【魔法士】への道
ライナにとって、ディロは優しさも厳しさも兼ね備えた、たった一人の尊敬できる父親だった。【精霊士】としても村長からも一目置かれ、だからと言って傲慢な態度を取ることなく、一人の村人として慎ましく過ごしていた。
ライナの家族も同様で、村で唯一の【精霊士】とその家系であるということを驕ったことなどなかった。ディロは与えられた【精霊士】としての役目を日々果たし、村に貢献しつつも村長を支えていた。
森の精霊たちはディロの味方で、ディロが守りたいと願っていたからこそ、精霊たちも村を守ってくれていた。そんな父の姿を見てきたし、そんな【精霊士】になりたいと……追いかけたいと願った姿だった。
決して【精霊士】として逸脱したことはなかった。
しかし、ライナはそこでふと気が付いた。
―――わたしは、父さん以外の【精霊士】を見たことがない。
グレイは【魔法士】だという。ドルストーラでいう【精霊士】と同意語だと言っていたが、精霊たちの力を自らのものとして変換する能力は、すでに【精霊士】という枠を超えていると感じた。
「ライナ聞きたいことがある。内容によっては、辛いことを思い出させるかもしれないが協力してくれないか」
ファーラルが目を合わせて聞いてきた。その青い瞳の奥にあるものは、少し仄暗くて少し怖い。だが、ライナはそれでもしっかりと頷き返した。そして鞄の中から、黒板とチョークを取り出して身構える。何を言われるかわからないが、ファーラルの質問に答えるためには、さきほどジュネスがくれた黒板が役に立つだろう。
「この黒板……授業で使ってたやつか?」
ライナが取り出した黒板を見たグレイが、ぽつりと呟く。その呟きを耳に捉え、ジュネスは笑顔で首肯した。
「そうですよ。グレイ様がファーラル様に授業を受けていた時に使っていた黒板です」
「懐かしいな」
黒板の枠縁の一部が欠けている。その傷跡を指で撫でた。
「思い出話は後にしろ。時間がない」
「はい」
鋭い声にグレイとジュネスは背筋を伸ばし、ソファーに座りなおした。
「まずはその石の力を弱めたい。ライナを加護するものだという認識はしているが、少々力が強すぎる。このままだと、グレイとジュネスだけじゃなく、出会う人々全員がライナを過保護にするだろう。君はそれを望むか」
ファーラルの質問に、ライナはゆっくりと首を振った。そして黒板に文字を綴る。
〔力を弱めた場合、今の二人も変わりますか?〕
優しくしてくれた二人の気持ちは無くなってしまうのだろうか。勝手な言い分だとは思いながら、それは少し悲しいような気がしたのだ。
「残念ながらわからない。君が危惧する通り、二人は君への興味を無くす可能性はある。だが、記憶が書き換えられるわけではないから、ライナを大切に思っていた気持ちが消えるわけではないだろう」
だから、いきなり見知らぬ他人から再スタート、というわけではない……と言いたいらしい。けれど確信が持てない以上、ライナの心には不安が宿った。
「その石を、このまま君を護るものとして持っているというのも、一つの手段なのかもしれないが、わたしはそれを推奨はしない」
〔心を捻じ曲げるから?〕
黒板に書かれた丸っこい字は、不安げに歪んでいた。
「そこまで難しく考えなくていい。わたしが言いたいのは、このまま石を現状のまま所持していた時、君の周りには君を守りたい、構いたいとする者たちが溢れてくるだろうということさ。そしてそれは、少なからず石の力によって歪められてしまった、その人の心だ」
歪めてしまった?わたしが、グレイとジュネスの心の中を歪にしてしまったのだろうか。その結果、二人は優しく接してくれているのだろうか。むくむくと湧き上がってくる不安と心配が重く心に堆積していく。
「ライナ、君は護られているだけの世界で幸せだと感じられるか?」
怖いものなど何もなくて
イヤなものはイヤで許されて
優しい言葉でいつも癒されて
至れり尽くせりの、ぬるま湯のような世界。
そんなものを望むのかと、そんな世界で過ごすことが願いなのかと、ファーラルはライナを真っ直ぐに見据えて問いかけてきた。
もちろん答えは―――否だ。
〔わたしは、普通がいい〕
黒板に躊躇いなく書かれた文字を見て、ファーラルは嬉しそうに笑んだ。その笑顔は心からの安堵感に溢れた優しいものだった。
「君の願いをかなえよう。だが先にも言ったように、その力を完全に抑えることは難しい。だが、出来る限り……やってみる」
言うと同時に、ファーラルから滲み出てくる重い闇。グレイはライナの掌にある石を、テーブルに置かせると、ジュネスと共に立ち上がってファーラルから離れた。
小さな黒い石は内に秘めた煌めきの奥から、まるでこちらの出方を伺っているように感じた。いや、静観していると言った方がいいのだろうか。
「どこまでできるか、試されている気分だな」
口元を上げて挑戦的に笑みを張り付けたが、その表情は黒い闇で覆われていてすでにライナたちには認識できなかった。
「さぁ、秩序を是正しようか」
ファーラルから伸びた闇の力が、黒い石を覆い尽くした―――。
離れて見ていたライナには、ファーラルが黒い靄の中で包まれながら、形見である石に何を施したのかはわからなかった。ただ静かに闇色の靄が蠢くのを黙って見ているしかない。覆い尽くす靄は、ファーラル自身から発せられているものだと分かっているのに、その不確かな存在が、ライナの心を不安にさせた。
その不安を読み取ったのか。ライナが無意識に握りしめていた手を、グレイは何も言わずに大きな手で包み込んでくれた。思わず見上げて顔を合わすと、ただしっかり頷いて微笑む。その微笑は、ライナがこの数日で何度も見てきた、不思議と安心させてくれる特効薬だ。
自然と肩の力が抜けるのが自分でもわかる。と、そこに歩み寄ってくる者がいた。
「しばらく掛かるかもしれないから、別室にいく?」
身動きできずにファーラルの辺りを見ていたグレイたちに近寄り、平然と声をかけてきたのはガーネットだ。いま執務室で行われている不可解な現象は、精霊の見えないガーネットやジュネスにはどう映っているのか分からない。もしかしたら、一人で石を凝視しているファーラルという姿なのだろうか。だからこそ、深刻にならずに話しかけてきたのかもしれない。
「……いや、師匠の処置も見ておきたいし、俺はここに残る」
「あらそう?いいけど、時間がかかると思うわよ。退屈じゃない?」
躊躇いがちなグレイの言葉に、それでもガーネットは平然と返事をしてきた。これは間違いなく、彼女にこの闇の靄は見えていないと判断していいだろう。
「わたし、次の議会の用意があるから退出するけどいいかしら?」
そう言いながら、手にある分厚いファイルを持ち上げてみせる。先程まで持っていた銀の盆から、いつの間に持ち替えたのか。
「構わない」
「じゃ、ファーラル様が戻ってきたら、先に議場に行っていると伝えておいてね」
それだけ言うと、ガーネットはあっさりと執務室から姿を消した。グレイとライナは闇色の靄が見えているので、いまの状況を無視して退室することは出来ない。それに、ファーラルが行っているのは、ライナの父の形見である『護り石』に対する【魔法士】としての能力を使った何らかの術だ。当事者であるライナがこの場を退室するわけにはいかないし、ライナを守るグレイも同じく執務室から背を向けることは考えられない。
「グレイ様、もう一度馬車の用意をしてきましょうか?」
ガーネット同様に靄の見えていないジュネスは、どうしたらいいかわからずグレイに問いかけた。何もすることがなく、ただ突っ立っているだけならば、いまは従者として馬車の用意でもしに行った方が賢明かと思ったのだ。だが、グレイはそう思わなかったらしい。
問いかけに振り返ったグレイは、真っ直ぐにジュネスを見て首を横に振った。
「お前はここに残れ。きっと、もうすぐ終わる」
「わかりました」
グレイからの返答に、ジュネスは問い直しもせず素直に頷いた。そんな二人の間には、確かに信頼関係があると分からせる。
それから暫くして、闇色の靄に変化が起きた。一瞬大きく膨れ上がったと思われた靄は、一気に小さく収縮すると、ファーラルの指先に集まり親指の先ほどの大きさに凝縮された。そして、黒い石の中にその塊は吸い込まれるように姿を消したのだった。
「師匠……?」
「ふぅ」
恐る恐る声をかけたグレイに、ファーラルは小さく息を吐き出すと両手を上げて一度大きく伸びをした。そして素早く立ち上がると、テーブルの石を手に取ってライナの前に立った。
「処置は完了。石はわたしの意図を受け入れてくれた」
それだけ言うと、ライナの前に石を翳して見せた。それを受け取ろうとして、ずっとグレイが自分の手を包み込んでくれていたのを思い出し、慌ててその手を外そうとした。意図を察したグレイは、名残惜しそうにしながらもライナの手を開放してくれる。
「やはり、石を弱体化してもグレイに変化はなし、だな」
呆れた声で呆れたような視線を向けるが、グレイはそんなことは気にしていなかった。ライナの手に戻ってきた黒い石の状態が気になって仕方ないのだから。
「とりあえず、その石の力は弱体化させた。結果的には、ということだが」
「どういうことですか」
ファーラルの言葉にグレイは首をひねる。結果的には、というのであればファーラルが本来目指していた結果とは違っているということだ。
「正直、完全に無効化したいと思ったんだがな。交渉したが、石の奥に潜むものがそれを良しとしない。第一、石の力が強すぎて無効化などできなかった。試したがあっさりと追い返されてしまったよ。だが、わたしの力の一部を石の中に受け入れることを了承してくれた。まぁ……今後は、無節操に力を振りまくことはなくなるだろう」
――― 交渉??
――― 潜むもの??
「師匠、それは一体……どういうことですか」
グレイもファーラルの発言を不思議に思ったのだろう。戸惑った声を出している。
「わたしにもよく分からん。だが、確実に言えるのは、わたしより強い力だ」
じっと見据えてくる【魔法士】ファーラルの視線に、グレイはただ頷くしかなかった。ロットウェル最強の【魔法士】である人物が、はっきりと自分よりも強いのだと告げた。石の内側になにが潜んでいるのか……それは彼であっても手を出せない―――いや、無暗に手出ししてはいけないと判断したのかもしれなかった。
「だが、このままいつまで大人しくしてくれているか、判断が付かない。そこで、だ」
ファーラルはふい、と背を向けると書類の山が連なっている執務机に行き、手早く何か書類をまとめ始めた。またなにかの指示書かと身構えるグレイとジュネスだったが、ファーラルは視線も向けずに話を続けた。
「グレイ、【魔法士】ファーラルとして指示を出す」
「はい」
久しぶりに背筋が伸びる思いだった。以前は色々と無茶な指示を出されてきたのだ。数年ぶりの感覚に少し胸が高鳴る。
「ライナを【魔法士】に育て上げろ」
「……え」
だが聴覚が捉えたのは、予想していなかった指示だった。
「ライナを、ですか」
「そうだ。常にその石を所持しているのがライナだというのであれば、何かあった時、石の変化に気付いて対処できるだけの力量が求められる。お前が出来ないのであれば、わたしが直接ライナを育てるがどうする」
「……!」
挑戦的ともいえる師からの発言。そして書類の上から射竦めるような鋭い視線。これで『育てるなどできない』などと言えば、彼はもしかすれば師弟関係すら解消してしまうのではないかと思った。
「どうする、グレイ」
「やります。ライナを【魔法士】にしてみせます」
ライナは勝手に進んでいく話に呆然としていたが、それでも【精霊士】の能力の応用である【魔法士】への道が開けたことに喜びを感じていた。話を聞いていて気が付いたのだ。
【精霊士】ではありえない力の発動の数々。そしてなにより、この黒い石。
――― 父さんは【精霊士】じゃなかった。【魔法士】だった……!
それならば、ライナが目指したい場所はただ一つだ。もう故郷には帰れない。精霊自体が禁忌とされている故郷の地を踏むことは二度とかなわないだろう。だが、もうそれでもよかった。家族全員、そして生まれ育った村がなくなってしまった今、ライナをドルストーラに縛るものは何一つなかったのだから。
――― わたし、【魔法士】になる……父さんのように。
手のひらに乗る小さな石は、ライナの心の声に応えるように、内側に金色の光を走らせた。
というわけで、ライナの方向性は決まりましたがこれからです。