死別
ライナと母が閉じ込められている馬車は、大型のものだった。内装というものは特になく、薄い絨毯が敷かれているだけの簡素なつくりだ。しかし、窓は外側から打ち付けられているのだろう、まったく開けることは出来なかった。
明り取りもない暗い車内。辛うじて用意されていたのは、短い蝋燭とただの皿。蝋燭立てですらない。次の蝋燭が与えられるのか分からなかったので、母たちは出来るだけ使わないことにしているという。けれど長時間の暗闇と、圧迫されるようなこの空間で、いつまで正気を保っていられるのか。 母は、「ライナが来てくれたおかげで、わたしは正気を手放さずにすんだわ」と、笑ってくれた。
幸いにも、馬車が停車中は外に見張りがいるとはいえ、扉が半分だけ開かれており、その時だけは視界を確保できた。
馬車に押し込められているのは、10人ほどの村の女たち。特に大騒ぎする人はいなかったけれど、ただ静かに泣いている人がばかりだ。重い空気が滞り、ますます気分を滅入らせる。悪循環が悪循環を呼んでいた。
男たちは女が欲しくなると、この馬車の中から適当に女を掴んで引きずりおろし去って行った。最初は抵抗していただろう女たちは、いまではただの人形のように従順だった。その姿にぞっとする。
馬車の中には、村長の妻もいた。他の女たちと同様に、傷つきボロボロになっていた。勝気だった瞳に、生気は感じられない。
がたん、と馬車が揺れ、休憩が終わったことを知る。ここでは多少の食事が出された。その食事の世話をしているのも、この馬車の女たちだ。女が欲しくて連れて行かれることの方が多いが、食事の準備をさせるために、その時だけ下ろされる女もいた。
動き出した馬車。遠くで男たちの馬鹿笑いが聞こえてくるが、今であれば際どい会話をしても外に聞かれることはないだろう。
「聞いてライナ」
「なに」
母に寄り添っていたライナは、小声での呼びかけに顔を上げた。
「あなたを逃がすわ、必ず」
「ぇえっ!」
「静かに」
思わず声を上げてしまったライナの口を押え、母は周囲に目を向けた。幸いにも車内の誰もこちらを注目している気配はない。
「ライナが『見える』ことを公表してなくてよかった。もし、周りに知られていたら……もしかしたら、すでにどうにかなっていたかもしれない」
母は押し殺した声で苦しそうに言葉を吐き出した。
確かに、母は村が平和だった時からずっと、一貫してライナがすでに精霊を見えることを秘匿してきた。消して誰にも言ってはならないと何度も注意を受けていた。意味が分からないままに、時にはそんな母を恨めしく思ったこともあったけれど、こうなってやっとわかった。
いま、この国にとって【精霊士】は禁忌なのだ。例え村の中では敬われる存在であったとしても、自分たちの命がかかわった時にまで、その気持ちを持続してくれる人がどれほどいるだろうか。ディロの時は男衆が意地にかけても口を割らなかった。それを見ていたから、女衆も黙っていたのだ。けれど今は?
約束した春は過ぎ、いまだ戻らない夫や息子たち。あの時【精霊士】を差し出していれば……と考えているものも少なからずいるだろう。もちろん、ディロの家族―――ライナたちに矛先を向けてくることになるのは目に見えている。ましてその時、ライナがすでに【精霊士】として開眼していると知っていれば、気の猛った女たちによって即座に取引材料として扱われていたかもしれないのだ。
あの時は、そんなこと思いもしなかった。
けれど今なら『あり得る』と思えてしまう。父も母も、何が起こるかわからない国の情勢に辺境にいながら気にかけてくれていたのだろう。
「父さんから、あなたのことは必ず守れと言われているの」
「父さんから……それは―――」
母の言葉がつらいのはなぜ。
精霊と人とを繋ぐ役割。数が減ってきている今、その人材は貴重だろう。だけど。
「それは……わたしが【精霊士】だから……?」
ライナの言葉に、母は思わずその痩せた体を抱きしめた。骨ばってるけど優しい手。その手で頭を撫でてくれる。働き者の母の手が大好きだ。
「バカね。大事な娘だからに決まってるでしょ」
「……うん」
涙が溢れて母の胴衣を濡らした。そして母の涙もまた、ライナの肌に沁み込んだ。
「次の休憩のときに、この馬車から降りるわ。まずはそこからよ」
「どうやって?」
食事係にでも選ばれれば幸いだろうが、それでも二人で出ることは無理だと思われた。もしくはどちらかが男の相手として引っ張り出され、もう一人が食事係として外に出れたとすれば……いや、やはり二人揃って外に出られる確率は限りなく低い。
「大丈夫、母さんに任せて。降りたら黙って付いて来て、いいわね」
「う、うん」
母の考えは全然わからなかったが、頷くしかなかった。そうして休憩時間がやってきた。馬車は大きく揺れて止まった。どうでもいいと思っているのだろう、乱暴な運転だ。固唾をのんで見ている前で、馬車の扉が半分だけ開かれ、外が見える。
―――森だ。
どういうルートでロッドウェルに向かっているのか、ライナには見当もつかないが、こうまでずっと森が続いているということは、一般的に商人たちか行き来するために使用している正規の道ではないのだろう。
清々しい森の空気が馬車の中に流れ込んでくる。ライナは嬉しくて涙が出そうだった。けれど、母はそんな感傷に浸ることなく、行動を開始した。
「飯当番は誰にするかなー」
顔を出した痩せた男は、抱く女を探しているわけではなく、素直に食事当番を見繕っているようだった。それが分かった途端、母は立ち上がって声を上げた。
「あの!」
「なんだぁ。お前が作るのか?」
腹が減っているのか、男は無意識にお腹を押さえる仕草をした。いままで見てきた粗野な男たちと違い、少しはましに思える。
母はライナの肩を抱いて男にきっちりと視線を合わせた。
「この子、月のモノが来たんです。処置をしたいから外に出してくれませんか」
「えっ」
母の言葉にぎょっとして顔を上げたが、母の厳しい横顔にすぐにライナも顔を男に向け、頭を下げた。
「つきのもの〜〜?」
意味が分かっていないようだったが、「ご、ごめんなさい。どうしようもなくて……」と、恥ずかしそうに俯き、小声で話すライナの様子に、ようやく合点がいったらしい。男には、それ自体体験できるものではないので、わからない事だらけだが、確か昔付き合っていた女が月のモノが来たらどーだ、あーだと騒いでいたなぁ。と思い出していた。
男はニヤリと笑ってライナを見た。
「処置っつーのをしたらいいのか?俺たちがするのか?」
「まさか!」
ライナは顔を上げて激しく首を振った。真っ赤に染まった顔を見て、男は嘘ではないと判断したらしい。はぁ、とため息をつくと扉の前から体をずらし、二人が下りるのを待った。
「俺が見張る。目の届く範囲にしろ」
「充分です。さ、ライナいくわよ」
男は面倒くさそうに、近くにいた仲間の一人に声をかけ、食事係りを決めるように委ねると、母とライナを茂みの中に追いやった。
「妙な動きをしたら、すぐに藪から引きずり出すぞ」
「わかりました」
明るい場所で見ても、母の腫れた顔は痛々しい。しかし、母自身はそんなライナの気遣う視線など無視し、ゆっくりと藪の中に入り込むと、ライナを立たせたまま自分はしゃがみこんだ。
「おい、妙な動きはするなよ」
男の叱責がすぐに飛んでくる。母はすぐに立ち上がった。
「月のモノがどこから出てくるのかご存知でしょう。立ったまま処置は出来ないんです」
きっぱり言うと、再びライナの前にしゃがみんだ。その姿に、男はもう何も言わなかった。
空き地に男がいて、二人を見ている。ライナはそんな男に背を向けて立たされ、母はライナの正面に座り込んでいた。つまり、男から母の姿はほとんど見えない。
「ライナ、これを渡しておくわ」
小声でそう言い、母がポケットから取り出したのは、見慣れたハーブを詰めた巾着だ。ライナの腰紐に一つ、括り付ける。そしてポケットの中にも巾着を1つ。そして三つめの巾着の口を開き、中にあったハーブを取り出した。
「わたしたちは【精霊士】としての姿しか見せていなかったわね。今となってはそれが仇だわ」
「母さん?」
ハーブの香りに寄ってきたのだろう、精霊たちが顔を見せだした。いつも村にいる精霊とは、少し顔立ちが違う気がする。場所によって多少変化するものなのかと、ライナは初めて知った。
「母さんには見えないけど、精霊は来てる?」
「うん……ねぇ。どうしたらいいの」
厳しい顔の母に、ライナは言い知れぬ不安が足元から迫ってくるのを感じていた。精霊たちは優しいのに。ハーブの香りにすり寄ってきているのに。場違いなほど穏やかなのに。
「生き延びなさいライナ。このまま東に向かえば、きっとロットウェルに着く。精霊たちに導いてもらうの、いいわね」
「わからない、なにが、どうして」
母は立ち上がると、ライナにぎゅっと抱き付いた。そして背中を優しく撫でてくれる。まるで、いまよりもっと小さい時、雷におびえて泣いていたあの時のように。
「精霊の力を借りて、増幅し……その力を行使できるもののことを【魔法士】と呼ぶの。ライナ、あなたにはその才能がある。だって、精霊に愛されたディロの娘なんですもの」
耳元で告げられた言葉。それがなんであるか、なにを示すものなのか、ライナにだってわかった。わかったけど、理解できたとしても―――。
「なにしてる!」
突然藪の先で抱擁を始めた二人に、見張りをしていた男は不審に目を向けてきた。だが、まだはっきりと二人の行動がわからないので、その場から動くことはしなかった。けれど、今の声でほかの男たちが気づいたかもしれない。予想していたよりも大きな声だった。
「ライナ、ゆっくり森の深遠へ向かう気持ちで下がりなさい。母さんが合図をしたら振り返らず走るの。道に迷いそうだったらハーブを精霊にあげて。そして導いてもらいなさいね」
体を離し目を合わせ、母は涙を浮かべながら、それでも笑顔を向けた。
「母さん……っ」
戸惑う声を振り切りように、母は男に一歩踏み出した。
「ライナ。わたしの愛しい子」
耳元に残した小さな囁き。
母は見張っていた男の歩み寄ると、その体に抱き付き顔を向けさせて、強引に唇を重ねた。男は突然の行動に驚いたようだったが、満更でもなかったのか、母の体を抑え込み始めた。
チラリと見えた母の視線。
―――はやく、いきなさい。
母は苦行に歪む目をしていた。ライナがここから離れない限り、母はあの男から離れられない。
ライナは唇をかみしめ、ゆっくりとゆっくりと足を下げていった。母の体を弄る男の姿が汚らわしくて、嗚咽がこみ上げてきそうで。できるなら、今すぐ駆け寄って男を殺してでも母を奪い返したかった。だけどそんな反抗が到底通じるとは思えない。奴らには大勢の仲間がいるのだから。
母はもうこちらを見なかった。視線を向けることにより、男の意識がライナに逸れることを恐れたから。
ライナはついに背中を向けて走り出した。大きな音を立てたくないと思っていても、どうすればいいのかわからない。精霊たちを驚かさないようにと、山の歩き方を学んだというのに、いまは全く役に立たなかった。ただ、一刻も早く離れたかった。一刻も早く母を開放したかった。
そう思っていても、残してきた母が気になる。走りながら後ろに視線を送ると、母の髪を掴み、乱暴に持ち上げている姿があった。
「母さんっ!」
思わず。そう、思わず叫んでしまった。
声が届いたのかわからない。けれど母は、ただまっすぐライナを見ていた。
「ライナ!逃げるのよっ!!」
そして耳に届いた母の叫び。
遠くに見える母。その首が落ちたのが見えた。
これより1つ前の「先の見えない夜」の後半、改正しております。
大事な部分だったのに、うっかり。
もうしわけございません。
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