第5話 静かな森と不意の遭遇
朝の光が、屋根の端から差し込んでいた。
目を覚ました俺は、静かに起き上がる。まだ空気は冷たい。
村の中央広場では、数人の村人がすでに準備をしていた。
旅支度の俺たちを見ると、皆が優しくうなずく。
昨夜の歓迎の余韻は、まだ残っているようだった。
語りの長がゆっくりとこちらに歩いてくる。
今日も背筋はまっすぐで、どこか風のように静かな存在感があった。
「旅立つか、還り人さま」
その呼びかけに、胸が少しだけざわつく。
自分が“還り人”だと知っていても、どう受け止めればいいのか、まだ答えは出ない。
「……はい。どこか、なにかを探してみようと思います」
「それがいい。望まぬ場所にとどまるより、心のままに歩むこと。
お主のような者には、それがふさわしい」
そう言って、長は胸元から一枚の古びた布地を取り出した。
「これは、村に伝わる古い地図だ。今では役に立たぬとも言われておるが、道しるべの足しにはなる」
俺はそれを両手で受け取った。印刷ではなく手描きの地形図で、どこか懐かしいような気分になる。
「……ありがとうございます」
「……風は、これから強く吹くやもしれぬ」
語りの長がぽつりとそう言った。どこか遠くを見るような目だった。
「おぬしらの進む先に、まだ語られておらぬものが待っておる。……それでも、行くがよい。語りは、それを望んでいる」
そのとき、エラが長の隣に立って小さく会釈する。
「……あの、いろいろとお世話になりました。ごはんも、おいしかったです」
長は柔らかな目でエラを見つめ、静かにうなずいた。
「礼などいらぬ。おぬしも、よく休めたようじゃな。
気をつけて行くがよい。西へ進めば森がある。……あとは、おぬしらの目で確かめるとよい」
こうして、俺とエラは深く頭を下げて村をあとにする。
草の香り、風の音。昨日よりも少しだけ、この世界が馴染んで見える気がした。
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森へ向かう道は穏やかで、空も高く晴れていた。
鳥の鳴き声が遠くから聞こえ、道の端には小さな花が揺れている。
「今日は静かだね……」
エラがぽつりとつぶやく。
俺は地図を軽く確認して、「森の入り口まで、もう少しだな」と返事をした。
道の先には、ゆるやかに森の影が広がっている。
村を出てそれほど経っていないが、風景は少しずつ移り変わっていく。
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森に入ると、空気がひんやりしていて、外よりも重たく感じられた。
枝が密集し、太陽の光は葉の間からわずかに差し込むだけ。
足元は湿った土や苔が広がり、薄暗い。
「……音が、ない」
エラがぽつりとつぶやいた。
風も、鳥の声も――まるで、すべてが森の中に吸い込まれてしまったようだった。
「……ちょっと不気味だね」
俺も頷きながら、前方の警戒を強める。
だがそのとき――
《エンカウント抑制:ON》
念のため再確認していたスキルが、確かに有効になっているのを見て、眉をひそめた。
(おかしい……。抑制してるはずなのに――)
その違和感が現実になるのに、時間はかからなかった。
前方の一本の巨木が、ぎしりと軋む音を立てた。
幹の割れ目が大きく開き、まるで目のようにこちらを睨んでいる。
「……森の中で化物か。いかにもって感じだな」
苦笑しつつ、俺は足元に落ちていた太めの枝を拾う。
エラは後ずさりし、「シン、気をつけて……」と小声をかける。
木の化物は枝の腕をゆっくり持ち上げ、幹を引きずるように迫ってくる。
根が地面を割る嫌な音がするが、その動きは鈍い。
俺はエラに「下がってろ」と合図し、意識の片隅でほんの少しだけ戦闘スキルを解放する。
化物が腕を振り下ろそうとした瞬間、地面を蹴って一気に懐へ踏み込む。
節目を狙って力を込めると、木の腕があっさりと砕け、続けて幹の割れ目にも衝撃を与えた。
化物は抵抗する間もなくバラバラに崩れ落ち、腐った液体が地面へ染み込んでいく。
「……終わり、かな」
枝を払いながらつぶやく。
エラは「すごい……」と呆然としながら近寄ってくる。
「でも……ちょっと、怖かった」
「シンが傷つくんじゃないかって……」
彼女は胸元で、ぎゅっと手を握っていた。
俺は曖昧に笑ってごまかすしかない。
(目立つかもしれないが……仕方ないよな)
「もう、これ以上何も出てこなければいいけどな……」
と笑って言った瞬間――
背後の茂みが、ガサリと大きく揺れた。
「うわあああああ!!」
叫び声とともに、ひとりの少女が飛び出してきた。
その姿に、俺もエラも目を丸くした――。