鬼と修行
仙人になって感じたことは、人間とあまり変わらないのだということだった。
眠気も食欲もある。朝起きれば眠いし、朝ご飯も空腹だから食べられた。
「昨日、日輪は食べても満腹にならないし、空腹にもならないって言ってたよな」
「こころちゃんはまだ仙人になって間もないから、その辺の感覚は人間のままじゃないのかな?」
正直、それは助かっている。空腹でも満腹でもない状態がそれほどいいのか分からないから、いきなりそうなったら、戸惑ってしまうだろう。
寝るときも普段同じ寝つきで寝起きだったから、まだぼくは人間寄りの仙人なんだなあと思った。
「まだ仙人になって一日も経ってないんだから、仕方ないよ。それより、ゆかりちゃんも来るから早くパジャマを着替えたら?」
朝ご飯を食べ終えてのんびりしていたら、そう言われたので、自分の部屋に戻ってタンスから服を取り出し、着替えた。
パーカーとデニムというシンプルな服装。まあ日輪の服装に比べたらなんてことのない服装だ。
二階から降りて、リビングに戻るとすでにゆかりが居た。
ソファーに座ってテレビを見ていた。
「おはよう、ゆかり。よく眠れたかい?」
「幼馴染が下半身不随になって、歩けなくなったと思ったら、突然治って、それが医療ではなく仙人の力で治って、その上、その幼馴染がいきなり仙人になった夜の後、よく眠れると思うなら、あんたはもう、人間を辞めているわよ」
うーん、あらすじを聞くと不条理だな。
それに眠れなかったらしく機嫌が悪そうだった。
「あはは、ごめんごめん。ちょっと無神経すぎたかな?」
「……無神経だと分かっていながら聞いたのね?」
「そんなイライラしないでよ。ぼくの聞き方が悪かったよ」
「……あんたは眠れたの?」
「ぼく? ああ、快眠できたよ」
「……あんたの代わりに悩んだ私が馬鹿だったわ」
辛辣な一言だ。まあ全面的にぼくが悪いので仕方がないけど。
「ゆかりちゃん、落ち着いて。コーヒーでも飲む?」
「ゆめさん、ありがとうございます。いただきます」
「こころちゃんは紅茶で良かったよね?」
「うん。紅茶がいい」
ぼくがそう言うとゆかりは噴き出すようにケタケタ笑った。
「仙人になってもコーヒーが飲めないのね」
「あんな苦くて不味いもの、よく飲めるよ……」
「舌がおこちゃまなのよ、あんたは」
否定したいけど、できない自分が悔しい。
「ゆかりはいつから飲めるようになった?」
「私は最近よ。中三の夏ね。アイスコーヒーだったから、よく覚えているわ」
「ぼくは一生飲めないね。ガムシロップ入れてもミルクを注いでも、駄目だ。前世で酷いことをされたから飲めなくなったと思うからぼくが悪いんじゃないと思う」
「言い訳ご苦労様。ああ、そうそう。前世と言えば、日輪も言ってたわね。輪廻とか」
「ぼくは輪廻を知らないけど、前世と関係あるのかな?」
「前世を知ってて輪廻を知らないって、どこか矛盾しているわね」
「輪廻というのは、仏教の教えのことだよ、こころちゃん」
紅茶とコーヒーを淹れて、ゆめ姉はソファーの前のテーブルに置いた。
「人間は死んだら別の生き物に転生されるという考え方だよ」
「へえ、そうなんだ」
実は日輪が輪廻と言う度に、何を言っているんだろうと思っていたんだ。
「まあ、もうあんたには関係のないことよ。死んでも桃源郷やらに行くんだから」
ゆかりはブラックのまま、コーヒーを優雅に飲む。
なんか、かっこいいなあ。
「桃源郷って響きは良いけど、日輪があれだけ行きたがらない場所でしょ? なんか嫌だなあ」
「死ぬよりはマシだと思うわよ」
「私もそう思うなあ」
うーん、二対一になってしまった。
テレビを見ると八時五十分と表示されていた。
「そういえば話変わるけど、ゆめ姉は部活行かなくていいの? 春休みだけど、練習があるんじゃないの?」
ゆめ姉は吹奏楽部に所属している。
「えっと、こころちゃんが怪我したから休ませてもらってたの。今日、メールで顧問の先生に治ったから練習に参加しますって言うつもり」
ゆめ姉が在籍し、ぼくとゆかりが進学する予定の高校、沖天高校は吹奏楽部が強いらしい。
コンクールで入賞するくらいレベルが高いのだ。
ゆめ姉はそこでフルートを担当している。何度か聞かせてもらったけど、ひいき目なく上手かった。
「そっか。それなら良いんだ」
「こころは部活どうするつもりなのよ?」
「ぼくは陸上かな。それくらいしかとりえないし。そこそこ強いらしいし」
「仙気だっけ? それを出さないように気をつけなさいよ?」
「分かってるって。自分でもコントロールできないんだから」
「こころちゃん、慎重になりすぎて駄目ってことはないんだからね?」
ゆめ姉の言うとおりだ。昨日、ぼくが仙気を支配するどころか、仙気に支配されてしまうところだった。
テンションもおかしかったし、人格が変わるほどじゃないけど、性格は変わるのかもしれない。
「まあ、そのためにも修行だね。一体どんなことをするのかな?」
「私の勝手なイメージでいいなら、言ってもいいかしら?」
ゆかりの言葉に「うん、いいよ」と頷きながら紅茶を飲む。
「滝にうたれて精神を鍛えたり、どこかの山奥で瞑想したりすると思うのよ」
なんというか、テンプレな修行だなあ。
「私は違うと思うな」
今度はゆめ姉が口を開く。
「剣道や柔道みたく、身体を鍛えるのがメインだと思う。だって、鬼退治なのに身体を鍛えないといけないじゃない」
二人の考え方は真っ当だ。多分どちらかが修行方法になるだろう。
まあ、仙気の使い方を習得しなければ話にならないのは良く分かる。
「あ、お昼ご飯どうするか訊いておかないといけないね」
ゆめ姉はハッと気づいたように言う。
「修行によっては、軽いものがいいだろうし。晩ご飯も決めないとね」
「ゆめさんはもう主婦と言ってもいいぐらい完璧ですよね。家事が」
ゆかりの言うとおり、ゆめ姉はぼくたちの両親が死んでからずっと家事をしてくれる。正直、頭が上がらない。
「あはは、褒めても何も出ないよ? あ、昨日の余ったアップルパイあるけど食べる?」
それは紅茶に合うだろうから、ぼくも食べたい。
「じゃあ、四人分、切ってくるよ」
そう言ってキッチンのほうへ向かうゆめ姉。
「ゆめさんの作るアップルパイってどうしてあんなに美味しいのかしら」
「市販のものより美味しいよね。どうやって作っているんだか」
「こころ、あんた知らないの?」
「なぜかゆめ姉はぼくに包丁を持たせたがらないんだよ」
「……料理、下手なの?」
「いや、下手じゃないんだけど、本当になぜか包丁を持たせないんだよ」
昔から不思議に思っていたのだ。
「過保護なのかしらね」
「そうだと思う。別に嫌じゃないけどね」
「ブラコンの姉にシスコンの弟ね。立派なカップルね」
「そういうことじゃないよ」
うーん、好きな人にこうしてからかわれるとなんだかむなしくなるな。
話題を変えよう。
「そういえば、ゆかりは部活どうするの? テニス部、続けるわけ?」
「それね。私は続けようか悩んでいるのよ」
「悩んでる? 他に入りたい部活あるの?」
「ほら、私は一応女子じゃない? だから女子らしいことをしたいと思うわけ」
テニスも十分女子らしいと思うけど、敢えて黙っておく。
「調理部なんてどうかなって思うのよ」
「ああ、確かパンフレットの部活紹介にあったね」
「よく覚えているわね」
「入院していたときに、なんとなく覚えたんだよ。今のぼくならすべての部活を暗誦できるよ」
「それは凄いわね」
「それにしても調理部? 他にいろいろあるじゃん。茶道部に筝曲部、手芸部とか」
「早速特技が披露されているじゃない」
クスっと笑うゆかり。
「調理部に入るのは、少しだけでも追いつくために入るのよ。目標と目的ができたから」
「ふうん。目標と目的ねえ。どんな内容なのかな?」
ぼくの質問に、ゆかりは「内緒よ」と言ってそっぽを向いてしまった。
「なんだよー、教えてくれてもいいじゃんか」
「絶対内緒。教えてあげない」
さらに問い質そうとしたときだった。
「ふむ。これが噂に聞くらぶこめというやつかの」
日輪が突然現れた。何の間もなく、何の間隔もなく、唐突にぼくたちの前に現れた。
ソファーとテレビの間に。
言葉と共に現れた。
「きゃあ!」
ゆかりは驚いてぼくに抱きついてきた!
「わあ!」
抱きつかれたのと日輪の突然の登場のダブルインパクトでさらに驚く。
「ああ、日輪さん、昨日ぶりだね」
唯一驚かなかったゆめ姉はアップルパイを三つに切り分けた皿をお盆において、平然とリビングにやってきた。
「おう、昨日振りじゃな」
「日輪さん、今度から玄関から来てよ。いきなり現れるのは心臓に悪いわ」
「おお、今度から気をつけよう。それより、いつまでお主らは抱きついておるのじゃ?」
そう指摘されて、ゆかりが物凄い勢いでぼくから離れる。
なんか傷ついちゃうな。
「あ、あんた! いきなりなんなのよ!」
「言ったじゃろう。九時にここに来ると。ちょうど九時になったじゃろうが」
テレビを見ると、もう九時になっていた。
「だ、だからって――」
「ふむ。今度から気をつけるといっとろうが。そんなに騒ぐな」
それで話は終わりとばかりに、次はぼくのほうを見つめる。
「仙気が馴染んだみたいじゃの。これなら修行に移っても平気じゃの」
「ああ、そうなんだ……」
「普通は三日ほど、様子を見る必要があるが、お主は適応力があるみたいじゃ。これならワシも楽ができるし、お主も修行に励めるみたいじゃ」
楽ができるって、言ったよな?
「まあこれから修行をしていくが、特に気負う必要はないぞ。命を落としたりせん。危険などありはせんから、安心せよ」
「日輪の安心せよは安心できないんだよ」
痛くも痒くもない代わりに物凄く熱かったりしたし。
「これは平気じゃ。ワシを少しは信用せよ」
「……まあ信じないとやっていけないから、一応信じるけど」
人間諦めが肝心だ。ぼくは人間じゃないけど。
「さてと、少し待て。十六夜ゆめよ。台所を借りるぞ」
「う、うん。ついていこうか?」
「頼む。下界の台所の勝手は分からんからのう」
そう言って、台所に行く日輪とゆめ姉。
「まったく、あんな登場するなんて、常識が欠けてるよ」
「そ、そうね……」
「ゆかりは昔からああいうびっくり系のオバケ屋敷が苦手だよね」
「……前世のせいよ」
そんな会話をしていると、ゆめ姉と日輪が戻ってきた。
「待たせたの。それでは修行に入る」
手には水が入ったコップを持っている。
「ああ、このこっぷは下界で買った耐熱と耐冷を兼ね備えたものじゃ。珍しくもなんともない、普通のこっぷじゃ」
その普通のコップと水で、何をする気なんだろう?
「それでは、修行内容を言う」
日輪は仰々しく言った。
「仙気を使って、こっぷの水を沸騰させよ。また水を凍らせてみよ。それができたら仙気を一通り操ることができるじゃろ」
「…………」
ぼくは黙った。ゆめ姉もゆかりも黙った。
そして思う。
なんか、すげえ地味な修行だなあ。




