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「旅する頼子さん」

作者: 呑竜

 古びたピアノの蓋の裏、白鍵と黒鍵の間のところ。

 わたしはそこに住み着く幽霊だ。


 いつの頃からかはわからない。

 気づいた時にはそこにいた。ピアノとともに、全国の学校を渡り歩く日々をおくっていた。


 楽器専門のトラックの荷台に乗せられて、西へ東へ、北へ南へ。

 風に運ばれるような、雲を追うような気楽な旅。

 流れ着いた先で誰かに弾かれ、飽きられ売られ、また違う落ち着き先を探す。

 自分の意志によらない遥かな旅を続けて来た。


 といっても勘違いしてはいけない。

 歳をとらないので、わたしの外見は若いままだ。

 クラシカルなセーラー服に黒髪ロング。

 目元涼やかな美少女だと、見える人(・ ・ ・ ・)には好評だ。


 永遠の美少女というわけなのだ。

 ふっふっふ……。




 雪溶けきらぬ北国の春。高原を渡る風に吹かれながら、わたしはその学校に運び込まれた。

 県庁所在地から車で2時間はかかる小さな町の、小中一貫の分校。

 下は小1から上は中2まで、たくさんの子供たちが待ち受けていた。

 歓声とクラッカー。垂れ幕に万国旗。どこの有名タレントが来訪したのかというような大騒ぎだった。


「すごいね~、大きいね~」


 鼻水垂らした子供たちが、手をわきわきさせながら近づいてくる。


「立派だね~」


 いつ洗ったかもわからないような汚い手でペタペタ触れてくる。


「誰が一番に弾く?」


「誰かな~?」


 半泣きのわたしをよそに、子供たちは笑顔満点だ。


「……ジュンちゃん?」


「一番上手い人がいいんじゃない? ジュンちゃんはちょっと……」


 出来れば一番清潔な人がいいです。


「じゃあチーちゃんだね!」

 

 選ばれたのは子供たちの中では年嵩としかさの、中学のブレザーを着た女の子だった。


 優しく面倒見の良さそうな女の子が、「猫ふんじゃった」を弾き始めた。

 特別巧みというわけではないが盛り上げるのが上手で、全員が小気味よくノッて口ずさんでいた。


 演奏バトンは子供たち全員を巡った。

 最後に渡ったのが一番年長者のブレザーの少年だ。


 周りの反応を見ると、それがジュンちゃんらしい。

 リムレスのメガネをかけた、線の細い男の子だ。

 白く透き通るような肌に、静脈が青々と浮いていた。

 ジュンちゃんはたくさんの指紋や汚れがついた鍵盤をハンカチで神経質そうに拭くと、おもむろに指を滑らせた。


 ──下手だ。


 ぶきっちょと言われた通りの、とにかくひどい演奏だった。

 何か他のことに気をとられているのではないかと思うぐらいにメタメタだ。

 何か他のことに……。

 何か他のことに……。


「……あら?」


 ふと気が付くと、ジュンちゃんがこちらを見ていた。

 ピアノの上に横座りしているわたしを、彼だけが見つめていた。


「……」


 どこか責めるような、険しい視線。


「えっと……ヘロウ?」 


 にこやかに挨拶したが、ジュンちゃんはふいとそっぽを向くように席を立った。

 ううむ、ネイティブな発音すぎてわからなかったか?




 ジュンちゃんが再び訪ねて来たのは、あくる日の早朝だった。

 まだ先生すらも来ていないような時間、底冷えする寒さの中を、マフラーに鼻まで埋めながらやって来た。


「ふぁーあ。……あら、早いのね」


 人の気配を感じたわたしがピアノの蓋を開いて顔を出すと、ジュンちゃんは明らかに顔色を変えた。


「おおお……寒いっ」


 冷え切った室内の気温に、わたしはぶるぶると体を震わせた。


「なんでこんな時期に、よりにもよって東北に来ちゃったかなあー……」


「あ……あんたでも寒さなんて感じるのかよっ?」


 ジュンちゃんは、警戒しながら話しかけてきた。

 完全に腰のひけた、弱そうなファイティングポーズをとっている。


「そりゃそうでしょ。寒いものは寒いもの」


「ゆ……幽霊でも?」


「幽霊でもよ」


「そ、そうか……」


 わたしが手を擦り合わせていると、ジュンちゃんは音楽室の片隅のダルマストーブに火を点けてくれた。


「あらありがとう。優しいのね」


「べ……別にっ。ボクが寒かっただけだしっ」


 典型的なツンデレみたいな台詞を吐くジュンちゃんは、ごほんと咳払いすると改めて仕切り直しするように指を突きつけてきた。


「だ……だいたいあんたはなんなんだよ!? せっかくのピアノにくっついて来やがって! みんなが楽しみにしてたのに、なんでこんなことするんだよ!」


「こんなことっていうか、ただいるだけなんだけど……。それにそもそも、昨日の感じだとジュンちゃんにしか見えてないのよね? じゃあみんなの楽しみは邪魔してないんじゃない?」


「うう……っ!?」


「ジュンちゃんさえ我慢してくれれば、みんなは幸せになれるんじゃない?」


「ううううう……っ!?」


 はい論破。


「じゅ……ジュンちゃんって言うな!」


 言い負かされたジュンちゃんは、顔を真っ赤にして怒り出した。


「えー? でもみんなジュンちゃんって呼んでるじゃない」


「ジュンでいい! ちゃん付けはやめろ! あんたにそんな風に呼ばれるいわれはない!」


「ジュン」


「うるさい!」


「……ちょっと理不尽じゃない?」


「うううっ……うるさいうるさいうるさい! ボクはおまえに出てけって言いに来たんだ! ここはボクらの学校で、ボクらの音楽室なんだ! ピアノだってボクらのだ!」


 ジュンはがるると噛みつくように唸った。


「そうは言うけど……」


 わたしはピアノの表面を撫でた。


「わたしだって好きでこうしてるわけじゃないのよね。ピアノにとりつかなければならないから一緒にいるの。ピアノが動くならわたしも動く。旅をするなら一緒に旅をする。殻を脱げないヤドカリみたいなものなのよ。これも運命と思って諦めてもらうしかないわね」


「離れられないだって……!?」


 ジュンは愕然とした顔をした。


「そうよ。具体的な理由とかそのへんの記憶は曖昧なんだけど、とにかくわたしはここから離れられないの。死ぬまで一緒。いや死んでるんだけど」


「ず、ずいぶんあっけらかんとした幽霊だな……」


 わたしの言い様に、呆れたように肩を落とすジュン。


「よく言われるわ。癒し系だって」


「いやそんなことは言ってないんだけど……」


「いいじゃない。別に音質に変わりはないわけだし、場所だってとらないし、ご飯だって食べない。夜中にひとりでに鳴ったり、キャスターでゴロゴロ転がったりするぐらい。見た目もほら、可愛いものよ?」


 首をかしげてニッコリ渾身の微笑を見せると、ジュンはぽわーんとした顔になった。


 数秒間の沈黙の後、はっと我に返ったようにかぶりを振った。


「だ……ダメだダメだダメだ! とにかく出てけ! このままっていうのは絶対にダメだ! いいか!? 明日も来るからな!? 絶対出て行けよ!?」


 捨て台詞を残すと、ジュンは音楽室を出て行った。


「出てけって言われてもねえ……」


 わたしは腕組みしてうなった。

 自分の意思でどうこうではないのだから、あとはもう、成仏させてもらうぐらいしかないのだけど……。




 次の日も、ジュンはまったく同じ時間にやって来た。


「あらおはよう。今日も早いのね……って……え……?」


 右手に数珠、左手に十字架、ニンニクの首飾り、額にお札。

 怪しげなグッズをてんこ盛りに武装している。 


「ねえ……なにその格好? この地方の風習かなにか?」


 おそるおそる問いかけると、ジュンは鼻息荒く答えてきた。


「ふっふっふ……これか? 聞いて驚け! ボクの忠告を無視したおまえをすっきりさっぱり除霊してやるんだ!」


「ああ……そういうのね……」


 わたしはいたたまれなくなって天井を見上げた。


「ボクは昔からおまえみたいなのをよく見るんだ! だから慣れてるんだ! すぐに除霊してやる! ここから追い出してやる!」


 手を合わせ、数珠をじゃらじゃらさせながらお経を唱え出すジュン。


「えっと……経験豊富なのはけっこうなんだけど……。いままで除霊に成功したことは……?」


 ジュンは痛いところをつかれた、というふうに「うう……っ?」と唸った。


「……ない、けど」


「ダメじゃない」


「うううっ……うるさいうるさいうるさい! 無理でもやるんだ! なんとかするんだ! 絶対におまえを排除しなけりゃならないんだ!」


 頑なにわたしを除霊しようとするジュンだが、もちろん効果はなかった。

 痛くもかゆくもなく、いたずらにジュンの徒労が募るばかりだ。


「ねえ、なんでそんなにわたしのことを嫌うの? 何度も言うけど、わたしは基本的に無害よ? わけのわからない美術品なんかよりよっぽど綺麗だし、心の栄養になるわよ? ……もし望むなら、あなたの彼女にだって……ね? ほら……みんなには内緒で……」


 胸元をはだけ、しなを作って微笑むと、ジュンは耳まで真っ赤になった。ズザザッと壁際まで一気に後退した。


「だ……ダメだよ! ダメなんだって! とにかくダメったらダメなんだ!」


「だからなんでよ」


「発表会があるんだ! 地域の人やお偉方を招いてみんなで合唱するんだ! その場におまえがいてみろ! おまえを見ることのできるやつがいてみろ! 大騒ぎじゃないか! 努力も練習も、なにもかもぶち壊しだ!」


「それって、その時だけ隠れてればいいんでしょ?」


「え」


 ぴたり、ジュンの動きが停止した。


「わたしの姿が見えなければいいんでしょ? だったらそうしてあげる」


「そ……そんなことできるのか!?」


 明らかに動揺するジュン。


「出来るわよ。普段わたしがどこにいると思うの? ここの蓋の裏よ? ほら、ここに見えない穴が開いてるの。ね、ここなら見えないでしょ?」


「え……あう……たしかに……」


 戸惑うジュン。わたしを責める理由を失い、振り上げた拳と十字架の落としどころに困っている。


 んー……もう一押し、かな。


 わたしはふっと遠い目をした。


「……いいのよ。幽霊だもん。怖がられたり嫌われたりには慣れっこ。ひさしぶりに見える人に出会えたから、調子にのって姿を見せてただけ。本当は、隠れようと思えばいつまでだって隠れてられるの。それこそ永遠にだって。でも、それも終わり。騒がせてごめんね? 怖がらせたわね? もう二度としない。わたしはもう……消えるわ……」


 両手で顔を覆って肩を震わせ、くすんくすんと泣き真似をする。


「ちょ──」


 ジュンは慌てた様子で近づいて来た。


「ご……ごめん! あんたがそこまで思いつめてるなんて思わなかったんだ! ただ合唱会を成功させたい一心で! 幽霊だから! おかしなやつしかいないと思い込んでたから! あんたみたない人だと思ってなくて……!」


 ……ちょろい。さすが中学男子。ちょろい。


 わたしは内心で舌を出した。


 これで当面、暖かい季節が訪れるぐらいまではここにいられる。

 純朴な少年を弄ぶようで心苦しいけれど、またぞろ寒い時期に移動するのはこりごりだもの。



 

 いざ胸襟を開いてみると、ジュンはおとなしくていいコだった。

 今までの非礼をわびて、わたしに尽くしてくれるようになった。


 鍵盤に敷くキーカバーを持ってきてくれた。それでも寒いと訴えると、わざわざ早朝に登校してストーブをつけてくれたりもした。


 わたしたちはいろんなことを話した。

 世間のこと。将来の夢。世界情勢。分校の置かれた状況──


「今度の合唱会次第で、この学校の運命が決まるんだ。っていうと大げさかもしれないんだけど……」


 少子化極まった分校は、予算が打ち切られる寸前だった。校長や地域の人の尽力で踏みとどまってはいるけど、ちょっとしたきっかけでどう転ぶかわからないような状況らしい。

 合唱会当日はテレビ局や新聞社も取材に来るらしいので、なるべくいい印象を残したかったのだそうだ。


「だからボクも、少しでも貢献したくて……」


 ジュンはもじもじと落ち着かなげに、楽譜の表面を撫でている。


「だけどボクはあんまりこういうのが得意じゃなくて。その……歌とかさ……」


 ふふ、わたしは思わず笑ってしまった。


「な……なにがおかしいんだよっ?」


 ジュンはムキになって怒った。


「別に、とくに悪気はないのよ。ただ単に、男の子の男の子な部分が可愛いなと思っただけ」


「か、可愛い!?」


「うん、可愛いから特別に、お姉さんが教えてあげましょう」


「お、教えてくれるって!? べ、別にボクはそんなことお願いしてないぞ!?」


「まずは出だしから始めましょ。さん、はい──」


「ちょ……ちょっといきなりすぎるだろ……! まずは発声練習とか──」


 白い肌に朱を走らせたジュンのどぎまぎ顔は、なんとも子供っぽくて可愛いいものだった。

 もし弟がいたらこんな感じなのだろうかと思って、わたしはほんわかした気分になった。




 練習は翌日から始まった。

 朝早くから。

 もしくは夕方、みんなの帰った後で。


 ジュンの歌は、決して上手い方ではない。

 音の取り方も出し方も、基本からなってない。

 

 これは骨が折れそうねと思いながら伴奏してあげると、ジュンはぽかんと口を開けて驚いた。


「う……上手いな……。さすがはピアノの精……っ」


「……誰が精よ。わたしは幽霊よ。ピアノにとりついた幽霊」


「だ、だけどすごく上手い……っ」


 拳を握って力説してくる。


「ふふ……ありがと。もしかしたら、生きてた頃はピアノ演奏家志望の女学生だったのかもしれないわね?」


「……だったかもしれない、か」


 ジュンは考え深い顔をした。

 腕を組み、薄い唇を震わせるように何ごとかをつぶやいた。




 ある時、ジュンがわたしに聞いてきた。


「なあ……頼子さん。ボク……ピアノを弾こうかと思うんだ」


「なぁに? 歌を歌うのに飽きた? 疲れた? 諦めた?」


「そ……そうじゃないよっ。たださ、智恵が歌いたそうにしてたから……」


「智恵……?」


 誰だっけ。

 わたしは首を傾げた。

 たしかどこかで聞いたような……。


「ああ……あのコね? ピアノの上手い」


 思い出した。

 初日に「猫踏んじゃった」を弾いたコだ。


「そうさ。あいつはなんでも器用にできるやつなんだ。ピアノだって上手い。だけど本当は歌うほうが上手いんだ。海外の合唱団にいたっておかしくないようなやつなんだ。でも、この学校には他に満足にピアノを弾けるやつがいないから……。でももし、ボクにそれが出来るなら……」


 合唱会の成功につながる……か。


「んー……でもあと2か月……」


 息継ぎ、発音、ビブラートのきかせ方にいたるまで、最近ではけっこう堂にいってきたジュンだ。今ここで歌を放り出すのは非常に惜しい。


 もともとが集中力のある男の子だ。同じくらいの真剣さで打ち込んだなら、合唱曲一曲程度なら期日までに弾きこなすことが出来るようになるだろうけど……。 


「……ダメかな? 智恵がってだけじゃなく、出来ればみんなが喜べる形にしたいんだけど……」


「まあいいんじゃない……? ……ジュンがそう思うんなら。実際にやるのはあなたたちなわけだし」


 わたしはなんとなくモヤモヤしたものを抱えながらもジュンの申し出を受け入れた。




 瞬く間にひと月が経過した。

 いよいよ合唱会の日が近づいて来た。

 歌をピアノに変えても、ジュンの上達は早かった。

 時々音を外すことはあるが、まず上々といえる演奏だった。


 ある日の夕方のことだ。

 鍵盤に指をかけたジュンが、不思議そうに首を捻った。

 

「ねえ頼子さん。ここだけ手触りが変なんだけど……。この、ドからシの間」

 

「ああ、そこ? よくわかったわね。そこだけアクリルなの。他は象牙」


「ここだけ変えたんだ? 壊れたってこと?」


「さあ? 元からなんじゃない?」


「ふうん……」


 ジュンは納得いかなそうな顔で鍵盤を撫でた。


「そういえば頼子さんって――」


 質問をしようとした時、広報のスピーカーが不審者情報を流し始めた。

 それを潮に、練習は中止となった。


 こんな村にもおかしな人は来るのねと思いながら、わたしは集団下校するジュンを見送った。

 



 ……ジュンの様子がおかしい。

 表情に生気がない。肌艶も悪い。いつも眠そうにしている。

 集中力が散漫になり、練習の最中に生あくびまで出るようになった。 

 

「ねえ、ジュン」


 とうとうたまらなくなって、わたしは切り出した。


「練習が辛いならそう言って? それとも単純にやる気がないだけ?」


 ジュンは呆然とした顔をした。

 すぐにわたしが怒っていることに気がついたようだが、はっきりとした答えは返さなかった。


「やる気は……あるよ」


 唇を噛むようにうつむいた。

 じっと、嵐が過ぎるのを待つ姿勢だ。

 わたしの説教を耐える(・ ・ ・)つもりだ。 


 その瞬間、わたしの中の何かが冷えた。


「そう……わかったわ。けっきょく、わたしのひとり相撲だったのよね? ふたりで頑張って合唱会を成功させようと思ってたのはわたしだけだったのよね?」


「え、ちょっと頼子さん……?」


 ジュンは驚き、ぱっと顔を上げた。


「いつも眠そうにしてるけど、夜更かしでもしてるの? テレビ? マンガ? 集中力が途切れがちだけど、何か他のことでも考えてるの? たとえば、智恵ちゃんのこととか?」


「……なに言ってるんだ?」


 わたしにもわからない。

 でも止まらなかった。感情が堰を切ったように溢れた。


「いいのよ別に。人間には人間が一番いいに決まってるもの。女のわたしから見ても、智恵ちゃんはいいコだもの。ふたりで上手くやるといいわ。わたしみたいなおばあちゃんなんて気にしなければいい。ついでにここでのことも全部忘れてしまえば?」


「ちょっと……頼子さん……っ?」


 目を赤くしながらピアノの中に逃げ込もうとしたわたしの手をジュンが掴んだ──掴もうとした。

 だが霊体のわたしに、生身のジュンが触れることは出来ない。

 掌と掌。手首と手首。腕と腕。肩と肩。

 わたしの体を貫くように、ジュンが移動した。

 住む世界の異なる存在が重なり合った──瞬間。

 

 ──バヂッ。


 特大の静電気が発生したように、青白い閃光が弾けた。


「うわわっ!?」


 ジュンは衝撃で尻もちをついた。


「い……いまのは……っ!?」


 放心したように自分の手を見ている。

 火傷はしていない。怪我だってしていない。

 反発したのは線だ。

 幽霊と人との間の、断固とした境界線。


「わかった? あなたは人間でわたしは幽霊。そういうことなの。だからあなたも、もうわたしに関わるのはやめなさい。……もう、来ないで」


「頼子さん!?」


 ジュンの声を背中に浴びながら、わたしはピアノの中に逃げ込んだ。




 翌日から、ジュンは練習に来なくなった。

 授業中に一緒になっても、わたしのほうを見ようとしなくなった。

 完全に避けていた。


 別に寂しくなんかない。

 誰にも悟られない存在に戻った、ただそれだけ。


 ……そう思い込もうとしたのだけど、目は自然と彼に吸い寄せられた。

 授業中に、休み時間の廊下に、下校していく生徒たちの中に、未練たらしく彼の姿を追った。 


 見るたび彼は智恵と一緒にいた。

 前から仲が良かったけど、最近とみに親し気に話している。


 子供同士がくっついた。仲良くなった。

 それだけのことなのだけど、なんだかすごくムカついた。


 ある夜、わたしはピアノを弾いた。

 誰かに聞こえても、気味悪がられても構わないと思った。

 むしろ自分からおかしな噂を立てて、追い出されてしまおうとすら思った。


「そうよ。こんな泥臭い田舎、わたしの趣味じゃないもの。寒いし、ガキしかいないし、全然つまらないもの」


 鍵盤に指を立てた。ラウドペダルを踏みしだいた。


「次は都会がいいわ。やっぱりわたしみたいな女の子には都会が似合う。そうよ、懐かしい東京の……」


 懐かしい(・ ・ ・ ・)……東京の(・ ・ ・)


 わたしは鍵盤を叩く手を止めた。

 自分のセリフに疑問を抱いた。

 なんでそんなことを思ったのだろう。

 流浪の旅の中で、たしかにわたしは東京にいたことがある。

 だけど東京だけでもなかったはずだ。

 西へも東へも行った。

 都会はいくつも経験してる。

 なのにどうして東京だけを懐かしいなんて思ったのか……。


「どうして……」


 その時、部屋の外から足音が聞こえてきた。

 気づかれたのかと思い、慌ててピアノの中に引っ込んだ。

 蓋を閉じてから、別に隠れる必要はないのだと思い出した。

 もともと気づかせるためにしていたことなのに。


 ガラリと戸を開けて顔を覗かせたのは、ジュンではなかった。

 

 細目の初老の男性。

 格安でオークションにかけられていわたしを買いつけ、運び込んだ人物――校長だ。


「今のはまさか……っ」


 校長はわたしに向かって歩み寄って来た。

 呆然とした、幽鬼のような足取りで。


「今の曲……あのコの得意な……っ。あの指運びも、足運びも……っ、高音域で詰まる癖も……っ」


 ……は?


「何度言っても治らなかった……あのコの……っ」


 ……何言ってるの? こいつ……。


「注意すれば拗ねて、私の家に来て個人授業を受けなさいと言えば拒否し、思惑をすべて見通すような目をしていた、生意気な……あの女の……!」


 校長は、ピアノの蓋に乱暴に手をかけた。


「ちょっとやだ……っ、やめてよ! そんな雑に扱わないでよ!」


 わたしの抗議の声は、もちろん届かない。


「あの女……!」


 校長は勢いよく蓋を持ち上げた。


「──鷹野頼子の!」

「きゃああああああああ!」


 服を脱がされ乱暴されているような気になって、わたしは悲鳴を上げた。

 悲鳴を上げてから、校長がわたしの名前を呼んだことに気がついた。


 鷹野頼子。


 そうだ、それがわたしの本名で、この男が……わたしを……!


「おまえなのか!? おまえがそこにいて、成仏できずに弾いてるのか!?」


 ダァン、強く鍵盤を押された。

 力任せに、上から無茶苦茶に押し込まれた。


「未練たらしく!」

「やだ! やめて!」

「またぞろ、若いオスでもたぶらかそうってのか!?」

「触らないで!」

「この売女ばいたが! 死んでもなお私を裏切ろうというのか!」

「やだ! 壊れる! 壊れちゃう! お願い許して! 乱暴にしないで!」

「鷹野頼子ぉ!」

「助けて! ジュン!」

「──やめろ! 頼子さんから手を離せ!」


 石のような静寂が訪れた。

 校長は動きを止め、私は胸元をかき合わせながら声の主を見た。


「……ジュン!」

  

 ホントに来た。

 来てくれた。

 情けなさと嬉しさで涙が出た。


「……頼子さん」


 ジュンはわたしを一瞥すると、瞳に炎を燃やした。

 肩をいからせ、校長に歩み寄った。

 はっきりとした口調で、こう言った。


「……あんた、ボクの頼子さんに何をした?」




 ジュンがとんでもないことを言ったのに、わたしは気づいた。

 

 ボクの頼子さん。


 その言葉の意味するところは明らかだった。

 彼はその一瞬、たとえその場の勢いだったのだとしても、ほんの数秒だったとしても、たしかにわたしのことを独占しようとしたのだ。

 他の男のものではなく、自分のものにしようとしたのだ。

 

「……っ」


 わたしは唇を噛んだ。

 自分自身を抱きしめた。

 身の内から、何かが強くこみ上げた。

 その正体を、わたしは知っている。

 遥か昔に無くしたもの、二度と手に入らぬと思っていたもの。

 それが今、身近にある。

 手の届くような距離にある。


「ジュ……っ」

「──やあ、片瀬ジュンくん」


 乱れた髪の毛を撫でつけながら、校長がジュンに話しかけた。 


「こんな夜更けにどうしたい? いけないなあ、子供が出歩いていい時間じゃないよ」


 必死にこの場を取り繕おうとしている。


「親御さんも心配してるだろう。連絡して迎えに来てもらおうか? それともそれじゃ気まずいかい? そうだな、学校の手伝いで居残っていたことにしようか。時の経つのも忘れて作業に没頭してて、ついつい帰りが遅くなった。どうだ、これでいいだろう?」


「校長!」


 ジュンが声を張り上げた。


「誤魔化そうったって無駄だからな!? ボクは知ってるんだから! 頼子さんのことも! あんたが昔、彼女に何をしたのかも!」


「何を言ってるんだ? 誰だいその頼子さんって人は? 探偵ごっこか何かをしてるつもりだったら、さすがの私も気分を悪くするよ?」


「無駄だって言ったろ!? ボクは調べたんだからな!? あんたのことを追ってた頼子さんの弟さんと連絡をとって、協力してあんたの悪事を調べ上げたんだ!」


 ジュンの指摘に、校長の顔は蒼白になった。


「知ってるんだぞ!? どうして鍵盤の一部だけ材質が違うのか! あんたのせいだ! あんたが頼子さんを……!」


「ジュンくん……」


「本当なら殴ってやりたいよ! ボクの大切な頼子さんを傷つけた! あんたが憎くてしょうがないよ! だけどそれじゃあみんなが困るから! 頼子さんだってきっと悲しむから! だから最後ぐらいは選ばせてやるよ! 身の振り方を自分で決めて──」


 ゴツッと、鈍い音が部屋に響いた。 


 最初は何が起こっているのかわからなかった。

 脳がその光景を理解するのを拒否した。

 

 ジュンの頭から血が出ているのに気がつくと、ようやく頭が回り始めた。

 校長がジュンを殴った。

 練習用に使っていたメトロノームを、思い切り振り下ろした。


 あの時(・ ・ ・)わたしを殴ったように──


「──ジュン!」


 わたしは叫んだ。


「ジュン! ダメよ! 起きなきゃ!」


 必死になって声を張り上げた。


 だけどジュンは目を覚まさなかった。

 ぐったりと床に伏せ、目を閉じていた。

 メガネのレンズが割れていた。白皙はくせきの額に真っ赤な血が筋を作っていた。


 走馬灯のように、記憶が蘇る。

 マフラーを鼻まであげて登校して来るジュン。

 かじかんだ手に息を吐きかけるジュン。

 夢を語る時のはにかむような顔。

 上手く歌えた時の、誉めてくれって顔。

 上手く弾けた時の、誉めてくれって顔。


 ──わたしの……ジュン……!


「ガキが……余計なことに気がつきやがって……! しかも大人に向かって説教だと!? 身の振り方を選ばせてやるだと!?」


 校長は温厚な紳士の仮面を脱ぎ捨てると、忌々しげに吐き捨てた。


「調子に乗るなよガキが! せっかく今まで上手くやって来たのに、貴様如きにすべてをぶち壊されてたまるか……!」


 音の出るほど強くメトロノームを握りしめながら、ジュンを見下ろした。


「ボクの頼子さんだと!? 幽霊が見えるとでも言うつもりか!? 面白い、だったら貴様も一緒にしてやる! あの世で売女ばいたとよろしくやってろ!」

 

 ひとつだけ、この状況を打開する方法がある。

 実体のないわたしでも出来ること。

 わたしだからこそ出来ること。

 

 ──ダァン!


 指を鍵盤に叩きつけた。

 前奏も積み重ねも何もない。

 突然のフォルテッシモ。 


 ──ダッ……ダァン!


 校長はぎょっとしてこちらを振り向いた。

 まなじりを裂き、目を血走らせた。


「……まさかとは思ったが、本当なのか? 本当にそこにいるのか……?」


 わたしは演奏を続けた。リストの超絶技巧練習曲。


 ──そうだ、思い出せ。


 おまえだったら知っているはずだ。

 わたしの癖も、ミスしやすい運指も、鍵盤の間に染み込んだ血の模様も。


「頼子……そうか……」


 ──うるさい、おまえがその名を呼ぶな。


 ガチン。

 演奏の音に紛れさせ、キャスターのストッパーをひとつ外した。


「頼子は怒っているんだろうな……。突然私があんなことをして……」


 ──当たり前だ。


 ガチン、もうひとつのストッパーを外した。


「なあ頼子……」


 にやりと、校長は開き直ったように口元を緩めた。


「悔しかったか? 殺されて。死んでまでもおまえの大嫌いな男に辱められて」


 ──知ったことか。とっととこちらへ歩いて来い。


「残念だったな、今後も同じだ。おまえは大好きな少年の死体の前で、改めて弄ばれる」


 ──わかったわ。来ないならこちらから行ってやる。


 ガチンガチン、残りふたつのストッパーを一気に外した。


「片瀬ジュンくん。さようなら、きみの頑張りは無駄だった」


 校長がメトロノームを振り上げた。


 ──死ね。


 同時に、キャスターが床との摩擦で「キュルル……ッ!」と音高く唸りを上げた。


「……!?」


 校長の顔に驚愕が張り付いた。ようやく事態を察したようだが、もう遅い。


 ピアノは勢いよく床を滑った。

 校長も必死で逃げたが、還暦を越えた体では避けきれなかった。

 角が校長の体を捉えた。そのまま壁との間に挟んだ。腰のあたりから、何かが潰れるような音がした。


「う……が……あ……っ」


 破滅的な呻きが、校長の口から漏れた。


「──まだよ。あなた、わたしのジュンを傷つけておいて、生きて帰れると思わないでよ?」


 わたしは冷酷に告げた。

 いまや至近距離にいる校長に、かつての先生の首に腕を回した。


 ──バヂリッ。バヂバヂッ。


 青白い光が、溶接のアーク光のように断続的に室内を照らした。

 魂を凍りつかせ、心臓を麻痺させる死者の抱擁だ。

 

「うわああああっ!?」


 校長が悲鳴を上げる。

 驚愕に見開かれた目に、薄く白い膜がかかった。


「があああああっ!?」


 強い電流が流れているように絶叫した。

 泡を噴き、全身を突っ張らせ、痙攣させ──苦しみの中で意識を失った。




「──ジュン!?」


 わたしは慌ててジュンの顔を覗き込んだ。


 まだ意識は戻っていない。

 苦しげに歪んだ顔で、不規則な呼吸を繰り返している。

 鈍器で思い切り頭を叩かれたのだ。一刻も早く医者に見せなければならない。

 

 わたしは再びピアノを転がした。

 ガラス戸にぶつけて割り、開口部を作った。

 ヒュウと冷たい風が部屋に吹き込んできた。

 ピアノの音で人を呼ぼうと考えた。


 鍵盤に指を──


「……っ」


 叩きつける力が出ない。

 掌を透かして床が見えた。


 存在が希薄になっている。

 力を使いすぎたのか、あるいは単純に成仏しかかっているのか……。


「ちょっと……冗談じゃないわよ!」


 わたしは叫んだ。


「今が大切な時じゃない! 今こそ頑張らなきゃいけない時じゃない! 復讐なんてどうでもいいのよ! こんな男どうでもいいのよ! 成仏なんかしてる場合じゃないのよ!」


 わたしのために過去を調べてくれていたジュン。

 寝不足を怒られても、じっと耐えていたジュン。

 そして、わたしを女の子として見てくれていたジュン。


「動いてよ! 動きなさいよ! ジュンのために弾かなきゃいけないのよ! ジュンのために人を呼ばなきゃいけないのよ! わたしには他に何もないから! このピアノしかないんだから! ねえ! お願いよ!」


 指はゆるゆると動いた。

 鍵盤の上に置くと、ゆっくりと沈んだ。

 ほんのり微かな、ため息のような音が鳴った。


「もっとよ! もっと高く! もっと強く! 隣町まで聞こえるくらい! 近所の人が見に来て! マスコミが駆けつけるくらい!」


 徐々に徐々に、力が戻ってきた。


「ほら、怖いでしょ!? 鬼気迫るような表情で幽霊が演奏してるのよ!? 男性ふたりが倒れてる隣で! まるで取り憑いて殺したみたいに!」


 以前のものとは比べるべくもない弱々しいものではあるけれど、なんとか曲を奏でることが出来るようになった。


「……そうよ! その調子よ! フォルテッシモ! フォルテッシモ! フォルテッシモ!」


 醜くひび割れた音。

 感情をぶつけるだけの、技巧もへったくれもない演奏。


「ジュンが救えるならそれでいい! ここで終わるならそれでいい! だから聞きなさい! 見に来なさい! わたしはここにいるの! ここにいるのよ! だからわたしを見なさい!」


 ──叩きつけた。


「届け! 届け! 届け!」


 願いながら弾いた。

 弾きながら叫んだ。

 ただ高く、高く鳴れ。


 誰かの耳に、届け──


「──届いてよ!」







 その後のことを、かいつまんで話そう。


 直前にジュンが連絡を入れておいたらしく、すぐにわたしの弟が駆けつけ、警察と救急車を手配してくれた。

 ジュンへの殺人未遂容疑により、校長はその場で逮捕。

 弟が長年かけて調べ上げた証拠が功を奏して、さらに重い罪を科せられることとなった。


 合唱会はもちろん中止。

 校長の逮捕により一時は分校の存続も危ぶまれたが、智恵を中心とした子供たちの署名活動が実を結び、結果的に事なきを得た。


 証拠品として押収されたピアノ(わたし)は、校長の裁判が済むまで壊れたままの姿で検察の倉庫に留め置かれることになった。

 裁判が終われば有価物として売却処分──つまりはまた、流浪の旅に出ることが決まっている。

 



「それにしても大吾め。お姉ちゃんより背が高くなるとは生意気な……」


 埃臭い倉庫の片隅で、あの時のことを思い出した。

 泣いてばかりだったチビの大吾は、スラリと背の高い立派な若者に成長していた。

 愛しのお姉ちゃんの仇を討つことに人生を費やしすぎたせいか、少し目つきのきつい感じに育っていたけれど、それもじきにとれるのではないかと思えた。

 なんといっても彼は、まだまだ若い。


 そしてジュン──


 あの後ジュンはどうなったのか。

 ご心配の方も多いだろう。

 鈍器で頭を殴られて気絶して、後遺症に悩まされたりしてるのではないかと。


 実際わたしがそうだった。

 毎日毎夜、ハラハラしながら過ごした。

 でもひと月もすると……。




 倉庫の引き戸が、ギギギと重々しい音を立てて開いた。

 半袖の夏服を着たジュンが、掃除用具を片手に現れた。


「おはよう、頼子さん」


「おはよう……ジュン」


「外はすごくいい天気だよ。? ホント、ちょっと気が遠くなるくらいに暑いんだ」


「それは大変ね……」


「今日はこの辺一帯を片付けるからね。そしたら頼子さんも気持ちよくしてられるでしょ?」


「う、うんそうね。ありがとう」


 わたしが礼を言うと、ジュンはパアッと明るい笑顔を浮かべ、倉庫の片付けにとりかかった。

 ここから動くことが出来ないわたしのために、環境を整えようとしてくれているのだが……。


「田舎の人って懐が深いわよね……」


 わたしはしみじみとつぶやいた。

 直接の凶器や危険物ではないにしても、仮にも押収品が収納される倉庫に一般の学生が出入りして、しかも勝手に片付けることを許すとか……ちょっとザルすぎない?


「ねえ、頼子さん」


 わたしが何とも言えない気持ちでいると、ジュンが作業の手を止めて振り返った。 


「検察の人に聞いたんだけどさ。1年もしたら頼子さんはここを出られるんだって」


「……それって競売にかけられるって意味でしょ? イコールわたしがドナドナ状態で運ばれるってことなんだけど、わかって言ってる? ……あ、わかってるって顔ね」


「大丈夫だよ、大吾さんが買うって言ってくれたから。姉さんの形見だから当たり前だろって。だから心配しないで?」


「そう……」


 ということは、わたしは16年ぶりに実家に帰ることになるわけか。

 あまりにひさしぶりすぎて、かえってピンとこないなあ……。


 それにしても東京か……けっこう遠いけど、ジュンはあまり気にしている様子はない。


 ま、子供だしね。

 あの言葉だって、きっとその場の勢いが8割くらいだろうし。


「でさ、頼子さん」


「うん?」


「ボク、高校は東京に行くことにしたから」


「うん……うん?」


「頼子さんとこ、立派なお屋敷だって言うじゃない? 部屋が広くて人がたくさん住めるって。大吾さんもなんだかボクのことを気に入ってくれてさ。東京に出たいなら、うちに下宿したらどうだって。若いうちに世間を見ておくのも悪くないだろうって」


「え、ちょっと……ちょっと待って、ジュン」


 わたしが止めると、ジュンはきょとんとした顔をした。


「なに? 頼子さん」


「あなた、いったいわたしにどこまでしてくれるつもりなの……?」


「……うーん、どこまでって言われると難しいんだけどさ」


 ジュンは首をひねった。


「とりあえず、頼子さんの身の回りの世話ぐらいは出来るようになろうかなってさ。調律とか修理とか……ピアノ自体もけっこう年代物みたいだし、専門知識も必要みたいだしさ。だから、ゆくゆくは海外の専門学校に行って勉強しようと思って……ってあれ? 頼子さん?」


 ──なんということだろう。


「どうしたの? 口を手で覆って」


 ──わたしは知らず知らずのうちに。


「おーい、頼子さーん?」


 わたしの目の前でひらひら手を振るジュン。

 大きな事件を乗り越えたせいかその顔はわずかに大人び、以前あったような険がとれている。

 わたしへの信頼と愛情がいや増し、そして……。


「大丈夫だから安心して? 頼子さんを絶対ひとりにはしないから。ボクがずっと傍にいるからね」


 すっきりと澄んだ瞳で微笑んだ。


「あなた……それって……」


 わたしは愕然とした。

 疼痛がして、こめかみを抑えた。


「どうしたの? 今日はホントに変だよ、頼子さん」


「変なのは明らかにあなたのほうだと思うけどね……」


「え、なんでさ?」


「……わからないならいいわ」

 

 わたしは小さくため息をついた。

 春先に分校へ来た時は、まさかこんなことになるとは思ってなかった。


「……ま、いっか」

 

 もう一度ため息をついた。今度は深く。


 しょせんわたしは幽霊で、ジュンは人間だ。

 いつまでも一緒にはいられない。

 どれだけ望んだとしても、共に幸せにはなれない。

 いつかはジュンもそれに気づき、わたしから離れて行くだろう。

 わたしとは異なる方角へ旅立って行くだろう。

 だからこんなのはしょせん束の間の関係で……。


「……あれ? 頼子さん、この曲……」


「合唱会、流れちゃったしね」


 わたしが弾き始めたのは、合唱会で弾こうとした曲だ。

 ジュンとともに奏でようとした曲だ。


 すぐにジュンが歌い出した。

 わずかに低くなり始めた声で。


 それは切ない青春の歌だ。

 夏の銀河の真下にいる自分と、銀河のように輝く無数の友と。

 儚く瞬き、孤独の怖さに押しつぶされそうになりながら、それでもそらを──前を見る若者の歌。


 わたしとジュンの関係に似ていると思った。

 決して交わるはずのない星の軌道が、奇跡的に一致した。


 だけどそれはあくまで一瞬の出来事であり……であり……。


「どうしたの頼子さん? 急に止めたりして」 


「え、いや……別になんでもないわ。変な想像しちゃって……」 


 わたしは小さくかぶりを振った。

 そうだ。そんなことがあるわけないのだ。

 この関係がずっと壊れることなく続いて、いつまでもわたしたちは一緒にいるなんてことがもしあったとしたら……。


 ──それじゃまるで、本当に憑りついちゃったみたいじゃない。


 なんてことを考えて、気が遠くなった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 「殻を脱げないヤドカリみたいなものなのよ」に痺れました。 素敵な作品でした
2018/03/10 02:49 退会済み
管理
[良い点] 設定そのものがとてもロマンティックで素敵です。頼子さんのセリフ回しもとてもリズミカルでそれこそひとつの楽曲を聴くような感覚で一気に読めました。 [一言] 小作品だけれどもハートウォーミング…
[良い点] ちょっと待ってよ。 こんな面白いの隠してたんですか!? 頼子さん、かわいいよ。頼子さん。 [一言] 校長はちょっとこっち来い。 俺が「弾いて」やる。
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