ぼくと仙人
「ああもう、死にたいなあ」
本日何回目か数えるのも嫌になるくらい弱音を吐くと、ぼくはベッドの上に寝そべった。
ぼく、十六夜こころが入院してから、三週間くらいが経った。
三月に病院に入院したから、もうすぐ四月になる。
しかし、カレンダーを見ても日付感覚がなくなっているので、今が三月なのか四月なのかはっきりしない。
せめて、高校入学までには退院したいところだけど、それは無理か。
だって、脚がぴくりとも動かないんだもな。
というより感覚がない。
もしも針を刺そうがナイフで切りつけられろうが痛みをまったく感じないだろう。
傷病名は、下半身不随。
まさか自分にこんな不幸が訪れるなんて、思いも寄らなかった。
「交通事故で下半身不随って、漫画じゃないんだから、勘弁してほしいなあ。死にたくなるよ」
そう一人呟いても答えてくれる人はいない。
ゆめ姉はトイレに行ってしまったし、ぼくの唯一の友達であり、同じ高校に進学予定の星野ゆかりはもう帰ってしまった。
現在、午後三時。
この日のリハビリも終わってしまったので、暇で暇でしょうがない。
ゆめ姉やゆかりが持ってきてくれた本はとっくに読み終えてしまった。まあ元々読書が好きなわけでもないので、流し読みしてしまったのだけど、それでも暇を潰すのに最適だとは言えない。
テレビを見ようにも、いちいちお金がかかるのでなかなか見れない。それにぼくは少しケチな部分があるので、あまりお金を使うのははっきり言って嫌いだった。
ただでさえ、個室で料金が割高になってしまうのに、無駄にお金を使うのは賢い選択とはいえない。
ぼくは大部屋でも良かったんだけど、ゆめ姉が「お金のことは心配しなくていいの」と言って個室にしてくれた。その厚意は嬉しかったけど、ぼくよりも節約を重視するゆめ姉にしては珍しいなと思った。
だから、せめてぼくから出るお金ぐらいは節約、いや倹約したほうがいいと思って、どうしても見たい番組以外は見ないことにしている。
それに個室でも気を使わないといけないのだ。騒いだりはしゃいだりしたら看護師さんに怒られるから気をつけないと。
まあ騒いだりはしゃいだりできる身体じゃないんだけどさ。
なんてネガティブがことを言ってみたりしても、ゆめ姉とかゆかりとかが涙ぐんでしまうからあまり言えないけど。
だったら、悲観的なことよりも楽観的に考えたほうがいいと思考を百八十度反転させてみよう。
まず生きていることに感謝しよう。加害者のドライバーはすでに死んでしまっているし、ぼく以外に轢かれてしまった五人も即死してしまった事実を鑑みても、生き残ったことが奇跡なのだ。まあ歩道に突っ込んできたトラックをとっさに避けることができたのは、ぼくぐらいの運動神経を持っていないとできないことだったと自負しよう。
それに、見た目上の怪我もすっかり治ってしまったことも嬉しいことだ。骨折はもう治ってギブスも取れたし、抜糸もしたし、点滴も取れた。
車椅子での移動も慣れたものだし、風呂にも入れるようになった。痒くて仕方がなかったのも解消されたので万々歳だ。
それに後遺症も下半身不随以外にないことも感謝しなければならない。握力も筋力も病院暮らしでなまってはいるものの、日常生活に不便はないくらいまで保っている。
顔にも大きな怪我はない。まあ元中二病男子としては傷跡があっても別に良かったけど。
……こういう考え方をすること事態、中二病は完治していないのだろうか。
ともかく、ぼくは感謝しなければいけないのだろう。もちろん神様なんてわけの分からない不確かなものではなく、手術をしてくれたお医者さんに身の回りの世話をしてくれる看護師さんに献身的なゆめ姉とゆかりに。
だけど――
「これから車椅子生活だと思うと、気が重いなあ」
担当医の先生が「脚が動くことは一生ありません」と断言してたからなあ。
初めて聞いたとき、ぼくはショックを受けたけど、泣いたりしなかった。いや、周りに居たゆめ姉やゆかりが泣いていたのを慰めるのに大変だったから、泣く暇がなかったのが真実だけど。
歪んでいるけど、ぼく以上に悲しんでくれて少し嬉しかった。
それに言われたときはすでに自分の脚が動かないことに気づいていたことも原因かもしれない。
自分の身体だから、分かる。
もう動かないのだと。
先生に言われるまでゆめ姉とゆかりに隠していたことを後で責められたっけ。特にゆかりは激怒していた。
なんで怪我した本人が怒られているんだろうと、後で疑問に思ったけど。
むしろ怒るべきはぼくのほうだろうと思ったけど、そもそも誰に怒るべきか分からなかった。
だって、加害者は死んじゃったし。
加害者の家族に怒るわけにもいかないし。
そうそう。加害者の家族が謝りに来たのは最近のことだった。
まあそれまで怪我も治っていなかったから仕方がないけど。
確か、加害者の奥さんとその両親だった。その三人は土下座をして謝罪したので、こっちが逆に気を使ってしまったことを覚えている。
そのとき、ゆかりがいなくて良かったと思った。ゆかりは身内には優しいけど、気性が激しいところがあるので、多分良くない結果になるんだろうなあと思った。
実際、ゆかりに来たことを言ったら、「土下座程度で済まそうとする、その考えがすでに間違っているわ」と憤慨していた。
そこでまたしてもぼくが庇うようなことを言うと「こころ、なんであなたは怒らないのよ!」と何故かぼくが怒られてしまった。
そりゃあ、怒るべきだと頭では考えているのだけど、いまいち実感が湧かないのだ。
脚が動かないという感覚があるというのに、まるで怒りとか悲しいとかの感情が生まれない。
生まれてくる感情は諦めとか後悔とか後ろ向きなものばかり。
もしも、寝坊なんてしなかったら。
もしも、近道を通らなければ。
そう考えるとやるせない気持ちになる。
せっかく、陸上が面白いと思えるようになってきたのに。
短距離走で関東大会まで行けるくらいの実力になれたのに、一から出直しか。
出直すどころか、もう走れないけど。
でも、不幸中の幸いと言うべきか、高校をスポーツ推薦で行かなくて良かった。
下手をすると退学まで有り得る。その場合は別の高校を受験するか、最悪の場合は高校浪人になるところだった。
これはゆかりに礼を言っておかないといけないなと思って言ったらなぜか赤面された。本当になぜだろう?
ともかく、生きているだけで丸儲けなぼくだけど、それでも死にたいと思うことがある。まあ誰だって死にたいと思うことはあると思うけど。
脚が動かないのは受け入れた。
未だに退院できないのも納得しよう。
だけど、リハビリはどうにかならないだろうか?
動かないものを少しだけでも動くようにする訓練。ぼくの今まで生きた十五年のちっぽけな人生の中でも、あんなに辛いことはないだろう。
組まれたメニューをこなさないと、こうしてベッドで休むことができない。かといってノルマに到達すると、その分、明日には上乗せされる。
ぼくの担当の看護師さんはSなんじゃないかって思ってしまう。
確か、何かの本で読んだけど、あのナイチンゲールは麻酔なしの手術を行なったらしい。
患者はいっそのこと死にたいとは思わなかったんだろうか? そしてそれでも治りたいとおもったのだろうか?
看護師の代名詞たるナイチンゲールもそんな性格をしているのだから、市井の看護師が少しぐらいサディスティックなのは諦めるべきだろうか。
そんなことをつらつら考えていると、個室のドアをノックする音が聞こえた。
こんこんこん、と礼儀正しく三回。
「どうぞー、入ってもいいよ」
多分、ゆめ姉だと思って声を出すと、ドアを開けたのは、予想通りゆめ姉だった。
十六夜ゆめ。ぼくの姉であり、両親が他界してしまった今、肉親はゆめ姉だけだ。
もちろん、血はつながっている。
艶やかな黒髪を腰まで伸ばしている。背はぼくと同じくらいで、女子としては結構高め。
ちなみにぼくの身長は百七十ジャストだ。
弟の目から見てもかなりの美人。今度、高校三年生になるにしては大人びている容貌。だけど、ちょっと天然が入っている。
「こころちゃん、遅くなってごめんね」
ゆめ姉はぼくのことをこころちゃんと呼ぶ。もう高校生だからやめてほしい。
「いいよ、別に。時間はいくらでもあるし。でも一応訊くけど、どうしてこんなに遅くなったの?」
トイレに行くと言って三十分も経過していた。
「トイレに行く途中に、友達から電話がかかって、外に出てたの。たいした用じゃなくてすぐに済んだけど、自分がどこにいるのか分からなくなったの」
「……迷子になってたの? ゆめ姉、もうそろそろ方向音痴を治したほうがいいんじゃない?」
この通り、天然なのだ。
まあ、大人びた見た目とのギャップで男子からは人気があるようだけど、弟としては心配で仕方がない。
「うーん、私も治そうと思うんだけどね、なかなか治らないよ」
「もうぼくは一緒に散歩とか出かけたりできないんだから、治すことを考えようよ」
ぼくの言葉に「そんなこと、言わないでよ……」と悲しそうに言った。
あれ? やってしまったかも。
ゆめ姉は泣きそうな顔をしている。最近眠れていないのか、黒々とした目の下の隈を歪ませている。
「ああごめんごめん! 車椅子でも散歩ができるよね? だから泣かないで!」
今度は『車椅子』というワードが良くなかったみたいだ。ぽろぽろと泣き出してしまった。
「ゆ、ゆめ姉……」
「ごめんね、こころちゃん、お姉ちゃん泣いちゃったりして、なんか情けないよね、こころちゃん、頑張っているのに」
昔から泣き虫だったけど、最近ますます泣くことが多くなった。
弟が大怪我してしかも二度と歩けないんだもんな。辛いに決まっているよなあ。
ぼくなんかは受け入れてしまっているからあまりショックは受けないけど、ゆめ姉は姉弟だからこそ、自分のように傷ついているんだろう。
「ゆめ姉、こっちへおいで」
すっかり子供モードに切り替わってしまったゆめ姉にぼくはできる限り優しい声で言う。
「こころちゃん、うん、分かった」
ゆめ姉がベッドまで近づいて、腰掛けてきたので、ぼくは愛情を込めて、頭を撫でてあげた。
「ごめんね、ネガティブなこと言って。大丈夫。ぼくは平気だから、安心して」
何の気休めにならないことを言って、誤魔化す。
「こころちゃん、うん、ありがとう」
「ありがとうなんて、そんないいよ」
「……それでもありがとう」
実の姉でなければ惚れてしまうほどの可愛い笑顔だった。
「いいって。それより、退院したら、ゆめ姉のご飯食べたいな。病院食は不味くってさ」
「もう、こころちゃん、そういうこと言ったら駄目でしょ? 一生懸命に作ってくれる調理師さんに申し訳ないでしょ」
「一生懸命に作ってくれるなら、もっと美味しいご飯が作れると思うけどね。それに、今のぼくの楽しみは、食事ぐらいしかないんだよ」
「分からなくもないけど、それでもわがまま言っちゃ駄目だよ。こんどアップルパイ作って持っていくから、それで我慢してね」
「えっ? アップルパイ!? 絶対食べたいなあ。楽しみにしてるよ!」
なんだかテンションが上がってきた。
「昔からアップルパイが好きね。というよりりんごが好きなのね」
「うん、大好きだよ。お見舞いのフルーツをりんごだけにしたゆかりはぼくのこと、分かっているよね」
「ゆかりちゃん、今日もお見舞いに来てくれたね」
「春休みだから暇なだけだと思うけどね」
「そんなこと言って、好きなんでしょ、ゆかりちゃんのこと」
「ああ、好きだよ」
堂々と言ったので、ゆめ姉の表情が固まった。
おお、レアな表情だ。
「うん? だって、ゆめ姉もぼくがゆかりのことが好きだって知ってるよね?」
「ち、違うの……」
「何が? もしかしてゆかりと何が――」
突然、顔色が蒼白になってしまったゆめ姉はぼくの後ろを指差す。
ぼくはドアから入ってきたゆめ姉と話していたので、窓のほうを背にしていた。
だから気づかなかった。
ゆめ姉の指差すほうへ振り向くと、そこにいたのは、女の子だった。
年齢はぼくとあまり変わらない、女の子。
それが窓の外にいた。
それだったら驚きはしない。
だけど、九階建ての五階に位置するこの個室の外に居たのを、ぼくたちは驚いていた。
まあ回りくどいこと言わずに、はっきり言ってしまおう。
女の子は空中にいた。
しかもピースサインをして。
にっこりと微笑みながらこちらを覗きこんでいたのだ。




