闇の女 ――四国の闇の組織に囚われた男の話――
平成11年秋、斉田一郎は、四国、徳島県吉野川中流の北岸にある、脇町にいた。ここは江戸時代から大正にかけて栄えた藍商人の町である。重厚な屋敷が南町筋を中心に残っている。白壁と黒瓦、虫籠窓や蔀戸、旧家の権勢を示す出格子が往時の面影を偲ばせる。
この町のシンボルは、町並みの屋根に目立つ”うだつ”であろう。本来は火除壁として造られている。町家の表壁の横に張り出した袖壁である。延焼を防ぐ火よけ壁がうだつの本来の役目だ。
江戸時代には、家の権力や裕福さを象徴する飾りとなっている。
ここから〝うだつが上がらない”事を財力の無さの言葉に使われるようになる。
”椋”または”卯建”とも書く。
この町を散策する目的で来たわけではないが、時間の止まったような清閑な雰囲気に、斉田は、しばし足を止めて、うだつの上がった屋敷を眺める。
彼が常滑を出たのが2日前である。急ぐ旅ではない。会社の方も一週間の休みを取っている。
朝九時に家を出る。知多半島の中央を走る知多半島道路に乗る。名古屋高速に乗り換える。名神高速道路一ノ宮インターに入る。
一路大坂まで向かう。吹田インターから中国自動車道に入る。神戸インターで山陽自動車道に入る。三木インターから本州四国連絡道路に乗り入れる。明石海峡大橋を通過、淡路島を縦断する。大鳴門橋を走って徳島に至る。徳島自動車道から脇町に到着する。
脇町は小さな町だ。旧長岡住宅や、萩の寺として知られている最明寺、藍染めの作業実演を見学する程度だ。
どこにでもある町だ。観光地としては大したことはない。
斉田が物好きにも、遠路はるばるこの地に来たのもそれなりの理由がある。
斉田一郎、60歳、常滑で3名の社員を使って、不動産の仲介や建売を業としている。昨今の不況で苦しい経営を強いられている。
彼は生涯独身。後継者に実姉の子供を見込んでいる。65歳から年金がもらえる。その時に仕事から身を引くつもりだ。
10年も前から趣味造りに励んでいる。小説や紀行文等を読む。そこに出てくる地名を調べたり、旅行したりする。歴史物も面白い。
九州や北海道は遠いので、退職後の楽しみにとっておく。車で一泊ぐらいで行ける所が主だ。
半年前、仕事で県庁に出かけた。普段は車で行くが、その日は帰りに名古屋の大須に立ち寄る事にしたので、電車で行く。
県庁で用を済ませて、地下鉄で栄に行く。栄界隈を歩く。大須まで10分もあれば行ける。
栄から大須までの間に数軒古本屋がある。
斉田は本を読むのが好きだ。新刊に限らず、古本も手に入れている。古本屋を一軒一軒見て回る。
古本と言っても、新刊書で書店に並んでいる本もある。
一冊の本が目に留まる。
”天皇家の大秘密政策”とある。カバーには、大和朝廷の出自隠し、1300年の密謀邪馬台国四国山上説。
実にショッキングな題だ。平成7年初版、それ程古くはない。
時折、この様な類の本が書店に並ぶことがある。奇想天外というか、常軌を脱したような内容である。歴史物であるなら、当然の事ながら、学界からは一瞥さえ与えられない。
斉田には型にはまった歴史物よりも、この様な、常識はずれの想像力の賜物のような奇書を好む。
内容が歴史的に正しいかどうかは別である。読み物としては、下手な小説よりも面白い。
この本を買求めて読む。内容を要略する。
四国は古来から死国とされてきた。差別されているというよりは、敬遠されているというのだ。その遠ざけられている聖地が、脇町の近くにある貞光町にある。
聖地、それは天皇家発祥の地という。
古来より、吉野川上流にある聖地、貞光町を通過する道は無かった。なかったというよりは敬遠され続けてきた。
律令体制が整った大宝年間(701~704)の事。
土佐の国府に至る官道が注目される。
土佐への官道は、都を出てから紀伊を経て淡路島から阿波へと海を渡る。讃岐、伊豫を経て、土佐の西北部の国境から国府に至る。極めて遠回りになる。
つまり阿波から高松、新居浜、松山と瀬戸内海に沿って歩き、松山の隣の伊豫市あたりから、急に四国山地を斜めに突っ切る。伊豫市まで平野部を歩くのは合理的のように見えるが、実は大変不合理な官道なのだ。
その上に、伊豫市から四国山地を横切って歩く発想には理解に苦しむ。山あり谷ありの嶮しい道のりなのだ。
土佐の国司はこの官道には困り果てて、養老2年(718)に阿波から南へ海岸沿いに歩いて室戸岬を過ぎ、土佐へ直接入る道を申請している。
この新しいコースも、良い道では無かった。海の近くまで山が迫っている。海岸沿いと言っても山道が多い。
現在なお開発されていない地域である。
吉野川沿いに歩けば楽なのに、何故歩かなかったのか。
吉野川沿いに歩いて四国の中央部まで行けば、土佐は目の前となる。吉野川から分かれる穴内川が高知平野の外まで流れている。この最良のコースを何故選ばなかったのか――。
著者は疑問を呈している。言わずもがな、脇町、貞光町は古来より触れてはならない〝聖地”だからだ。
奇想天外な書とは言え、著者は、執拗に、確執を固めていく。
第2の証拠、四国八十八札所である。この書物には以下のような記事が載っている。
「神話と遍路」宮崎忍勝著として
――四国は、死国である。それは四国八十八ヵ所の霊場を巡拝するお遍路さんの姿が死装束だからだ。お遍路さんは、白装束に手甲脚半・数珠・腰当・札ばさみ・頭陀袋(さんや袋)・遍路笠を身に着け、金剛杖を持っている。金剛杖は弘法大師(空海)であり、それで同行二人という――
遍路笠には、――迷故三界域、悟故十方空、本来無束西、何処有南北――と書かれている。これは葬儀の時棺天蓋に書かれるものだ。
この様な死装束に身を固めて、一歩四国遍路の旅に出ると、現世の四国が死国になる。お遍路さんの姿は修験道の行衣に似ている。
四国の山上には、古くから優婆塞、優婆夷、修験者、聖たちが歩き回っている。
優婆塞は山林などで修行する者、女性の場合は優婆夷と呼ぶ。聖は仙人。
修験者は修験道の行者で、役小角を祖と仰ぐ。護摩を焚き、呪文を誦す。
役小角は役の行者、又は役の優婆塞と呼ばれる山岳呪術者である。
四国の石槌山(愛媛県)は、役小角が開いた山と伝えている。
阿波の国徴古雑折の内、高越寺旧記は、
――当寺ハ、役小角尊ノ開山、中興開基ハ弘法大師ト申伝フ・・・――とある。
小角の足跡は八十八ヵ所の霊山にも残されている。
第十二番札所、焼山寺(徳島県神山町)には――焼山寺山の頂上に役行者が小屋を作って住んでいた――との伝説がある。
第六十番札所・横峰寺(愛媛県小松町)や第六十四番札所、前神寺(愛媛県西条市)は小角の開基であると伝えている。
つまり――四国八十八札所は、空海が開設する以前に修験者によって、その基盤が成立していたという事だ。空海はその基盤の上に乗って、札所を開設したという事になる。
空海は讃岐の人である。現在の香川県善通寺市の出身。その先祖を遡ると、アメノオシヒノ命(天忍日命)に突き当たる。アメノオシヒノ命は、天孫二二ギノ命のお供をして降臨した神として知られる。
アメノオシヒノ命の塚は、大滝山(943メートル)の山頂にあったと伝えられている。大滝山は徳島県と香川の県境に聳える山で、ここには大滝寺(徳島県脇町)がある。
脇町は、徐福が留まった平原広沢があった町である。脇町の西隣りの美馬町には方壺山の山号をもった願勝寺がある。この寺はもとは維摩寺と号していて、忌部大神官(聖地貞光町一帯を社域としていた)の大祭主の玉淵宿禰が叔父、福明律師の為に建立したもの。
福明律師は元興寺の福亮法師の弟子となり、後に法相宗の学匠となる。斉明天皇(655~661在位)の4年には維摩会の大講師と仰がれ、この女帝の戒師にまでなっている。
美馬町の”郡里廃寺跡”からは白鳳時代の遺跡が堀り出されている。調査によって、この願勝寺は、東西94メートル、南北120メートルと宏大で、大門、中門、金堂、塔、講堂、鐘楼、経蔵の七堂を備えた大伽藍である事が判明。
白鳳時代にこの様な大伽藍を建立出来る力を備えていた忌部大神官を見逃してはならない。
願勝寺に伝わる”願勝寺歴代系譜”には大滝山にまつわる話が載っている。
――空海上人阿波と讃岐の中山なる大滝の峯に登り国土安全の祈をなすの処に不思議の老翁忽然と現れ、我是汝が遠祖天忍日命の神使やと、空海日共神跡いづれなるや、
翁日即此処也と古塚を教えて,其形の古き蟇蛙と変じて、古塚に入り身を隠す。さてこそ故あらんと此処に草庵を構えて其靈を祭る。其の草庵後に大滝寺と改める――
アメノオシヒノ命のお使いが空海に塚の在り処を教えた訳だが、その場所が大滝の峯、即ち大滝山に在った。現在はその塚は見当たらず、山頂から少し下がった所に古い庵跡が残っている。
この塚があったと思える場所からは聖地が良く見える。空海の出身地の善通寺市方面からも遙かに望むことが出来る。大滝山は空海にとって特別な場所だったのだ。
空海はその著”三教指帰”で、大滝山に登って、求聞持法を修したと記している。この大滝山こそが脇町の大滝山なのである。
通説では、この大滝山は徳島県南東部の阿南市に近い二十一番札所、大瀧寺山(620メートル)と言われている。
これが誤りである事は以下の通りである。
大瀧寺が札所に加えられているのに、脇町の大滝寺は札所に加えられていないからだ。
空海の定めた四国八十八札所からは聖地は見えないようになっている。もっとありていに言えば八十八札所は聖地を囲むようにして出来上がっている。
お遍路さんは、空海と一緒に八十八札所を廻りながら、実は見えない聖地を巡り歩いているのである。
ただし、ここで1つ注意を喚起しておく。
この本の著者も言っているが、四国八十八札所とは書いているが、八十八ヵ所すべてが、聖地を囲んでいる訳ではない。
八十八ヵ所は、一般的に、阿波(徳島県)発心の道場二十三ヵ所、讃岐(香川県)涅槃の道場二十三ヵ所、伊予(愛媛県)菩提の二十六か所、土佐(高知県)修行の道場十六か所、以上のように分けられている。
ここでいう八十八札所とは、阿波の発心の道場を言う。
まず、第一番から十番までは西に向かっている。聖地の貞光町に最も近づくのは、この十番の札所、切幡寺(徳島県市場町)である。ここから西の吉野川沿いに広い地域に、札所は一つも作られていないのだ。
一番から九番の札所は、低い平野部にある。ところが切幡寺は、山の中腹の急斜面の敷地に建てられている。境内まで450段の石段を登る事になる。山麓には寺を建てる最適地がいくらでもあるにもかかわらずだ。
その理由は1つ。十番札所から、聖地にそそり立った友内山の山頂が見える。聖地の山頂が見えるのは、八十八札所の内、唯一この十番のみである。
四国八十八札所を作ったのは空海とされている。実際は空海以前に造営された札所もある。
この本の著者は1つの仮説を提示する。
四国八十八札所を作ったのは空海だが、作らせた張本人は時の権力者“大和朝廷”だと主張する。
つまり、それまで聖地に自由に行き来していた修験者達の足を止めたのである。聖地は聖地として、永遠の帷の中に封印してしまった。
――天皇家の出自隠し――これが聖地封印の謎解きである。天皇家は聖地から出て、大和を平定したというのだ。驚天動地の考え方とはこの事だ。
出自隠しの理由、著者の意見を述べる。
天皇家の出自隠しを行ったのは、天武天皇あるいは持統天皇だという。
天武8年(679)吉野宮の会盟が5月に行われる。
日本書紀はこの部分について、天皇は諸皇子が成人するにつれて、再び皇位継承の争いを起こす事のないよう、壬申の乱に関係の深い吉野の地で誓約せしめた、とある。
著者はこの吉野宮を四国の徳島県の吉野川としている。
つまり、天武天皇は先祖の地で会盟が行われたと言っている。日本書紀はこの事実を和歌山県の吉野川に変えてしまった。
吉野宮の会盟は、一口で言えば〝大君の威信高揚大作戦”とも言うべき秘密政策であった。
当時、大君(天皇)の威信が失墜していて、皇室が滅んでしまう危険性があった。その遠因としては大陸文化が渡来人と共に流入している。日本の民衆が目も心も大陸文化に奪われてしまっていたからだ。
また政治的には、日本と百済の連合軍が唐と新羅の連合軍と白村江で戦い(663)、日本軍が惨敗した最大の原因となっている。近因としては壬申の乱(672)である。
この結果、大君が民衆から批判され、大君の出自まで噂されるようになる。
「大君の先祖は南海の小さな島の山の上で、山猿ような暮らしをしていた」
こんな噂が、唐の文化や長安の都などと比較して語られ、天皇家の出自や、宮(皇居)の小さい事などが、民衆の間で嘲笑され出した。
そこで、天武8年5月6日、天皇、皇后、諸皇子らが吉野宮に集まった。天皇はじめ全員1人1人が、命を懸けて〝ある事”を誓い合った。
この〝ある事”とは伊豫之二名島(四国)が天皇の出自(大和朝廷の旧地)である事を、秘密にするという者である。
吉野宮の会盟以後、日本の歴史が変わっていく。長い年月を要したが、天皇家の出自隠しは一応成功していく。
斉田は一読して、大胆な発想には驚嘆するが、賛同する気持ちにはなれなかった。
この本は、邪馬台国も四国にあり、魏志倭人伝の読み方に素直に従えば、阿波こそが邪馬台国になるという。
その他、記紀神話の舞台が全て四国にあると主張する。ソロモンの財宝が剣山にある話も出てくる。
感想を述べれば荒唐無稽と言ってしまいたくなるが、著者の真摯な文章力からは、迸る様な熱意が伝わってくる。読み物としては面白い。
天皇家の先祖が四国から出たかどうかは、斉田には大して関心もない。面白いと思ったのは、空海の四国八十八札所の解釈だ。
面白いというより、目の覚めるような衝撃を受けた。と言った方が適切かもしれない。
斉田は小さい頃から神秘的な事に興味があった。長じて、宗教上の神秘思想や瞑想、ヨガにのめり込む。
空海については多少の知識があった。
真言密教を広め、高野山で入定している。一般的にはそんな評価だ。
斉田が空海に深い興味を持つようになったのは、神秘思想に傾注するようになってからだ。
高野山の地下深くには、水銀鉱脈が眠っていると言われている。四国八十八札所の内,二十三か所の地下には水銀鉱脈が横たわっている。札所はそれを守るようにして建立されている。
水銀は別名丹生、またの名を朱砂ともいう。
水銀は辰砂を焼いてつくる。硝酸には容易に溶解する。金属と合金を作る事も容易である。蒸気は有害、金の精錬に利用される。
古代においては、水銀は朱として用いられ、古墳時代には、棺の防腐剤として詰められた。
寺院の建築に塗られて魔除けとされる。漆器、絵具、印肉などにも使用されている。
特に重要なのは、前述したように、金の精錬に欠かす事の出来ない触媒として利用された事だ。
想像を逞しくするなら、空海は水銀鉱脈を支配するために、高野山上や四国八十八札所に、寺院を建立したと取れなくもない。
斉田が空海に注目したのは、そのような日の当たる部分ではない。
宗教家、治水土木家、医療、芸術家としての空海は明の部分だ。闇の部分、錬金術士としての空海、底知れぬパワーを秘めたもう1人の空海の姿がそれなのだ。
中国は古代から、不老不死の仙薬が作られている。
中国の歴代の皇帝もその事は耳にしていた。古墳から発見される彼らの遺体からは、多量の水銀が見いだされる。水銀中毒で死んだ皇帝もいたようだ。
錬金術で語られる不老不死の物質、それは、塩、硫黄、それに水銀である。
不老不死の霊薬を渇望したのも、日本でも同じである。
空海や最澄と共に唐に渡った霊仙という僧は、そのまま中国五台山に留まる。経典や仏舎利粒と共に、嵯峨天皇の特命を受けて、五神通が得られるという霊薬、秘薬を送っている。
空海もその著、三教指帰や、十住心論の中で、
――白金黄金は乾坤(天地)の至精、神丹・錬丹は薬中の霊物なり。鈎挽、野葛も病に応ずれば妙薬、いわんや木黄・金丹、誰が除病、延算の續なからん――
古代では鉱物を仙薬として用いていたし、空海の山岳修行や入唐求法の背景には、本草・鉱物を通じた不老長寿的な知識と技術の体得があった。
それにもう1つ。斉田が注目するのは、全国各地で発揮した治水土木技術である。
中国古代では、黄河を制する者は天下を制すると言われていた。日本でも治水が政治上の課題であった。
治水、土木と言っても、大勢の人夫がいれば出来るというものではない。その技術に精通した職人集団が必要である。
彼らは空海とどのような関りを持て居たのであろうか。
闇の組織、フリーメーソンは古代エジプトの石造建築に従事した石工組織から始まっている。いわゆる技術集団である。
空海の周辺には、治水土木技術、錬金術、医薬などに優れた知識や技術を持った闇の組織が存在していたのではないかと、斉田は推測している。
空海と同時期に入唐を果たした最澄、彼は学問僧として国費を得ていた。空海は私渡僧であった、つまり自分で費用を賄って入唐している。
たんに入唐するとはいうものの、その費用は厖大な額にのぼる。彼の両親が負担したという記録はない。空海自身もそんな金は持ち合わせてはいない。
空海の入唐の費用を調達したのは、山の民、治水技術集団、鉱山技術者達と言われている。彼らは歴史の闇の住民である。彼らの力は、時には歴史さえ動かしている。
闇の一族の聖地、それが徳島県の吉野川の中流にある聖地貞光町ではないのか、斉田はこのように推理した。
この本の著者は、聖地を天皇家発祥の地と見ている。斉田はその推理に無理があると判断する。
その理由として、
天皇家の存亡の危機に陥った天武朝期、吉野の会盟が行われたという。
だが天武天皇以降、天皇家は国家最高の権力者としてその力を集約していく。先祖誕生の地を隠す意図があるならば、この奈良朝時代に行うのが普通である。それが2~3百年の後の時代になって、空海が天皇家の出自隠しを行ったとは、到底思えないのである。
嵯峨天皇の命によって、空海が行ったというのであれば、話は別だ。
2つ目に、天皇家の先祖祭りにある。
どの家庭もそうであろうが、仏壇にしろ、神棚にしろそこに祀られているのは、その家庭のご先祖様である。
宮中で祀られているのは、小彦名命と韓神である。両神とも朝鮮半島からの渡来である。天照大神や神武天皇などは、宮中で祀られた形跡がない。
四国徳島から天皇家が出たという推論には無理がある。ここはどう読んでも空海に関わる聖地と見た方が妥当なのだ。
斉田は、空海を陰で支えた闇の組織を想像した。この小さな地域が、彼らの故郷ではなかったのか。
そう考えると、斉田は矢も楯もたまらず、行ってみたくなった。そうはいっても、少なくとも3日か4日の工程を組まねばならない。彼がいくら暇人でも、すぐに出発するという訳にはいかない。
仕事の段取りをつけて、約一週間の余裕をとるために9月中旬を予定とした。
斉田はうだつ屋敷の町並みから少し離れた喫茶店に入る。彼は浮かぬ顔でコーヒーを注文する。喫茶店は日本中どこにでもある。置いてある週刊誌や漫画本も同じだ。画一的と言ってしまえばそれまでだが、何処へ行っても好きなコーヒーにありつけるので安心である。
――ありがたい国だ――つくづくと思うが、今の斉田の失望感に沈んでいる。コーヒーの味を味わう余裕もない。
・・・来るんじゃなかった・・・
期待感が大きかっただけに、失望感も大きい。
斉田は嘆息する。
喫茶店は、南側の道路沿いに入り口がある。入り口を入ると、右手にカウンターがあり、長髪の口ひげを蓄えたマスターが所在なさそうに頬づえをついている。斉田が入ってきても、いらっしゃいとも言わない。
10あるテーブルの内、奥の北側に陣どる。マスターは黙って水とお手拭きを持ってくる。お客は彼1人のみ。
店の掛時計を見ると1時半。うだつ屋敷で讃岐うどんを食べて間がない。
本当なら、昼食後観光名所を回るのだが、この脇町はうだつ屋敷以外に見るべきものがない。と言ったら地元の人に怒られるかもしれない。が、これが斉田の本音なのだ。行くところもないので喫茶店で暇つぶししている。
斉田が席を占めているテーブルの前の方に窓がある。3尺四方の窓が2つ、窓の向こうに、暖かい日差しを受けて田園が続いている。
斉田は頭に手をやる。こめかみの辺りが白くなっている。四角い顔だ。精悍な風貌をしている。眉が濃く、唇が大きく、厚い。眼光は鋭いが笑うと愛嬌がある。
若い頃は肉体労働で鍛えている。30代になって、不動産業に転身している。物の考え方が保守的だ。
一歩一歩大地を踏みしめて歩くのが、彼の身上だ。派手さはないが、真面目な性格が、商売上の信頼を勝ち得ている。
趣味の事は人には話してはいない。
常滑には趣味の同好会がある。年に2回、体育館で発表会が開催される。そのほとんどが、写真、絵画、彫刻、書道、陶芸だ。これらの趣味なら人の吹聴出来よう。
「神秘主義が好きでね」などと言おうものなら、「それって何?」と怪訝そうな顔をされる。講釈するだけの気力もないので、「趣味は?」と聞かれれば「読書です」と答えることにしている。
この1週間の旅行も社員には温泉旅行だと言いふらしている。幸い脇町の近くにはふいご温泉がある。今日はそこで一泊するかと腹をくくっている。
コーヒーを飲みながら〝天皇家の大秘密政策”の本をテーブルにひろげる。
この本の著者が〝聖地”とする場所は厳密には脇町ではない。吉野川を挟んで南に10キロ程行くと貞光町がある。貞光川を東に越えて約10キロ行くと、穴吹川に突き当たる。その穴吹町を約5キロ南に登った所に鍵掛山がある。その周辺としている。
斉田がまず脇町を訪れたのは、ここが穴吹町の通過地点にあるからだ。
脇町の国道193号線を南下して、JR徳島本線を抜けるとすぐに穴吹町になる。車で行っても10分とかからない。
著者は〝聖地”の最重要地点を貞光町としていた。ところが、斉田が観光地案内を調べた限りでは、そこには何もない事が判った。本の読み落としかなと思って、再読してみた。
天皇家は穴吹町の鍵掛山の麓に住んでいたが、最初に〝天下った場所が〝貞光町だ”と言うのである。
穴吹町は観光地案内のどの本にも載っていない。地名のみの町なのだ。唯一例外的な観光名所と言えるのは、JR穴吹駅からJRバス徳島行きで10分程行くと、土柱南口に到着する。そこから歩いて40分ぐらい行くと、土の柱が林立する〝土柱”が見られる。
ここは数百本の土の柱が筍のように林立している。国の天然記念物に指定されている〝奇観”の名所なのだ。後は何も無い。
つまり吉野川とその支流の貞光川、穴吹川の三方に囲まれた3里四方の場所が〝聖地”だというのである。
脇町に到着して間がない。穴吹町に住宅が密集している事は、吉野川中流近辺の、詳細な道路地図で判る。問題なのは、鍵掛山の麓付近には、どう調べても部落らしき形跡が見当たらない事だ。
――それは地図で見ただけだろう――と言われればそれまでの事だが、地図に載っていなければ、何もないと考えるのが普通だ。見落としているとは思えないのだ。
何もない所へ、のこのこ出かける程暇人ではない。
・・・さあ、困った・・・穴吹町も脇町同様、見るべきものはないと考えた。ふいご温泉に出かけるには、まだ早い。
斉田は手持無沙汰の体で、ふとカウンター越の口ひげを生やしたマスターを見る。
「すみません。ちょっとお尋ねしますけどね・・・」席を立つと、カウンターまで行く。
天皇家の大秘密政策の本を見せる。ここまで来た理由を述べる。
「天皇家がねえ・・・」
紺の半袖シャツを着て、白の前掛けをしている。白い歯が鮮やかだ。年の頃は30代前半と見える。髪を頭の中央で分けている。女のような切れ長の眼をしている。
「そういう話は聞いた事はありますけどねえ・・・」歯切れが悪い。
斉田はカウンター越の回転椅子に腰かける。
マスターはコーヒーカップを白いタオルで拭きながら喋る。
邪馬台国が阿波にあるとか、ソロモンの財宝が剣山に眠っているとか、記紀神話に登場する神々が、阿波周辺に勢揃いしているとか、色々出てくる。
四国の古代史を少しかじった者なら、常識として知っていると話す。
「でもねえ、天皇家がねえ、穴吹町の山の奥から出たなんて話はねえ・・・」
到底信じがたいと言った顔付だ。こんな本の為に、わざわざ遠方からやって来たのかという表情になる。
「では、デタラメとでも・・・」今度は斉田の歯切れが悪くなる。失望感が心の中に広がて行く。
「満更、デタラメでもないんですが・・・」
「昔はともかく、今はねえ・・・」
斉田は気が短い方ではないが、こう、のらりくらりした返答を聞くと、イラついてくる。
「穴吹町はちょっとした町ですし、その聖地でも部落がありますよ」
マスターの返事に、斉田は地図には何も載っていないがと反論する。斉田は頑丈な身体をしている。気も強いし押しもきく。
マスターは女のように弱いのか、優柔不断なのか、斉田の気勢に圧倒されて、一歩退く。
「そこは、地図に載せないって、昔からのしきたりなんです」
「まさか・・・」
昔はいざ知らず、今の世にそんな習慣が通用するものか。アホくさと思ったが、あえて問い詰めない。
そこまで車でどれくらいかかるかと尋ねる。
穴吹町まで約20分。そこから聖地、鍵掛山の麓までは車では無理。約5キロの道程だから、歩いて1時間半という。
そこは宿はあるのかと問う。電話は通じているから、行くなら連絡しておくがという。人口は2百名ほど、皆親切だから、宿泊もできる。もっとも観光地ではないから、行っても何もないがと付け加える。
「その部落の名前は?」
「鍵掛山部落」
「何か由緒でもあるか」
「よく判らない。天皇家の出生地と間違えられるくらいだから・・・」
マスターは一旦口を閉じる。斉田をじっと見る。
「とにかく、行ってみなさいな」後は言葉を濁すのみ。
「電話しときますから」
斉田は喫茶店を出る。脇町のうだつ屋敷をぬけて、国道193号線に入る。東に車を走らせて、吉野川を横切る。程なくJR徳島本線穴吹駅の踏切にさしかかる。
東の方、はるか前方に剣山が聳えたつ。
国道193号線は穴吹川と並行して走っている。穴吹川がほぼ直角に蛇行する辺りに、穴吹町の町並みが見えてくる。穴吹駅から約1キロ、もっとも穴吹町の民家は国道に沿って建ち並んでいる。繁華街、町に中心部が1キロ程東に登った地点にあるのだ。
繁華街、と言っても、格別な建物が並んでいる訳でもない。どこにでもある平凡な町並みが軒を連ねている。道路沿いには、コンビニもあれば喫茶店もある。郵便局もある。
国道は穴吹川と並んで東に急カーブしている。南に伸びる1本道が国道から枝分かれしている。民家もそこで切れる。その道幅は約3メートル程。何とか車がすり替えれそうだ。
斉田はその道の入り口近くの食堂の駐車場に車を止める。昼の2時過ぎという時刻のせいか、店の中は閑散としている。
ガラス戸を開けて奥に声をかける。暖簾越の店の奥から、「あーい」間の抜けた様な声がかえってくる。20歳頃の女が、眠たそうな顔を出す。髪が乱れている。昼寝をしていたようだ。
「すみませんなあ・・・」斉田は詫びを言いながらも、この道の奥の鍵掛山の麓に行きたいが、車で行けるかと尋ねる。
「えっ!あそこへ行くの」女の子は眼の醒めた様な声をです。
「何もあらせんよ。物好きだなあ」ずけずけと物を言う。言葉には嫌味がない。斉田は苦笑する。
「ここに車を置いといて、歩いたほうがええわ」
理由を問うと、道幅がだんだん細くなる。それにむこうから、対向車でも来た場合、すれ違う場所もない。
「ところでね、お嬢ちゃん」斉田は色目を使って言う。
「お嬢ちゃんだなんて」女の子は」満更でもなさそうに、きゃきゃと笑う。
「その部落ってね、どういう所?」
「どういう所って・・・」喜色満面の表情から、戸惑いの顔付に変わる。
「普段から付き合いがないから、よくわからん」
女の子は口を尖らす。おじいちゃんから聞いた話だけど、四国の町の中で1番古い。日本と言う国が出来るもっともっと昔からいる人達、という事しか知らんというのみ。
車を食堂の駐車場の片隅において歩く。約1時間半くらいかかるとみる。斉田は荷物らしいものは手にしていない。まさか1時間以上も歩くとは思っても見なかった。
ホテルや旅館にはタオルや歯ブラシ、ヒゲ剃り器などが揃っている。金さえ出せば、欲しい物は何でも手に入る。気軽な旅と心得て、トレーナー姿に、スニーカーを履いている。
――行くだけ言ってみよう――ここまで来た甲斐がない。急ぐ旅でもない。道は砂利が申し訳程度に敷いてある。
道の両側は麦の穂が色ずいている。
後ろを振り返る。山づたいに民家が並んでいる。畑も1キロ程歩くと消える。灌木がうっそうと茂っている。
食堂の女の子の言う通り、道は段々と細くなる。車のすれ違う場所もない。時計を見る。午後2時半。鍵掛山部落に到着するのは3時半か4時頃と見る。
部落に入って何も無ければ、すぐに引き返すしかない。9月に入ったとはいえ、6時頃までは日が明るい。
斉田は仕事上、思い詰めて、あれこれ悩まない事にしている。思い悩んで、良い結果が出る事はまずない。何も考えずにとにかく行動する事に限る。悪い結果になりそうだと思えば、すぐに引き返すに限る。
道幅も狭くなる。登坂になる。ゴツゴツとした岩肌が露出している。とても車が通れる道ではない。〝獣道”こんな言葉が浮かぶ。灌木も消えている。後を振り返る。背の高い樹木にさえぎられて何も見えない。
こんな陸の孤島のような場所にも鉄塔が建っている。日本国内に電気の来ていいない所は皆無ではないか。そんな事を考える。
少し道が険しくなる。登りつめると、前方にお椀を伏せた様な山が間近に見える。道の両側に麦端が拡がっている。人が住んでいる証拠である。なおも歩くと人家が点在しているのが見える。
〝陸の孤島”大袈裟に言えば魔境的な光景を心に描いていた。
目の前に展開する風景は、いかにも〝現在的”なものだった。
数十棟あると見える家屋の屋根は、ほとんどが陶器瓦だ。赤もあれば青もある。シルバーが多い。中にはカラーベストもある。新築の家もちらほらみられる。
岐阜県の白川郷のような風景を眼の裏に描いていた。斉田は拍子抜けする。
・・・まあ、現実はこんなもんだわ・・・
本の題名につられて、のこのこやって来た自分の愚かさに嫌気がさす。と言っても今さら引き返す訳にもいかない。電話を入れておくという喫茶店のマスターの事もある。行くだけ言ってみようと、重い腰を運ぶ。
道は部落の南端を走っている。まっすぐ行くと鍵掛山に向かう。北に曲がると、1キロ先に部落に突き当たる。道の左右は麦畑や野菜畑で占められている。
部落の奥の方に小高い山が見える。中腹の辺りに、赤い鳥居が見え隠れしている。
〝鎮守の森”らしいと推測する。
部落に向かって歩く。時刻は3時半を過ぎたばかり。麦端が切れる。畑と町並みの間に道路がある。約2メートル程の畦道が南北に走っている。鍵掛山の方から流れてくるのか、道路と並行して、小川のせせらぎの音が聞こえてくる。
畦道を横切る。道の突き当りが鎮守の森だ。赤い木の鳥居がある。その奥は階段になっているが、遠目からでも、自然石を積み上げたものと判る。
部落は神社への道を中心に、2つに分かれた格好になっている。幅3メートル程のこの道以外に、道らしい道は無い。家の前後に、人1人が通行できる程度の小径が蜘蛛の糸のように、張り巡らしてある。
建物は25坪から30坪程の大きさのものばかり。
2階建てはない。窓枠もアルミサッシ。外壁もトタンかサイジング。ありふれた光景だ。店舗がない。
斉田は部落の中央に立つ。これからどこへ行けばよいのか判らない。仕方がないから鳥居の方へ歩を進めようとした時、右手の3軒目の家から、若い女が飛び出してくる。
9月になったとはいえ、日中は夏の気配だ。女は長い髪を後ろに束ねている。
ベージュのコットンブラウスを着ている。小柄で眼がくりくりしている。子供がそのまま大人になった顔付だ。
斉田と目が合う。
「斉田さん?斉田一郎さんですね?」
呼びかけられて、斉田はびっくりする。
「遠路、常滑からご苦労様」澄んだ声で歯切れがよい。
斉田は呆然と立ち竦す。小走りに駆け寄る女を見ている。脇町の喫茶店のマスターから電話を入れておくとは聞いている、だが斉田は名前はおろか、何処から来たかを答えてはいない。ここまで来た経緯のみを述べたにすぎない。
女が斉田の手前で止まる。
「どうして、私の名を・・・」
斉田は眼を剥く。女は瓜実顔の端正な顔立ちをしている。薄い唇から、白い歯がこぼれる。背丈も1メートル50センチくらいしかない。
背の高い斉田を見上げている。
「その事は後で・・・」言いながら斉田の手を取る。引っ張るようにして、自分の家に連れていく。
部落は全体として、不動産屋の分譲住宅のような感じだ。違う所は、道が狭く、町並みが雑然としている。
1つ大きな特徴は、建物は小さいが、庭が広い事だ。隣地との境界線がない。柵やフェンスがないので、広く感じる。車が1台もない。庭には、野菜や果物、トマトやキュウリなどを栽培している。食料については自給自足のようだ。
家の中に入る。畳1枚分の玄関。家の真ん中を3尺幅の廊下が走る。右手、東側に応接室兼台所、左手に6帖の和室が南北に並んでいる。家は25坪程の大きさだろうか。どこにでもある庶民の住宅だ。
「こちらへ」と招かれて、応接室に入る。ソファとテーブルがある。奥は台所、冷蔵庫やテレビなど、一応家電製品が揃っている。
斉田がソファに腰を降ろす。女は台所から電気のポットと焼き物の急須や湯呑茶碗を持ってくる。お茶を入れて、斉田にすすめる。
自分の名前を知っている女には興味はあるものの、まずは出されたお茶を飲む。1時間余の歩きで、お茶が美味い。
「先ほどの事ですけどね」斉田は腕時計を見ながら尋ねる。長居は無用なのだ。穴吹町までには、少なくても5時か6時までには帰らねばならない。
「今日はここに泊まって」女はそれが当然のように言う。
「でも・・・」斉田にはそんな気持ちはない。見知らぬ所だし、ここには来たばかりだ。それに相手は20歳ぐらいの女だ。斉田は60歳とは言え男には変わりがない。
女は微笑すると、窓の外を指さす。指されるまま斉田はサッシ窓の外を見る。
「あっ!」声をあげる。いつの間にか雨が降っている。この家に入るまでは、雲1つ無い天気だった。家に入って、ソファに腰を降ろしてお茶を飲むまで、5分とかかっていない。日が少し傾いているとは言え、応接室に入る時は、窓に日が射していたのだ。
台所でお茶を入れている女の仕草に目を向けている、そのわずかな間に、天気が急変していた。
――馬鹿な――斉田は大きな眼を一層大きくする。精悍な顔立ちに不安がよぎる。こめかみの辺りの白髪を手でこする。
――小雨なら、傘でも借りて帰ろう――
ふいご温泉で一泊の予約をとってある。何としてでも帰りたい。
本につられてここまで来たが何もない。失望感が頭をもたげてくる。
と思う間もなく、しとしと雨は篠突く雨に変わる。
「これでは傘はお貸しできませんねえ」
「えっ!」心の中を言い当てられて、斉田はしげしげと女を見詰める。
「あんた、一体・・・」不気味な者でも見る様に言う。
「ふいご温泉、予約は取り消しておきましたから」
女は無邪気そうに、白い歯を見せて笑う。斉田は絶句したまま、声も出ない。
女は白い顔に、くりくりした顔で斉田を見ている。その表情には、斉田を驚かせて面白がっているようには見えない。ありのままを率直に述べている。衒いもない。
「私、地中と言います」女は軽く頭を下げる。
「地中・・・」斉田は反芻する。
「はい、大地の中、闇の中という姓です」
女はにこりとした顔で言う。愛嬌のある顔だ。
斉田はここで夜を過ごすしかないかと腹をくくる。ソファに深々と尻を埋める。
「地中さん、どうして私の名を?」
「あらだって、顔に書いてありますわ」何故そんなことを聞くのかという顔をする。地中の顔に戸惑いが見える。
困惑したのは斉田の方だ。顔に書いてあると言ったところで、表情から、名前を言い当てることは無理だ。
質問がかみ合わないので、話題を変える。
斉田は脇町の喫茶店のマスターにしたと同じ質問をする。同時に、穴吹町の食堂の女の子の話をする。
斉田は話しながら不安を抱いている。彼女に尋ねても無理かな、子供がそのまま大人になったような顔をしている。何となく頼りない。質問に答えられるだろうか。むしろ、この部落の年長者か名のある人に尋ねた方が良いのではないのか、もし彼女が答えられなかったら、他の人を紹介してもらおうと、そんな事を考えながら喋っていた。
「この部落の誰に聞いても、私と同じ返事しかしません」
斉田ははっとして、女の顔を凝視する。まん丸い眼が斉田を見ている。唇から白い歯がこぼれ、邪気のない表情をしている。小柄で異様な雰囲気は感じられない。
外の雨足は激しくなる。時折稲光がする。
室内は電燈がついている。家の中にいるのは、大の大人と子供がそのまま大きくなったような女が1人。
男の眼は氷ついたように瞬きもしない。
――心の中を読まれている――
地中と名乗る女に、斉田は不気味なものを感じている。
「私達の事、お話しますね。女はにこりと笑う。手を上げて、掌を斉田に向ける。握り拳を作る。
斉田は急激な睡魔に襲われる。そのままソファに横になる。意識の世界が遠のいていく。全身の筋肉が弛緩していく。死人のような無感覚が斉田を支配していく。
ふっと、声が聴こえる。地中と名乗る女の声だ。遠い所から呼びかけている感じだ。
――夢?――
肉体の感覚が全くない。暗闇の中で、山彦のように、声だけが脳裡に伝わって来る。
「私の声、聞こえますか」
「聞こえるよ」斉田は答えようとする。口が動かない。答えようとする意識だけが働いている。斉田の意識に呼応するかのように「これから私が話す事、信じてもらえないかもしれません。でもすべて事実です」
天井から響き渡るナレーションのようだ。と思う間もなく、目の前の闇が消えていく。青々とした海原が拡がっている。映画のスクリーンに見入るという表現があるが、もっと生々しく、波の上に自分の意識が浮かんでいるような、景色と一体となって波の上に自分が存在しているのだ。
声が響く。
――光は闇から生じた。この厳然たる事実を決して忘れぬ事――
いつの世も闇の勢力が主で世の全てを動かしている。私達は闇の勢力の中心にいる。
声が止む。と同時に、太平洋上に浮かんだ巨大な大陸の山という山から噴火の炎が立ち昇る。黒い煙が天を覆い尽くす。その大陸に栄えた高度な文明が一夜にして滅び去っていく。かろうじて生き延びた数千万の人々は全世界に散っていく。今から2万年前の事だ。
我々の先祖は、この大陸の文明の祭祀の役を担っていた。数十万の同胞と共に、先祖の辿りついた地は、沖縄群島だった。
声と共に、目の前に劇的な映像が展開されていく。
現代沖縄群島は沖縄本島、宮古島、石垣島、西表島、与那国島などが帯のように伸びている。
斉田の脳裡の裏に展開される光景は、それら島々を山の頂として、日本列島のような大きな島が台湾の方まで伸びている事だ。
「先祖たちが居を定めたのは、与那国島の周辺の平野だ」
現在この地は海の底に沈んでいる。近年与那国島の海底に、ムー文明の遺跡ではないかと騒がれている巨石の遺構が発見されている。
沖縄はかって琉球と言われた。。だが宮古島や西表島と並行して存在する与那国島のみに、国の名前がついている。ここはかって、繁栄を誇っていた巨大な帝国があったのだ。
太平上にかってあった帝国は、今、ムーと呼んでいるが、与那国のヨナ帝国というのが正しい。
「我々の先祖は、ここでヨナ帝国の再興をはかった」
エジプト、インド、インカ、中国に散らばった同朋とも連絡を取り合う。かってのヨナ帝国の繁栄を呼び戻そうとした。
与那国はその中心的な存在となった。沖縄群島から台湾方面まで、巨大都市の海底遺跡が発見されている。当時世界の中心がこの地にあったからだ。
今から5千年前、先祖が築いた与那国が海底に没する。地中の先祖達は九州や本州、四国へと陸続と移動する。その地に住む原住民と融和していく。それから2千年以上の長きにわたって平和を享受する。
四国に居を構えた地中の先祖達は祭司の役目として、日本各地に残る山岳宗教の、神社形態を普及させていく。
神社の特徴は鳥居をくぐると拝殿がある。拝殿の奥に神殿が鎮座する。神殿のさらに奥には小高い山が聳え立っている。太古、朝鮮半島から現在の神社形式が入ってくるまでは、鳥居や神殿は無かった。拝殿の奥の山を神の鎮座地として崇拝するのである。山には必ず巨石がある。その巨石こそが神の依代なのである。
四国に永住を決めた先祖は、宗教を媒介として、日本各地に隠然たる影響力を行使する。
時が流れる。2千数百年前から、朝鮮半島を通じて大陸の力がこの島国に影響を及ぼす様になる。
日本列島は単一民族などと唱える学者がいる。
この島国は文化、民族移動の吹きだまりの場所だ。あらゆる民族の融合の国だ。北から南から他民族が押し寄せている。
日本が単一民族の要素を持ち始めるのは、平安時代の末期だ。それ以前は中国、朝鮮半島の歴史を語らずして、日本史を語る事は出来ない。
話を元に戻す。
日本列島への民族移動は太古の時代から行われていた。ただそれらは数百人、数千人規模で、原住民と融和していた。
2千数百年前、その様相がガラリと変わる。数万人規模の、軍隊を引きつれた民族が矢継ぎ早に上陸してくる。彼らが日本列島にやってくるのは、当然の事ながら安住の地を求める為である。
だが、動機は先住民を力で支配しようとするものであった。
その顕著たる民族は、スサノオを長としたユダヤ系、漢民族だった。彼らは出雲に進出後、時を経ずして、九州全土に進攻。その子ニギハヤヒは近畿地方に勢力を伸ばす。その地方の支配者、ナガスネヒコと融合して、大和朝廷を確立する。
ニギハヤヒ死後、新たな支配者が大和朝廷を襲う。九州日向の神武天皇である。この一族は朝鮮半島の扶余(後の百済)から渡来してしている。甚だ好戦的で、征服欲の強い民族だった。
彼らが後の天皇家として日本に君臨した頃、我ら先祖は歴史の表舞台から姿を消すことになった。
斉田の脳裡は様々な映像が目まぐるしく展開している。不思議な事だが、身体は眠っている。心も眠っている。普通に睡眠状態でありながら、夢見状態の中で、意識だけが覚醒している。眼が覚めた後、生々しい夢を見ていたと感ずるかも知れない。
そんな夢の中で、
・・・何故、地上の権力者に成らないのか。陰で権力者を操るというが、どうやってやるのか・・・色々な疑問が湧いてくる。
その度に、女の澄んだ声が天から響いてくる。
「平家物語の冒頭にあります。盛者必滅、おごれる者、久しからず、私達がどんなに巨大な権力を得ようと、いつか滅びる時がきます」
この世の権力は、それを奪い取ろうとする者が現れる。それらの勢力と対抗するためには、膨大なエネルギーが必要になる。10年、20年の間なら権力を維持する事は可能だろう。しかし百年、2百年と、勢力を注ぎ込む事は無理がある。
万世一系と謳われた天皇家も、今は、悪い言い方をすれば国民の税金で養われている状態だ。
闇の中で勢力を拡大していく。誰にも気づかれないから、エネルギーの消費は少ない。その時代の権力者に迎合していくために、その精神的支柱ともいうべき、神社仏閣を積極的に建立していく。
代が変わる。権力者の力も衰える。次なる権力者となるべき者を捜し出して投資する。時には権力者が我々の意に染まぬ動きを取った時滅亡させる。
我々が時の権力者に関与する方法は、実に簡単だ。
あなたには、もう示してある筈だ。判らなければ言おう。
あなたの心中は全部読まれている。
名古屋市の古本屋で〝天皇家の大秘密政策”の本を買った。あなたは自分の意志だと思っているのか。ここまでやって来たのも、来たいからやって来たと思っているようだが、すべて私の、というより、この部落の闇の一族の意志だ。人の心を操る事など、我々には、赤子の首を絞めるより易い。
「斉田一郎、あなたは我々が選んだのだ・・・」
声が消える。夢見の意識も消える。深い睡魔におそわれる。
斉田が目を覚ましたのは、夜の8時頃だ。
「起きましたか?」
声に促されるようにして身を起こす。ソファに横になっていたのに気付く。3~4時間熟睡してたようだ。生々しい夢を見ていた事は判断できるが、夢の中味は思い出せない。何かとてつもない内容だったとしか思い出せない。
「ごめんなさい。無作法をしまして」斉田は声をかける。
女は台所で夕食を作っている。
「風呂が沸いてますから、入って下さい」親しみのある声だ。まるで、長い間2人がここで生活しているような雰囲気がある。
「入ります」湯につかるのが当然のように、指示された風呂場に向かい。風呂桶はステンレス製だ。脱衣場で女の声がする。
「ここに着る物を用意しておきます。これを着てくださいね」
フロから出る。脱衣場に上がる。斉田が着ていたトレーナーが片付けられている。代わりに、麻で作った紺の作務衣が置いてある。それを着て応接室に入る。
女は朱の作務衣姿である。テーブルには夕食が整っている。
「食後、神社にお参りに出かけます」
女の声には有無を言わせない強さがある。斉田は大の男でありながら、子供のように頷く。
テーブルの上の夕食は、茶碗に一杯の玄米食とお新香、それにみそ汁。まるで朝食だ。
大食漢の斉田には、おやつに等しいが黙々と食に着く。
「ご飯は一口百回は噛んでくださいね」女も黙々と箸を動かす。
一口口に入れて百回噛む。香ばしい香りが口一杯に拡がる。茶碗一杯の飯など5分もあれば平らげてしまう。百回も顎を動かすと、20分以上はかかる。みそ汁を飲んで、食べて終わると程よい満腹感に襲われる。
お茶を飲みながら、女は「私、地中咲子。さきと呼んで下さい」斉田は頷くのみ。
「それでは出かけます」
言われて玄関を降りる。斉田のスニーカーは片付けられている。草履が置いてある。
外に出る。篠突く雨はすでに上がっている。空には満天の星が輝いている。東の方に満月が昇っている。
さきに連れられるようにして〝表通り”に出る。
斉田達が外に出るのを待っていたかのように、人々が家から出てくる。男は紺の作務衣、女は朱色である。子供もいれば老人もいる。若い男女もいる。部落民は総勢200人という。彼らは群れをなして、神社の赤い鳥居に向かって行く。
道路の所どころに電柱が立っている。街路灯が淡い光を落としている。
斉田は歩きながら、街路灯に照らされた道に目を落とす。「えっ!」内心声をあげる。
道は乾いている。4時間ぐらい前に激しい雷雨に見舞われた筈だ。道路がぬかるんでいてもおかしくはない。
「さきさん・・・」
斉田の横にいる女の手を引っ張る。道路の地面を指さす。
「何ですか?」さきはは怪訝そうな顔で斉田の顔を覗き込む。
「先ほどまで雨が・・・」
「雨?、降ってませんよ」言うなり、さきはすたすたと歩きだす。
「降っていないたって、じゃ、あれは・・・」
斉田はその場に呆然と佇む。さきが振り返る。
「あれは幻覚よ」
「幻覚って・・・」
さきが早く来いとばかりに手招きする。斉田は操り人形のように歩き出す。
村人が三々五々、神社の石段を登って行く。赤い鳥居や数十坪の境内地はどこにでもある神社だ。階段も数十段あろうか、取り立てて特徴がある訳でもない。その階段とても、地面に石を積み上げただけのものだ。階段の所どころに、裸電球が輝いている。足元も明るい。
さきに先導されて階段を登る。登るにつれて斉田は驚嘆の声をあげる。石ころだと思っていた足元の石が一枚岩を削って作り上げたものだ。
階段を登り詰めると、そこは数百帖にも及ぶ広大な敷地であった。中央に十坪程の平屋の小屋が建っている。その他には何もない。
村人は小屋を取り囲むように座を占める。点々と篝火が輝いている。地面を踏みしめて、斉田は絶句する。一面磨き抜かれた岩肌だ。
さきが振り向く。斉田の疑問を察して言う。
「このお山は巨大な岩山です」
ピラミッドの頂上の、3分の1を切り取った格好である。周囲は鬱蒼たる樹木で覆われている。遠くから見れば、たたのお山でしかない。
「この山が、我々の闇の力の拠り所です」
斉田の頭の中は混乱している。さきの言葉は飛躍しすぎて理解に苦しむ。
さきは斉田の手を取って、小屋の方へ歩く。
小屋は広場のほぼ中央に位置している。さきは篝火の中から火のついた松の枝を取る。斉田と共に小屋の中へ入る。中は空っぽだ。中央に石段がある。さきは斉田の手を握ったまま、石段を降りていく。
十段ほど降りると、高さ2メートル、幅3メートル四の広さの空間がある。篝火が消される。真の闇となる。
「作務衣を脱いで」闇の中でさきの声がする。着物を脱ぐ音がする。斉田は言われるままにする。
何のためにこんなことをするのか尋ねたかったが、底知れないさきの力が、斉田を圧倒している。
さきは斉田の作務衣を取り上げると、地面に敷いているようだ。その気配が伝わってくる。
さきは斉田の手を握りしめる。
「横になりましょう」斉田を促して地面に横になる。さきも裸のようだ。
2つの体は1つになる。
「一体何が・・・」斉田が声を出す。その口をさきが制する。
「私を抱いて・・・」さきが呟く。さきの小柄な体を抱きしめる。途端に体中に熱い血潮が駆け巡る。それは焼けるような体感となって、体中の毛穴という毛穴からほとばしでる。
意識がもうろうとしてくる。体が軽くなる。宙に浮いているような感覚に襲われえる。全身が白い光りに変身していく。至福が彼の全身を包み込む。
気が付いた時、斉田は小屋の外に横たわっていた。どれ程時間が立ったのか判らない。周りには2百名近い村人が彼を囲んでいる。彼らは老いも若きも、座禅を組んでいる。眼を瞑ったまま、身じろぎしない。斉田の横にさきがいる。彼女も不動の姿勢だ。斉田は起き上がる。
南の空に満月が輝いている。風1つない。動くものと言えば篝火の炎だけだ。
斉田は両手を高々と上げる。30代の頃に戻ったような、精力の張りが全身に満ち溢れている。
地面の岩から、巨大なエネルギーが天に向かて放出されている。村人の1人1人からも強烈な気力が、斉田の体内に降り注いでいるのだ。
今の斉田にはそれが知覚できるのだった。
平成12年2月上旬、斉田一郎は、地中さきと結婚。斉田61歳、さき20歳。2人で街を歩くと、お嬢さんですかと問われる。いえ妻です。斉田は照れ笑いで会釈する。
地中改め、斉田さきは小柄な体に、髪を後ろに束ねただけの、飾りつけの無い風貌をしている。大きな眼に引き締まった唇からは、童女がそのまま大人になったような雰囲気を漂わす。服装も地味だ。
一方の斉田は体が大きい。精悍な顔立ちだ。近寄りがたい雰囲気だ。商売上、それがマイナスに作用するので、努めて柔和な表情を絶やさない。
四国から帰ってきて、変化が生じている。さきと結婚したことが大きな成果だが、彼自身の肉体の変化も著しい。白髪がなくなっている。髪の艶も出ている。肉体も40代に戻ったように若々しい。
もっと驚くべき変化は精神的なものだ。人の心が読み取れるのだ。ただし、さきのように、明確な判断は出来ないが、何となく判るようになっている。
仕事上、この人物と付き合ってよいものかどうか、本能的に判る。それも必ず当たる。
さきや四国の鍵掛部落民と、電話などの機械的な手段を用いずに、意志の疎通ができる。彼らの声が、耳元で聞こえる。伝えたい事を、頭の中で声として発信する。次の瞬間返答が届く。
仕事上においても謙虚な発展がみられる。
3人いた営業社員が退職する。入れ替わりに、5人の社員が入る。彼らは実によく立ち働く。
さきの接する時、彼らの態度は時代がかったほど恭しい。彼らは闇の組織に派遣されたメンバーだと知る。
仕事は順調に発展していく。びっくりするような発展性はないが、着実に売り上げが伸びていく。
親子のような夫婦は、当初近所の注目の的になっていた。斉田一郎の腰の低さと、さきの物静かな印象が好かれて、話題にも上がらなくなる。
斉田は四国から帰った後の〝人生の目的”を知らされる。
将来、常滑の地に闇の組織が根を張る。その礎石になる為だと言われる。
「何故、私が・・・」選ばれたのかと問う。
さきは眼を細めて笑う。今年の末頃、さきは女の子を産むという。斉田一郎との子である。
生まれる子は将来、日本の闇の組織の統括者になる。斉田一郎の種だからこそ、その子は生まれること出来る。
「私以外の男では駄目だというのか」
さきは20歳にしかならないのに、深い知恵と知識を有している。
人にはそれぞれ宿命と運命がある。運命は本人が自覚すれば変える事が出来る。金持ちになりたければ、死に物狂いで努力すれば金に恵まれる。一流の大学に入りたければそのつもりで勉強すれば入学できる。
宿命は努力しても叶わぬ人生である。天分と言われるもの。才能なども含まれる。芸術など、天才と称される人々の域に到達する事は、凡人では無理だ。
「あなたは・・・」さきは斉田の手を取る。大きな瞳で慈しむように見る。
性格的にも才能なども、どれをとっても平々凡々な人。でも、あなたには他の人に無い、優れたものがたった1つある。それは子種・・・。
斉田は思わず笑ってしまう。おかしいのではない。自分が種付け馬のように思えて、自嘲的に笑ったのである。
「でも何故、今頃・・・」
彼は61歳になる。種付けは出来るかもしれないが、先は短い。子供の成長を楽しみにする時間の余裕が少ない。子供が成長した頃、介護施設で痴呆生活を送っている可能性が大だ。
さきは斉田の質問をさもおかし気に笑う。
「1年前と今のあなたは、どう違う?」
言われてみて、肉体的にも精神的にも若くなっている。白髪が消え、肌にも艶が出ている。気力も若々しい。さきを抱きしめる腕にも力がこもる。
それに――と、さきは諭す様に言う。ものには、いつも時期というものがある。春にならないと芽は出ない。秋でないと刈り入れは出来ない。
今の斉田の歳が、子供を作るのに最良の歳だというのだ。
それにしても・・・。斉田は寂し気に呟く。
種付け馬で終わる人生なんて味気ない。
さきは白い歯を見せて、爽やかに笑う。
「あなたはもう、闇の組織の一員、これから働いてもらうわ」意味ありげに言ううのだった。
平成12年6月、斉田さきは、出産のために、四国の鍵掛村に帰る。
斉田一郎は元の1人暮らしに戻る。とは言っても寂しくはない。会社は順調に売り上げを伸ばしている。社員たちも身内である。
彼の家は父の代まで土管造りに精を出していた。約千坪の敷地には、古い工場を取り壊して、借家を建てて生計の足しにしていた。借家人約20名。そこから上がる借家賃は月70万円ほど。
さきが斉田家に嫁いでから、古くからの借家人が出ていく。代わりに新しい人が入ってくる。彼らは闇の組織の一員として、斉田家の周辺を固めている。
斉田を守る為ではない。さきを守護するために集められたのである。彼らの職業は様々である。公務員もいれば、常滑の大手タイルメーカー、イナックスの社員もいる。名古屋の商事会社に勤務する者もいる。独身もいれば妻帯者もいる。
斉田家の借家は、斉田邸を中心にして、東西南北に散らばっている。さきが四国に帰っている間は、彼らの主婦が斉田の朝夕の食事を運んでくれる。
彼らは一様に大人しく、礼儀正しい。
――闇の存在とは、決して目立たない事――
闇の組織の信条として教えられている。夜9時頃、斉田はさきとテレパシーによる交信を行う。さきの意識が斉田の全身を包み込む。斉田は今や孤独ではない。
斉田の住所は常滑市山方町。保示の常滑港から、約1キロ東に行った丘陵地帯にある。伊勢が展望できる。常滑競艇場や市役所が一望できる。晴天の日などは、対岸の四日市市の街や鈴鹿山脈がくっきりと見える。
現在、常滑港沖には、飛行場建設のための埋め立て工事が急ピッチで進められている。
工事は海の中だけではない。道路という道路が掘り起こされて、通行の妨げの原因を作っている。
大手ゼネコン、約80社と言われている。狭い常滑に町のあちらこちらに事務所が点在している。
飛行場建設が民間主導のため、莫大な建設費の切り詰めが行われている。少ない費用でいかに効率よく飛行場を作るか、その責務がそのまま大手ゼネコンに課せられる。その為に地元の業者に仕事が回ってくることはほとんど無い。僅かに、地元の土建屋のダンプが市内を走り回るのみ。
大手ゼネコンは、彼らがグループとしてかかえる下請け企業をそのまま常滑に引っ張ってくる。常滑の企業がおこぼれにあずかっているという話は聞こえてはこない。
常滑の地場産業の陶器は勿論の事、小売業や不動産業、建設業など、火が消えたように侘しい。
常滑が潤う事ができるようになるのは、2005年の飛行場開港の、その1年前か2年前になるだろうと予測している。
開港が間近になれば、そこで働く人々や企業が常滑に地に定着する、というのが大方の予想なのだ。
平成12年9月に入る。奇妙な噂が、不動産屋仲間を駆け巡る。知多市から美浜町までの間ならどこでもよい。5万坪の土地を探して欲しい。価格は問わない。仲介手数料も正規の費用で支払う。常滑に限らず、知多半島中の不動産屋のファックスを通じて情報が流れていた。農地でも山林でもかまわない。その間に公道があろうと問題ないというのだ。
その情報元は名古屋の大手不動産屋。ちなみにその不動産屋の担当者に、買い主は誰かと尋ねても、東京の政府関係者というのみで、公表は出来ないという。
奇妙というのは、もう1つ理由がある。5万坪などという大きな土地は半端ではない。町の不動産屋がたやすく扱える代物ではない。大手不動産屋の情報網を利用したほうが速い。
そう思って、半田市内の某不動産屋がN鉄不動産を紹介する。それに対する返事が奇妙というより、奇怪なのだ。
5万坪の土地についての情報は、すでにN鉄不動産にも入っていた。知多半島内の、N鉄不動産の自社物件をその名古屋の某不動産屋へ持っていく。数日足らずして断られたというのだ。
N鉄不動産は昭和20年代後半から、将来の大型分譲住宅地の団地計画を画策していた。知多半島内の土地を買い漁っていたのだ。
10年前、斉田は常滑市内で、ささやかな分譲住宅を手掛けたことがある。道路拡張のため、N鉄不動産の所有地の売買を推し進めた事がある。
たった1坪の土地だ。N鉄不動産の名古屋の本社にかけあった。返事は以下の通り。
――N鉄電車グループの方針として、土地は買うが、1坪たりとも売らない――というものだった。
斉田にとって幸いだったことは、昔から懇意にしている常滑の市議に、N鉄不動産との仲介を依頼した事だ。
この市議は、常滑でも5本の指に入る大地主の1人として知られている。N鉄電車にも多くの土地を貸している。N鉄電車グループ本社の社長とも昵懇である。彼の顔ききで、1坪の土地を買う事が出来た。
この時はじめて、N鉄という会社の実体を知る事が出来た。
平成12年現在の不況によるデフレ効果で、土地の価格が下落している。N鉄不動産としても、知多半島内の膨大な土地を処分したいはずだ。だからこそ、いち早く自社物件の情報を提供したのだ。
それが、すげなく断られる。
――一体どういう事なんだ――奇々怪々な情報が不動産屋を周辺を飛び回る。
5万坪を買いたいという真意はどこにあるのか。憶測が飛び交うものの、真意は謎のままだ。
斉田もその憶測に挑戦してみるが、多少超能力が身についたものの、歯が立たなかった。
やむなく、さきに尋ねてみる。尋ねると言っても電話ではない。以心伝心、テレパシーである。
さきは答える代わりに「今に判るわ。私達の力が・・・」謎のような反応が返ってくる。
平成12年10月。
斉田一郎の会社、斉田不動産にN鉄不動産から電話が入る。社長の斉田に折り入って相談したい事があるというのだ。
「用とは何だろう」斉田は逞しい体格の割には神経が細かい。良く言えば気配りが効く。商売柄、神経質になってしまう。
斉田不動産に来るという相手は、N鉄不動産の副社長というのだ。町の小さな不動産屋とは格が違う。N鉄電車グループの一翼を担っている。愛知県でもトップクラスの不動産屋だ。斉田は不安と緊張の入り混じった気持ちで、約束の日を迎える。
斉田不動産の事務所は、半田と常滑を結ぶ有料の横断道路の出口近くにある。将来飛行場の開港に伴い、道路の拡張が予定されている。その入り口に印刷屋がある。その北奥に斉田の会社がある。常滑市役所まで車で5分という地に利に恵まれている。
朝10時、黒塗りの高級車が斉田不動産の駐車場に入る。駐車場と言っても、車が4台も入れば満杯である。2階建ての粗末なプレハブだ。
運転手付きのクラウンの後部座席から恰幅の良い、金縁眼鏡をかけた初老の紳士が降りたつ。グレーのダブルのスーツに身を固め、小柄だが、どことなく相撲取りを連想させる。後ろに黒のダブルのスーツの若い男を従えている。
斉田不動産は南東角の自動扉を入ると、北側に社長や社員の机が並ぶ。玄関と事務机の間にカウンターがある。玄関横に間仕切りがある。その奥が応接室になっている。
恰幅の良い男は、小さな体を90度近くまで折り曲げて頭を下げる。
「斉田社長さん、お見えでしょうか」女のような声だが張りがある。
斉田はカウンターの奥から出ると、玄関先で「斉田と申します。お待ち申しておりました」彼も相手に負けぬほど深々と頭を下げる。
「私、こういう者です」N鉄不動産の副社長は、内ポケットから名刺を取り出す。
「いやいや、これは」斉田は恐縮する。あわてて名刺を差し出す。
玄関先の応接室に案内する。すぐにも事務の女の子がお茶を運んでくる。
無駄口は叩かない性分と見える。初老の副社長は、6分程の白髪の混じった頭に手をやり、大きく横に張った鷲鼻を撫ぜつける。小さな眼をパチパチさせる。たるんだ頬の肉が、気持ち震えてる。
忙しない、というか、落ち着きのない表情をしている。緊張しているのか、ぶ厚い唇がピクピㇰ動く。
――何用か――緊張しているのは斉田も同じだ。
大手不動産屋の雲の上の人が、こんなはきだめみたいな所まで、わざわざ出向いてくる。尋常ではない。会いたくても会えない大物が、、自分と同じように固くなっている。
斉田は、副社長の側に腰を降ろしている、秘書にどうぞとお茶を勧める。
「実はですね」副社長は瞬きもせずに、斉田の顔を見つめている。斉田の顔に何かついているのか、不思議なものでも見る様に、見つめているのだ。
「私共の、河和から南知多町、美浜町にかかる5万坪の土地を、買っていただきたいのですが・・・」
金縁眼鏡の奥から小さな眼がキラリと光る。真剣な、というより、どことなく深刻な顔付だ。
「えっ?」斉田はとっさも事でよく呑み込めない。不思議な顔で相手を見る。冗談にしては度が過ぎるし、冗談を言うためにN鉄不動産のエライ人が来るわけはない。
「一体、どういう事でしょうか」
買えと言われたところで、買う金などない。しかも相手が相手だ。何かの夢でも見ているような気持だ。
・・・こんなこと、現実だろうか・・・頭の中がパニックになりそうだ。
副社長は斉田の反応に関わらず、
「1坪1万円、総額5億円でお売りします。それでご承知願いたい」
テーブルに両手をついて、顔がテーブルにくっつくくらいに頭を下げる。側の秘書の男が、スーツケースから土地の図面や不動産の売買契約書を取り出す。テーブルの上に拡げる。
「ちょっと待ってください。一体どういうことか、よく説明して下さいよ」
いきなりやってきて、土地を買え、5億円でどうだと迫ってくる。うろたえてストップをかけるのが当然なのだ。
「お気持ち、よく判ります。これは上からの命令ですので」副社長は泣き出しそうな顔で言う。
「何もきかず、ここにハンコを・・・」と頭を下げる。
「でも、5億何てお金は・・・」ある訳がない。買うに買えないのだ。
「お金は要りません。ある筋から、頂く事になっておりますから」
瞬間、斉田はさきの顔を思い浮かべる。
副社長は補足する。N鉄不動産が斉田不動産に土地を売る。ある筋の方が、その土地を斉田不動産から買う。
不動産業界で言うところの中間省略による不動産売買契約だ。通常はAからBが土地を買って、Bの所有地とする。次にBからCに売る。この方法だと、AからBに土地が動く時に、登録免許税や代書屋への手数料がかかる。BからCに移す時にも費用がかさむ。
それでAからB、BからCの取引でありながら、実際はAからCに所有権を移す方法が取られる。こうすればBが負担する費用が節約できる。この時代、この方法は法律的には違法ではなかった。
「判りました」斉田は頷く。
副社長の顔に安堵の色が浮かぶ。
「有難うございます」改めて深々と頭を下げる。
「ただし・・・」と頭を上げながら付け加える。自分がここに来た事も、売買の話も他言無用、厳しい表情で言う。
N鉄不動産の副社長が帰った後、斉田はソファに腰を降ろしたまま、天井の蛍光灯を眺める。
4人の社員と女子事務員が、周りに寄ってくる。
「社長,良い話で結構でしたね」笑顔で言う。彼らは皆闇の一族の者だ。
闇と言っても、斉田はその実態を把握できずにいる。
四国の片田舎の部落民が、闇一族だと聴いてもピンとこない。ましてや彼らの力がどれほどのものかうかがいしれない。
N鉄不動産のエライ人が直々に斉田不動産に挨拶に来る。N鉄の土地を買ってくれ、代金は別のところから貰うと言うに及んで、斉田は漠然とではあるが、自分の想像を超えた力を実感したのだ。
斉田不動産の社員は、N鉄不動産の副社長が来社する事を驚きもしない。至極当たり前の事のように受け入れている。
――これからなにが起こるのか――
試しにと、斉田はN鉄不動産が名古屋の某不動産屋に提示した金額はいくらなのか、探りを入れる。その答えは簡単に判る。判ると言うよりも、名古屋周辺の不動産屋の間では噂で持ち切りの情報だった。
N鉄不動産は坪5万円を表示した。具体的な売買の話が出たが、突然、N鉄不動産の方から白紙撤回の意志表示がなされた。
某不動産屋の社長は言う。5万という価格は高くもなければ安くもない。適正な価格だと付け加えた。その後6万でも買うと言う会社が現れたが、N鉄不動産は最早済んだ話と一蹴した。
N鉄不動産は取得した土地は分譲住宅地なり鉄道の沿線の利用なりに活用してきた。売りに出す事はまずない。それなのに一旦取得した5万坪の土地を売りに出して、元のさやに納めてしまった。その真意は不明。
N鉄不動産が自社物件を手放すという情報が流れる。名古屋中の不動産屋は騒然ととする。そして売買は中止となる。その騒ぎが収まったころN鉄不動産が斉田不動産にやってくる、5億円の物件を1億円で買えと言う。
こんなことは常識ではありえないのだ。
25億円で売れる土地を5億円で手放す。そうせざるを得ない何かがN鉄不動産にあったという事だ。
斉田は闇の組織の底知れぬ巨大さを肌で感じることになる。
2週間が立つ。朝10時に斉田不動産の電話が鳴る。
「東京千代田区の環境衛生財団と言います」
澄んだ女の声だ。内容は、2週間前にN鉄不動産から買い取った5万坪の土地を譲っていただきたい。N鉄への支払いは終わっている。残金として20億円、所有権移転と当時に支払いたい。ついては、東京までお越しいただきたい、というのだ。
電話で了承した後、斉田の頭は目まぐるしく動く。
何もせずに20億円が入ってくる。実印と印鑑証明、会社の登記簿謄本を持っていくだけだ。しかも相手は交通費、宿泊費として10万円出すと言う。いたれりつくせりだ。
試しに環境衛生財団なる組織を調べてみる。政府の外郭団体としても、財団としても存在していない。しかし住所は、皇居の東北、三宅坂にある憲政記念館となっている。
2日後、斉田は東京に出かける。言われた場所に直行する。東京へ行ったのは30年も昔の事だ。友人の結婚式に招かれて以来だ。
歳をとると名古屋へ出かけるのも億劫になる。ましてや東京となると、二の足を踏む。とは言っても、仕事だからそうも言ってはいられない。
指示された場所は東京の中心地だ。
北に皇居を控え、南手前に最高裁判所、国立図書館、衆参両議院会館、国会議事堂がひしめいている。官庁街だ。
斉田は紺のダブルのスーツを着ている。今日の為に新調している。
体が大きくて、精悍な表情だ。眼光が鋭い。唇が厚いので、スーツもダブルで決めると、やくざの用心棒のようだ、ぽっとでの田舎者が、東京の雰囲気に負けまいと背伸びして歩いている。威圧感があるだけに、道を歩く人は、彼を避けて通る。
斉田本人は威風堂堂たる余裕などある筈もない。緊張のあまり、顔がこわばって、目が釣りあがり、ぎくしゃくしたロボットのように歩いているだけだ。
斉田が到着したところは憲政記念館。受付で常滑の斉田不動産と名乗る。用件はすでに伝わっていると見えて、受付の中年の男性が「どうぞ、こちらへ」と案内してくれる。
建物は鉄筋でかなり古い。人の出入りが少ないと見える。憲政記念館だから、法律上の歴史館のようなものだ。そういった展示物が奥にあるらしい。
シルバーの制服を着た受付係は、別棟の方へ案内する。天井に蛍光灯があるとは言うものの、雰囲気は薄暗く、じめじめしている。願い廊下を挟んで部屋が並んでいる。
廊下の一番奥の北側の部屋に、縦10センチ、横3センチ程の木札が貼ってある。小さな字で、〝環境衛生財団”と書いてある。
受付の係員はドアをノックして開ける。
「お連れしました」馬鹿丁寧に頭を下げる。
「どうぞ」斉田を部屋の中に招き入れると、彼は元来た方角へ引き返していく。
斉田は大きな眼をかっと見開いて中に入る。
「どうぞ、お待ちしておりました」
髪の短い、うりざね顔の女性が、こちらへと応接室に案内する。部屋の中が広いようだ。
ドアを入った所にカウンターがある。その奥に事務机が2つ並んでいる。窓際に一段大きな机がある。
周囲には事務用の戸棚がびっしりと並んでいる。その中には書類がびっしり入っている。カウンターの奥のもう1つの事務机には、若い女性がパソコンのキーボードを忙しなく打っている。斉田の方をみて、軽く会釈をする。
カウンターの左右に部屋がある。1つには理事長室の名札がある。もう1部屋が応接室になっている。
応接室に案内される。髪の短い女性は、目鼻立ちの整った清々しい顔をしている。
「こちらでお待ちになって下さいませ」深々と頭を下げて、部屋を出ていく。入れ違いに、カウンターの奥でパソコンのキーボードを打っていた若い女性がお茶を運ぶ。テーブルにお茶をおくと、軽く会釈して退出する。
待つ事10分、ドアが開く。
「お待たせして申し訳ございません」
紅顔の美少年と間違える程初々しい表情をした好青年が顔を出す。グレーのスーツに花模様のネクタイを締めている。細めの体にぴったりと合う服装だ。
髪を中央で分けている。眉が濃い。大きな眼に、女のように朱に染まった唇が美しい。後ろに先程の髪の短い女を従えている。
斉田ははじかれた様に席を立つ。内ポケットから名刺を取り出す。
「まま、どうぞ、お座り下さい」男はやんわりと、斉田の差し出す名刺を突っ返す。
「良く存じあげております。それに私共も自己紹介を致しかねます。
ただしと男は念を押す。名前がないのも不便ですから、仮に山本とでも申し上げておきます。
山本と称する男は髪の短い女と共に、ソファに腰を下ろす。
「先に用件を済ませましょう」
斉田に、実印や印鑑証明書などを出す様に促す。
女は赤い各封筒から、不動産売買契約書を2通、テーブルの上に拡げる。
売主の契約者の事項を指さす。
「ここに、住所とお名前、実印を・・・」手短に話す。
斉田も不動産屋のはしくれだ。契約事項は心得ている。書き終わると、女は買主の事項に、ゴム印と印鑑を押す。
――環境衛生財団、理事長、奥山利三郎――
「契約書の1通はそちらに」言いながら、女は赤い角封筒に契約書を入れて、斉田に手渡す。封筒には何も記されていない。
「代金は東海銀行常滑支店に振り込みました。お確かめください」
男は20億円の振り込み依頼書のコピーを手渡す。
男は大きな眼で斉田を見ている。斉田は2人の表情をみて戸惑う。
2人の表情は親しみのこもった、畏敬の念が感じられる。
「くどいようですが・・・」男は釘を刺す。
ここに来た事は他言無用。斉田は頷く。男は微笑する。
「ところで、さき様はお変り御座いませんか。お世継ぎ様ご誕生で、万々歳です」
2人は立ち上がる。斉田に向かって、深々と頭を下げる。
・・・彼らも闇の組織の一員か・・・
20億円の金の出所は問うべきではない。この金がどんな金であったにしろ、常滑における闇一族の軍資金となるのだ。
常滑に飛行場が出来る。世界各地との交流も盛んになる。人も物も行き来が激しくなる。闇はその中に溶け込んでしまう。
光があまねく世界を照らす。闇は消えてしまう。それが闇一族の本来の姿だ。
世の中が動乱となる。世の光が消えた時、闇の力は動き出す。自らの存在を消し去るために、平和と繁栄を造り出す。太古の昔から、闇一族は、巨大な力を蓄えながら、社会の隅々まで根を張って来た。
斉田は闇の一員として、さきの夫として、闇の目的を自覚している。
平成12年12月中旬、さきが女児を連れて帰ってくる。その表情は、相変わらず少女がそのまま大人になったようなあどけなさが宿っていた。
幼妻、人ごみに紛れてしまえば、判らなくなるほど平凡な女だった。
平成12年も終わる。年が明ける。お屠蘇気分が抜けきらぬ、正月の初旬に、2つの情報が飛び込んでくる。
1つは、将来北陸自動車道が延長される。その予定地に入っていたN鉄不動産の所有地が買収された。
価格は1坪千円未満の価値しかないのに、1坪1万円で買い取られた。N鉄は30数億円の金が転がり込む。
もう1つは、環境衛生財団が購入した、旧N鉄の所有地は、政府系の特別法人が35億円で手に入れている。
将来、中部国際空港開港を見据えて、知多半島の南端に、大型リゾート施設を建設すると言う。
ただしこれらの情報は、テレビや新聞で報じられる事はない。
報じられるとすれば、これらの計画が具体性を帯びて、政府の予算がついてからになる。
その時に環境衛生財団も斉田不動産の名前も出る事はない。
―― 完 ――
お願い――この小説はフィクションです。ここに登場する個人、団体、組織等 は現実の個人、団体、組織等とは一切関係ありません。
なおここに登場する地名は現実の地名ですが、その情景は作者の創作であり、現実の地名の情景ではありません。