先の見えない夜
叫んだ女を見たけれど、特に頻繁に交流があった顔ではなかった。本当にただの村人の一人。けれど自分は違う。自分は村人全員が知る【精霊士】の娘。こちらが相手を知らなくても、相手は自分を知っている。そんなものだ。
「そうか。やはりいるのか……王は【精霊士】を嫌悪されている。娘を差し出せばさぞ喜んでくださるだろうよ」
男の言葉に、叫んで女は顔色を喜色に変えた。まるで、ライナを差し出すことで『自分』が王から褒められると勘違いしているかのようだ。いや、実際そう受け取ったのだろう。村人として【精霊士】を敬ってきた気持ちは捨て去り、保身に走った瞬間だった。
「あそこにいるわ!あの子よ、あれが【精霊士】の娘よ!」
はっきりと指差され、ライナを指し示す。それと同時に、一緒に並ばされていた周りにいた女たちがライナからすっと離れた。お互い身を寄せ合い、ライナに憐みの視線を向ける。【精霊士】の扱いがどれだけひどいものなのか、王都から遠く離れた辺境の村にも、充分な情報は届いているのだから。
「こいつか」
じろじろと値踏みするかのように視線を向けてくる。
「お前は精霊が見えるのか?」
男の問いかけに、ライナは唇を噛みしめながら小さく首を横に振った。その様子を見てから、先程ライナを告発した女に視線を戻す。
「精霊は見えていないらしいぞ?」
その声には面白がるような響きがあった。村人同士の結束が壊れていくのを楽しんでいるかのような、引き裂くことを愉悦とする声音だ。
「精霊が見えるようになるのは、成人してからだと言われているわ……けど、【精霊士】の直系の娘には違いないのよっ!」
男の声にかぶせるように、女は声を張り上げる。そんな姿を、奴隷商人たちはニヤニヤとした笑いを貼りつかせ、面白そうに眺めていた。悪趣味だと言い捨ててしまえれば、どんなに気分が晴れるだろう。けれど、気持ちとは裏腹に、これから体感するであろう恐怖で体が細かく震えるのを止められない。
「まぁいい。直系の娘というのはいいな。あの王様が喜びそうなネタじゃねぇか」
口元に歪んだ笑いを浮かべ、男は身を屈めてライナの顔を覗き込んだ。怖くて怖くて、ただ怖くて、ライナは目をぎゅっと瞑り、声を抑えるために唇を引き結び、震える体を抱きしめるしかなかった。そんなライナを特に気を留めることなく、男はその姿を上から下まで眺めると、一人納得したように態勢を戻した。
「特に傷ついちゃいねぇな」
地面に転がされた時についた膝の傷など、男にとっては傷の部類には入らないらしい。
男が少し離れたことで気が緩んだのか、ライナは瞼を開けて男の姿を見据えた。
14歳のライナは大人になりかけの果実だ。まだ幼さを残した顔立ちと体格。意志の強そうな視線。ライナは負けてなるものかと、つい強い視線を送ってしまったが、それが男の琴線に触れたらしい。
「はは、おもしろい。ロットウェルにいったら磨いてやろう。多少でも光ればいい」
それは売り物にすると言う宣言ではないのか。背筋に冷たい汗が走った。
「ロットウェルで売っちまうんですか?」
ドルストーラに連れていき、王に引き渡して報酬を得るのだと思っていたというのに、どういうことなのかと巨体の男が不思議そうに問いかけた。粗野な言葉遣いだが、豪奢な男には遜っているようだ。依頼主なのか頭領なのか、きっとそんなところだろう。
「ほかの女たちはロットウェルの闇市場で捌く。そのあとドルストーラに戻るときに、この娘を磨いて連れていく。こんな汚い成りじゃあ、さすがに王宮には上げられないからな」
「なるほど、なるほど」
豪奢な男の考えが分かり、巨体の男はニヤニヤ笑いのまま頷いた。
「とりあえず、俺の後ろの馬車に連れて行け。水を使わせて汚れを落とさせろ。臭くてかなわん」
「りょーかい」
巨体の男はライナに近寄ると、身を縮こまらせていたのを無視して腕を取り、引きずるように連れていく。反抗する気力もわかない。自分の行く末が真っ暗なことだけしかわからない。崩れ落ちそうになり、地面に膝が擦れそうになった時、男が腕を強く上に引っ張り上げた。
「いたっ……」
掴まれている手首が痛い。無理矢理持ち上げられて腕の関節が痛い。肩が悲鳴を上げた。
「しっかり立て。傷つけられねぇんだから。膝も擦るな」
それだけ言うと、ライナが自分の足で立ち上がったのを確認し、今度は引っ張るだけの力で今までとは違う馬車に向かっていた。そしてライナの後ろから声が聞こえていた。
「さて、飯にするぞ。女たちは馬車に戻れ」
残された女たちは気まずそうに視線を交わしあい、言われるままに元の粗末な馬車に向かって歩き出す。と、さきほどライナを密告した女が豪奢な男に向かって歩いて行った。
「わたし【精霊士】の娘をすぐに見つける手助けをしたのよ!約束通り開放してちょうだい!」
その言葉に、馬車に乗り込みかけていた女たちも視線を向けた。
そうだ、確かにそう約束した。解放してくれると―――そう言っていた……だが。
「そんなこと言ったかな」
「え……」
男の軽い返答に、女はビクリと動きを止めた。
「俺がそう言ったのか?」
男はゆっくりと歩み寄ると、怯えを浮かべた女に近づき、その髪を鷲掴みにした。頭皮に痛みが走り顔が歪むが、そんなことを気にしてくれるはずもない。
「おい、お前たち!そんな『約束』をこの女奴隷と交わしたのを聞いた奴は教えてくれ」
「しらねーなぁ」
「俺たちがお頭の言葉を聞き漏らすわけがねぇ」
「下らねぇ嘘だぜ」
「商品を開放とか、あるわけがねぇ」
周りで面白そうに事の成り行きを見ていた男たちは、口々に否定する発言を繰り返していく。笑いながら囃し立て、怯えの色を走らせた女の顔を愉快そうに見ている。
「と、いうわけだ。幻聴でも聞いたんだな」
歯を見せて笑った男は、女を突き飛ばすと、何事もなかったかのように踵を返し、自分のためだけに用意されている小奇麗な馬車に戻っていった。
ライナは上から水をぶっ掛けられ、全身ずぶ濡れになった。それを3度ほど繰り返され、馬車の中に押し込まれた。その時一緒に、親切心なのか汚れたタオルと、汚れて穴の開いた着替えの胴衣も放り込まれた。
どうやら、いまのが彼らの言う『汚れを落とす』になるらしい。乱暴な行水だったが、水を浴びられたことは救いだった。綺麗とは言いがたいタオルだったが、体をふいて髪の水気を取った。着替えとして渡された胴衣は……そのまま丸めて持っておく。
正直、自分がいま着ているものと大差ない汚れと臭いだったのだ。大切な母の指南書を包んでおくのにでも使おうと決めた。これだけは手放したくない。
ライナが次に押し込まれた馬車は、いままで詰め込まれていた所よりは、幾分か清潔だった。しかし、男たちに慰み者にされた女たちが数人おり、嗚咽を漏らして泣いているものや、無気力に虚空を見ているものなど達ばかりで、ライナはここも地獄だと思った。
「ラ……ライナ……?」
「!」
自分を呼ぶ声に、慌てて薄暗い馬車の中に視線を走らせる。聞き間違えるはずがない、母の声だ。
「母さん、どこ」
大声を出すことが憚られて、小声で呼びつつ倒れていたり座り込んでいる女たちの顔を順番に見ていく―――と、母がいた。
「母さん……っ」
「ライナ」
腫れ上がっていた顔は幾分かマシになっていたが、それでも痣は全然消えておらず、元の整った顔立ちは成りを潜めていた。でも、その視線の強さは変わらず母だった。しかし、その姿は無残だ。はだけた肌と、傷ついた体。 痛々しい姿に涙がこぼれる。そして母自身もそんな己を恥じているように顔を伏せた。
「どうして、ここに?ここは……あいつらの鬱憤晴らしの場所よ。ライナ、ライナまでそんな―――」
母はライナも自分たちと同様の扱いを受けてしまうのかと怯え、唇を震わせた。まだ14歳の愛娘が、獣のような男たちの慰み者になってしまうことへの懸念だ。母自身もよほどの扱いを受けただろうに、それでもライナの身を案じている姿に、自然と涙が浮かんだ。
「わからない。けど、わたしが【精霊士】の娘だとばれてしまったからよ、きっと」
「!……なんですって」
小声で返答し、経緯を説明する。解放を条件として提示された【精霊士】の娘。けれど当然の如く約束は反故にされ、解放などされるはずもなかったこと。ロッドウェルで自分以外の女たちは、奴隷市場に連れていかれること。そしてライナだけはドルストーラの王宮へ連れていかれ……その後の采配は分からないこと。
ライナがぽつりぽつりと話す内容を、母は黙って聞いていた。時々眉を顰め、時々嘆息し、そして最後に涙した。