新生活の第一歩
静かなライナだけの寝室に、月明かりだけが差し込んでいる。大きなベッドは落ち着かなくて、誰もいないのをいいことに、ベッドの脇の床に毛布を敷いて丸まることにした。近くに置いたのは返してもらった母の指南書と、父からのものだという巾着。中の石にはまだ触れていない。見ているだけで胸がいっぱいになってしまうのと、触ることによって父のぬくもりが消えてしまう気がして、いまだに触れられなかった。
そして今日渡された金色のベル。鳴らせばクレールが来てくれるらしい。だが、もちろんライナはむやみに鳴らそうとは思ってなかった。それどころか、鳴らないようにベルの内側に布を詰め込んでいた。これで振り子は動かないので鳴りたくても鳴れないベルの完成だ。
家族が全員居なくなってしまったという実感は、正直まだない。父と兄がいなくなってまだ1年は過ぎていない。そして母が殺されてまだ10日も経っていないだろう。目まぐるしく周りだけが変化していく中、ライナだけが取り残されていく気がしていた。さすがに時間間隔も狂いそうだ。
まだ母のぬくもりを覚えている。父の大きな手も、兄の優しい声も覚えている。
なのに、すべてライナから奪われてしまった。幸せだった村の暮らしも第三者によって破壊され、村人ごと連れ去られた―――あの村は無人で廃墟となっていくさだめだろう。手入れがされなければ、建物も畑も荒れていくだけで何も残らないのだ。
森の精霊たちは人などいなくても自由気ままに過ごしていく。それだけは確かだと思い、少し安堵して、少し寂しくなった。
寝返りをうつと、お腹が小さく『くぅ』と鳴る。
あの夕食(晩餐会というらしい)で、ライナはテーブルに並ぶ多すぎるナイフとフォークに目を回した。微妙に大きさが違うものがずらりと並んでいて、どれを使っていいのか分からない。さらに、一品一品順番に前に出されるのだ。一度に全部まとめて並べれば手間も省けると思うのに、なんてまどろっこしいと思いつつ、これが貴族の食事なんだと納得もした。
ライナの前に座っていたミラビリスの視線が冷たくて、なによりも居たたまれなくて顔が上げられなかった。一念発起でフォークに突き刺したものを(何の食材だったのか未だにわからない)思い切って口に運んだけれど、滑らかで舌触りがいい事は分かったけど、きっと高級なものだということもわかったけど、味だけは全然わからなかった。
そのあと眼前に置かれた肉のソテーに、ライナは内心大喝采していたのだが、村でしていた食事ように齧り付くことが躊躇われ、身動きが取れなかった。まず、ナイフの使い方が分からなかったというのが大きい。いままで14年間、串で刺した肉に齧り付いたり、大皿に盛られたものをフォークで突き刺して取り合いをして食べたことはあっても、ナイフで切り分けるなんてしてこなかった。母が調理の段階で切ってくれていたから。
困ったまま動けないライナに気付いたのか、グレイは自分の分の肉を手早くサイコロ大に切り分け、ライナの皿と交換した。驚いて思わず隣のグレイを見上げる。
「――、――」
「マナーなんて気にしなくていいから」
にこりと笑うと、再び皿と向き合って綺麗な所作で肉にナイフをいれていった。そして大きく切り分けたものをフォークで突き刺すと、美形が台無しなくらい大きな口を開けてその肉を口に含んだ。
ぽかんと眺めていたライナだったが、口の中に入れすぎてなかなか食べきれない様子のグレイを見て、おもわず声にならない笑い声を上げた。横で楽しそうに笑っているライナに、グレイも満足げに目を細めたのだった。
驚いたのはミラビリスで、完全に食事の手を止めて二人の仲良さげな様子を見つめていた。いままでアンヌを含めた数々の人を招いての晩餐会を開催してきたが、グレイがこんなにもゲストに……いや、女性に対して気に掛ける姿を見たことがなかったのだ。それと対照的に、口元を緩く笑みつつ食事を止めなかったのはファヴォリーニだった。彼はただ息子を変えた少女に周りに知られない程度の注意を向けていた。
結局緊張の為か、ライナは出された食事の半分も食べられなかった。食材に対して申し訳なくて一人部屋に戻ってから、森神さまへ向けて謝罪のお祈りをしたほどだ。
何度目かの寝返りで、ライナの意識は自然と夢の中に引きずり込まれていった。確かに感じていた空腹感もさっぱりと消えてしまい、眠りたくないのに、何かがライナの手を引っ張って眠れ眠れと誘うかのようだ。
―――全部夢だったらいいのに。
目が覚めて、村だったらいい。
母がいて、父がいて、兄がいて。
妙な夢を見たと報告したら、怖かったね、と言ってほしい。
バカな夢見たな、と笑ってほしい。
それだけでわたしは、安心して明日に向かっていけるのに……。
けれど、ライナの願い空しくその日見た夢は最悪だった。悪夢だった。
村を襲った悲劇。目を背けたい仕打ち。押し込められた馬車。村人の狂気。荒んだ瞳。罵られる言葉。母の声。『逃げなさい』と繰り返し耳に届くあの瞬間の再生。
思わず、そう思わずだった。声を上げてしまった。
叫んでしまった母を呼ぶ自分の声。その声自体が自分の耳にこだまする。
そして振り下ろされた刃―――母の命を奪ったあの瞬間。
何度も何度も、そこばかりが繰り返される。
呼ばなければ。声を上げなければ。声を発せなければ。もしかしたら未来は変わっていたかもしれない。少なくとも、たとえ自分は捕まってしまっていたとしても、母が殺されることはなかったのかもしれない。
それは全部、今となっては確かめようのない事。そう分かっていても、もしかすればと考えてしまうのだ。
あんな死に方をさせてしまった。それでもきっと母は許してくれるだろう。それだけは不思議と確信できた。
だけど自分が許せない。
―――母さん……母さん。ごめんなさい……
呻くように口から言葉が漏れるのは、ただ懺悔のみ。
閉じた瞼から流れる雫を、誰かがそっと拭ってくれた。
翌朝目が覚めると、ライナはなぜか床ではなくベッドで寝ていた。途中で起きた記憶がないのに、どうなっているのかわからなくて、広いベッドの中一人で首をかしげるしかなかった。
ふと思い出して枕もとを見ると、形見となった指南書と巾着が並んで置いてあった。ベルは、ナイトテーブルにちょこんと鎮座している。それを確認し、ライナは肩の力を抜く。大切なものを無くしていない安心感を感じていた。
窓を見ればすでに太陽は高くに昇っているようだった。
寝た場所と起きた場所が違うことに戸惑いはあったが、なぜかあまり気にならなかった。
起き上がりベッドから脱出する。人のいない別館のため廊下から物音もしない。寝巻のまま部屋の扉を開け、次に衣裳部屋だと案内された扉を開け、そして驚愕に目を開いた。
広い室内の壁一面になにかしらの衣装が掛けてある。靴専用の棚には、これでもかと可愛らしくて華奢なデザインの靴たちがずらりと並んでいた。恐る恐るクローゼットを開けると、そこにもずらりと並ぶドレスたち。積み上げられている箱の中身は帽子だろうか、入りきらなかった靴だろうか。巨大な宝石箱のようなものがあったので、中身を予想しながら開けたら、やはりアクセサリーが入っていた。しかも、とんでもない量だ。そして石の大きさもとんでもない。
眩暈がしそうになるのを耐えて蓋を閉じた。そして、ライナは掛けてあるワンピースの中から極力質素な一枚をハンガーから外し、その場で着替えた。本当は昨日着ていたものを今日も着たかったのだが、なぜか見当たらなかったのだ。
靴はどれもこれも踵が高くて、折れそうなヒールに辟易した。こんなものでは咄嗟に走ることもできない。結局ライナは昨日から履いている踵の低いパンプスで充分と判断した。だいたい、一生のうちでこんなに靴が必要になるとも思えないのだが。
もう一度寝室に戻ると、カーテンを大きく開き外からの風を受け入れる。開けた拍子に何体かの精霊が室内に飛び込んできたが、いまさら驚くような神経は持ち合わせていない。
じゃれてくる精霊たちを無視し、ドレッサーにあったブラシで髪を梳かす。そういえば昨日はお風呂に入らなかったなーとぼんやり考え込んでいると、扉がノックされた。
「ライナ様。おはようございます」
クレールの声にライナは椅子から立ちあがると、急いで扉を開けた。
「おや。もうすっかり支度は終わってしまいましたか」
廊下にはぴしりと服を整えたクレールが立っていた。そして目には少しだけ本当に驚いている光がある。
「寝ていらっしゃるかと思いましたが、お早いお目覚めですね」
完璧的なクレールを多少でも驚かせることに成功したのが嬉しかったのか、ライナはそんなクレールににっこりと微笑んだ。どうやら貴族の朝は遅いらしい。
「朝から湯あみできますが、ご案内しましょうか」
「!」
どうやらここでは、お風呂は朝に入るものらしい。湯あみと聞いてライナの瞳が輝いた。
「では、ご案内しましょう。その頃には皆様も起きてらっしゃるでしょうから、揃って朝食を召し上がっていただけますよ」
「……」
『湯あみ』の単語に喜んだライナは『朝食』という言葉にも喜びかけ―――『皆様』と『揃って』という単語に顔をしかめた。昨日の夕食のことを思い出したのだろう。
「朝食は別にとられますか?」
クレールの言葉に、ライナは迷うように目を伏せた。本心では別館で食べたいと思っているのだろう。けれど、居候させてもらっている身で、たとえグレイが許可をしていたとしても、そこまでわがままを言っていいのかと悩んでいる風でもある。
「ライナ様がここで食べたいというのであれば、こちらに用意いたします。ただ……」
優しい声に顔を上げたライナは、少しだけ厳しさを混ぜたクレールの瞳とかち合った。
「差し出がましいことを申せば、今後ロットウェルで暮らしていくことになると思われる中で、グレイ様―――いいえ、バーガイル伯爵家に保護された少女として、ライナ様は今後どのような扱いを受けるかわかりません。もしかすれば、他の貴族の屋敷に連れ出されることもあるでしょう。アンヌさまのような方もいらっしゃるかもしれない。その時、テーブルマナーを含めた数々のマナーを分からないままであれば、困るのはライナ様と……貴女を保護したグレイ様。そしてバーガイル家の実権者であるファヴォリーニ様です」
クレールの言葉に、ライナは頭を殴られたような衝撃を受けた。そんなこと、考えもしなかったのだ。
「わたしはバーガイル家の筆頭執事です。家名の名誉を守る義務があります。ライナ様には厳しいことを申していると思います。いままでとまったく違う世界に放り込まれた戸惑いもお察しします。わたしの我儘だと思ってください。どうか……少しずつでもマナーを覚えていってはもらえませんか」
「―――」
耳に届くクレールの言葉は正論だった。そして、グレイに甘えて現実を見なかったのは自分だ。いや、正しくは現実から目を背けていたと言っていい。
「最初は内輪だけの朝食や晩餐。そこから始めましょう。幸いにも社交シーズンはまだ先です。空き時間もありますし、じっくり教えて差し上げられます」
戸惑いはあったし、完全に乗り気になったわけではなかった。だが、自分の現実と向き合ういい機会であることは確実だ。それに、マナーを身に着けて損をすることはないだろう。
ライナはクレールの目を見て、しっかりと頷き返した。
クレールさんはバーガイル家命!です。
なので、嫡男であるグレイがアンヌのことを好きじゃないので乗り気ではないし、グレイが大切にしているのでライナのことを気にかけてます。
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次の更新も本編の予定です。
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もうすぐ10万文字だぁ〜




