018
ずっとシュブ=ニグラスの倒し方が分からなかったんです。
無明の霧が僕を覆い隠す。
無明の霧は暗く、痛く、そして非常に恐ろしかった。
何がと言われれば形容しがたく、しかし、確かにそれに恐怖を感じていた。
神に片足を突っ込んだ存在であるにもかかわらず、僕はこの無明の霧を恐ろしいと思った。それほどまでの力が、この無明の霧にはあった。
これが、邪神。これが旧支配者。
「ぐ……存在昇華……!!」
だから、たまらず僕は力を使う。このままだと無明の霧に飲み込まれる。ならば、自分の存在値を上げて対抗するしかない。この無明の霧を恐れるのが、神としての地力の差なのであれば、その地力を少しでも埋めるしかない。
「――らぁっ!!」
自身の存在を上へと押し上げ、神気を一気に放って無明の霧を吹き飛ばす。
「あら、あら」
驚いたように目を見開くシュブ=ニグラス。
「凄いわ、凄いわ、凄いわ。貴方は誰かしら? いえ、答えは知っているわ。貴方は四番目の勇者。私の目の前にいるのだから、貴方は四番目の勇者で間違いありませんもの。ああ、でもまさか、こんな風に記憶から抜け落ちるだなんて」
興奮したように言葉を紡ぐシュブ=ニグラス。
「ああ、やはり貴方は神を冒涜する勇者なのですね。あぁ、私、昂ぶりが抑えられません」
興奮したように肢体をくゆらせるシュブ=ニグラスとは対照的に、僕は激しく息を切らす。
思った以上にやばかった。この間の存在昇華が無かったら、多分耐えきれなかった。
というか、ナイア達は大丈夫かな? 急に僕の記憶が無くなったわけだけど……。
意識を一瞬だけ外に逸らす。そうすれば、ナイアとクィーンクゥェ、セプテムが先程と変わりなく戦っているのが分かる。
大丈夫、かな? ナイアが少し心配だったけど、動きに変化はないから、多分大丈夫だ。
それよりも……。
僕は熱視線を向けてくるシュブ=ニグラスに意識を集中させる。
分かっていた。邪悪の皇太子が自身を優しい方だと言った事に今更ながらに納得してしまう。
ハスターの攻撃は触腕、自身が操る風、そして魔術だけだった。それが全て一級品のものであったのが始末に悪いけど、このシュブ=ニグラスの方がもっと始末に悪い。
なんで手を払っただけで衝撃波が出せる? 斬撃って飛ばせるものだっけ? 無明の霧って何さ。溶ける液体って何なのさ。
シュブ=ニグラスの攻撃は、ハスターの上位互換と言っても差し支えない。悪辣さもさることながら、その威力も出鱈目だ。存在昇華を使ったのに、まったく勝てる気がしない。
「まったく、本当に君達って存在は出鱈目だよ」
「あら、あら? 貴方もその出鱈目な私達と同類なのですよ?」
「僕は君達程出鱈目ではないつもりでいるけどね」
「人の身で神気を纏う時点で貴方は出鱈目ですよ」
楽し気に笑うシュブ=ニグラス。こちらとしてはまったくもって楽しくない。
「それに、貴方から感じられる神気が先程よりも強くなっている気がします。ええ、先程までの貴方に関する記憶の全てが欠落しているので、気がするだけなのですがね。心なしか違和感を覚えるのです」
「普通の人はまずその違和感すら覚えられないんだけどね……」
エンリの前で存在昇華を使った時、エンリは目の前にいる僕を先程まで話しをしていた人物だと認識できなかった。僕に関する記憶が欠落したとは言え、自分の行動に関する記憶は欠落していないはずなのにも関わらずだ。
現状と記憶に齟齬が無かったとしても、エンリは僕と言う存在を正しく認識できなかった。それが存在昇華の力なのだけれど、シュブ=ニグラスはその違和感を即座に突き留め、目の前に立つ僕が四番目の勇者だと認識する。
そして、僕に関する記憶の全てを失っているにも関わらず、僕から発せられる神気の違いすら見抜いた。
人には無理でも神には出来る。本当に出鱈目だよ、神性ってやつは。
笑いながら、隙を見せる事無くシュブ=ニグラスは言う。
「侮るのは、止めにしましょうか」
「僕としては、侮ってくれたほうがやりやすいんだけどな……」
「これほどまでの神気を持つ者を前にして、誰が軽侮出来ましょう?」
「やれやれ……本気を出されると困るんだけどな……」
「本気を出さなくては私が困ります。私も、まだ死にたくは無いですから」
言った直後、シュブ=ニグラスが触手を振るう。
僕はその触手を最小の動きで避ける。
「私はこの世界の終わりを見ていない。新世界の日の出を見ていない。私は、私の世界に帰ります」
シュブ=ニグラスが手を払う。それだけで衝撃波が飛び、僕を押しつぶさんと迫る。
「そして、それは貴方も同じはずです。私達は、まったくもって同じ境遇。貴方も、貴方の世界に残してきた方々がいるのではないのですか?」
いる。家族がいる。友人がいる。知人がいる。クラスメイトや教師、近所の人。小さい関りから大きい関りまで、僕が残してきてしまった人達はいる。
「でしたら、貴方が選ぶのはあちらの世界でしょう? こちらの世界なんてどうだって良い。元よりここは私達を縛るための仮初めの世界。そして、私達を終わらせる終焉の世界。全ての生命が等しく偽りである虚妄の世界。壊す事に対して、なんら躊躇う必要などないのですよ? それは、貴方もよくご存知のはずでしょう?」
世界の真実に触れた貴方なら。
「ああ、知ってるよ」
知ってる。シュブ=ニグラスの言い分は、全部正しい。全部、リツに教えてもらったから。
この世界が偽物だって。この世界が壊れる定めにあるって。この世界の意味から使用用途まで、全部知ってる。
けど、だからなんだ? この世界に生まれた命は本物だ。この世界に生きている人達は本物だ。
人を愛し、人を憎み、人と手を取り合い、笑って、泣いて、企んで、慈しんで、僕の知ってる人となんら変わらない生き方をしている。彼らが人ではないと誰が言えよう。彼らは正しく人間だ。
「でも関係ない。ここに生きる人達はちゃんと人間だ。僕が守りたいと思った、かけがえない存在だ」
「偽りの命と分かっていても?」
「命に真実も偽りもありはしない!」
言って、感情のままに拳を振るう。シュブ=ニグラスと僕の間には拳が届かない程の距離が存在する。けれど、その距離を埋める事は出来る。
「――っ」
シュブ=ニグラスが慌てて手を振るう。そうして生まれた衝撃波は僕とシュブ=ニグラスの丁度中間あたりで何かに衝突して相殺された。
「それは……」
「なるほど。神気を纏って飛ばせば良いわけか」
今まで神気を纏うだけで、身体から放した事は無かったけれど……なるほど、ある程度の量を込めればこうして遠距離攻撃も可能になるのか。
多分、魔力と同じようなものなのだろう。もっと創意工夫をすればハスターのように神気を消費した術を使えるかもしれないけれど、今は模索をしていられるほど余裕がない。
「悪いね。君のお株を奪っちゃったみたいでさ」
「いえ、いえ。この程度、神であれば誰でも出来る事です。私だけのお株ではありませんよ」
にこにこと嬉しそうに微笑むシュブ=ニグラス。魅力的に微笑むその笑みの真意が分かるから、僕はその微笑みを素直に受け入れられない。
「これで貴方も、ようやく私達と同じ領域に達したという事ですね。めでたい事です」
「別にめでたくは無いね」
今まで、僕は神気を纏っていた。けれど、その神気はハスターにも劣るものであり、旧支配者に並びたてるようなものではなかった。
けれど、先程の存在昇華で、ようやっと僕は旧支配者に並び立ってしまったのだ。
もはや繕う事は出来ない。僕は、完全に神と同じ領域に至ってしまったのだ。
パチパチパチ。優雅にシュブ=ニグラスは拍手をする。
「おめでとうございます。これで貴方も正真正銘、私達と同じ神の仲間入りです。ようこそ、神域へ」
その言葉に含みは無く、シュブ=ニグラスは心底から僕を祝福する笑みを浮かべる。
「さぁ、人間に固執していた貴方はとうとう神になられてしまったわけですが……それでも、貴方は人を守りたいと思うのですか? 人間と神は共存できない。それは貴方もご存知でしょう?」
こつこつと蹄を鳴らしながら、シュブ=ニグラスは舞台女優のように玉座の間を歩く。
「貴方もご存知、この世界はとある人間が作った虚妄の世界。私達神を封じる封神の世界。何故その人間が私達を封じたのか、貴方はご存知ですか?」
「知っているとも。君達が邪神だからだ。邪神と人は共存出来ない。そもそも、共存をしようとさえ思っていない君達は共存の道を選びはしない」
「その通り。私達は人と共存しようとは思いません。他の神々のように、私達は信仰が無くては存在できない程脆弱ではありませんからね。人など、居てもいなくても、変わりはしないのですよ」
「なら、地球に固執する意味も無いだろう?」
「いえ、いえ。ありますとも。固執する理由は十分にあります。貴方は、エイボンという人間をご存知ですか?」
エイボン。その人物の名前を、僕は知っている。
「僕の思い違いじゃなかったら、大魔導士エイボンの事で間違いないかな?」
「ええ、ええ。その認識で間違ってはいませんよ」
大魔導士エイボン。ハイパーボリア大陸に生きていた、一人の人間。僕らの世界ではハイパーボリア大陸は架空の地名になっているけれど。
エイボンの書。またの名を象牙の書。世界最高峰の魔導書の著者が大魔導士エイボンである。
「エイボンは本当に素晴らしい魔導士でした。ええ。大魔導士と呼ばれるに、相応しい程の実力を持っていましたとも」
「君は、そのエイボンに復讐でもしたいのかい?」
「まさか。もはやエイボンは過去の人物。死んだ相手に復讐などできようはずもありません」
くすくすとシュブ=ニグラスは笑う。
「私は、人間達、そして魔女に崇拝されていました。人間達は、山羊の頭を拵え、私を呼ぶ儀式を日夜行っておりました」
懐かしむような声音に温かみは無い。ああ、そんな事もあったなと昔を思い出しているだけである事は、常と変わらない胡散臭い笑みを見れば一目瞭然であった。
「私としては答えても答えなくとも良かったのです。ただ、その時は、そう、気まぐれでした。私も人間という者に興味があり、丁度良く儀式をやっていたものだから、私はその召喚の儀に応じたのです」
その割には、僕の世界にはなんの爪痕も無い。シュブ=ニグラスが召喚に応じたのであれば、それ相応の爪痕が世界に残るのは必然であろうに。
であれば、シュブ=ニグラスが何もしなかった。あるいは、何も出来なかったのだろう。
「人の身を模してクン・ヤンという地に降り立ちました。人間達は喜び、私に供物を捧げます。果実、動物、書物、金銀財宝。果ては人間なども供物に捧げました」
「聞く限り、かなり反吐が出そうな話だ。人間を捧げるなんてどうかしてる」
「ええ、ええ。けれど、そうしなければならない程、クン・ヤンの地は荒れていました。私は万物の母。黒き豊穣の女神。私の知恵と知識、力があれば、どんな荒れ地も豊穣の楽園へと生まれ変わります」
邪神と言えども、シュブ=ニグラスには豊穣の神としての一面がある。そして、その力は本物であり、その恩恵もまた本物だったのだろう。
基本的に、旧支配者は人間の敵だ。旧神のように人との利害の一致により手を貸す、などという事はまずあり得ない。
人に害をなす存在。それが邪神だ。
だというのに、シュブ=ニグラスは人間に手を貸したという。そして、彼女は人間を模して召喚に応じたと言った。という事は、つまり――
「豊穣の楽園で、私は一人の男と恋に落ちました」
シュブ=ニグラスの言った通りの事なのだろう。
シュブ=ニグラスは人の形を模す事がある。しかし、その場合、シュブ=ニグラスの感情の変化は人間のそれと同じ程度になる。つまり、普通の女性となんら変わりない思考回路を持っているという事になる。
「その男と私は幸せな家庭を築きました。あの者が来るまでは…………」
そこで、初めてシュブ=ニグラスが笑みを失う。腹立たし気に眉を寄せ、苛立たし気に触手をうねらせる。
「エイボン……! あの男が来るまでは、私達は幸せだった……!」
怒りとともに身体が変化する。今まではかろうじて、人のような身体を維持していたけれどその面影も無くなるのも一瞬の事であった。
極度な身体の肥大化。身体は城を壊し、街を踏みつけにする。
「――っ!!」
天に届くと錯覚しそうな程の巨躯まで膨れ上がるシュブ=ニグラス。
自重を支える脚は太く屈強で、一度足踏みをするだけで地面を揺らす。その脚が無数に生え、建物を一瞬で倒壊させる。
膨れ上がった腹には巨大な口が開いており、強力な酸の涎を延々垂れ流している。
脚の付け根から生える触手は先程とは比較にならない数を誇り、その太さや長さもまた先程の比ではない。
上半身は女の姿をしているけれど、それと分かるのはたわわに実った胸だけだ。その胸も、欲情するにはあまりに歪で、あまりにグロテスクすぎる見た目をしている。
腕は無数に別れ、頭部は山羊の形をしている。
その巨躯も相まって、その姿にもはや美は感じられない。あるのは純粋な恐怖と、純粋な忌避感だけだ。
『あノ男が……アノ男が、私のォォォォォォォォォォォォ!!』
声は野太く、琴を鳴らしたような美しさは無い。
『幸せモ、家族も、なニモかもヲ、奪っタの!!』
しかして、自我は先程通りあるのだろう。その目はしっかりと僕に向けられている。
『ナラ、私が、アノ男の守ったモノを壊スのは、当タり前の事、でしょう?』
それが、シュブ=ニグラスが元の世界に戻ろうとする理由。
この世界の成り立ちを、僕は知っている。そして、クン・ヤンという土地も知っていれば、その土地の場所も知っている。より厳密に言えば、この世界にクン・ヤンという地名は存在する。
シュブ=ニグラスに関しての謎は、全て繋がった。
シュブ=ニグラスが封印されていた迷宮があったの場所。そこは、クン・ヤンという場所だ。
ああ、そうか。君は、彼も憎かったら、彼の残した者もまた憎いんだね……。
僕は納得した。けれど、だからと言って、シュブ=ニグラスを止めないという選択肢は無いけれど。
「君が彼の守った者を壊したいのは分かるけど、それは僕が守りたい者でもあるんだ。だから……」
僕は懐から一冊の魔導書を取り出す。
厳重に封のされた魔導書。その魔導書にある南京錠に、僕は鍵を差し込む。
「僕は君を殺す」
反逆武装、解放。