017 "The Black Goat of the Woods With a Thousand Young"
シミュレーション。いったいなんのと言われれば、答えは明白だ。彼女は、僕に彼女と手を組むことへのメリットを提示したのだ。
「つまるところ、君は僕に見せたかったわけだ。神が人と共存できることを」
僕が言えば、彼女はパチパチと拍手をする。
「ええ、ええ。まさしく、その通りです。見ましたでしょう? 彼等は人となんら変わり無く暮らしています。私と手を組み、世界を壊した後で、私達はいがみ合うことなく共存できるのです。これは他の神にはできない事ですよ? そして、事を一番楽に、そして一番安全に終わらせる事ができます。更に、一柱だけ生け捕りにすれば無辜の民を犠牲にしなくてすみますよ? ねえ? とても魅力的でしょう?」
確かに、彼女の言うことはとても魅力的だ。
彼女の言うことが本当なら、確かに、一番楽に他の神性を倒すことができ、一番安全に事を進めることができる。そして、この街にいる住民を犠牲にしなくて済む。
うん、なるほど、確かに魅力的な話だ。
けどーーーー
「悪いけど、その話は呑めない」
途端、彼女の笑顔が固まる。
「君の提案は確かに魅力的だよ。犠牲を最小限にこの世界を壊して、後の世界で共存して生きていく。うん、実に僕好みの展開だよ」
「ならーー」
「でもね、暗に自分の子供達を人質にするような奴は信用ならない」
食い気味に、彼女の問い掛けに答える。
彼女は、彼女と手を組むメリットを提示してみせた。それは確かに魅力的な話だ。僕だって元の世界に戻りたくないわけじゃない。難無く戻れるならそれに越したことはないのだから。
けれど、彼女は、僕が彼女と手を組まなかったら、そのまま自分の子供を生贄にすると言ったのだ。まあ、その前段階で生贄にすると公言していたから、暗にもなにも無いけれど。
どちらにせよ、自分の子供を生贄にするような奴と手を組むつもりは毛頭無い。
「それに、君は共存なんて望んでないだろう?」
数瞬の沈黙。後に、シュブ=ニグラスは嗤う。
醜悪に、傲慢に、悪辣に。
「ええ、ええ。はい、そうですとも。あなたやそこな浮いてる少女ならいざ知らず、他の人風情と仲良く寝屋を共にすることなど、怖ぞ気が走ります」
「僕も、人なんだけどねぇ」
「ご冗談を。あなたは最早人ではないでしょう? それとも、それほどまでに神気を放ちながらも、まだ人であると仰るおつもりですか?」
「気持ちは、人のつもりだよ」
「それは滑稽な。その体でまだ人のつもりで? もうそろそろ、ご自身の事を考慮した方がよろしいのではなくて? あなたは最早人という概念に収まるような者ではないでしょう?」
嗤う。嗤う。嗤う。
ただひたすらに人にこだわる僕を、|人在らざる者(化け物)だと嘲笑うシュブ=ニグラス。
存在昇華は、人としての存在値をあげるわけではない。
過去の自分の存在を対価に、存在値を別の者の値に押し上げるのだ。
人から獣人へ。獣人から森人へ。森人から魔人へ。
対価に見合った分、僕という存在は人から遠ざかる。
外見はそのままに、存在だけが変わっていく。
結果として、僕は神に片足を突っ込んだ。
そう、僕という存在は、神にまで上り詰めてしまった。それは、紛れも無い事実だ。だから彼女は、その事実を認めようとしない僕を滑稽だと嗤うのだ。
「もう人じゃない。それは、そんな事は知ってるよ」
「なら、どうしてそんなにも人であることにこだわるのです? 全てを凌駕する存在になりながらも、なぜ?」
なぜ。なぜ、か。
それが分からないなら、本当に共存なんて無理だね。
「君には分からないよ。強さよりもなによりも、欲しかったものを手放さなきゃいけない僕の気持ちなんて。強さ以外のものを不要と考える、君にはね」
「……なるほど。弱さを棄てきれないのですね。それほどの力を得ながら、嘆かわしい」
本当に、至極、残念だ。
そういった顔で首を振るシュブ=ニグラス。
彼女は自分の膝の上からルリエを降ろす。
そして、典雅な動作で玉座から立ち上がる。
周囲に暗黒を思わせる霧を放ち、典雅な所作を崩さずに歩く。
「残念です。ええ、至極、残念です」
歩きながら、シュブ=ニグラスの姿が変容する。
美しい眼は山羊のように変わり、肉を裂き、骨を折りながら山羊の角が歪つに、左右合わせて計四本生えてくる。
脚は山羊の細くも逞しい脚を、そのまま太くしたようなものに変わり、腰からはスカートのように触手が幾本も生えてくる。
足の蹄は凶悪に、手の爪は黒く鋭く。肋からは骨が幾本も突き出し、鎧のように彼女の身体を覆う。
長く美しい髪は途中から色が変色し、暗黒を思わせる黒になる。実態が無いのか、毛先の辺りは霧のようにたゆたう。
先程の美貌が霞むほどに醜悪な姿になるシュブ=ニグラス。
それはまるで、洗礼されたアシュタロトのようなものであった。まさに邪神と呼ぶに相応しい様相。
爛れたような皮膚をしている触手からは絶え間無くタールのようなものが流れている。それが、大理石の床を溶かし、踏むのを躊躇わせる程のシルクの絨毯を焼け焦がす。
職人の粋が込められた物が壊れていくのを気にも留めず、彼女はただ悠然と歩く。
「あぁ……酷く、残念です」
「そんな事、微塵も思ってないクセに」
「いえ、いえ。残念です。私、こんな姿をあなたに見せるつもりは無かったのです」
「ああ、僕も見たくは無かったよ」
「あら、あら? それなら、早々に倒れてくださいまし?」
直後、天井が崩れる。
それが起こることを予見していた僕は、しかし、動かない。
「ナイアさん、クイーン、セプテム。上は任せる」
「おーさー」
「「かしこまりました」」
打てば響くように返事を返し、三人は同時に飛び上がる。
くす、くす、とシュブ=ニグラスは笑う。
「あら、あら。あなたは行かないのですか?」
「目の前の御婦人を方って他にかまけるほど、無礼な男じゃないつもりなんだ」
「一途なのですね。嬉しいわ」
言いながら、一歩踏み出す。
それだけで、衝撃が僕を襲う。
「ーーくっ!」
脚に力を込めて踏ん張る。
そして、前に跳ぶ。
「らぁっ!!」
シュブ=ニグラスに肉薄し、拳を奮う。
それを、シュブ=ニグラスは微笑を浮かべながらかわすーーこともせず、真正面から受ける。
神気を込めた拳。神を殺すには、神かそれに付随するナニカでなくては不可能だ。だからこそ、邪神は僕らしか倒せない。
そして、一番効率よく倒せるのが僕だ。
その僕の拳を受けて、シュブ=ニグラスはただただ微笑む。
「婦女子を殴るなんて、酷いお方」
下から掬い上げるように触手が持ち上がる。
身体を半身逸らして躱す。
逸らした身体の先に、シュブ=ニグラスの手が子供を撫でるように伸びる。
黒く鋭い爪が、脇腹を掠める。
途端、骨まで達する亀裂が身体に刻まれる。
「ぐっーー!?」
なんて出鱈目な!! 掠っただけだぞ!?
「なんて脆い。撫でただけですよ?」
僕の心中を読んだように、彼女は嗤う。
手の後に続くように触手が迫る。
爪の先が掠っただけでこの威力なんだ。もろに喰らえば一たまりも無いだろう。
一旦距離を取るべく、後ろに下がる。
しかし、追従するようにタールを撒き散らしながら触手が伸びる。
縦横無尽に伸びる触手を躱しながら、崩れた天井を掴み、投げつける。
こういうとき、自由に遠距離攻撃ができないのがつらいところだ。
「あら、あら。すでに手詰まりのようですね」
「殴る蹴るしかできないからね、僕。でも、手が詰まれば足が出るよ?」
言いながら、迫りくる触手を蹴り飛ばす。
脚にまったく衝撃が無いわけじゃないが、ただ躱すだけじゃ対処しきれない。
幸い、神気を纏えば耐えられる。さっきは手に神気を集中させていたけど、全身に纏わせていればどうにか戦える。
「あら、あら。あんよが上手ですね」
ふふと嗤い、彼女の髪の毛が伸びる。
髪の毛、というには、それは実体が無さすぎるけれど。
黒い靄、まるで無明の霧のようなそれは、霧とは思えない速度で迫る。
当たってみないとなにが起きるか分からないが、当たったらやばいことだけはわかるので、腕を一振りして風圧で無明の霧を散らす。
風圧に耐え兼ねて、ガラスが割れ、調度品が壊れる。
「あら、良い風」
そんな暴風というに相応しい風圧を、涼しい顔をしてそよ風程度とのたまうシュブ=ニグラス。
「でも、少し鬱陶しいですね」
言いながら、軽く手を振る。
直後、背筋が粟立つ。
慌ててその場を跳びすされば、背後にあった壁に大きな亀裂が刻まれる。まるで、巨大なドラゴンが鋭利な鉤爪を持って壁を引っ掻いたような、そんな亀裂。
「ちょっと! そっち飛び道具多過ぎやしないかい!?」
「あなたの手数が乏しいだけですよ」
言いながら、虫でも払うように手を振る。それだけで、目に見えない斬撃が放たれる。
自身の触手が切り裂かれるのを気にもしない。
やばい。本当にやばい。
無明の霧の効果も分からないし、普通に受けたら痛いだろう斬撃もやばいし、触手だって神気を纏ってなかったら痛いし焼けただれるし……。ていうか、一歩歩くだけで衝撃が飛ぶとかなに? 僕そんなことできないんだけど? ていうか、神気纏って殴ってるのに傷一つ無いとか本当になんなのさ?
攻勢に出ても軽くあしらわれて、防戦になったら相手の手数にてんてこ舞い。ハスターもそうだけど、どうしてこう旧支配者ってやつはオーバースペックなのさ!
「ふふ、よく避けますね」
「避けなきゃ死ぬからね!」
しかし、手数が段々と増えていっている。これ以上増えれば、避けるのもいなすのも容易ではない。いや、今の時点でも容易じゃないけど。
触手や見えない斬撃の対処に神経を集中させる。だから、気付けなかった。背後から迫る無明の霧に。
気付いたのは、ただの感だ。しかし、無明の霧が覆いかぶさる直前。振り払うには、時間が足りなかった。
無明の霧が、僕に覆いかぶさる。
直後ーーーー
「あ、ああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
全身をつんざくような激痛と、産毛が逆立つような寒気。そして、心の底から震え上がるほどの恐怖が全身を支配した。
なんの心の準備も、いや、心の準備をしていたとしても絶叫を上げていただろう。それほどまでに、それは強烈だった。
「あら、あら。ふふふ」
震え、絶叫を上げる僕を、シュブ=ニグラスは嗤う。