5.アスカリア教団
シロウはその日、宿に戻っても食事にも顔を見せなかった。
「あいつ、ディエナ様の頼みを……」
そう言ってスクアエは怒っていたが、当人であるディエナが押さえた。
そんなディエナも、この日は一人の部屋を取ってスクアエたちとは別れて休むことにしていた。
「本気でむかつくわ、あの男。ディエナ様のお気持ちをなんだと思っているのかしら」
「あれはまだ人間の心が残っているのでしょう。人は選択に迷い、時に立ち止まるものですわ。わたくしたちのようにとてもシンプルに考えれば良いのです」
「……あたしまでジュノーみたいな単純思考に巻き込まないでよ。あたしはディエナ様がどうすれば幸せになれるか、色々考えているんだから」
ベッドの上に横たわると、スクアエは冷たい吐息を吐いた。
キラキラと光るダイヤモンドダストを見て、ジュノーが顔を顰める。ムカデの特性を持つ彼女にとって、冷気は敵だ。
「それ、やめてくださる?」
「ああ、ごめんごめん。でもさぁ」
「……暖炉に火を入れますわよ?」
再び吐かれた極寒の吐息を見て、ジュノーが暖炉に近づくのを、スクアエはしがみ付いて止めた。
「ごめん、ごめんって」
「貴女の身体も充分冷たいのです。わかったから離れてくださいな」
ジュノーは付き合っていられない、と擬態で作っていたスーツを消し、全裸になってベッドへと潜り込んだ。
見事なプロポーションを持ち、女性として完成されたボディラインを誇る彼女だが、宿で眠るときはすっぽりと毛布をかぶって、丸くなって眠る。
毛布の中から、ジュノーの平坦な声が響いた。
「わたくしは、シロウに期待しております」
「あれのどこに?」
「彼と出会って以来、ディエナ様は積極的に人と接するようになりました。人の世を知り、社会を知ったのです」
ジュノーの言葉に、スクアエはいぶかしげな視線を向ける。
高級宿らしく彼女たちが使っているベッドはかなり頑丈な作りで、ジュノーが寝る姿勢を決めかねてごそごそしている間も、衣擦れの音と彼女の声しか聞こえない。
「ディエナ様はいずれこの世界を統べる御方。であれば、人間たちがどう考えて何を基準に動くのかを知るのはとても良いことです」
「でも、シロウである必要は無いじゃない」
「そんなことはありませんわ」
掛け布団から頭の上半分だけ出したジュノーは、乱れて顔にかかっている黒髪の隙間から赤い瞳をスクアエに向けた。
「彼はわたくしたちモンスターを恐れません。むしろモンスターの方を従えるほどの実力を持っているのです。人間側の最強とモンスター側の最強がつがいになるというのであれば、自ずとわたくしたちも人間たちも、互いの存在を認めざるを得なくなるでしょう」
「ディエナ様は、人間たちの王に成る気はないんじゃない?」
「好むと好まざるとに関わらず、力を持つ者にはそれだけの重責が課されるのです」
人間もモンスターも、動物でもそれは同じだとジュノーは言う。
彼女にとって、ディエナが最高の地位を手に入れて、安寧に暮らす未来が訪れるのが最高の到達点であって、その為に利用できるのであれば、モンスターであろうと人間であろうと、考慮するに値しない。
力ある者が当然の如く君臨する。それでこそあるべき世界は完成するのだ。
「あたしは……」
「ディエナ様が幸せなら、と言いたいのでしょう? 貴女がそう思うなら、そう努力しなさいな」
「どうすればいいのよ」
「寝なさいな。今のディエナ様は恋をしている普通の少女。姉を気取るなら、そっと見守っていれば良いのです」
ジュノーの言い草に、スクアエは思わず笑ってしまった。
「あは。あたしが姉なら、あんたは母親気取りってこと?」
「わたくしなそんなに歳じゃありませんわ、失礼な。わたくしはディエナ様の忠実な僕。それ以上でもそれ以下でもありません」
眠いから灯りを消すように、とジュノーが再び毛布の下に潜り込むと、スクアエは冷たい吐息で二人の間に灯されていた蝋燭の火を消した。
真っ暗になった部屋の中。
スクアエはそれでも室内の様子ははっきりと見える。
しばらく座り込んだまま考えていたスクアエだったが、ジュノーの言葉に逆らって、ディエナに会いに行くことにした。
「ディエナ様に伝言を。恋は時に攻め、時に引くもの。一人前のレディならば、男に取って恋人であると同時に母にも慣れる寛容さが必要ですわ」
「……あんた、独身じゃなかったっけ?」
「結婚をしていないだけですわ。これでも、人間だった頃は沢山の男性を手玉に取ったものです」
そしてその男性陣は悉く謎の死を遂げたのだが。
そっと立ち上がったつもりだったが、すぐに気付かれてしまったスクアエは、少しだけ疎外感を感じていた。
アイシーメイデンである彼女は、母親も同じ種族だった。
彼女たちは人間の男性から精気を奪って孕む。時には本気で男と恋に落ちることもあるらしいが、まず寿命が違うので、悲恋でしかなかった。
対して、ジュノーは元々人間で、大昔の貴族令嬢であったらしい。スクアエはかなり昔、何かのきっかけで聞いたことがある。
悋気が酷く、美しい容姿に群がって来た男たちの多くを悪しざまに追い返した。時には裏で手を回して密かに殺害してしまうこともあった。
あまりに手が付けられない程の増長をした結果、国王の命令で暗殺され、死体は森に打ち捨てられてしまったという。
そしてディエナも、元は人間だった。
分け隔てなく接してくれるディエナに対しては感謝しかないスクアエだが、自分だけが人間を理解できていないようで、気持ちが落ち着かない。
そっと部屋を出たスクアエは、目的地であるディエナの部屋へとたどり着く前に、そのディエナ本人の姿を見つけてしまった。
「ディエナ様……」
「スクアエ。どうしたの?」
「あたしは、その……屋上で風にでもあたりに行こうかと。ディエナ様は?」
「シロウに会いに行く」
「ですが……」
シロウがふさぎ込んでいることはわかっているはずだが、それでもディエナはシロウと話をしたいと言う。
客室のみがある宿の三階。真っ暗な廊下の中で声を殺して話す二人の姿は異様だが、彼女たちには問題無く見えている。
二人は互いに向き合ったまま沈黙していたが、やがてスクアエはそっと廊下の端に退いた。
「ジュノーから伝言です。男性に対しては、時に押し時に引き、恋人でありながら母親の包容力が無くてはならない、と」
「ふふ、とても参考になるお話ね。スクアエはどう思う?」
「あたしは人間の恋愛はわからない、です……」
「そう。いずれ良い人と巡り合えると良いわね。わたしみたいに」
それじゃ、と別れようとしたところで、彼女たちの耳に何かを破壊する音と男性の悲鳴が聞こえ、直後に大人数が踏み込んでくる足音が響いた。
「ディエナ様!」
「まずは様子見。シロウにも言われたでしょ?」
賊か教会かはわからないが、勢いから敵襲だと判断したスクアエはすぐに迎撃体制に入ろうとするが、ディエナに止められた。
しかし、迷っている間にも足音は三階を目指してくる。
「とにかく状況を判断してから。わたしたちが目的じゃない可能性もあるんだから、とにかくすぐに殺すのは……」
「いたぞ。反応はあいつらからだ」
ランタンの明かりを揺らしながら上がって来たのは、鎧に身を包んだ聖騎士たちの集団だった。
その先頭に立つ男が、何かの道具をディエナ達に向けている。
「どうしたんですか?」
「ふん。会話ができるということは、お前の方では無いということか。ならば、退いていろ!」
「あっ!?」
平静を装って話しかけたディエナを、騎士の一人が手にした棍棒のようなもので思い切り振り払った。
横殴りにされた格好で、ディエナの細い身体は激しく壁に激突する。
本来であれば人間が振るう武器程度で傷つくディエナでは無いが、何故か酷いダメージを受けて、血を流していた。
「人間に化けたモンスターだな? 良くも上手く化けた者だが、我ら教団の魔道具にはしっかり反応している」
「逃げて……!」
「頑丈なガキだな、黙っていろ!」
スクアエは教団が何かの道具でモンスターを感知して宿までやってきたことに気付いていた。そして、会話が出来るディエナを人間だと判断し、まだ言葉を発していないスクアエの方をモンスターだと判断したらしい。
「人間に化けているようだが……どうせ中級程度のモンスターが化けているに過ぎぬ。我らの武器と魔道具に適う筈も無い」
「しかし宿の中まで入られるとはな。番兵どもは節穴か」
「町の連中ではこの程度が関の山よ。だからこそ我らが戦うのだ」
勝手なことを口走る騎士たちに対して、スクアエは迷っていた。
魔道具とはディエナを殴り飛ばした棒のことだろうか。どういった効果があるものかはスクアエにはわからなかったが、ディエナは想定外のダメージを負っている。
置いて逃げるのは最初から選択肢に無いのだが、彼女の意志を尊重するならば、無駄な殺生は避けねばならない。
そうこうしているうちに、じりじりと聖騎士たちは距離を詰めてくる。
「一つ聞きたい」
「……っ!? 誰だ!」
ぬるり、とスクアエの背後、廊下の暗闇から姿を見せたのはシロウだった。
彼は上着だけを脱いだ姿でランタンの明かりの前に踏み出し、さらりと一瞥して聖騎士たちの装備と人数を確認する。
全員で十名。
それぞれに剣を持っているが、他にも奇妙な形の棒きれを握っていた。先ほどディエナを殴りつけたのもそれだ。
「名などどうでも良い。それよりも下から聞こえた悲鳴。あれはなんだ?」
「ふん。客を守らねば、だの取次をせねばならんだのと言い、我ら討伐部隊の邪魔をするから、斬り捨ててやったまでよ」
「なるほど、なるほど」
シロウはスクアエの前に立ち、そして壁に背を預けるようにして座り込んでいるディエナの姿を確認した。
彼の剥き出しになっている両肩が震え、硬く引き締まった筋肉をしびれさせるほどに力が入っているのがわかる。
「どうやら、教団は昔よりも随分と腐った連中がひしめいているらしいな。……いや、俺の嗅覚が昔よりも鋭くなったのやも知れぬ」
じりじりと近づいてくるシロウに対し、聖騎士たちは剣を抜いて右手に持ち、魔道具を左手に構えて陣形を整えた。
「臭うな。腐ってしまった連中の臭いだ。自分たちがどれほどに気色の悪い存在になっているかも気付いていない、吐き気のする臭いがぷんぷんとしている」
「我らと戦うつもりか?」
「戦う? 馬鹿を言うな。お前ら如きが戦いの相手になるわけがなかろう」
言葉が終わる前に、シロウの踏み込みは始まっている。
ぴしゃり、と差し出した右手が一人の頭部を掴むと、直後にその後頭部から刃が突き出した。
数回の痙攣のあと、頭部を貫かれた騎士は、刃を収納したシロウが手を離すと同時に倒れた。
「お前らは人間ではない。単なる敵だ」
「この男もモンスターか!?」
「やれ! 殺せ!」
モンスターだと判断した騎士たちは、剣よりも魔道具を振り回しながらシロウへと殺到する。
しかし、宿の廊下で九名が一人に対してそうそう満足に動けるものでもない。
数名は味方が邪魔で近寄ることもできず、近くにいても大振りが過ぎてシロウではなく壁や天井を叩いている。
「素人ばかりか。大方弱い者ばかりを相手にしていて、ろくに訓練もできておらぬのだろうよ」
シロウの踏み込みで足を踏みつけられ、動きを止められた騎士は首筋を斬り裂かれた。
腹部への拳は鎧を叩き潰し、さらに拳の先から伸びた刃が内臓を引き裂く。
背後から殺到した相手には背中を当てて武器を逸らし、そのまま背から肩にかけて無数に突き出した刃で上半身を両断する。
さらに一人を殺し、シロウはディエナの前に立つ。
「どうしたディエナ。それでもあの時に俺たちを苦しめた邪神か?」
「情けない、けれど……力がもう残ってないのよね……」
「それは……わかった。気付かなくてすまん」
「良いのよ。これがわたしの選択だもの」
そうか、と答えながら、シロウはもう一人騎士を殺した。
ディエナの不調の理由がわかった。どうにか力を振り絞って封印を解き、二人の配下を生み出し、シロウに力を与えた。そのことで魂の力は相当に消耗していたが、シロウとの約束を守り、人を殺すことを控えた。
結果、魔道具に対抗するだけの力を失っているのだ。
残りは四人。
半数以上を殺された騎士は、逃げ出すかどうか迷っていた。
しかし彼らも教団所属の聖騎士として、モンスターに出会って逃げて来たという汚名には耐えられないのか、それとも魔道具さえ当てれば勝てると思っているのか、全員がシロウへと立ち向かう。
「意気は良い。だが、恩人をこうまで痛めつけてくれた相手に、手加減をしてやるほど優しくは……無いっ!」
「ぐえっ!」
剣を振るう一人の腕を取り、背負い投げにする。
受け身も取れずに背中を強打した騎士は、息を吐きだす前にシロウの刃に喉を斬り裂かれた。
「貴様らは敵だ。今ようやく理解した。わかってしまった! 畜生め! これが俺の成果か!? 命がけで守ったものが、これか! こいつらか!」
いつしかシロウが放つ怨嗟の声は叫びへと変わり、死体は数を増やしていく。
全身から無数の刃を突き出したまま、頭から血を浴びた姿で立っているシロウは、最早勇者ではない。人間とすら言えるかも怪しい状態だった。
「すご……」
「そうよ……それでこそ、シロウなのよ!」
スクアエは絶句し、ディエナは歓喜を叫ぶ。
殺された聖騎士たちの魂は上質で、ディエナもかなり力を取り戻した。飛び上がるように勢いよく立ち上がり、ハリネズミのようになったシロウへとそっと右手を差し出す彼女は、シロウへと満面の笑みを向けている。
「素敵よ、シロウ」
「馬鹿を言うな。最低の気分だ」
「そんなこと言わないで。どうかしら、モンスターというだけで、その仲間だというだけで、人間はこんなことができてしまうのよ。わたしたちの気持ちが少しはわかってもらえた?」
長い長い息を吐き、シロウは全ての刃を身体の中へと収納する。見た目は内蔵しているように見えるが、全ては骨格を土台に生やしているだけだ。
「良くわかった。そして次の目的地も決まった」
「どこへ行くの?」
「教団本部へ。そこで頭目に質す」
そして、やはり敵であるなら殺すのだ。
シロウは今、人間側でもモンスター側でも無いが、間違いなく教団の敵になった。