女神の願い
「あなたに、救っていただきたい世界があるのです」
真っ黒な、足場があるのかどうかさえも分からん謎の空間で最初に言われた言葉がこれ。
そう言ったのは、ギリシャ神話に出てくるような布の服を身にまとい、よく分からん草花で編まれた冠を付けた金髪の女だ。
「はあ?」
あまりの意味不明さに、俺はポカンとするしかなかった。
「分かります。突然のことで困惑しているのでしょう? ちゃんと順を追って説明しますから良く聞いて下さい」
目の前のギリシャ女が訳知り顔でウンウンと頷く。
「いや、困惑って言うか……俺、家で寝てた筈なんだけどな……ってああ、こりゃ夢か」
「いいえ、夢ではありません」
自力で納得のいく結論を出したのに、ギリシャ女があっさり否定しやがった。
「ここは、あなたの居た場所とは別の空間。世界と世界の狭間に存在するフリースペースとでも言うべき場所です」
ムッとする俺を尻目に、ギリシャ女は勝手に喋り続ける。主導権を握られているようでムカつくが、状況がさっぱり分からないので黙るしかない。
「百木光夜さん。あなたにお願いしたいことがあったので、失礼を承知でこうしてここにお呼びしました。私の名前はアーテノミア、あなた達人間が言うところの女神です」
「は……? 女神!?」
不快な気分がいっぺんに吹き飛んだ。同時に、夢うつつだった意識が冴え渡り、目の前の現状を強く捉え直す。
「女神って、あの女神!? いまだに根強い人気を誇る異世界転生や異世界転移をさせてくれるっていう……!」
「はい、その女神です。まさに今、あなたにその異世界転移をお願いしたくてやって来ました」
女神は俺の期待を肯定するように首を傾けニコリと微笑んでみせる。あざとい仕草だが、俺の興奮は最高潮に達した。
「うおー! まじか! 俺にもついにこの世の春が来たのかーっ!!」
両手の拳を握り、歓喜の叫びを上げる。これで世の中への不満をネットでぶち撒けるだけの燻った日々とはおさらばだ!
思えば19年の人生、常に鬱屈したものを抱え続けた毎日だった。
俺こと百木光夜、生来のアレな顔立ちと短足とコミュ障のミックス効果が災いして、散々貧乏くじを引かされ続けた。小中高と友達はひとりも出来ず、校内窓際族だった学生時代。喧嘩が絶えず、いつもギスギスしていた家庭。しまいにはとうとう母親は夫と息子を捨てて出ていったし、親父は酒に溺れた挙げ句ある日突然心不全で死んじまった。
俺は大学に進めず、細々とバイトしながら食いつないでいくしかなかった。親の遺産があるからしばらくは平気だろと思っていたら、相続税やら何やらで色々と抜かれた上に書類に不備があるとか何とかいちゃもん付けられて差し止められてしまった。
世の中は理不尽だ。学校は読み書きや計算は教えても、社会で生きていく上で必要な申請書類の作り方なんか自分で学べと知らん顔だ。
学校だけじゃない。この世界はどんどん生きづらくなっている。高くなっていく一方の税金に物価に社会保障費、それに反して給料はちっとも上がらない。政治家は根本的な対策を打ち出そうともしないで政争に明け暮れているし、企業は人材不足を声高に叫びながら体の良い捨て駒ばかり求めている。
もううんざりだった。俺はせめてもの慰めを求めてネットの海を泳ぎ回り、投稿サイトに掲載された異世界ファンタジー小説を読み漁ったり、落ち度のある人間を探しては徹底的に叩いたりした。チート能力や持ち前の力で成功を積み重ねてゆく物語の主人公を見たり、バカが炎上しているサマを見たりすることが、つまらない人生に潤いを与えてくれた。そうやって、先行きの見えない不安を必死に押し殺していたと言える。
でも、それも今日で終わりだ。俺は、この下らない世界を永遠に去る!
「で、で!? 具体的に俺は何をすれば良いんだ!?」
「先程も申し上げたとおり、ある世界をあなたに救っていただきたいのです。そこは光夜さんの世界に比べて文明のレベルが劣る代わりに魔法の力が発達しており、それによって支配を強めた貴族達が民衆を圧迫しています。お陰で国中に陰気がはびこり、将来が暗く――」
「分かった! そいつらをぶっ潰して貧しい奴らを解放すれば良いんだな!?」
「……理解が早くて助かります」
ふふん、伊達にネット小説にのめり込んでいたワケじゃねえぜ!
「その世界に魔法があるってことは、当然俺も使えるんだよな!? それとついでに、神様の力で身体能力も上げてもらえたり……!?」
「勿論です。あなたは神の使徒として彼の地に降り立つのですから。役目を果たすために必要な能力は授けます。魔法の適性、運動能力の向上、言語野の最適化、全て施しましょう。あちらで生活するにあたって、不便を感じる心配はまずありませんよ」
「っしゃあ! 流石女神サマ、話が分かる! そうこなくっちゃな!」
神の使徒。厨二心をくすぐられる響きだが、ファンタジーともなれば立派な称号だ!
「では、私の申し出を受けてもらえるということでよろしいですか?」
「おう! 俺としても願ったり叶ったりだ! むしろさっさとその世界へ飛ばしてくれ!」
俺は食い気味に承諾した。わざわざ確認作業をとってくるのがむしろ煩わしいとさえ思っていた。
早く俺も、憧れの異世界ファンタジーライフを満喫したい!
「……やはり、見込んだ通りの御方です。あなたを選んで良かった」
女神が、感謝の言葉と共に微笑んだ。
「ん……?」
その笑顔がどこか不自然に思えて、俺は口を開こうとする。
「では、お望み通りこのまま向こうへ送ります。使命の完遂、しかと頼みましたよ」
女神が俺に手を差し伸べ、強烈な光があたりに生まれる。白く塗り替えられていく景色の中で、意識がすうっと遠ざかっていく。
「ちょ、ま――!?」
「往きたまえ、地ならしの尖兵」
耳に溶け込むような声を最後に、世界の全てが暗転した。