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無声の少女  作者: けい
ドルストーラ
17/145

逃亡

 走った。ただ、ひたすらに足を交互に踏み出す動作を繰り返す。頬に伝う涙も、零れる嗚咽も抑えることなどできるはずもない。脳裏に焼き付いた母の最期の姿。


 ライナ自身は森の深くに入り込み始めていたから、明るい場所にいる母の姿がはっきりと見えていた。そう、はっきりと―――


「かぁ……さんっ」


 母の持髪を持ち上げていた大男。あれは最初にライナを捕まえた男だった。あいつが母の髪をつかみ上げ、そして細い首から頭を切り離したのだ。瞬間、噴水のように吹き上がった血潮。崩れ落ちた体と、掴まれたままだった頭。

 叫んだ時の表情のまま、母はライナを見ようとしたままに命果てた。


 ―――あの時、わたしが叫んでいなければ。


 そう、叫んでいなければ、母はライナがまだ声が届く範囲にいるとは思わず、男たちを何とか宥めて助かることもできたのではないのかと考えてしまう。


 あの時、あの時思わず母を呼ばなければ。


 ライナの思考はそれ一点だった。他には何も考えられない。ただ、母が最期までライナのために叫んでくれた『逃げろ』という指示に従っているだけなのかもしれない。


 緩慢な動きで、けれど確実に一歩一歩を進めていく。母の遺言を守りたい。母の願いをかなえたい。それはすべて、ライナが無事に生き延びることだけだったのだ。




 どれほど歩いたかしれない。手入れされていない藪は、ライナの薄い皮膚を幾重にも傷つけた。腕にも足にも血が滲んでいる。さっき、小梢の枝が顔面にぶち当たったときに、ピリリとした痛みが走った。見れないけれど、きっと顔中傷だらけなのかもしれない。

 もう止まりたかった。止まって息を整えたかった。しかしそれは許されない。気配を感じる。男たちが追ってきている気配だ。


 ただの幼い女奴隷が一人逃げただけなのであれば、もしかしたら男たちは追ってこなかったのかもしれない。たかが子供。だが、ライナはただの子供ではなかった。彼女は【精霊士】の娘。ドルストーラ王に献上すると決めた商品だったのだ。


 こんなところでさえ【精霊士】の娘であることが足を引っ張ることになるなんて……。


 ライナは歯噛みしつつ、それでも山の中を彷徨った。


「だめ。どっちだろう……」


 逃げ惑いすぎて、方向感覚が狂い始めた。太陽ちょうど真上。木々の生え方である程度は推測できるが、手入れのされていない山中では限界がある。

 ライナは、母が残してくれたハーブの巾着をポケットから取り出した。そして中身を手のひらに乗せる。優しい香りがライナを包んでくれるようだった。


「母さん……」


 再び涙が浮かんでくる。この優しいハーブを作ってくれた大好きな母は、もうどこにもいないのだ。その現実がライナの心にヒビを入れる。と、指先に何かが触れた。

 緑色の森の精霊。ライナがいつも村で会っていた姿とは少し違うけれど、それでも本質は同じだとすぐにわかった。精霊もライナのことをすぐに理解したようで、甘えたようにハーブに顔を寄せる。


「いい、匂いでしょ」


 ライナの言葉に、精霊はにっこりとほほ笑みかけた。


「ロットウェルに行きたいの。わかる?ロットウェル」


 ライナは他にも続々と寄ってきた精霊たちに地名を言うが、きょとんとした顔をして地理など理解している気配はない。こんな山中の精霊が【精霊士】に会うことすら稀なのだろうから、当然と言えば当然だ。


「人里に行きたい。それなら分かる?案内してくれたら、お礼にこのハーブあげるわ」


 集まってきたのは10ほどの精霊たち。ライナの言葉に顔を寄せ合い、すぐにライナに向き直ると、再びにっこりとほほ笑んだ。そして誘導するように飛び始めた。


「まだ、上るわけね……」


 すでに足は悲鳴を上げていたが、ライナは母のハーブを巾着に戻すと後を追った。ポケットと腰紐には母のハーブ。胸元に抱えているのは、母の指南書。絶対に無くせない宝物だ。母どころか、家族との思い出の品はこれしか残っていないのだから。


「母さん、父さん、兄さん……」


 みんなみんな居なくなってしまった。村の人たちとも別離した。あのまま残っていても、どれほど居心地の悪い思いをしただろうかと想像すれば、逃げだしたのは正解だとも思える。信じていた村人に裏切られた心の傷が癒えているわけではないのだ。その上に、母の斬首を目撃し、ライナの心は彼女自身が想像している以上に深く傷ついている。


 けれど今はまだ気づいていない。

 まだ、今は―――





 ロットウェル  国境付近


「死者は何人になった」


 グレイは兜を外し、簡易の椅子にどかりと座り込むと、天井を仰いでジュネスに声をかけた。声をかけられたジュネスの顔色もさえないが、グレイよりはまだマシだ。


「今日までで死者23名。2名は重傷。今夜あたりが峠です」


 あの日、渓谷で惨殺されていた人数だ。25人。他には捜索したが見当たらなかった。今もどこかに隠れている可能性を考え、見張りの兵士を現場に数名常駐させている。グレイは何とか助けようと必死だったが、いづれも致命傷や、瀕死の者たちばかりで如何ともしがたく、結局誰の命も救えなかった……そう、あの【精霊士】の男も。


「役立たずだな、俺は」


 自嘲気味な乾いた笑いが漏れる。己の無力感にため息しか出ない。


「グレイ様」

「名前で呼ぶな」

「……副隊長。精いっぱいされたではないですか。誰もあなたが無力だとは思っていませんよ」

「救えなければ、意味がない……」


 国境付近の警備のため、突貫で建てられた建物の中はがらんとしており、唯一存在感を放っているのは大きな机だ。それもここに来てから、余っていた木材で作ったものだった。既製品を持ってくるのが面倒だったから。その上に載っているのは、未決済の書類の束だ。都から離れたこんな森の中まで、書類は追いかけてくるのだから笑えてしまう。


「とりあえず、少しお休みください」


 ジュネスはそれだけ言い置くと、静かに退室していった。誰もいなくなり、グレイはのろのろと手を動かすと、懐の隠しから小さな巾着を取り出した。あの【精霊士】から託された巾着だ。中身を先ほど確認して、どうにか家族に返してやれないかとそればかり考えている。


 男は当然の如く、身元を証明するようなものを一切身に着けていなかった。託されたこの巾着だけが彼の個人的な持ち物。あまりにもハードルが高い。

 死者はすべて埋葬を終えた。彼に付いていた精霊たちは最後までずっと離れなかった。そう、言葉通り最後まで、だ。


 土の中に身を沈め、上から土をかける段になっても、精霊たちは離れたがらなかった。それどころか気が付くとその数を増やしていた。本来精霊は『個』ではなく『概念』に近い。だから水につけようが、土をかけようが、彼らが苦しいこともまして死ぬこともない。グレイはそれでも……縋り付く精霊たちの上に土をかけることを躊躇い、結局別の兵士に代わってもらった。


「あれほど精霊に好かれてるなんて……何者だったんだ」


 今となってはすべてが謎だ。だが、この巾着を家族に戻すことができれば、その時に話をかけるかもしれない。

 そう思うことで、少し気持ちを浮上させた。




 ライナは明かりを見つけた。

 遠いけれど、暗闇の中に瞬く光だ。


「松明……かな」


 途中の枯れかけた湧き水で喉を潤したけれど、全然足りない。体の疲労は極限に達しようとしていた。足はガクガクと震え始めていたし、視点も定まらない。

 だけれど、助かるかもしれない光明の光を見つけたのだ。震える足を叱責し、気力だけで一歩を踏み出す。引きずるような足取りだが、今のライナにはそれが精いっぱいだった。


 少しずつ、少しずつ近づく光。


 倒れ込みそうになりながら足を進め、あと一歩あと一歩と数えていたライナ。

 そのライナの肩を、何かが―――掴んだ。


「探したぜ、お嬢ちゃん」


 耳に届いたその声に、ライナの体が硬直した。





「なんだ?」


 空気が震えている。風?

 グレイは椅子から立ち上がり、伸びをしながら外に出た。すっかり夕刻になっており、太陽は今にも沈みそうな位置だ。


 何気なく視線を向けると【精霊士】を埋葬した場所に、大量の精霊たちが飛び交っている。思わずグレイは目を見開いた。


「なんだ、あの数は」


 しかもこの辺りでは見たことのない姿。そう、死にゆく男に縋り付いていた精霊たちと同じ姿だった。その精霊たちが、次の瞬間一斉に森に飛び込んでいく。精霊が見えない兵士たちは、突然の突風に煽られ、バランスを崩していた。しかしグレイは違う。その突風がただの風でないことを知っている。そして、正体が精霊であることも知っている。そして―――


「精霊が大挙してどこかに向かうなんて、聞いたこともない……っ」


 グレイは精霊たちを追いかけ、森の中に駆けていった。遠くにジュネスの呼び声を聞いた気がしたが、きっと気のせいだろう。


 ……森がざわついている。


 すぐに森の気配が全然違っていることに気が付いた。例えるならば【精霊士】の男を見つけた時に感じたような、森の慟哭。嘆き、怒り―――


 精霊を追い、藪をすすんだ先から聞こえたか細い悲鳴に、グレイは腰にある剣を握りしめて駆け出した。しかも悲鳴は少女のものだった。


「逃げようっても無理だぜぇ」

「かっ…は……」


 下種な男の声と、苦しそうな息遣いが耳に届く。


「馬で追ってるの気づかなかったか?頑張ったけど、残念だったな」


 抑えた笑い声が響く。愉悦を感じている下卑た笑いだ。


「一級の商品を、そうそう手放すかよ。おら、戻るぞ」

「いやぁ!」


 少女が身を捻って巨体の男から逃れようとしているのが視界に入った。そして、少女の周りで飛び交う緑の精霊たち。風を巻き起こそうとしているようだが、先程感じた突風の威力には遠く及ばない。現に、巨体の男は一切揺らいでいなかった。まるで突風に少女まで巻き添えになるのを恐れているようだ。


「その娘を離せ!」


 グレイは剣を構え、男の前に飛び出した。


「何だてめぇ……」

「俺はロットウェル国境警備駐屯部隊グレイ・バーガイル副隊長だ。その娘を離せ」


 多くの救えなかった命。この娘を救うことができれば、自分も何か救われる気がした。


「―――なにを勘違いしているかわからないが、こいつは親類の娘だ。婚礼を嫌がって逃げ出したじゃじゃ馬だ。あんたが気にすることじゃない」


 グレイの鋭い眼光に怯んだのか、巨体の男はライナの肩を抱き、愛想笑いを浮かべた。


「ほう。俺にはさっき、一級の商品と聞こえたんだが……」


 聞かれているとは思わなかったのか、巨体の男が顔を歪めた。


「どうやら、俺たちの獲物はお前たち奴隷商人だということだな」


 グレイはすらりと愛剣を抜き放つと、その銀色の輝きを男に見せて威嚇した。副隊長という肩書だけではない。日々の鍛練は一介の兵士かそれ以上に繰り返しているのだ。こんな粗野な男に負けるつもりはない!


 巨体の男もまた、腰から曲刀を抜き放った。


「副隊長殿か。強そうだな、あんた」

「お前では勝てない。抵抗するだけ無駄だ」


 グレイから放たれる、圧倒的な気迫に巨体の男はなにを思ったのか―――

 彼は曲刀を振りかざすと、怯えて虚ろになっていたライナに切りかかった。


「なにを―――!!!」


 男の振りかぶった銀の光は、そのままライナの喉を切り裂いた。

 見開かれた両目に映っているのはなんだったのか。飛び散る赤い飛沫と、倒れ込む体がやけにゆっくりに感じられた。


「かあちゃんと同じように殺してや……がは……っ…」


 男は再びライナに向かって曲刀を構えたところで、背後からグレイに心臓を一突きされ、息絶えた。


 グレイはすぐにライナに駆け寄ると、傷の具合を確認し絶句した。


 溢れる鮮血は止まることなく少女の体と大地を染めていく。けれど生きている。まだ、助けられる、いや。助けてみせる!


 目を閉じ、森の嘆きの声に耳を傾けつつ、森そのものである精霊たちに助力を乞うた。


いつも訪問いただき、ありがとうございます。

登録・評価感謝いたします(*´▽`*)


さて本編。やっと出会ってくれました。

やっとかよ!!!と我ながらツッこんでしまいました。

ここから甘くなればいいなぁ…と希望…。あくまで希望…。


また仕事になるので、更新まで日が空くかもです。

よろしくお願いいたします。

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