぁ……無理だろ、あんなの」


 夏樹くんも同じことを思ったのか、顔をしかめて苦い表情を浮かべた。


「じゃあ何? どっかから脱出できるってこと? 外がないのに」


「屋上……かも」


 わたしは言った。

 どうしても自信なさげな声になる。


「屋上?」


「あ、そうそう。俺と日南(ひなみ)で教室行ったらさ、黒板に書いてあったんだよ。“飛び降りて死ね”って」


 思い出したように朝陽くんが言った。


「“死ね”!?」


「うん、それで……何かあるかもって思って成瀬くんと屋上を見にいったの。でも鍵がかかってて」


 そう続けたわたしに、柚が困惑した顔を向けてくる。


「いや、けどだめじゃん。“死ね”って……飛び降りたら死ぬんじゃ、屋上に出られても意味ないし」


「飛び降りなくてもどうせ殺されるだろ……」


 怯えたように夏樹くんも同調する。


「試す価値はあるんじゃないか?」


 高月くんの言葉に勢いよく柚が顔を上げた。


「本気で言ってんの!?」


 頭の中に、目の当たりにした深淵(しんえん)の闇が蘇る。


 試しに投げた夏樹くんのスニーカーは奈落(ならく)の底へと真っ逆さまだった。


 たとえば屋上へ出られたとして、そこから飛び降りても、結局はそうなって死んでしまうんじゃないだろうか。


 その可能性は大いにあると言えるだろう。

 “飛び降りて死ね”という文言からしても。


「片っ端から可能性を確かめてくしかないだろ、どのみち」


 ……確かにそれもそうだ。


 出口のない隔絶(かくぜつ)された校舎に閉じ込められ、右往左往していても、なす術なく化け物に殺されるだけ。


 そのことは昨晩の時点で思い知った。


「でも、鍵が……」


「校舎内に隠されてる。昨日確かめた」


 高月くんが淡々と言ってのける。


「放送室と職員室は開かなかったが、ほかに開いてる教室があった。そこで音楽室やら3-Eの教室やらの鍵を見つけたんだ」


「つまり、屋上の鍵もそうやって探せってことか」


 朝陽くんの口にした結論には、誰も異議を唱えなかった。


(やっぱりそうだったんだ)


 昨晩の段階での高月くんの仮説は、恐らく正しかった。


「……ってことはさ、職員室の鍵見つければいいの?」


「あー、確かに! 鍵ならぜんぶ職員室に置いてあるもんね」


 そんな単純な話なんだろうか。


 音楽室や各教室の鍵が隠されていたことを思うと、屋上の鍵も校舎内のどこかから探し出さなければならない、という方が自然な気がする。


 だけど、声には出せなかった。

 せっかく希望的な可能性へ向かいかけているのに、空気を壊したくない。


「そういえばさ、おまえらあのあとどうなったの?」


 ふと思いついたように夏樹くんが言う。


「あたしは追われて逃げたけど……結局捕まって鉈で真っ二つ」


 柚は肩をすくめて答えた。


 正確なタイミングは分からないけれど、あの静けさはそういうことだったみたいだ。


「わたしも追い詰められて……殺された」


「俺も同じ」


 朝陽くんが頷く。

 きっと、わたしが死んだ直後に────。


「僕は……」


 高月くんは一旦言葉を切り、視線を落とした。


「チャイムが鳴って、いきなり床が抜けた。それで1階ごと落ちて……気づいたら朝だったんだ」


 予想していた通りだったとはいえ、改めて言葉にされると恐ろしいものだった。

 想像しただけで足がすくむ。


「こっわー……。何それ、どういうこと?」


「そのときだけど、最初のチャイムから1時間経ってた。たぶん、1時間ごとにチャイムが鳴って、1階ずつ崩れてくんだと思う」


 朝陽くんが硬い声で推測を口にした。


 1時間に一度、ワンフロアが崩落する。

 恐らく1階から順番に消え去っていくのだ。


「じゃあ鍵探すにしても1階からってことか」


「基本はそうだが、1階の教室が施錠(せじょう)されていて、その鍵は2階以上に隠されてるってこともある」


「確かに……。それに、崩れたらそのフロアはもう探せないってことだよね。回収できなかった鍵も一緒に落ちてっちゃう」


「うわ、なら急いで探さないとやばいじゃん!」


「効率よく回ってかないとだな。じゃないと、最終的に屋上前まで追い詰められて殺される……」


 わずかに沈黙が落ちた。


 “正解”は分からないままだけれど、時間は止まってくれない。


 きっと、みんなが同じことを考えている。

 現実感が現実に追いついた。


「怖いけど……手分けするしかないよね、鍵探し」


 タイムリミットがある以上、時間も人手も無駄にはできない。


 死んだとしても、あくまで夢の中の出来事だから、と割り切るしか────。


 あんな苦痛、もう味わいたくなんてないし、腕の傷がリミットであると仮定すると何度も死ねないのだけれど。


「校舎は4階建てで、あと屋上があるから……ぜんぶが崩れ去るまでには5時間ある!」


「実質4時間だよね。4階が崩れたらどのみち屋上には出られない」


「4時間でも十分じゃね? 思ったより時間ありそー」


 夏樹くんの顔に余裕の色が戻った。


「でもさ、こんな広い校舎から、こーんなちっちゃい鍵を探し出すんだよ?」


 柚が身振り手振りを使って反論した。

 大きく手を広げてから、指先をすぼめる。


「何の手がかりもないし、簡単じゃないよね……」


「しかも徘徊(はいかい)してるあの化け物から隠れながら、だろ?」


 肩をすくめたわたしに朝陽くんも同調した。


 そうだ、何よりその化け物が阻害(そがい)してくる。存在だけで。


 いまは冷静でいられるけれど、いざあの真夜中の校舎に放り込まれたら、そして化け物に追われたら、正気を保っていられる自信はない。


「じゃあ……分担決めとく?」


「俺、上の方がいい!」


 高月くんの話を聞き、床が抜けて崩れ落ちる想像をして恐れをなしたのだと思う。


 そんな夏樹くんの希望もあり、1階は朝陽くんと高月くん、2階はわたしと柚、3階を彼が探索することになった。


 彼はひとりきりになることにもごねたけれど、下の階層の人手を削るわけにはいかず、渋々引き下がったようだ。


「別れる前に、一応職員室確かめとかない?」


「そうだね。昨日みたいに全員同じ位置から始まるか分かんないけど……ばらばらだったら職員室前に集合しよ」




     ◇




 放課後、朝陽くんと柚と3人で帰路についた。


 夏樹くんは部活へ行き、高月くんは“塾があるから”と先に帰ってしまったのだ。


「ねぇ。一応さ、寝る時間合わせといた方がよくない?」


 何気なく放たれた柚の言葉にはっとする。


「確かに! タイミングがずれたらみんなと会えないかも……」


「てか、そもそも“夢”ってことはさ、眠らなければ見ずに済むってことじゃないの?」


 つまり、殺されずに済む────。

 朝陽くんの言うことは十分にありえそうだった。


「ま、でもまだ今夜もその夢見るって決まったわけじゃないからねー。あれだけ色々話したけど」


 柚は「だから」と続ける。


「確かめる意味でも今日は寝てみるべきかなって」


 わたしは口をつぐんだまま視線を落とした。


 みんなであれこれ考えたけれど、結局すべて憶測だ。

 確かなことなんて全然ない。


 いくら夢の中でも死にたくなんてない。

 だけど、リミットが存在するのなら、嫌でも積極的にならざるを得ない。




 やがて岐路(きろ)にさしかかると、足を止めた柚がわたしたちを振り返った。


「じゃあ寝るのは11時ね。ふたりにはあたしから連絡しとく」


「……分かった」


「じゃまたあとで」


 きびすを返した彼女に手を振り返す。


 遠ざかっていく背中を眺めてから歩き出したとき、朝陽くんがぽつりと呟いた。


「何か……すごいね、小日向(こひなた)さんって」


 驚き半分、感心半分、といった具合だ。

 わたしは小さく笑う。


「うん、そうなの。柚っていつも明るくて強いんだ」


 初めて話したときから、内気なわたしとはまるで正反対だった。


 さっぱりしていて、きらきらの笑顔が眩しい、向日葵みたいな女の子。


 何事にも臆することのない強さを、いつでも遺憾(いかん)なく発揮していた。


「────日南は変わってなさそう」


 ふとこぼされたひとことに、弾かれたように顔を上げる。


 こちらを向いた朝陽くんは、目が合うとふっと笑った。


「……覚えててくれたんだ、わたしのこと」


 図らずも高鳴った鼓動が加速していって、逃げるように目を逸らした。


「当たり前じゃん。……忘れるわけないって」


 そのうち、ちゃんと話したいと思っていた。

 ずっと声をかけたくて、でも勇気が出なくて。


 まさか、こんなことがきっかけになるなんて思わなかった。


(でも……嬉しい)


 もう一度、朝陽くんと話せたこと。

 ようやくちゃんと再会できた。


「……てか、ごめん」


「えっ、何が?」


「昨日、昔みたいに呼んじゃった。名前で」


 どき、と心臓が跳ねる。


『花鈴……っ!!』


 とっさだったり追い詰められたりしてのことだったとはいえ、その声はよく耳に残っていた。


「全然気にしないで、謝らないでよ!」


「本当? 馴れ馴れしくなかった? きもって引かれてたらどうしよう、って俺……」


「引かないよ! ……むしろ、わたしはその方が────」


 ふいに喉が詰まって言葉を切った。


 自分でもびっくりするほど正直な気持ちを言いかけてしまって、はっと我に返ったのだ。


 だけど、遅かった。


「……その方が、なに?」


 朝陽くんの窺うような眼差しに捕まる。


 何気なく、でもそれでいて何かを期待するような色が滲んでいた。


 勘違いしそうになる。

 過去に閉じ込めたはずの想いが、淡く光り始めて。


「……嬉しかった」


 観念(かんねん)して続きを口にした。

 頬が熱くなる。


 名前で呼んでもらえて嬉しい、なんて、彼を意識していると告げるも同じに思えて照れくさい。


「……俺も」


 ややあって、彼の声が降ってきた。


「え」


「俺も嬉しかった。“朝陽”って呼んでくれたの」


 その言葉通り頬を緩めながら、噛み締めるように続けられる。


「……わたし、呼んだっけ?」


「覚えてない? まあ、状況は最悪だったからなぁ……」


 もしかすると死の間際、ほとんど無意識のうちに呼んでいたかもしれない。


 あまりの苦痛でそのあたりの記憶が曖昧(あいまい)になっていた。


「でも、いいや。それならもっと呼んでよ、名前で。昔みたいにさ」


 そう言った朝陽くんの笑顔が、小さい頃に見たそれと重なった。


 数年ぶりにまともに話して、どう接するべきか緊張していた部分もあったけれど、お陰で随分と和らいだ。


「……うん、朝陽くん」


 気恥ずかしい気持ちをおさえ、頷きつつそう呼んでみた。


 心の中では平気で呼べるのに、いざ声に出すとちょっと小さくなってしまう。


「ありがと、花鈴」


 柔らかい声色が耳に届くと、どくん、と心臓が大きく打った。


 気持ちがあふれてきそうになって慌てて飲み込む。


 どうやらわたしの初恋は、まったく()せていないみたいだ。

 それどころかますます鮮やかに色づいていく。


「な、何か懐かしいね。あのときもこうして、ふたりで一緒に帰ったりしたっけ」


 誤魔化すように笑いながら言った。


「したした。それで男子たちにからかわれたりとか……花鈴、あれ嫌じゃなかった?」


「え、と……」


 確かに恥ずかしいような照れくさいような居心地の悪さは感じたけれど、それ以上に嬉しかった。


 朝陽くんと一緒に帰れることが。

 彼の隣を歩けることが。


「嫌じゃなかったよ」


 さすがにそこまでは正直に言葉にできなくて、ただそう答えるに留まった。


「マジで? じゃあ……よかった」


 朝陽くんはどうだったのか、とは聞くまでもなかった。


 その横顔は優しくて、浮かべた笑みは穏やかで、くすぐったい気持ちになる。


 もしかすると、あのとき想いを伝えていたら、わたしたちはいまとは違う関係性になっていたのかもしれない。


(……なんて、期待しすぎかな?)


 だけど、そうだったとしても、いまの距離感もわたしにとっては心地いいものだった。


「ねぇ、覚えてる? 帰り道、猫についてって遠くまで歩いたよね」


 朝陽くんが懐かしむような口調で切り出す。


「猫?」


「そう、影みたいに真っ黒な猫。花鈴が“どこまで行くんだろう”って言ったから、俺が“ついてってみよう”って」


 わたしは前を向くと眉を寄せた。


 懸命に記憶を辿ってみたけれど、どうにも思い当たらない。


「それで、気づいたら全然知らないとこにいて、心配して捜しに来てくれた親たちにふたりでめっちゃ怒られたの」


 その光景を想像することはできても、思い出すことはまったくできなかった。


「そんなことあったっけ……?」


「……うそ、忘れちゃった?」


 朝陽くんが驚いたように目を見張る。


 飛び抜けて印象的な思い出ではないかもしれないけれど、特別な出来事ではあるように思う。


 それなのに一切覚えていないなんて、自分でも驚くと同時に悲しくなった。


「……ごめん、何でだろう」


「だいぶ前のことだからなぁ。たぶん、花鈴は覚えてるけど俺は覚えてないって思い出もあるはずだよ」


 思わず戸惑いをあらわにしてしまったものの、朝陽くんはこともなげにそう言ってくれた。


「まあ、とにかくそういう思い出話はさ、色々乗り切ってからにしよっか」


 その“色々”はもちろん、あの夢のことを指しているのだろう。


 気のせいだと分かっているけれど、腕の傷が(うず)いた。


「……うん、そうだね」


 分からないことは分からないままでも、奇妙な状況に既に(おちい)っている。


 過去を懐かしんでいる余裕も本当はない。


 眠らなかったらどうなるのか、とか。

 全員が別のタイミングで寝たらどうなるのか、とか。

 日中に眠ったらどうなるのか、とか。


 色々、気になることはたくさんある。


 けれど、柚の言っていた通り、ひとまず下手なことはするべきじゃない。

 大まかにでも掴めるまでは。


 そもそも試すには勇気が足りないし、リミットがある以上、殺されてしまっては取り返しがつかない。




     ◇




 ──キーンコーンカーンコーン……


 重々しく不気味なチャイムが鳴り響き、はっと目を開けた。


 周囲は真っ暗で、目を()らしてもすぐ真ん前のあたりしか捉えられないけれど、誰かの気配が感じられる。


 恐る恐る伏せていた顔を上げた。


 確かにベッドで眠ったはずだけれど、いまは机に突っ伏していた。


 ほとんど無意識のうちにポケットに手を当て、スマホを取り出す。


「あ……」


 流れるような動作をしてから気がつく。

 部屋着だったはずなのに、制服を身につけていた。ちゃんとローファーも履いている。


 ライトをつけつつ、ほかに何か持っていないか探ってみたけれど、持ちものはスマホだけだった。


(ここは……教室?)


 白い光で照らしてみると、確かに見慣れた教室の風景が飛び込んできた。


 わたしは自分の席で眠っていたようだ。

 静かに椅子を引き、立ち上がる。


 ライトを周囲に振り向けると、4人の人影を見つけた。


「ん……?」


 そのうちのひとつ、朝陽くんが小さくこぼす。


 そろりと起き上がり、ライトの、というかわたしの方を向いた。

 彼の顔に当てないよう、急いで光を下に向ける。


「あれ、花鈴……? ここは……」


「教室、だよね。……たぶんもう始まってる」


 硬い声で告げると、彼ははっとした顔になる。

 音を立てないよう慎重に立ち上がった。


 ふたりでほかの人影、柚と夏樹くん、高月くんを起こしに向かう。


 それぞれも一様に、自分の席で机に伏せるようにして眠っていた。


「うわ、マジだ……」


 夏樹くんが明かりを黒板に向けて照らした。


 “飛び降りて死ね”。


 昨晩と同じ言葉がチョークで殴り書きされている。


「外も……やっぱ地面ないね」


 窓から見下ろした柚が呟く。


 校舎はやはり、深淵(しんえん)の暗闇にぽつんと浮かび上がっているみたいだ。

 今いる本校舎以外が消え去っている。


 そういえば最初にチャイムが鳴っていたような気がするけれど、今日はあの揺れも轟音(ごうおん)もなかった。


 外側の崩落はきっと昨日のままなのだ。


(いまは……)


 時刻を確かめようと壁かけ時計を見上げて驚いた。


「えっ」


 長針も短針も秒針も、ぐるぐるとでたらめに回り続けている。

 完全に狂ってしまっていた。


「……気味悪いな」


 引きつったような声で高月くんが呟く。


 スマホの方で確かめてみると、深夜0時を過ぎたところだった。


 自室のベッドで目を閉じてすぐの感覚だったけれど、そんなに経っていたのだろうか。


 それとも夢の世界は時間の流れがちがう?


「……本当に始まったじゃん。また、悪夢が」


 やっとそのことへの実感が湧いた、といった様子で夏樹くんが呟く。


 朝の時点で高月くんが言っていた通りなのかもしれない。


 わたしたちは囚われた。

 悪夢はまだ、始まったばかり────。


 そんなことを思ったときだった。


 ──ピシ……


 硬い奇妙な音がした。


「え、なに……?」


 みんなの耳にも確かに届いていたらしく、各々が緊張したように身構える。


 不安気にあたりを見回した、そのとき。


 ──パリィン!


 けたたましく甲高い音が頭上から響いた。


「危ない」


「伏せろ!」


 何が起きたのか、誰がそう叫んだのか、はっきりとは分からなかった。


 ほとんど反射で身を縮め、言葉通りにする。


 床に屈んだとき、誰かの影がわたしに覆い被さった。

 背中から腕を回され、肩を抱くみたいにして引き寄せられる。


「……!」


 ──ガシャン!


 ──ガララ……


 激しい音が間近で聞こえた。

 驚いて肩が跳ねる。


 真っ暗な中、スマホの明かりを反射する透明な破片が見えた。


 床に散らばる大小さまざまなそれらを目の当たりにして、ようやく事態が飲み込めてきた。


 落ち着かない浅い呼吸を繰り返したまま、ライトを天井に向ける。


「電気が……」


 突如(とつじょ)としてひびの入った蛍光灯が割れ、落ちてきたのだ。


「何で……? いきなり?」


 困惑と衝撃を滲ませた柚の声を聞き、遅れて皮膚が粟立(あわだ)つ。


 その拍子に身体が感覚を取り戻し、肩のあたりに手が触れていることに気がついた。


 すぐ近くに気配がある。


 半分振り向くようにして見上げると、ぼんやりと朝陽くんの横顔が目に入った。

 不可解そうに天井を見上げている。


「あ、あの……朝陽、くん」


 戸惑いながら小さく呼ぶと、はっとした彼がこちらを見下ろす。


 至近距離で目が合って心臓が跳ねた。


「あ……ごめん!」


 ぱっと感触が消える。

 慌てたように朝陽くんがわたしから離れた。


 図らずも高鳴る鼓動を自覚しながら思い至る。

 彼は、降り注ぐ鋭い破片からとっさに庇ってくれたんだ。


「……なに、あんたらいつの間にそんな仲になったの?」


 柚が(うわ)ついた声色で言いながらわたしたちに光を向けた。

 その眩しさに思わず目を背ける。


「そんなんじゃ────」


「な、なあ。あれ……」


 反論しかけた朝陽くんの声は夏樹くんに遮られた。


 緊迫した様子で再び黒板の方を照らし、震える指先を向けている。


 (いぶか)しみながらその先を追い、思わず息をのんだ。


 “人殺し”。


 ────黒板の文字が変わっている。


 血で書いたみたいに禍々(まがまが)しく、濃い赤色にぞくりと背筋が凍りついた。

 つ……とその血がゆっくり垂れていく。


「ひと、殺し……?」


 緩みかけた空気が一気に吹き飛んだ。


「どういうこと……? 何なの、あれ!」


「分かんねぇよ……! てか、どうなってんだよ?」


 それぞれに問いかけるように振り返った柚に、夏樹くんが投げやりに返して混乱をあらわにした。


 確かに意味が分からない。

 言葉そのものも、あの血も────。


 滴っているということは、まさにいましがた書かれたばかりということになる。


 底知れない恐怖が這い上がってきた。

 ……そんなの、ありえない。


「早く逃げた方がいい、かも」


 朝陽くんの言う通りだ。


 先ほど蛍光灯が落下した音はかなり大きく響いていた。


 昨晩のように校舎内を化け物が徘徊(はいかい)しているのなら、それを聞きつけてここへ来るかもしれない。


 それ以前に、あの黒板のありさま……嫌な予感を抱かずにはいられないほど不気味で、いますぐこの場から離れたかった。


「…………」


 素早く扉に寄った高月くんは、耳を押し当てるようにして慎重に音を聞いていた。


 ややあってこくりと頷くと、静かに開けて廊下を見渡す。


「……いまだったら大丈夫だ」


「よし……じゃあこのまま職員室見に行こうぜ」


 ささやくように言葉を交わし、わたしたちは廊下へ踏み出した。




 ライトで照らしながら暗い校舎の中を歩いていく。


 神出鬼没(しんしゅつきぼつ)な化け物が、いまいきなり目の前に現れたら────そんな想像を何度もしては身震いした。


 些細な物音を聞き逃さないよう意識しながら、怯んで立ち止まりそうになる足を無理やり動かし続ける。


「……ふふふ……」


 階段の手前で、不意に不気味な声が聞こえ、ぴたりと反射的に止まる。


「え……?」


「誰か笑った?」


 あまりにもこの状況に似つかわしくない、楽しげな笑い声。

 奇妙すぎて、ぞわりと皮膚が粟立つ。


「あの化け物か……?」


 夏樹くんが震える声で誰にともなく尋ねた。


 電流が流れたみたいに心臓が縮み上がる。


 水の滴るような音も引きずるような音もしなかったのに。

 何より気配もない。


 どこかに潜んで、怯えて狼狽(うろた)えるわたしたちを嘲笑っているのだろうか。


「…………」


 緊張を強めたまましばらく身構えていたけれど、あの化け物が襲いかかってくるような様子は一向になかった。


「……なんだ、脅かすなよなー」


 夏樹くんがほっとしたように息をつき、余裕を取り戻す。


 わたしも安堵しかけたそのとき、ひやりと冷たい空気が身体を撫で下ろした。


「こっち」


 ふいに耳元でささやかれ、息をのむ。

 心臓を直接鷲掴(わしづか)みにされたようだった。


「うわぁっ!!」


「ひ……っ! なに!?」


 夏樹くんと柚が叫ぶ。

 わたしはあまりの衝撃と恐怖で声すら出なかった。


 確かに耳元で聞こえたけれど、どうやら全員同じ目に遭っているみたいだ。


「しっ! 大声出すな」


「ご、ごめん。でも……!」


 慌てたように周囲を確かめる高月くん。


 わたしも耳を澄ませてみると、先ほどまでは聞こえなかった音を拾い上げた。


 ──ぴちゃ……


 ──ズズ……ズ……


 はっと目を見張る。


「来てる……!」


「本当だ」


「やばい、どこ……!?」


 おさえた声で言葉を交わし、あたりを見回した。


 ライトをつけないとまるで何も見えないけれど、つけていたらその明かりで見つかってしまう。


「ライト消せ、早く」


 そう言った高月くんに従い、彼以外の全員が消灯した。


 彼はスマホの点灯部分を手で塞ぎ、最低限の視界を確保してくれる。


「…………」


 息を殺し、じっと身を潜めた。

 激しく打つ心音が耳元で聞こえる気がする。


 ──ぴちゃ……ぴちゃ……


 ──ズズ……


 音の定位(ていい)を測ろうと神経を()ぎ澄ませた。


(上……?)


 そろそろと見上げてみる。

 近づいてくる化け物の音は、踊り場で反響して上方向から聞こえる。


「4階っぽくない……?」


 潜めた声で言うと、高月くんが振り向いた。


「いまのうちに下りよう」


 化け物が下りてくる前に。あるいはワープしてくる前に……。


 踏み出す一歩に集中力を注ぎ、音を立てないように階段を下りていく。


 無意識に息を止めていたようで、目眩(めまい)を覚えた。




 どうにか1階までたどり着くと、再びライトをつける。


 逃げるように階段から遠ざかりながら、何度も後ろを確認してしまった。


(来てない……)


 ワープしてくる可能性はあるものの、ひとまずは脅威(きょうい)からは脱したようだ。

 ほっとする。


「……あー、びびった。何だったんだろ、さっきの声」


 朝陽くんが訝しむような調子で言った。


「“こっち”とか言ってたよね……」


「もしかしてあの化け物を呼んでたのかな?」


「じゃあ、敵はあの化け物だけじゃないってことかよ」


「その可能性はあるけど……あれはおまえらの声で居場所がバレたんじゃないのか」


 いずれにしても、油断ならない。


 あの化け物のほかにも脅威が存在するのなら、ひとときも気を抜けない。




 ────吹き抜けであるために声のボリュームや足音に気をつけながら、逐一(ちくいち)上を確かめては柱の影に隠れて進む。


 時間はかかったものの、無事に職員室前へとたどり着くことができた。


「……いくよ?」


 朝陽くんが取っ手に手をかけ、横に引いた。


「えっ」


 驚いてしまう。

 予想に反して、なんと扉はスライドして開いたのだ。


「あれ……」


 開けた張本人の彼でさえ呆気(あっけ)にとられた様子だ。


 昨晩は確かに鍵がかかっていたはずなのに。思わず目を見交わす。


「開いてんじゃん! よかったー」


「そんじゃ鍵とって屋上行こうぜ」


 素直に喜びをあらわにする柚と夏樹くん。

 その一方で高月くんの表情は晴れず、むしろ険しい顔をしていた。


 職員室の中へ足を踏み入れる。


 机は整然と並んでいるものの雑多な印象を受け、気をつけないとふいに何らかの音を立ててしまいそうだ。


 足元に気をつけながらキーボックスの前へと向かう。

 各教室の鍵はその中に保管してあるはずだ。


 そこにも鍵がかかっているかも、と思ったけれど、なぜか全開に開いていた。


 ただ────。


「……何これ、1個もないじゃん」


 中にかけられているはずの鍵は、ひとつも見当たらなかった。


 残された()き出しの細いフックだけが、スマホの光を受けて影を作っている。


「……やっぱり、地道に探すしかなさそうだな」


 高月くんが腕を組む。


「しかも、開いてる教室と閉まってる教室は毎回ランダムみたいだ」


 それは、何とも無慈悲な事実だった。


 たとえば昨晩の間に高月くんが何部屋か調べてくれたけれど、結局はそれも既に無に()したわけだ。


 昨日は開かなかった職員室が今日は開いていたように、探す必要のある鍵が毎回変わる、ということ。


「何だよ、それ……。じゃあ今日頑張って探し回っても意味ねーじゃん!」


「……いや、意味はあるだろ」


「どんな?」


「忘れちゃだめなのは、俺たちの目的は“鍵を探すこと”じゃないってこと」


 そんな朝陽くんの言葉にはたと思いつく。


「そっか。“脱出すること”だ」


「……そのために、屋上から飛び降りる?」


 心臓がどきどきした。


 雲を掴むようでしかなかった憶測が、何となく明確な輪郭(りんかく)を持ち始めた気がする。


「鍵を探すのは前提。屋上から飛び降りるのは手段だ。僕たちはただ、この奇妙な校舎から生きて脱出すればいい」


 高月くんのその言葉には大いに説得力があった。


「……試すしかなさそうだね」


 柚が言った。

 全員の気持ちを代弁する形で。


 屋上から飛び降りる、という突拍子(とっぴょうし)もない方法で、本当にこの校舎を抜け出せるのかどうか。


「…………」


 空っぽのキーボックスを見やる。

 各フックの上に貼られたラベルの中から“屋上”というものを見つけた。


 当然そこには何もないのだけれど、わたしたちが探すべき鍵はこれだ。


「時間制限がある。のんびりしてる暇はない」


 高月くんがスマホの画面を見つつ言った。


「だな、予定通り分担して探そう」


 時刻は0時20分────1階崩落まで残り40分くらいだ。




     ◇




 柚とともに東階段を上った。

 2階はいまのところ静まり返っている。


「北か南、どっち行く?」


 正直なところどちらも変わらないだろう。


 結局は一周できる造りになっているし、どちらかは行き止まりになっている、とかいうこともない。


 ちがいがあるとすれば、北校舎側は図書室や資料室などの特別室が、南校舎側は各クラスの教室が並んでいるというくらい。


「柚はどっちがいい?」


「あたしはー……どっちでもいいけど、北かな」


「分かった、じゃあわたしが南側探すね」


「うん、またあとで」




 柚と別れ、南校舎の方へ歩いていく。


 怖くない、と言えば嘘になるけれど、とにもかくにも屋上へ出てみたい、という思いが強まっていた。


 飛び降りてどうなるかは分からない。

 だけど、校舎の中に救いはない。


 結局はただ化け物に殺されるか、崩落に飲み込まれて死ぬか、どちらかだ。


 スマホの画面をつける。


(バッテリーは……67パーセント)


 夢の中で目を覚ました当初は100パーセントだったはずだ。


 基本的にずっとライトをつけているせいか、それとも単にこの異空間のせいか、明らかに減りが早い気がする。


 そういう意味でもあまり時間はかけられない。

 唯一の光源(こうげん)を失ったら、鍵を探すどころじゃない。


 この校舎の中では、目が慣れる、ということが不思議とまったくなかった。

 照らしていないと足元さえ見えない。


 窓の外は夜より深い闇で、当然ながら月も出ていないから、校舎内も暗黒に沈んでいるのだ。


 ────2階の南校舎側。


 普段は馴染みのない3年生の教室が並んでいる。

 東階段側の端、G組から順に調べていくことにした。


 階段横にはお手洗いがあるけれど、東側は少しとはいえ北校舎寄りだ。


 こちらは柚に任せて、わたしはあとで西側のお手洗いを見ることにする。


「…………」


 教室の扉に手をかけ、そっと力を込めてみた。


 ──ガタッ


 手応えに阻まれた。

 鍵がかかっているみたいだ。


 教室の中を照らして覗いてみようとしたものの、ガラスに反射して眩しい光を跳ね返され、ほとんど窺えなかった。


(次……)


 諦めて静かに歩を進め、隣のF組へ移る。

 先ほどと同じように扉を引こうと試みた。


(だめだ、開かない)


 ガタッ、と揺れるだけで動かない。

 さすがに動揺してしまう。


(この中に屋上の鍵があったら……)


 それを回収するためには、3年F組の教室の鍵をどこかから見つけ出さないといけない。


 でも、その鍵もまた別の施錠(せじょう)された教室に隠されていたら────。


 そんな途方もない思考に陥りかけ、慌ててかぶりを振った。


 そんな可能性の話を考えていても仕方がない。

 いまはただ、時間を無駄にしないよう動くしかない。


 気を取り直して、続くE組、D組と確かめてみたけれど、どちらも開く気配はなかった。


(本当にどこかは開くんだよね?)


 これじゃそもそも鍵を探す段階にすらたどり着けない。


 焦りそうになる気持ちをどうにかおさえた。


 別にすべての教室を開ける必要はないのだ。

 要は屋上の鍵さえ見つけられればそれでいいのだから。


(次の教室にあるかもしれないんだし……)


 そんなささやかな希望を胸に、C組の扉に手をかける。


(お願い、開いて)


 祈りながら指に力を込めると、ガララ……と静かにスライドして動いた。


「!」


 開いた。

 切実な祈りが通じたようで、ほっと思わず息をつく。


 真っ暗な教室へ足を踏み入れ、ライトの明かりを周囲へ振り向けた。


 一見して何の変哲(へんてつ)もない空間。

 見た限りでは鍵らしきものも見当たらない。


「どこにあるんだろ……」


 隠されているとして、いったいどこに?


 鍵なんて小さなもの、いかようにでも隠すことができる。


 ああ、と思った。

 施錠されていない教室を見つけたら、そこからがまた難関なんだ。


 どこにあるのか、そもそもあるかどうかも定かではない鍵を見つけ出すのは容易じゃない。

 しかもあまり時間もかけられない。


(とりあえず────)


 教室の前方から調べていくことにした。


 黒板や掲示板には変化がない。

 教卓の上にも何もなく、屈んで中を覗いてみたけれど空っぽだ。


 続いてスチール書庫の中を漁り、ゴミ箱もひっくり返してみたものの、なかなか見つからない。


(机、は……)


 教室内を振り向いたとき、端然(たんぜん)たるそれらについ圧倒されてしまった。


 いちいち椅子を引いて中を確かめなければならないため、時間がかかりそうだ。


(でも、やるしかないよね)


 もしこの中のどれかに屋上の鍵が隠されていて、それを見逃して崩落してしまったら、わたしがみんなを殺したも同然だろう。


 気を抜かず、ひとつひとつ照らして確かめていった。


 教科書が置き勉されていたり、プリントがくしゃくしゃに潰れていたり、そんなものは見つかったけれど、目当ての鍵は全然見つかる気配がない。


(大丈夫かな……)


 あまりに見つからないから、次第に不安になってきた。


 この探し方で合っているのだろうか。

 もう既に何かを見落としているのかもしれない。


 息をつき、次の席へと移る。

 音を立てないように椅子を引き、屈んでライトを向けたそのときだった。


「……っ!?」


 ガッ! と思いきり何かに腕を掴まれた。


 突然のことに息をのみ、信じられないで硬直してしまう。


「なに……!?」


 取り落としそうになったスマホを慌てて持ち直し、掴まれた腕の方を照らす。


「え……?」


 心臓が止まるかと思った。

 目を疑う。


 わたしの腕を掴んでいる手は、机の中から伸びていた。

 青白い肌にはまるで生気がない。


(な、何がどうなって……!)


 ぎりぎりと締め上げられ、せり上がってきた恐怖が爆発しそうだった。


「やだ……っ! 離して!」


 及び腰になってしまいながらもあとずさり、必死で振りほどこうともがいた。


 わけが分からない。

 怖い。気味が悪い。


 これもまた、あの化け物以外の脅威ということなんだろうか。


「……っ」


 でたらめに腕を振り、机と反対側に引っ張る。


 やがて、ふいにぱっと解放され、わたしは反動で床に尻もちをついた。


 椅子を巻き込みながら倒れ込んだため、ガタン! と大きな音を立ててしまった。


 けれど、そのことやしたたかに打ちつけた身体の痛みに意識を向けている余裕なんてまったくない。


「はぁ……はぁ……」


 喉がからからに渇いて、息が切れていた。

 心臓は()り切れそうなくらい激しく打っている。


(何だったの……?)


 再び明かりを向けたものの、もう机の中の手は消え去っていた。

 はじめから何もなかったみたいに。────しかし。


「あ……!」


 机の中に入っていたノートの奥に、きらりと光るものを見つけた。


 鍵だ。

 そう気がつくと、先ほどの恐怖も忘れて手を伸ばしていた。


 素早く取り出す。

 今度は手が現れることも掴まれることもなかった。


「……“図書室”」


 プレートの文字を読む。

 屋上のものではなかったけれど、十分な収穫だ。


 ──ぴちゃ……


 ──ズズズ……ズズ……


 ふとそんな音が聞こえ、はっと顔を上げる。


 椅子を倒した音やわたしの声を聞きつけ、あの化け物が寄ってきているのかもしれない。


 心臓が早鐘を打つ。

 浅くなる呼吸を自覚しながら、慌ててライトを消した。


 真っ暗闇の中に放り出され、右も左も分からなくなる。

 思わずその場にしゃがみ込んだ。


 音の出どころを特定されているのなら、本当は移動した方がいいのだろう。


 だけど、この状況で下手に動いたら、見えない机や椅子とぶつかってさらに音を立ててしまうかもしれない。


 わたしは鍵をポケットに入れると、床に手をついた。

 手探りのその感触を頼りに、四つん這いの状態でゆっくり進んでいく。


 ──ぴちゃ……ぴちゃ……


 水音がはっきりと聞こえる。


 ──ズ……ズズ……


 重たいものを引きずるような音も近い。


 わたしは息を殺しながら扉の方向を目指す。


「!」


 ふと指先が何か冷たいものに触れた。

 そのまま手をもたげても感触は消えない。壁だ。


 床に膝をついたまま少し身体を起こし、ぴったりと壁に耳を押し当てる。


 ──ぴちゃ……ぴちゃん……


 ──ズズ……ズズズ……


 間近から聞こえていた。

 いままさに廊下にいる。


 壁越しに化け物の気配を感じ取り、全身が粟立つ。


 嫌でも昨晩の記憶が蘇ってきた。

 見つかったら、鉈で容赦なく真っ二つにされる。


「……っ」


 ぎゅ、と目を瞑った。

 もうあんな痛みと苦しみを味わいたくなんてない。


 お願いだから、早く通り過ぎて。

 わたしに気づかないで。

 どこかへ行って!


 凍てつくような空気の中、ひたすらそればかりを祈っていた。


 ──ぴちゃ……ぴちゃ……


 ──ズズ……ズ……


 かたかたと指先が震え出し、その振動が壁に伝わりそうでひやりとする。


 そっと手を引き、口元を覆った。

 震えながら、落ち着かない呼吸をどうにか押し込める。




「…………」


 そのうち、音は徐々に遠ざかっていった。


(行った……?)


 少なくとも壁の向こうに感じていた恐ろしい気配は弱くなっている。


 手を胸に当て、深々と息をついては、吸って吐いてを繰り返した。


 やけに酸素が薄い。

 だけど、深呼吸を続けるうちにいくらかマシになっていった。


(本当に離れたかな……。早く探さないと)


 目の前の出来事に圧倒されて身動きがとれなくなっていたけれど、少なくとも“状況”に注意を向けられるくらいには冷静さを取り戻した。


 ライトはつけないまま、スマホの画面だけをつける。

 控えめな明かりで扉を照らし、恐る恐るスライドさせた。


 慎重に首を伸ばし、廊下の様子を窺う。


「……!」


 いた。


 左側、西階段のある方向。

 化け物はそちらへ向かっているようで、こちらには背を向けている。


 火災報知器の赤い表示灯に照らされながら、ゾンビのようなぎこちない足取りで歩いている。


 あらぬ方向に折れた首や手足、濡れそぼって滴る水────その不気味な姿は昨晩見た通りだ。


 ふと、手にしている鉈がてらてらと赤く光っていることに気がついた。


(まさか、あれって……)


 血、なのだろうか。

 もしかして、誰かが殺された……?


 頭の中にみんなの顔が思い浮かび、慌てて考えを打ち消した。

 表示灯のせいでそう見えるだけ、きっとそうだ。


 うつむいた顔を上げ、もう一度廊下を覗く。


 突き当たりで足を止めた化け物は、瞬いた瞬間に消えた。


「え……」


 思わず身を乗り出し、(くぎ)づけになる。

 すると。


「あああぁっ! くそ! 何で俺なんだよ!!」


 そんな叫び声が上から響いてきた。驚いて縮み上がる。


 3階にいるのは夏樹くんだ。

 ばたばたと慌ただしく駆ける足音まで聞こえてくる。


(ワープした……)


 昨日もそうだったけれど、あの霊は前触れもなく瞬間移動する。


 接近に気づく手がかりは水音や重たい足音だけ。

 それらを聞き逃さないようにするしか、警戒のしようがない。


「…………」


 ふらふらと戸枠を支えに立ち上がったものの、足がすくんですぐには動けなかった。


 逃げた夏樹くんは無事だろうか。

 ぱったりと音が止んで静かになってしまった。


 だけど……。

 もし、さっき見つかっていたら、わたしもああして追われていた。


(怖い。……もう嫌だ)


 不安定な呼吸と拍動(はくどう)が、また平静さを奪っていく。


 よかった、なんて思えないけれど。

 一時的ではあるかもしれないけれど。

 少なくとも、わたしは助かったんだ……。


 そう思ってしまい、自己嫌悪に陥りそうだった。

 自分のことしか考えられなくて嫌気がさす。


 ポケットの上から鍵を握り締めた。

 早く見つけなきゃ。できることはそれしかない。


 どうにか自分自身を(ふる)い立たせる。


 スマホのバッテリーは54パーセント。

 そろそろチャイムが鳴る頃だ。


 ライトをつけ、廊下に出る。


 ──ジリリリリリリ!


 突如として鳴り響いた非常ベルの音に、びくりと肩が跳ねた。


「え……? なに?」


 昨晩はこんなことなかった。


 誰かが間違えて押してしまった、とか?

 下の方から聞こえる気がする。


 弾かれたように歩み出て、吹き抜けの手すりを掴んだ。


 身を乗り出してみると、人影が廊下を駆け抜けていった。


(誰……?)


 その後ろを、あの化け物が追っている。


 先ほど見たゾンビみたいな動きじゃない。

 すぅっと漂って流れるようで、恐らく床から浮いている。


 3階で夏樹くんを追ったあと、いつの間にか1階へワープしていたのだ。


「来るな!!」


 突然響いてきたその叫び声にはっとした。

 追われているのは朝陽くんだ。


 騒々(そうぞう)しい足音が続く。

 どうやら東階段の方を駆け上がっているらしい。


「朝陽く────」


 とっさにそちらへ向かいかけ、なけなしの理性が働いた。

 お陰でぴたりと足が止まる。


 行ったところで化け物と鉢合わせて殺されるだけだ。

 わたしに助けることなんてできない。


(でも、どうしよう……)


 分かっている。

 これはただの夢。


 実質、死んでも目覚めれば生き返っている。


 リミットがあるとしても、今夜の死はまだ引き金にはならない。

 本当の“死”へ直結することはない。


(だけど……)


 煮え切らないで足止めを食らっていると、ふいにスピーカーがノイズを発した。


 ──キーンコーンカーンコーン……


 不気味で耳障りなチャイムが鳴る。

 1時間が経過し、1階が崩落する合図。


 ──ゴォオオ!


「!」


 校舎が揺れ、轟音が鳴り響く。


 けたたましい非常ベルの音と合わさって、気が狂いそうになる。


 手すりを掴んで、踏みとどまるべく足に力を入れた。

 1階を見下ろしてみる。


「わ……」


 西側からものすごい速度で床が抜け、瓦礫(がれき)と化した校舎が深淵の闇に吸い込まれていく。


 何とも恐ろしい光景を目の当たりにし、目を見張って息をのんだ。


「花鈴!」


 唐突(とうとつ)に呼ばれ、反射的にそちらを向く。


 血相を変えて走ってくる柚の姿があった。


「柚……! 無事────」


「走って! いいから早く!」


「えっ?」


 廊下の先を指し示しながら、柚はわたしの横を通り過ぎて駆け抜けていく。


 わけが分からずに彼女の背を呆然(ぼうぜん)と見送りかけたものの、すぐそばから轟音を聞いて慌てて振り返った。


「!?」


 いましがた柚のいた西側の廊下が、ガラガラと崩れ落ちていっている。


 チャイムは一度しか鳴っていないのに、なぜか2階の崩落も始まっているようだった。


 床を蹴り、柚を追って駆け出す。


「どういうこと!? 何で……」


「分かんない! そもそもあたしたちの考えが間違ってたのかも」


 1時間が経過するごとにワンフロアずつ崩落していく、という憶測のことだろう。


 間違っていたのだろうか。

 それでも昨晩は確かに、2階まで崩れ落ちることはなかった。


 崩落に飲まれないよう急いで廊下を駆け抜け、東階段を上っていく。


「てか、この非常ベルも何なのよ! うるさくて何も聞こえないじゃん!」


 先ほど突如として鳴り出した非常ベルは、依然(いぜん)として止む気配がない。


 その騒音と崩落の轟音が鳴り響いているこの状況では、とてもあの化け物の接近に気づくことなんてできないだろう。


 出会い(がしら)に鉈で断ち切られる可能性もある。


「こ、これ……どこまで逃げればいいの!?」


 校舎の揺れに身体を持っていかれそうになりながら、必死で駆け上がっていく。

 平衡(へいこう)感覚はとっくに失った。


 3階へさしかかってもなお、崩落は続いている。


「分かんないけど、止まったら落ちる!」


「でも屋上の鍵ないよ!」


「あたしもないけど……! とにかく上がるしかないじゃん!」


 ひたすら上を目指し、脇目も振らずに走り続けた。


 ほんの1秒前に踏みしめていた段差が、次の瞬間には崩れて闇の彼方(かなた)に消え去っている。


 心臓が痛い。肺が熱い。

 それでも気力でねじ伏せ、足を動かし続ける。


 もしかしたら、上で化け物が待ち構えているかもしれない。

 朝陽くんの無惨(むざん)な死体を目にすることになるかもしれない。


 だけど、柚の言う通り“立ち止まる”という選択肢は残されていない。


 最後の階段にさしかかったとき、はっとした。


「開いてる……!」


 閉まっていたはずの屋上のドアは全開で、冷たい空気が流れ込んできていた。


 見える景色は真っ暗だ。

 もしかしたら戸枠の向こうは奈落かもしれない。


 そう思って怯んだけれど、近づくとちゃんと地面が見えた。


「行こう!」


 柚が躊躇(ちゅうちょ)なく外へ飛び出す。

 頷いたわたしもあとに続いた。


 初めて出たけれど、屋上にはフェンスもなくだだっ広い空間が広がっている。


 朝陽くんの姿はなく、肌を刺すような鋭く冷たい空気が漂っていた。


「ここから飛び降りれば……」


 ふちから下を見下ろした柚が小さく呟く。

 真下に広がっているのは底なしの闇だ。


 そのとき、ふいにぞくりと背筋が凍てつき、()られたように心臓が脈打った。


 嫌な予感がして、恐る恐る振り返る。


 ────ニタリ、とその口元に歪んだ笑みが浮かべられた。


 わたしたちの通ったドアの横に、あの化け物が(たたず)んでいたのだ。


「ゆ、柚!」


 慌てて呼ぶと、その存在に気づいた彼女は「うそ……」とこぼした。


 追い詰められた。

 校舎は崩落寸前、戻る余地なんてない。


 そもそも戻ろうとしたら、あの化け物とすれ違って行かなければならない。

 その間に鉈で真っ二つだろう。


 残された選択肢は、大人しく殺されるか、飛び降りるか。


 だけど、ここから飛び降りても生還できる保証はない。


 結局は奈落に飲み込まれて死ぬだけかもしれない。

 昨晩の高月くんみたいに。


(でも────)


「!」


 思考が割れた。

 目の前にいきなり化け物が現れたからだ。


「……っ」


 振り上げられた鉈を捉えた。


 とっさに避けようとあとずさると、足がもつれてその場に倒れ込んでしまう。


「う……!」


 ごと、とスマホを落とした。


 左の上腕(じょうわん)に焼けるような熱い痛みが走る。

 顔を歪め、思わず手で押さえると、指の隙間から生ぬるい血がどくどくあふれていった。


 痛い。痛い、痛い……!

 ほんのわずかに掠めただけなのに。


「花鈴!」


 はっとして顔を上げると、再びぎらついた刃が迫ろうとしていた。


 避けようにも硬直してしまって身体が動かない。


(死ぬ────)


 そう思った瞬間、ぐい、と地面についていた腕を後ろへ引かれた。


 バランスを崩したわたしはうつ伏せのような体勢で振り向いた。


 黒よりもさらに深い闇が目の前に迫って、そして真横を通り過ぎていく。


「……!」


 柚に手を掴まれたまま、屋上から投げ出されていた。


 傷からあふれた鮮血が(ひるがえ)って上る。


 反対にわたしたちの身体は風に煽られながら、急速に下へと吸い込まれていった。


 前後左右、何も見えない。

 あまりの衝撃と恐怖で息が止まっていた。


 暗闇の中を延々と落下しているような感覚に包まれ、ふっと全身から力が抜けてしまう。


 いつの間にか意識を手放していた。


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