第4話 夜の火と、繋がれた手
「ようこそ、語りの里へ。還り人さま……」
白髪をゆるく結い、杖を携えた老女が、静かに微笑んでいる。
エラを見やり、ほんの少しだけ首をかしげた。
「……その方は?」
「彼女はエラ。……扉の向こうから一緒に来ました」
老女は一瞬だけ目を閉じ、ゆっくりと頷く。
「記録には、一人で現れるとありましたが……それ以上の続きはありません。
あなたの選んだ人なのでしょう。歓迎いたします」
老女の静かな声には、不思議な説得力があった。
「……俺は、何かをしなきゃいけないのか?」
思わず問うと、老女は首を振る。
「誰も、あなたに強いることはしません。ただ……この世界が、かつてより静かに乱れ始めているのは事実です。
“未完成の地”と呼ばれる、地図にも語りにもない領域が存在し、何かがそこから動き出そうとしているかもしれません」
俺は曖昧に頷く。
エラもそれを聞いて、言葉を失っていた。
「この村に留まってくださってもいい。あるいは、外を巡ってもいい。
どうか、ご自身の居場所を見つけてください。語りはそれを“探す旅”と呼びます」
長の言葉は柔らかだが、はっきりとした意志を感じる。
それは誰かに課された使命ではなく、自分の意志で動くこと――俺にはその方がしっくり来る気がした。
「……わかりました。少し考えさせてください」
老女は「ええ、ゆっくりと」と頷き、エラにも微笑んだ。
エラは戸惑いながらも、小さく頭を下げる。
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その夜、村の広場で小さな宴が開かれた。
俺たちを迎えるためだというが、質素ながらも温かみがある。
焚き火が揺らめき、夜の空には星が瞬く。
木のテーブルには、村人が持ち寄った料理が並んでいた。
野菜の煮物、焼いた魚、香ばしく炙った穀物のパン。
どれも素朴な味だが、心のこもったものばかりだった。
エラは初めて見る“焚き火”に興味津々で、少し距離を取りながらもその炎を見つめている。
子どもたちが遠巻きにエラを眺め、銀髪を不思議そうに指さしては隠れたりしている。
俺は少し離れたベンチのような切り株に腰掛け、煮込みスープをすすった。
そうして、火の向こうに座るエラをぼんやりと眺める。
「……シン」
やがて、エラがこちらに気づいて、スープの器を手にちょこちょこと近寄ってくる。
夜風に少し震えながら、その器を抱えていた。
「この煮込み、甘くて……やさしい味だね」
エラが小さく微笑む。
俺も同じものを口にし、「ああ、うまいな」と返事をした。
「外の世界って、こんなに色々な音や匂いがあるんだね……怖いけど、なんだか嬉しいよ」
エラはスープを飲みつつ、火のそばで笑い合う村人たちを見つめる。
俺もまた、不思議な安心感を覚えていた。
何もわからない世界だけど、この村の人たちは俺たちを温かく受け入れてくれる。
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夜が深まり、焚き火が少し小さくなってきたころ、村人たちはそれぞれの家に戻り始める。
俺とエラはまだ火の近くに残り、その余韻を感じていた。
「……ねえ、シン」
エラが静かに口を開き、炎の揺れる光を見つめたまま言う。
「わたし、ここに留まるのもいいけど……外をもう少し歩いてみたいかも。
語りの長さんの話、ちょっと気になって……『未完成の地』っていうのが、何なのか見てみたい」
俺は少し意外そうに目を見張った。
エラは怖がりで、大勢の人と関わるのを避けていると思っていたからだ。
「そうか。……俺も、何が起きてるのか気になるし、外の世界をもっと見てみたい。
ここにずっといるのは、なんだか違う気がしてさ」
エラは小さく頷くと、焚き火の残り火を見つめて、ひとつ息を吐く。
「じゃあ……行く? 明日の朝とかじゃなくて、今夜……このままっていうのは、さすがに無茶かな」
「夜中の出発は危険だろ。村人にも迷惑になるし……宴の片付けもあるしな。
でも、決めよう。俺たち……ここを出て、世界を見てまわるって」
エラは少し顔を上げ、俺を見つめる。その瞳には、わずかな不安と期待が混じっている。
「うん。……シンと一緒なら、怖くない。今も、いろんな音がしてるけど……なんか、嫌じゃないんだよね」
そう呟いたエラの言葉に、俺は胸が温かくなる。
誰にも見つけられなかったはずの彼女が、今は俺の隣にいる。
思いきって、俺はそっと彼女の手を握った。
エラは驚いたように目を丸くするが、やがて少し照れたように笑みを浮かべ、握り返してくる。
「……ありがとう、シン」
その静かな声に、俺は一つ頷き返した。
焚き火の残る温もりと、エラの手の熱が、同じように心を落ち着かせてくれる。
「じゃあ、決まりだな。少し休んで、夜明け前には出発しよう。
この村のみんなに、ちゃんと礼は言わないといけないし」
エラは「うん」と返事をして、もう一度だけ焚き火を振り返った。
こうして、村の宴が終わった夜。
俺たちは、この地を去って旅に出ることを決意した。
扉を抜けたばかりの未知の世界で、どんな道を歩むのかはわからない。
それでも、今はただこの小さな決意と、繋がれた手の温もりを信じていこう――そう思えた。