グレイという男
扉が叩かれたけれど、入室の許可を得るために叩いたわけではなかったのだろう。打音と同時に扉は開き、靴音を響かせてきた。
ライナはなぜか慌てて目を閉じ、眠ったふりをする。ここがどこだかわからない今、室内に悠然と入ってきただろう人物と目を合わす勇気はなかったのだ。
「まだ目覚めてないか……」
独り言をぽつりと漏らす。そこには少し残念そうな響きが含まれていた。そう感じて、ライナは無意識にピクリと指先を震わせた。
―――男の人だ。
訛りのないきれいな発音。耳に不思議と馴染む声音。……けれど男の人だ。
村の人たちを最初に連れ去ったのも男たちだった。村を襲い、女たちを犯し殺し、母を殺めたのも男だった。そして自分に刃向けてきたのも男だった。
ぞくりと鳥肌が立つ。
―――一体ここはどこだろう。男が、見知らぬ男がいる……。
丁寧に看病してもらっているのはわかった。どうしたのか分からないけれど、死んでもおかしくないと思った傷が癒されているのもわかった。殺すつもりなら、すでに殺しているだろうし、生かしておく理由もない。
けれど怖い。怖くて仕方ない。全身にどっと汗が噴き出す。動かせなくてもどかしかった体が、震えで動き出しそうだった。
「彼女が目覚めたら教えてくれ」
誰かにそう言っている。気づかなかったけど、室内に他に人がいたのだろう。だとすれば、ライナが目覚めた気配を感じていたかもしれない。そう思うと、慌てて寝たふりをしていた自分が滑稽に思えた。
心を落ち着かせ、そっと薄目を開けて視線を泳がせてみた。相変わらず精霊たちはライナの周りを漂ったり、転がっていたりしている。そして自分の横に誰かが立っている気配。気づかなかったけど、爽やかなコロンの香りがした。もう少し目を開けてみようかと思った時、
「グレイ様」
第三者の声がして、ライナは再び瞼を閉じた。何も悪いことはしていないのに、何故か無駄に心臓の鼓動が早い。
―――この人の名前は、グレイというのね。
「どうしたジュネス」
少し硬くなった声。いまライナの全神経は聴覚に向かっている。
「ファーラル議長から催促の手紙が……」
「またか」
ジュネスと呼ばれた男の声のあとに、呆れたような声音が続く。そしてそのまま紙を繰る音が静かな室内に響いていた。その間、ライナは身動きせず息を詰めていた。とても神経を使う行動だったが、致し方ない。
「報告書だけでは満足できなかったらしい。直接会議に赴けとの仰せだ」
「すぐに準備いたします」
「あぁ、頼む」
ジュネスが慌ただしく室内から出ていく音がした。完全に足音が聞こえなくなってから、グレイは静かに横たわるライナに向き直った。
「彼女を癒すための力を」
眠ったふりをしていたライナは気づかなかったが、グレイは手を空に差し出し、精霊たちから少しずつ力を分け与えて貰っていた。その光は眩しく、けれど暖かい緑色。
ライナの瞼の裏にまで届く光。それは間違いなく精霊の力だった。
―――まさか、【魔法士】……!?
母の言葉が脳裏によみがえる。
『精霊の力を借りて、増幅し……その力を行使できるもののことを【魔法士】と呼ぶの』
『ライナ、あなたにはその才能がある』
きっと、ここはロットウェル。母が目指せと導いてくれた国。
喉元に集まる優しい光は、間違いなくライナを癒そうとしてくれていた。傷つける人ではない。癒し手は【精霊士】と同じく精霊が見える【魔法士】。
―――もしかして、この人が話しかけていたのは精霊たち?そして、精霊が力を託してもいいと思うほど信用しているのであれば。
―――この人が、わたしの新しい居場所を見つけてくれるのかもしれない……
それを信じ、ライナは瞼を開けた。
ゆっくりと開いた瞼の奥。不安と期待とが混ざり合った光を宿した瞳がグレイを捉えた。まだ精霊からの力を分けてもらっている途中だったので、咄嗟に集中力が保てない。集まりかけていた光が霧散した。
「おはよう」
グレイは何事もなかったかのように掲げていた手を下すと、ライナに視線を合わせるためにしゃがみ込んだ。ライナは顔を動かそうとしたが、首に違和感を感じて動きを止めた。
「ああ、まだ動かない方がいい。傷は塞いだが完治というわけではないからな」
目線は合しているけれど、決してそれ以上近寄ってこない。一定以上の距離感は、いまのライナには有難かった。怖い人ではないだろうとは感じていたが、それでも男の人を怖く感じている事は間違いないのだから。
「何か食べられそうなら手配しよう。もちろん刺激物以外で。あと、まだ声は出さないほうがいいかもしれない。覚えていなくていいんだが、それなりに深い傷だった」
包み隠さず本人を目の前にして言ってしまうあたりに、真面目さが窺えた。ライナは何も言わず、ただゆっくりと首を首肯する。その様子にグレイはほっと顔を緩ませた。元の造作が美男子だからか、安堵した微笑を真正面で見せられたライナは、そんな場合ではないとわかっているのに、顔が火照るのを止められなかった。
「顔が赤いな。熱が出たのかもしれない。すぐに氷嚢を用意させよう」
ライナの様子を見ると、グレイは慌てて立ち上がって出入り口の扉に向かっていった時、示し合わせたようにジュネスが顔を出した。
「グレイ様、馬車の準備ができました。あと階級章はちゃんと付けていってくださいね。警備隊副隊長の勲章も忘れないでくださいよ」
マントを手に持ち戻ってきたジュネスは、ライナが目覚めているとは気づかぬままに、いつも通り小言を言いながら近寄ってきた。そして何か言おうとするグレイを制してさらに言葉をつづけた。
「本来は隊長の勲章を頂けるはずだったのに、面倒そうだからと言って固辞したがために辺境に頻繁に遠征させられていいように使われるし、グレイ様の能力は辺境警備部隊の副隊長クラスで留まるわけがないというのに、貴方自身が遠慮ばかりしているから―――」
「ジュネス、とまれ!」
いつまでも続くジュネスの口撃に、グレイは思わず声を上げた。その大きな声にジュネスは止まったが、すぐに再び口を開いた。大きなため息付きで。
「グレイ様。怪我人がいるというのに大声を出されるなんて……」
誰のせいだ!と突っ込みたいのをなんとか踏みとどまり、グレイは何も言わずに自分の後ろで目覚めているライナを示した。
「目覚められていたのですか」
「なにか刺激物以外で食べ物を用意してくれ」
「怪我人に刺激物など用意しませんよ」
呆れを含んだジュネスの声だが、その掛け合いを楽しんでいる節がある。
「料理番がかぼちゃのスープを作っていたので、一皿貰ってきましょう。食べられるようならパンも用意しますが、いきなり大量に食べることはお勧めしません。パンや肉はまた後日にしましょう。いいですか?」
すらすらと言うだけ言って、ライナに視線を向けて事後確認をする。ライナは微かに頷くだけしかできなかった。
「あと、氷嚢も用意してくれ。熱が出たのか顔が赤い」
速足で出て行ってしまいそうなジュネスに声をかける。彼は深く追及することなく、かしこまりました、と告げると再び室内から姿を消した。グレイにマントを渡すことはもちろん忘れない。
「はぁ……すまないな、うるさくて」
グレイは困ったように笑いつつ、言われた通りマントを装備して、ポケットに無造作に入れてあった階級章を上着の襟に付けていく。
それを見ながら、ライナは自然と笑みがこぼれるのを止められなかった。テンポよく進んだ二人の応酬がとても楽しかったのだ。ここ暫く忘れていた賑やかさに、頬が緩むのを止められない。
その笑顔を見て、グレイは何個目かの勲章をつけていた手を止めてライナを見つめた。
ライナの笑顔に喜ぶように、くるくると精霊たちが飛び交う。暖かい緑の光が【魔法士】が増幅させていないにもかかわらず、ライナを包み込んでいるのが分かった。その姿があまりにも神々しくて、そして幻想的なものだと感じる。
でも、少女ライナ自身は、まだあどけなさの残る笑顔で。それがグレイの胸の奥を暖かくさせた。
「まだ名前もわからないけど、女の子はやっぱり笑顔が一番だ」
思わず口から出た言葉に、実は本人が驚いていた。けれど、それを悟られたくなくて、ただ緩やかな笑顔を向ける。その表情に、再びライナは顔を赤らめた。
―――村の女たちが言っていた、天然のタラシってこういう人のことを言うの?
「あ、まだ俺も名乗っていなかったな」
ライナがとんでもないことを考えているとは知らず、グレイは一歩ベッドに近づくと、布団の上掛けに投げ出されていた腕を取り、その掌を握りこんだ。その自然と流れるような動作に、ライナの心臓が激しく鼓動を打つ。きっと顔はさらに真っ赤になっている。
「グレイ・バーガイルという。さっき聞こえていたかもしれないけど、国境警備駐屯部隊っていう厳めしい名前の所属で、一応名ばかりの副隊長をしている」
さっきまで男の人が怖いと思っていたのに、いまは手を握りこまれてこんなにドキドキしているなんて、ライナは自分の心情の変化に付いて行けず、顔を赤らめながらも戸惑うしかなかった。
ちょっと乙女ちっくにしてみました!(私的に)
が、そんなすんなりと進むわけがないんですよねぇ
次回『ライナさんがベッドから下りるぞ!』をお送りします(*´з`)
もしかしたら6人会議+αグレイのおもーい話になるかもしれませんが…




