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仙人と鬼 その3

 リビングのテーブルと椅子を片付けて、場所を広く取った。

 ぼくは上着を脱いで上半身裸になった。

 日輪はぼくの右手を自分の左手に、ぼくの左手を自分の右手に合わすように重ねた。

「さて、これで準備は万端じゃ。これより儀式を行なう。覚悟はいいか?」

「こうやって手を合わせただけで、仙人になれるのか?」

 なんか簡単だな。

「簡単といえば簡単じゃがな。十六夜ゆめ。それと星野ゆかり、決して近づくでないぞ。下手をすれば、お主らの命を失う可能性もあるからな」

 ゆめ姉とゆかりはリビングを出て、隣の部屋に居る。ドアを開けて、ぼくたちの様子を見守っている。

「こころ……」

「こころちゃん、頑張ってね?」

 二人とも心配そうに見つめている。

「さて、言い残すことはないか?」

 日輪の念の入れようは些か過剰だった。それだけ危険というわけか。

「ゆめ姉、ゆかり!」

 これが人間としての最後の言葉になるんのかな?

「仙人になっても、よろしくな」

 それが、人間として言った、最後の言葉だった。

 もう少し、良い言葉や言いたいことがあったはずなのに、それしか出てこなかった。

 やっぱり、ぼくは駄目だな。

「よし。仙気を循環させよ! 回天!」

 その言葉でぼくの指先、手のひら、手の甲、手首の順にどんどん熱くなったり冷たくなったりする。

 正確に言えば、右手は熱く、左手は冷たい。

 まるで体温を抜き取って、その分を与えられている感覚。

 見る見るうちに右手は高温、左手は低温になっていく。

「あ、熱くて、冷たい――」

「我慢せい! 手を離すとまた一からやり直しぞ!」

 室内にいるのに熱気と冷気が部屋中を動き回っている。部屋の中に竜巻が発生しているような、循環しているような。

 ぼくの両手は熱くて冷たい。しかし、火傷になったり、凍傷になったりはしない。

 指がもげてもおかしくないのに!

「ああ、あああ――」

 自然と声が出てしまう。

「ああああああ」

 押さえることができない。

「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」

 声が悲鳴へと変わる。

「こころちゃん! こころちゃん!」

 視界の端でゆめ姉がぼくに近づこうとしてゆかりに止められているのを見える。

 だんだんと手首だけではなく、身体の中心まで熱く冷たくなっていく。

 身体が燃えて、凍りつかれる感覚が広がる。

 顔が潰れるような感覚が広がる。

 髪の毛がなくなるような感覚が広がる。

 そして最後に、心臓が鷲掴みされている感覚が広がった。

「もう少しじゃ。気を確かに持つんじゃ」

 遠くで日輪のそんな言葉が聞こえた気がした。

「――、―――」

 悲鳴がかすれて出せない。言葉を出ないとはまさにこのことだ。

「――よしっ! 完了じゃ!」

 日輪の手がぼくから離れる。

 ぼくはその場に倒れこんだ。

「こころちゃん――」

「まだ近づくな! これからが本番じゃ」

 ゆめ姉を制してぼくを無理矢理立たせる日輪。

「う、ううう……」

「手を合わせるんじゃ! そして仙気を身体全体に循環させるようないめーじを持て!」

 ぼくは緩慢な動きで両手を合わせた。

「右手から左手へ仙気を流しこむのを繰り返せ。そうすれば楽になる。さあ、やるんじゃ」

 仙気を流し込む? どうやって?

 そう言葉が出てくる前に本能で理解する。

 身体中に巡るこの力は、元々ぼくのものじゃないか。

 だったら簡単だ。

「ああああ! ああああああ!」

 ぼくは気合を入れて日輪の言ったように仙気を流し込んだ。

 次第に熱さと冷たさはなくなり、体温が常温に戻ってきた。

 身体中が震える。

 同時に未知のエネルギーが身体を駆け巡る。

 心臓の鼓動を感じるほど大きく高鳴る。

「身体中に仙気が巡っておるじゃろ。それを心臓に集中させよ! 仙気を押し留めるのじゃ」

 ぼくは言われた通りに心臓へ仙気を集める。

 身体の震えが心臓に集まりだす。

 ようやく落ち着きを取り戻した。

「はあ、はあ、はあ」

 呼吸ができるまで回復した。

 ゆっくりと、呼吸を整える。

「ようやった! これでお主は仙気を自在に操れるじゃろ」

 そう言われても実感できない。

 ぼくは倒れこむようにその場に膝をついた。

「こころちゃん! 大丈夫!?」

「こころ、しっかりして!」

 二人はぼくを手を取ったり、背中をさすったりして介抱してくれた。

「う、うん、だい、じょうぶ、だよ」

 つっかえながらなんとか言うと、二人ともホッとした顔になった。

「良かった……」

「これで、こころは仙人になれたの?」

「ああ、これで一応仙人になれたのう。まあ半人前じゃがな」

 日輪は椅子を持ってきて、背もたれを抱えるように座った。

「仙気を引き出すことで常人から超人を経て仙人になれたのじゃ。どうじゃ? 今の気持ちは?」

「なんだか、全力疾走した気分だ……」

 その場に大の字で倒れこむ。

 身体が汚れるとかそんな小さいことは考えなかった。

「ふむ。それは仙気を心臓に集中させておるからじゃ。ちょっと引き出してみよ」

「どうやって?」

「心臓から仙気を押し出す感じじゃ。血液を全身に送り出すいめーじでやるのじゃよ」

 ぼくはゆめ姉とゆかりの肩を借りて立ち上がった。

「ありがとう。二人とも、ちょっと離れていて」

 二人が離れたことを確認すると、日輪に言われた通りに仙気を心臓から押し出した。

「――っ! なんだこれ!」

 さっきまで疲労困憊だったのに、身体中に力が漲ってくるのが分かる。

 今なら何でもできそうな全能感。

 人間を越えたと実感できる優越感。

 これだけの力があれば――

「凄い! 凄い! 凄い!」

 意識して見れば、仙気の色が見える。

 水色に近いブルー。

 まるで青い炎がまとわりつくようだ。

「これなら、なんでもできる。百メートルで世界新記録を出せそうな気がする!」

 素晴らしい、なんて素晴らしい力!

「あはは、あはははははは!」

 さっきまでの苦痛が嘘みたいにすがすがしい。

「こころちゃん? どうしたの――」

「ゆめ姉! 凄いよ仙気は! 力が湧き上がってくる。すべてがぼくのものになれそうだと思うくらい、力が――溢れてくる!」

 ゆめ姉の顔が引きつっている。

 ゆかりもぼくのことを怖がっているような目をしている。

「二人とも、どうしたのさ? こんな素晴らしい力は生まれて初めてだ。いや、生まれ変わったと言っても過言ではない! 身体が入れ替わったようだ!」

 ぼくは仙気をもっと押し出す。

 どうやら二人には見えていないけど、部屋中が青い炎に包まれている。

「ああ、なんて晴れ晴れしいんだ!」

 リビングを支配した感覚に酔いしれるぼく。

 そしてこの力を試してみたい欲求に駆られる。

「日輪、ありがとう。こんな素晴らしい――」

「十六夜こころよ、少し落ち着かんか」

 そう言ってぼくの頭を掴んで――リビングの床に思いっきり叩きつけた。

「ぐはっ! ……痛い」

「まったく。典型的な力に溺れる人間じゃな。品性を感じないのう」

「何するんだよ! ちょっとはしゃいだだけじゃん!」

「仙気を収めろ。そのままじゃと衰弱してしまうぞ」

 衰弱? それは嫌だなあ。

 ぼくは再び心臓に仙気を蓄えた。

 ぼくの感性だと『収める』のではなく『蓄える』のが正しいと思った。

 仙気を蓄えるに連れて、テンションも元通りになってくる。

「ふう。ああ、ゆめ姉、ゆかり、ごめんね。ちょっとテンションが上がってしまった」

「う、うん、平気だよ?」

「……こころ、あんな性格変わってたわよ」

 うーん、そうかな?

「日輪、あのさ、仙気って――」

「その前に上着を着ろ。いつまで裸でいるんじゃ」

 仙人らしくない常識的な発言に従って、上着を着ようとする。

「こころ、なんとなく筋肉質になっていない?」

 ゆかりがぼくの身体をぺたぺた触る。

「ゆかり、恥ずかしいから触らないでよ」

「こころちゃん、腹筋が六つに分かれているね」

「ゆめ姉もなぞるのやめてよ」

 よくよく見てみると、全体的にスリムになっているし、三週間動けなかったので鈍っていた身体も入院する前以上に鍛えられているような……

「仙人の身体能力は常に全盛期に等しいのじゃ」

「力こぶもできているな」

「まあ筋肉達磨になるくらい筋力が上がるわけではないから、そこは安心じゃな」

 筋肉がつくのは嬉しいけど、ボディビルダーみたいにはなりたくはない。

「仙気を使っていないときは、常人と変わらんが、仙気を出せばお主がやっておる、陸上で一等賞になれるじゃろ。じゃが、人間の枠を超えているから、なるべく使うな。人間のフリをしたいのならな」

「……分かったよ。学校では使わない」

「うむ。それでは修行は明日から始めることにする。時間は取れるか?」

「えーと、今日は何日だっけ?」

 ぼくはカレンダーを見る。だけど、長い入院生活で日付感覚が麻痺してしまったので、結局分からなかった。

「今日は二十六日だよ、こころちゃん」

 ゆめ姉が教えてくれたので日輪は「ふむ、そうか」と腕組みをして考え込む。

「確か、四月一日から十二鬼の一体がやってくるのね? あと四日間でなんとかできるわけ?」

「いや、日本に限定されているとはいえ、一日や二日でワシを見つけるのは至難じゃろ。仙気を出さなければ居場所がすぐに見つかる可能性は低い。まあ一週間と見たほうが良いの」

「向こう側は仙界から探しているわけじゃないのか?」

 ぼくの疑問に日輪は「うむ、それはるーる違反じゃ」と言った。

「仙界から探してしまえば一発でワシの居場所を特定できるじゃろ。それではげーむの盛り上がりに欠けるのじゃ」

「一ついいかしら?」

 ゆかりが訊く。

「初めの鬼があなたを見つけたら、その場所を、その、あなたの言う嫌な奴に報告するのはアリなの?」

「アリじゃ。この街にいることをあやつに話すのも、同輩の鬼に話すのもアリじゃ」

「……それってかなり不利じゃないの?」

「そんなことはない。ワシは日本各地を移動できるのじゃから、一ヶ所に留まっている必要はない。仙界でならば一瞬で分かることでも、下界へ下りたら、自分の脚で調べなければならぬ。それのどこが不利なのじゃ?」

 ゆかりはしばらく、考えるようにして、そして言った。

「あんたは良いとしてもこころはどうするのよ?」

「どうするとは?」

「こころは高校もあるから、ここを動くことはできないし、あんたに付き合って日本各地なんて到底行けないわ。必然的にこの街を離れることができなくなるわ」

「……そうじゃのう」

「それについて、何か考えがあるわけ?」

 そう言われた日輪は「ちょっと待て、考えをまとめる」と言ってしばらく黙ってしまった。

「こころ、あんたはどうする気? 日輪に従って学校を休む気?」

 ゆかりが厳しい声で言う。

「いや、なるべく休まないよ」

「なるべくということは、休むこともあるってことね」

 それは意識してなかったけど、そう言われてみれば、休むことも無意識で念頭に置いていたのかもしれない。

「でもさ、実際に闘ってみないと分からないじゃん。どんなに強いのか見当もつかないのに、どう対処すればいいのかなんて机上の空論じゃない」

「馬鹿ね。闘う前にあらゆる可能性を考えることは決して無駄なんかじゃないわ」

 それを言われてしまったら、ぐうの音も出ない。

「まあまあ、二人とも冷静になろうよ」

 ゆめ姉がぱんっと手を叩いた。

「学校を休まない方法ならあるから、落ち着きなよ」

 ゆめ姉が言うと、ぼくもゆかりも日輪も一斉にそちらのほうを向いた。

「十六夜ゆめよ。お主の考えを聞かせてくれるか?」

「簡単だよ。先手必勝で鬼を倒せばいいんだよ。そうすればこの街を離れることをしなくていいんだから」

「……もし倒せなかったら、どうするの?」

 ぼくが訊くとゆめ姉は「分かれて単独行動を取ればいいんだよ」と言った。

「狙いは日輪さんなんだから、日輪さんが日本のどこかに逃げて、その間に修行とか回復とかすればいいの。こころちゃんが狙われることは、最初の鬼の場合はありえないから」

「それはどうして?」

「だって、相手は鬼ごっこだと思っているでしょ? まさか鬼退治されるとは思っていない。 その盲点を突くんだよ」

 その考えは確かに盲点だけど、ぼくらに都合の良い考え方だった。

「うむ。悪くないが、ワシの戦略をあやつが読み取っていた場合は危険じゃの」

 ぼくの懸念を日輪は言葉にした。

「しかし、それ以上の考えが浮かばん今、それを選択するしかないのう」

「えーと、まとめるとどうなるんだ? ゆかり」

 ゆかりはぼくの質問に「そうねえ」と相槌を打った。

「積極的に鬼を退治する。もし討ち漏らしたら、新たな修行もしくは回復に専念する。その間は日輪は逃げることに集中する、ってことね」

「うむ。逃げるのは性に合わんが、いたしかたないのう」

 これで四月の戦略は整った。

「よし、明日から修行の開始じゃ。今日はゆっくり休め」

 時計を見ると、もう十一時だった。

「日輪はどこか休むところがあるのか?」

「ワシはすでに自分の拠点を作っておる。気遣いは無用じゃ」

 ぼくと三日間一緒に居たのに、いつの間に作ったんだろう?

 あ、会う前に作ったのかな?

「それじゃあの。また明日会おうぞ」

「何時くらいに来るんだ?」

「うむ、九時ぐらいなら平気じゃろ?」

 朝五時ぐらいだと思っていたので、その意外さにちょっと驚く。

「それでは、また明日」

 そう言うと、部屋中に日輪を中心とした旋風が巻き起こり、その勢いで目をつぶってしまう。

 そして風が止み、目を開けられたときにはいなくなっていた。

「玄関から帰れよ。ぼくもこんなことができるようになるのかな?」

「できるようになっても、使わないでね」

 ゆめ姉に言われてしまったら、やれたとしてもできないだろう。

「ゆかり、もう遅いから送っていくよ」

「そうね、ありがとう。しかし、まさか仙人がいるなんて、私の価値観ががらりと変わってしまったわ」

 ぼくは価値観どころか人間が変わってしまったけど。

 こうして、ぼくは仙人へとなってしまった。

 これから、ぼくの人生がどうなってしまうんだろうと不安に思っている。

 死にたいなあと思ってしまったが、もう死ねない身体になってしまったので、思うことだけに留めておいた。


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