第二話 イニオ村
ゼンはバルドを連れ、街道を歩き、左手にある細い脇道を抜けて、故郷であるイニオ村に戻った。
星ひとつない夜空の下、藁で葺いた屋根に石造りの家がぽつぽつと点在している。皆、夕飯の支度をしているのだろう。屋根の上から煙がたなびき、家の中からは暖炉の明かりが漏れている。風にのって、主食である麦粥を煮る匂いも漂ってきた。
村の外れ、ゼンの家を含め、村人全員が麦を栽培する広大な畑の前に、ゼンの家はあった。
使い古された木の扉を叩く。
「どなた?」
すると、中から、落ち着いた女性の声が聞こえてきた。
「ゼンだよ。ただいま、母さん」
ゼンが返事を返すと、扉が勢いよく開き、長い金髪を高く結い上げた三十代ほどの女が現れた。ゼンを見るなり、女の青い瞳が大きく見開かれる。驚いた表情から一転、険しい顔つきとなった女は、ゼンの肩に手を置き、声を荒げた。
「ゼン!こんな遅くまで一体どこへ行ってたの!?」
「ごめん、母さん。森で薬草を取りに行ってたんだ」
ゼンはポシェットから薬草を取り出し、女―母に見せた。
「これで、アニーの咳、少しは良くなるだろ?」
「ゼン…」
母の表情が憂いを帯びたものに変わる。
「ゼン、ありがとう。でもね、何も言わず行くのはもう止めてちょうだい。いくら森が自由に行き来できるといっても、危険なことに変わりはないのよ」
うっすらと涙を浮かべる母に、ゼンは神妙に頷いた。
「…うん。わかった。ごめん」
指で涙を拭った母は、背後にいるバルドに気づいた。
「あら、ゼン、あの人は・・・」
「バルドさんって言うんだ。王都まで旅をしているんだって」
道中、バルドは、ゼンが話しかけても、何も話してはくれなかった。
しかし、盗賊に襲われそうになったことを素直に母に告げれば、余計に心配をさせると考え、ゼンはとっさに嘘を吐いた。幸い、バルドは何も言ってこなかった。
「森の中で迷ってたみたいだから、連れて来たんだ。一晩、泊らせてあげてもいいでしょう?」
内心、後ろめたさを感じながら、ゼンはバルドを泊めてくれるよう母に頼んだ。
母は、疑うことなく頷く。
「えぇ。かまわないわ」
そう言って、背後にいるバルドに顔を向け、労いの言葉をかけた。
「道々、大変だったでしょう。どうぞ、入って下さい。あ、申し遅れました。わたしはフローラと申します」
母―フローラが名を告げ、バルドを迎え入れようと扉を開ける。しかし、バルドはそこから動かなかった。
「バルドさん?」
入口に足を入れかけたまま、ゼンが振り返り、不思議そうにバルドを見た。
「病気の子供がいるんだろう?なら、遠慮する」
「えっ」
「病気を悪化させてもまずいだろう」
バルドはそう言って、踵を返そうとする。ゼンがバルドを追いかけようとしたその時、背中からフローラの声がかかった。
「お待ちください。娘の病は持病なのです。お医者様からも一生付き合っていかなければならないと言われています。気になさらないでください」
その言葉にバルドの動きが止まり、ゆっくりと振り向く。彼に合わせるように、ゼンも振向けば、フローラはにこりと微笑んでいた。
「さぁ、どうぞ」
バルドは扉をくぐり、家の中に足を踏み入れた。
年季のはいった樫のテーブルが部屋の中央を占領し、同じように樫でつくられた椅子が四つ、置かれている。左側の壁には、木皿とスプーン、コップが並べられた食器棚が鎮座していた。食器棚の隣には、換気のためか、細く開けられた窓があった。
右側の壁には、埋め込まれた形で暖炉があり、赤々と灯った炎の上で、鉄製の鍋が湯気をたてている。
暖炉の炎でうっすらと見える奥の部屋は、寝室のようだった。すると、その部屋から小さな足音が聞こえてきた。足音とともに現れたのは、金色の髪を長く伸ばした五、六歳ほどの少女だった。
「お兄ちゃん?」
寝ていたのか、寝間着姿で眠そうに目をこすらせている。
「アニー」
ゼンが少女―アニーに近づき、抱き上げた。
「寝てなくていいのか?」
「うん、今日はそんなにおせきでてないから。・・・おきゃくさま?」
舌たらずながらも、アニーは自分の体調を兄に説明する。するとバルドに気づいたのか、首を傾けながら、こちらに顔を向けてきた。
「そうだよ。バルドさんっていうんだ」
「・・・こんばんは」
アニーはゼンに抱きかかえられながら、礼儀正しく頭を下げる。
「・・・あぁ」
バルドは返事を返した。
夕食は、牛の乳で炊いた麦粥と青い林檎が一個という質素なものだった。
バルドが奥に座り、その斜め左にフローラ、向かい合うようにアニーがおり、右斜めにはゼンが座った。
全員が席についたところで、フローラが徐に両手を組み、目を閉じた。彼女に合わせて、ゼンとアニーも両手を組む。
「父神ティナール、母神ヴァネッサ。今日も日々の糧を与えてくださり感謝いたします。そしてルベリウス・ダリオン様。このような暮らしができるのもあなた様のおかげです。火と水の恩寵がありますよう、お祈り申し上げます」
「お祈り申し上げます」
フローラの最後の言葉を、ゼンとアニーが復唱する。
父神ティナール、母神ヴァネッサ。
彼らは、この世界、フォーネロを創った竜神だ。人の姿にもなれたとされ、竜族の始祖であり、長人族、小人族、そして人間を創ったという。ティナールは火を、ヴァネッサは水を司るため、祈りの際には、火と水の加護を願う言葉が添えられる。
そして、ルベリウス・ダリオン。
王都・イスナーンの年若き宰相であり、竜族でありながら、竜族に物のように扱われていた長人族、小人族、人間の生存権を訴え、彼らの社会的地位や暮らしを向上させた人物だ。
三年前まで、食事すら満足に得られなかった三種族にしてみれば、今の暮らしは天国のようなものだろう。だが、バルドは知っていた。その天国のような暮らしを与えた人物が起こした裏切りと惨劇を。
――土煙の舞う王都イスナーンの大通り。
王城・ケントルムの方角から、鋭い矢が雨のように降り注いだ。
「くっ!」
バルドは、長剣で矢を薙ぎ払った。両隣、背後にいた仲間達は動作が一瞬遅れ、悲鳴を上げる間もなく、体中を矢に貫かれ、次々と倒れていく。
名を呼び、彼らを悼むひまなどなく、バルドは飛んでくる矢を薙ぎ払いながら、滑りこむように、使い物にならなくなったチャリオット(戦車)の影に隠れる。馬がいれば、わざわざ闘技場から運んできたこのチャリオットを動かし、矢を放つ敵を討つことも可能だったが、先ほどの攻撃で馬は死んでしまった。
バルドに今できることは、矢が尽き、この攻撃が止むのを待つことくらいだ。
チャリオットに潜みながら、バルドは、敵を見定めようとケントルムの方向に顔を向ける。そうしている間にも、仲間達が悲鳴を、または助けを求める声を上げながら絶命していく。
金臭い血の臭いが辺りに漂うなか、奥歯を噛み締め、長剣をもつ手に力が籠もる。飛び出していきたい気持ちを抑えつけ、バルドは、目だけをその方角に向けた。
黒一色に塗り固められた鎧に、竜を模した黒の兜を着た兵士達が、よどみない動作で矢を放っている。彼らが動く度に、兜の瞳に埋め込まれた石―おそらくルビーだろう―が、太陽の光に反射し、赤く煌めいている。
彼らが、竜族だけで構成された、王都イスナーン有する「竜騎士団」であることにバルドは気づいた。
(なっ――!!)
竜騎士団の動きを観察していたバルドは、彼らの左端に、いるはずのない人物を目撃し、目を見開いた。
(ルベリウス!なんでお前が―!!)
そこにいたのは、親友であり、仲間であり、そして、竜族でありながら、竜族の支配から長人族、小人族、人間の三種族を解放するという途方もない計画を立案した男が、冷めた眼差しで次々と倒れていく仲間達を見つめている。
そこに、普段の明るく、屈託のない笑みを浮かべたルベリウスの姿はなかった。
その表情でバルドは悟った。
あの計画も。親友として共に闘技場で戦い、仲間達と過ごした日々も。ルベリウスにとっては、捨て石にしか過ぎなかったことを。
「ルベリウスゥゥゥ――!!!」
チャリオットから飛び出し、バルドは長剣を構え、ルベリウスに向かって駆けだした。
向かってくる矢を叩き落とし、時に軌跡を捉えてかわす。避けきれず、足や肩に突き刺さったものもあったが、バルドは痛みを感じていなかった。
――殺すっ!殺すっ!殺してやるっ!!
ルベリウスを視界に映しながら、それしか考えていなかった。
「さぁ、食べましょう」
フローラの言葉に、バルドははっと我に返った。
テーブルに置かれた木のスプーンをフローラが手に取り、それに倣うようにゼンもアニーもスプーンを手に取った。
三人が食べ始める。
バルドもスプーンを取ろうとしたが、フローラの祈りの言葉が頭を通り過ぎ、手が止まる。
――竜。
この世界を創り、三種族を生みだした神。そして、竜族の始祖。
だから何だというのか。二神に祈ったところで、願いを叶えてくれるわけではない。己自身が状況を切り開いていくしかないのだ。
そして、ルベリウス。憎んでも憎み切れないあの男。奴のことを考えただけで、噴き上がるような怒りがバルドを襲う。
「トカゲの化け物に祈ったって、何にもなりゃしないと思うがな」
思わず、言葉が口をついて出た。
木皿のぶつかる音がぴたりと止まる。
顔を上げれば、ゼンが麦粥をスプーンですくったまま動きを止め、アニーは口をもぐもぐと動かしながら、不思議そうな顔でバルドを見ていた。フローラが咎めるような眼差しを向け、バルドを睨んだ。
「そんな言い方はないんじゃないでしょうか?お二人方は私達の創造主、ルベリウス様は私達の暮らしをよくしてくださった方です。自由を与えてくれた方です!」
「自由」という言葉に、バルドは嗤った。
「自由、ね。おれたちの自由を奪っていたのも竜族なんだがな」
穏やかな夕餉は一転し、雰囲気が張りつめたものに変わっていく。
それを肌で感じながら、バルドは、しまったと思った。
バルドにとって、ティナールとヴァネッサ、そしてルベリウスは、嫌悪と憎しみの対象でしかなくとも、フローラの家族、―いや、この場合はフローラか―にとって、彼らは崇め、敬うべき存在なのだ。それを分かっていながら、八つ当たり気味に言葉を投げつけてしまった。
(おれもまだまだだな)
胸の内で苦笑する。
もう、ここにはいられない。
バルドは椅子を引き、立ち上がった。
「おれは、あんたらの信仰を否定する気はないが、ルベリウスだけは別だ。・・・邪魔したな」
バルドは、床に置いた長剣と短剣を身につけ、灰色のバッグを肩にかける。そして、壁にたてかけたマントを手に取り、はおると、矢筒と弓を背中に背負った。
「え、バルドさん!」
ゼンが声を上げるが、バルドは無視をし、扉を開けて出ていった。
ゼンは、バルドを追いかけ、外へ出た。
家々の明かりに浮かびあがるように、バルドの姿が見えた。ゼンは、その背を慌てて追いかける。
「バルドさん、待って!」
だが、バルドの足は止まらない。ますます距離が離れていく。
「気を悪くしたなら、謝るよ!!」
ゼンは叫んだ。
正直、神や竜族をトカゲの化け物というバルドに肝を冷やした。村長に言えば拳骨ものだろう。だが、世の中、そういう人間もいることはゼンも知っていた。特に竜族は、神を始祖とする高貴な存在と自分達を捉えており、他の三種族を徹底的に差別していたからだ。
たとえ、この数年、三種族を優遇する措置が執られていても、彼らの心はそう簡単に変わるものではない。
おそらくバルドもそうした者達の一人なのだろう。それが「気を悪くしたなら」の言葉に繋がっていた。
すると、バルドの足が止まった。振り返り、ゼンを見る。
「なんでお前が謝るんだ?」
意外そうな顔をするバルドに、ゼンのほうが戸惑ってしまった。
「なんでって・・・」
すると、バルドが小さく息をついた。
夜空の下で、風に揺れる麦畑に視線を移す。しかし、その瞳は麦畑ではなく、どこか遠くを見ているようにゼンには感じられた。
「お前も、お前のお袋さんも悪くないさ。ただ、俺に堪え性がなかっただけの話だ」
自嘲気味に呟くバルドに、ゼンは問いかけた。
「・・・竜族が嫌いなの?」
ゼンに視線を戻したバルドの眉には、皺が寄っていた。
「好きになれるわけがないだろ。今の今まで、人間、長人、小人族を物のように扱ってきた連中だぜ?不必要な税を取り立てて、自分達は裕福な生活をする。気に入らない奴は兵士だろうと奴隷だろうと、長年仕えていた奴でも平気で殺す。時には、目の前を過ぎっただけ、目についたから殺す。『狩り』と称して、人間、長人、小人を野に放って、獣に襲わせ、時に自ら手を下す。いくら、三年前に三種族を平等に扱う法ができたからとって、その感情がなくなることはないだろ」
ゼンが考えていたことを、バルドは口にする。
そして、バルドの言った竜族が起こしてきた所業に対し、ゼンは、以前イニオ村で起きたことを思い出していた。
イニオ村とここから西にある町、セルカ、東にある都市、グレゴールを治めていた領主・ザッハークは、むやみに三種族を殺戮することはなかったが、その分、過酷に税を採り立てた。それは、気候が悪かった時期も同様だった。ゼンが生まれる前、五百人はいたイニオ村の大半が餓死したという。
だが、三年前、竜族であったが、三種族に理解を示したルベリウス・ダリオンが宰相となり、フォーネロ中の治安を変える法と対策を作り、実行したことでイニオ村の領主は代わり、税は分相応となり、気候が悪い時は税を半分に免除するということになった。
また、森の治安、街道の整備にも着手し、何も口にできない日が何日も続くことはなくなった。
「でも、同じ竜族のルベリウス様のおかげで、ぼくたちは今、生きている。生きている事ができる。竜族にもいい人がいるんだって信じられる」
ゼンが力強く頷く。すると、突然、バルドが声を上げて笑い出した。
「いい人?あいつが・・・?ふっ、あははははははっ!!」
笑い声は止まず、バルドは目に涙を溜め、体を折り曲げて笑い続けた。訳が分からず、ゼンは目を白黒させる。
やがて笑いが収まり、バルドは、大きく息を吐いて姿勢を正した。
「あいつがいい人か。まぁ、そりゃ「いい人」だわな。お前達の生活を楽にしてくれたんだ」
バルドの言う「いい人」という言葉に、見下すような雰囲気を感じ取り、ゼンは思わず眉を寄せた。
「あいつはとんだ悪党だよ。なんで、竜族が今まで物扱いだった三種族を平等に扱うなんていう、奴らにとっては益のない法を素直に受け入れたと思う?」
「え・・・」
悪党という台詞に、ゼンは思わず耳を疑った。
構わず、バルドは続ける。
「あいつはな、三種族に王都イスナーンを落とすほどの反乱を起こさせるように仕向け、竜族達に団結した三種族の脅威を思い知らせた。そして、自ら兵を引き連れ、反乱を鎮圧。あいつは、王と王都を守った英雄となり、宰相となった。笑うよな。自ら三種族の中に入り、友となり、仲間となったあいつの頭の中には、王の忠臣となり、世界を変えること。それしかなかったんだからな」
バルドが親しげに「あいつ」と呼ぶ人物。それがルベリウスだということにゼンは驚きを隠せなかった。そして、ルベリウスが宰相になった理由にも。
まるで、夢物語のような話ではあったが、真に迫っており、バルドが嘘をついているようには見えなかった。
何も言えず、ゼンはバルドを見上げることしかできなかった。
すると、バルドは苦々しい表情を浮かべ、舌打ちをした。
「・・・しゃべり過ぎたな。おれは行く。じゃあな」
「待って!あなたはその場にいたの!?」
「・・・・・」
「ねえってば!!」
追いすがるゼンを振り切るように、バルドは再び歩き出した。
ゼンは、その背を追いかける。
黙々と歩き続けるバルドを見つめながら、ゼンは、知りたいという気持ちがむくむくと湧き上がるのを感じていた。
この村と、よくてセネカを行き来する生活では、国や人の思惑など分からない。知らない事を知るということは、とてつもなく胸が躍ることなのだとゼンは気づいた。