15.聖女の素顔
ふらふらと歩いていたシロウは、いつしか城のメインホールへとたどり着いていた。
周囲には破壊の跡があり、打撃や斬撃による破損と経年による劣化が相まって、戦いの虚しさを物語る。
そこはシロウがディエナとの戦闘を行った場所であり、彼女と初めて出会った場所でもある。
戦いの最中でディエナはシロウを見初めた。
「あの時、俺はもっと彼女と話をするべきだった。教団の言うことだけを……マリィの言葉だけを信じていた俺は……」
シロウは自分が今、マリィが遺した記録を持っていることを思い出した。
しばらく迷っていたが、結局はホールの中央に座り、荷物からその本を取り出す。
表紙には何も書かれていない。丁寧になめされた革の装丁は、高価な書籍と同様でさらさらとした手触りだった。
表紙を開くと、そこにはマリィ・クナートルの署名と共に、これが日記であることを示す言葉が書かれていた。
始まりは、シロウとの旅立ちが決まった日だった。
彼女は邪神との戦いに赴く不安と、シロウの手助けができる喜びとで若干混乱しているようだった。
しかし、これが戦いの貴重な記録になると信じ、もし万が一、自分が死んでもシロウという人物を確かに後世へ伝えるために、この日記を書くと決めたようだ。
散々に迷ったあげく、「シロウにはこの日記の存在は伝えないことにした」と書かれている。
シロウは一度日記を閉じて、ホールの天井を見上げた。
ドーム型の天井には、古ぼけたシャンデリアが下がっている。あの戦闘でも落ちなかったあたり、頑丈な物なのだろう。それも蜘蛛の巣がからみついて、見る影も無くなってしまっているが。
再び日記を開き、先を読み進めていく。
「そうだったのか……」
マリィは間違いなく、シロウと共にいることを喜んでいた。
内容が嘘では無いという確証はないが、敢えてそうする必要も無いだろう。
日記は邪神の森へ入ったところで一度途切れている。日記を書く余裕など無かったのは、シロウも知っている。
「そして、あの時」
邪神との戦いが終わり、森から教団へと帰還したことがまとめて書かれたページから、日記は再開する。
邪神封印の達成感もあるが、それよりもマリィには気になっていることがあったようだ。
それはディエナが告げた「シロウを伴侶にする」という言葉だった。
そして交わされた口づけ。
シロウからのことでも無ければ、シロウが受け入れたわけでも無いのはわかっていても、マリィにはその言葉と光景が、帰還しても脳裏に焼き付いて離れたかった。
それはシロウに対する感情に揺らぎをもたらしたようで、手放しで帰還を喜ぶにしても、シロウへとどう接するか、マリィを迷わせることになった。
そんな彼女は、当時のアスカリア教団の教長でマリィの祖父であった人物に胸の内を語り、一つの解決策を受け取った。
邪神の影響を祓うための聖水を。
「シロウ」
「む……グロックか」
不意に声をかけられ、シロウは顔を上げた。
ホールの入口に立っていた親友は、心配そうにシロウを見ている。
「腹が減らないか? もうすぐ日も暮れる。大したものは無いが、レイアウナ様が料理を用意している」
「もう、そんな時間か」
「マリィの日記か」
グロックはシロウの手元にあるものを見て呟いた。
読んでいるうちにいつの間にか数時間が経っていたようで、シロウは自分がどれほどマリィの記録を熱心に読んでいたのか気付かされる。
未練があるのだろうか、と問われると「わからない」としか答えようが無い。だが、すでにマリィはいない。それは事実だ。
「……マリィは、俺の中に邪神の力が入ってしまったと感じていた。それは事実だったのだが、教長からそれを祓うための魔法薬として毒を受け取り、俺に飲ませたらしい」
「あのじじいか! 悪辣な真似をしやがる!」
自分のことのように怒ってくれるグロックの存在が、今のシロウにはありがたかった。
毒を飲み、昏睡したシロウを見て慌てたマリィに、教長は「邪神の影響が思ったより強かった」と説明したようだ。
そしてシロウが息を引き取ると、マリィは失意の谷底へと突き落とされた。良かれと思って飲ませた薬によって、最愛の人物を殺してしまったのだから。
続きへと目を通し、シロウは深いため息を漏らす。
隣に座って内容を聞いていたグロックは両手で顔を覆っていた。わずかに手首を伝う涙を、シロウは見ない振りをした。
「やっぱりそうだ。マリィはお前を好いていた。お前を助けようとしていたんだ。あいつは悪くねぇんだよ。お前が惚れた女は、間違いなくお前を好きだったんだよ」
「ああ」
日記を閉じ、シロウも静かに泣いた。
マリィはその後、シロウを救えなかったことを悔やみながら生きていたようだ。
教団のやり方に反発を覚えながらも、どうにかしてシロウの存在を知らしめようとしたのだが、教長を始めとする周囲の者たちに握りつぶされてしまった。
挫折を繰り返したマリィはついに心が折れ、言われるままに結婚をし、子供を産んだ。
だが、彼女は最後まで愛することは無かった。「血統は繋いだ。私の役割は終わった」と義務を終わらせたかの様な文章を日記に書き残し、自ら命を絶った。
彼女がまだ二十五歳の時のことだ。
「教団がひた隠しにした記録、と言われると納得する内容だな。聖女などと祭り上げておきながら、内情はこうだ」
「グロック。お前はここに居場所を見つけた。俺は……どこへ行くべきだと思う?」
急に話題を変えた、とはグロックは感じなかった。
シロウがマリィの下へと行きたがっていて、それを友人に肯定してもらいたいという気持ちで言っているとわかっていたからだ。
だが、グロックは許さない。
飛び上がるように立ち上がって、シロウの頬へと思い切り拳を叩きつけた。
避けようともしなかったシロウは、瓦礫が散らばる床を転がり、数メートルほどの距離を離れてようやく止まった。
口元から血を流しながら顔を上げた彼の表情は、怒りだ。
「俺は一時とはいえ彼女の愛を疑った! 冥府のマリィに詫びねばならん。そう思うのは不自然ではないはずだ! 死ぬ方法を探すのは、悪いことなのか!」
「悪い! 悪いに決まっている! おれが命を賭けたのはお前とマリィが幸福な世界を作ってくれると信じたからだ! それを、どいつもこいつも簡単に捨てやがって!」
「ぐ……」
怒れるグロックの言葉に、シロウは返す言葉が無かった。
まともに拳を受け、脳震盪でふらつく頭を叩きながら立ち上がるシロウに、グロックは怒声を続ける。
「まだあるぞ! ディエナのことはどうする! 誤解を恐れずお前を復活させ、さらにはお前のためにまた封印されたのだろう!」
「そのためにここに来た。レイアウナ殿にはその策があるのだろう?」
「そう簡単な話ではない」
大きく息を吐いて、グロックは首を横に振る。
「ディエナを復活させるには、魂の力が足りない」
「そのために、俺に人間を殺せというのか?」
「その通りだ。殺せ」
「なに?」
シロウは耳を疑った。
ディエナのために人を殺せ、とグロックが言っている。
「殺せよ。教団は敵だろう? 少なくとも、連中はモンスターと見れば会話などせずに殺しに来る。……教団の連中がこの城のことを話しているのを、死んだふりをしていたディービーが聞いた。ほどなく、連中はここへ来るだろう」
「ここが……知っているだろうな。連中には記録がある。では、俺が森へ出て食い止める。その間に……」
「馬鹿なことを言うな。おれがここを放棄して逃げるわけがないだろう。また一緒にやろうや。今度は攻め入る方じゃ無く、防衛線だぜ」
グロックが差し出した右手を、シロウはがっしりと掴み返した。
☆
レイアウナもディービーから話を聞いており、シロウとグロックで防衛を行うという意見に賛同し、礼を述べた。
さらには、森に残っていてレイアウナに従っているモンスターたちも協力することになり、アスカリア教団の攻勢を待ち構えることになる。
「ディービー。そういう情報はもっと早く言いなさいよ」
と、スクアエは不満顔だったが、食事が用意されたテーブルを挟んで向かいに座ったシロウを見てから、少し視線を落とした。
「その……大丈夫なの?」
「問題無い。俺とグロックが居れば、城には誰一人入れることなく撃退してみせる」
「そうじゃなくて……」
「ははぁん?」
言いよどむスクアエの様子を見て、グロックはシロウへそっと耳打ちした。
「スクアエはお前が気落ちしていないか気にしているんだよ。この色男め」
「そういうんじゃないわよ! ただ、あんたが気落ちしていたら、この城も守れないし、ディエナ様だって復活できないのよ。シャキッとしなさい」
「ああ。わかっている。任せておけ」
良いな、とグロックがにやにやと笑ってシロウの肩を叩いた。
「彼女はアイシーメイデンだろう? なら、繁殖の時期が来れば、お前を求めて……」
「グロックさん? わたしにも聞こえていますよ」
「あっ……」
レイアウナに声をかけられ、グロックは「しまった」という顔をして青褪めた。
スクアエも絶対零度の視線を彼に向けていて、シロウは知らん顔を極め込む。アイシーメイデンが人間の男と情を交わして子を成すことは知っているシロウだが、男所帯である騎士団でのノリで下品なジョークを言ったグロックを庇えるものではない。
「これはですな、その、元気の無い友人を励まそうと……」
「女性として、そしてディエナの親として、後でお話があります。食事と打ち合わせが終わったら、わたしの所へ来てください。それと、スクアエ」
「は、はい」
叱られることが決定した、とがっくり肩を落としているグロックを放って、レイアウナはスクアエに声をかけた。
真っ白な頬を恥ずかしそうに赤く染めていた彼女は、慌てて顔を上げた。
「わたしはディエナの応援をする立場ですが、貴女も我慢する必要はありませんよ?」
「あたしは、その……はい、ありがとうございます。でも今は、ディエナ様の復活の為に頑張る時だと思っていますから」
「ありがとう。それじゃあ、あまり良い食事とは言えないけれど、ちゃんと食べてくださいね」
野菜と肉がゴロゴロと入った薄味のスープに、薄く焼いたパンという食事だったが、シロウはレイアウナに感謝し、ゆっくりと味わった。
同時に、彼は数人で食卓を囲む、和やかなこの空気をも味わっていた。
レイアウナという人物に対し、シロウは形容しがたい安心感のようなものを感じている。戦いの前ではあるが、彼の存在が、ここを居場所として許容されたかのような気持ちになった。
「シロウさん」
ふと、レイアウナが声をかける。
「ディエナが復活したら、どうするつもりですか?」
「まずは、話を聞きたいと思っています」
「話をする、では無く、聞く、とは?」
「そのままの意味です。彼女が伝えたかったこと……俺に対してのことだけでなく、他の誰か、あるいは人間たちや知り合い、スクアエ達に対しても、色々と話はあるでしょう。その全てに耳を傾け、余すことなく聞かせて貰おう、と」
ディエナと共にいくつかの教会支部を襲撃している間にシロウが調べた限り、邪神と呼ばれた彼女について書かれた資料はいくつもあった。
しかし、その中には彼女の言葉は一つも含まれていなかった。
全ては誰かが伝えた印象であり、誤解であり、誇張された恐怖の押し付けだった。
だから、シロウはまずディエナが何を考えているのか、どんな気持ちでいるのか、それを聞きたいと思っている。
思えば、マリィのこともしっかり話し合っていれば、防げたことかも知れない。
彼女の不安や迷いに耳を傾けていれば……。
悔恨は失われた命を取り戻せるものではないが、少なくともまだ間に合う筈の、手を伸ばせば機会が得られることは残っている。
ディエナを復活させ、彼女のことを知るのだ。
「きっと、とても長い話になりますよ?」
口元に手を当てて笑っているレイアウナに、シロウも笑みで返した。
「でしょう。ですが、きっと何物にも代えがたい時間になると確信しています」
「ふふ、ディエナはわたしよりもずっと、男性を見る目があるようですね」
「いや、それは……」
真正面から褒められたことが少ないシロウが照れていると、正面に座るスクアエが脛を蹴り飛ばし、隣にいるグロックが恨めしい目を向けてきた。
「デレデレしてんじゃないわよ。みっともない」
「畜生、なんでお前ばっかり……」
「あらあら」
二人の様子がおかしかったのか、レイアウナがころころと鈴を転がすような声で笑う。
「では、シロウさん。お願いしますね」
「お任せを。この城には入れませぬ」
「そうそう。それがありました。できるだけ、戦いは城の中でお願いします」
「と、言いますと?」
レイアウナはシロウがディエナと戦ったホールを憶えているかと問い、シロウは「当然」と答えた。
「そこを戦場に。この城はいつからあるのかわかりませんが、魂の力を集めるのに適した形をしています。この場で死んだ魂は、わたしが集めてディエナへと送りましょう」
そう言って彼女がそっと取り出した宝石。それはディエナが封印された物だった。
こぶし大の大きさがあるそれは、薄暗い城の中でも生命の力を示すかのように、青く神々しく輝いている。
「正直、わたしも怒っているのです。……グロックさんにじゃありませんよ」
肩を振るわせたグロックに向けた笑みは、先ほどまでと変わらないはずなのに、どこか空恐ろしい。
「教団は娘を利用して拡大し、そして娘と正面から戦ったあなたを利用して使い捨てにしました。それに、一人の少女の気持ちを弄んだのです」
シロウは驚いた。レイアウナがマリィについて言及したのだ。
食事の前にグロックから簡単に伝えらえたようだが、彼女は心底腹を立てたらしい。
「どうか、お願いしますね、シロウさん。あなたが頼りです」
シロウはその言葉を受け、やおら立ち上がると、腕から一本の刃を生み出し、レイアウナの前へと進み出た。
スクアエたちが緊張した様子を見せたが、レイアウナはじっとシロウを見ている。
「ナイフをお持ちください」
「こうですか?」
「そのままで」
シロウはレイアウナが手に持ったナイフに、自分の腕から生えた刃を軽く打ちつけた。
静かな食堂に、金属の音が響く。
「金打と言い、俺のいた世界に伝わる約束の方法です。必ずや、ディエナの復活を果たす、と約束しましょう」
その後、シロウを中心に迎撃の相談は深夜まで続いた。