隣国へ
兄妹の再会が行われて五日が経っていた。ライナは旧後宮から出され、伯爵家に帰って行った。ライナの実家は書類上は公爵家なのだが、ライナが『家』だと認識しているのは伯爵家なのだ。浮かれ気分のグレイに連れられていく姿を見送ってもう五日。
そしてライナに代わり、アロイスが旧後宮の客間に滞在し、それに付き合うようにフォーデックも居座っていた。アジレクトは実家に戻ってこい!と気勢を上げていたが、聞く耳を持たないフォーデックに効果はなかった。
アロイスが滞在しているうちにと、ガーネットを含む執務官たちは精力的にファーラルに仕事を押し付けていった。うんざりとした顔も態度も隠そうとせず、ファーラルは眉間に皺を寄せて書類を睨む日々だ。
アロイスたちがドルストーラに戻ってしまえば、政の細かな調整に時間が掛かる。食糧援助のことも、人材確保のことにしても。そのため、今の内だ!と言わんばかりに執務室には仕事が押し寄せて来ているのだった。つまりはファーラルの仕事が忙しくなれば、比例的にアロイスの仕事も増えるわけなのだが、さすがに客人扱いのアロイスに対してはまだ遠慮があるのだろう、ファーラルよりはマシなようだ。
だが、いまは新年明けてまだ間もない。民に許されている年明けの休暇時期だ。そんな時にこの状態。ファーラルの機嫌が悪くなるのは早かった。
そしてファーラルの機嫌が降下していくのと比例するかのように、城下では人々の噂話に大きな花が咲いていた。
「ドルストーラの新王は、それはそれは美男子なんですって!」
「ええ?俺は熊のような体つきの大男だって聞いたぞ」
「どこか高貴な家柄のご落胤らしいぜ」
「一騎当千の強さなんだってよ」
「知識も豊富でドルストーラをあっという間に平定されたらしいわ」
「普段は穏やかなのに、先の闘いでは陣頭で指揮を執ったんだと」
「精霊の加護を受けてるって聞いたんだが」
嘘か本当かわからないままの噂は、尾ひれや背びれまでつけて人の口により、急速に広がっていった。そうなってくると、その新王にお目通りしたいと貴族連中が動き出す。頭の固い年寄りの集まり『貴族会』が特にうるさい。そしてそれに釣られるように民も声を上げ始めた。
「ずいぶん騒がしくなってきましたね」
ガーネットは紙に埋もれそうな机に、お茶ではなく新たな書類の束を置きながらため息を吐いた。その視線の先には顔に若干疲れはあるものの、雰囲気はいつも通り飄々としているファーラルがいる。
「騒ぎになるのは本意ではないだろうし、そろそろご帰国いただく方がいいだろう」
「……まさか噂話を流したのは―――」
「そんな事するはずがないだろう」
あまりにも早い否定の言葉は、情報源が誰なのかを如実に語っていた。けれど、ファーラルははわざと気取られるように仕向けたのだろうと思うほど、まったく焦りを見せない。
「さて、こんな身の無い書類を捌いてる場合じゃないな」
そういうと、手元にあった書類―――貴族会からのアロイス新王との面会嘆願書―――を脇によけて、あらかじめ用意しておいた封書をガーネットに差し出した。
「それを至急、リグリアセット公爵に届けてくれ」
「かしこまりました」
厳重に封をされたそれは、ロットウェル議長として使用する正式なものだ。紙として残しておかねばならない正式な書類だと思っていい。
ファーラルより届けられた封書は、まだ領地に戻らず中央都市に滞在していた公爵に無事届けられた。そして中身を読み進めた公爵は、複雑な表情を見せたのだった。
「どうなさったの?」
妻であるセリーナが、夫の表情に気付き声をかけた。こざっぱりとしたドレスにエプロンという、侯爵夫人らしからぬ出で立ちであるが、料理どころか洗濯もこなすセリーナには似合った格好ともいえる。
「……三日後、アロイス王とフォーデック殿がドルストーラに帰ることになったそうだ」
「まぁ。急ですこと」
見送るために再び登城しなくてはならない。いくら非公式訪問だったとはいえ、不格好ではだめだ。いまから衣装を考えておかなくては間に合わないだろう。
「新しく仕立てるのは無理でしょうから、アレンジを変えてもらえばいいかしら。全体の染め直しは間に合わないだろうけど、一部だけなら……」
「セリーナ、それよりも問題がある」
「問題?…………あっ」
シュバルツに言われ、セリーナははっと思い出した。そうだ、あの兄妹が再会した日―――アロイスはライナをドルストーラに連れて行くと宣言したのだ。ドルストーラの平定のため、ライナの【精霊士】としての能力が必要なのだと言われていた。そしてそれを、ファーラルは許可し最終的にはグレイたちも頷かざる得なかったのだ。
「まぁまぁ大変!全然間に合わないわ!」
「セリーナ、ちょっと待ちたまえ!まだあるんだ」
大慌てで部屋を出ていこうとした妻の手をつかみ、引き留める。何事かと振り返るセリーナに対し、シュバルツは深呼吸を3度繰り返した。そしてゆっくりと顔を上げた。
「親善大使として、アンヌが指名された」
「!」
驚いたように目を開いたセリーナだったが、すぐに笑顔になった。
「なんて名誉なことでしょう。ライナ一人でのお里帰りは不安だろうけど、アンヌが一緒であればきっとどちらも心強いわね」
「……あぁ」
歯切れの悪い返事に、セリーナは首を傾げる。シュバルツの顔色は決していいとは言えなかったからだ。
「あなた、どうなさったの」
「……思い違いであればいい。わたしの深読みなのだと……だが、ロットウェル唯一の公爵家の実娘。ロットウェルの今は亡き王族の血を繋ぐ者。そんな人物を親善大使に指名する意味……わたしは、ファーラルの考えていることが少しわかるよ」
「……まさか」
夫の静かな声に、セリーナは声を震わせた。
「最初はライナだったのだろう。元ドルストーラの民であるライナであれば、正直伯爵家さえ黙らせてしまえば差し出すのに都合がいい」
だが、実際はそうはならなかった。ライナとアロイスは血の繋がった兄妹であり、生き別れの唯一の肉親である。ファーラルの頭の中に在った二人の婚姻は早々に立ち消えた。
だがきっとあの日。初めてアンヌがアロイスを目にした日―――アンヌはアロイスに見惚れているようではあった。けれどそれだけだ。あれ以来二人が個別に会うようなことはなかった。滞在中、アロイスが伯爵家にこっそりとやって来たり、その時偶然にアンヌと顔を合わせることもあったようだが、決して二人きりではなかった。
その偶然でさえ、ファーラルは作り出していたのかもしれないが。
「まだどうなるか分からない。それぞれの気持ちの問題もある―――」
「……そう、そうよね」
「けれど、覚悟しておかねばならないかもしれないな」
シュバルツのその声に、セリーナは返事が出来なかった。
ライナとアンヌの支度は、公爵家と伯爵家両家総出で行われた。大荷物になろうという間際、アロイスから待ったが掛かるまで。
「あちらはまだ客人を迎え入れ、存分なもてなしなど出来る状態ではありません。ですので、申し訳ございませんが、ライナとアンヌ嬢のお付は最低限にしていただきたいのです。護衛はわたしとフォーデックがいるので安心してください。荷物もできるだけ少なくお願いします。極端に華美なドレスや宝石も、いまのドルストーラの民には羨望だけでなく嫉妬まで生んでしまうため、避けて頂きたいのです」
親善大使としてアンヌが赴くことになったが、大掛かりな晩餐会などは予定されておらず、過去の悪法と、変ろうとしている姿を見届ける役割になりそうだ。ライナは元より、精霊との対話が一番の役目であるため、残った貴族たちとの交流はできるだけ避けるらしい。
結局、ライナとアンヌ以外の同行者は、ロージィとリリーだけになった。荷物も最低限に絞られ、馬車一台で収まるだけだ。公爵家姉妹として考えた場合、ありえない状態である。実質二人の世話はリリーが一人で行うことになるが、もとよりライナは手が掛からないので、最近丸くなったアンヌだけであればリリー一人でもなんとかなるだろう。
ロージィは護衛と御者を務めることになり、こちらは志願だ。
グレイも同行を願い出たが、ファーラルから許可が出ず。さらに自分の職務を忘れるな、と釘を刺されて立ち戻ったという。代わりにではないが、付かず離れずの護衛をバロラとアージラムがしてくれることになった。正しくは彼らはディクターの指示でドルストーラの支援を行っているため、その交代要員になるのだが。
瞬く間に準備期間は過ぎ、ライナとアンヌが出立する日となった。ロットウェルとドルストーラの国境線に着くと、ライナとアロイスは揃って父ディロの墓に手を合わせた。
―――父さん、ライナに会えたよ。
アロイスの手には、父に渡された護り石がある。ライナと二人分、精霊の加護があるようにと、父が作り出した大切な形見だ。
―――父さん、兄さんと会えたんだよ。
ライナの手の中にも、アロイスと同じ石が握り込まれていた。運命に導かれるようにライナの元に届けられた護り石。石の奥に見える光は、ファーラルすらも慄かせる力を秘めている。
頬を撫でる慣れ親しんだ風。まとわりつく精霊たち。精霊たちもまた、兄妹二人の再会を祝してくれているようだった。そしてそれは、死してなお子供たちを守ろうとする父と母のように。
「行こう、ライナ」
「うん」
立ち上がり振り返れば、見送りについてきたグレイたちがいた。国境線まである程度の距離があるため、ここまで同行してくれたのはグレイとジュネス。そしてシュバルツだけだ。他の人々とは出立前に言葉を交わしている。
「ライナ、呼んでくれればいつでも迎えに行くからね」
「うん、ありがとう」
グレイは膝をつくと、ライナの手を取りそのまま体を抱きしめた。アロイスの手前、過度なスキンシップは控えたいところなのだが、今日離れてしまえばどれほどで帰って来れるのかという目途が立っていない以上、なりふり構っていられないようだ。
「俺以外の男を見ないで」
「そんなぁ。難しいよ……」
「じゃあ、俺以外の男に笑顔見せるの禁止」
「が、がんばる」
「ああ、頑張って」
グレイの胸元に顔を埋めていたライナだったが、顔を上げて下からのぞき込む。赤く染まった頬と潤んだ瞳と上目遣い。グレイは必至で理性と闘った。
「うん……グレイも、だからね?」
「もちろん。俺にはライナだけだよ」
理性と闘いつつ―――グレイは誘惑に負けてその小さな唇に吸い寄せられていた。
離れがたくイチャついている二人を無視し、フォーデックとジュネス、ロージィは荷物の最終点検を行っている。その点検には国境警備隊も手伝ってくれて
いるため、無駄に人数が多い。彼らにとってはいい暇つぶしなのだろう。それとバーガイル伯爵の、軍では見られない婚約者の少女に対する執着と溺愛っぷりを眺めたいというのもあるのだろう。グレイの部下たちは既に知っているが、関わりの無い者たちにすれば珍しいどころの話ではない。
バロラとアージラムは先行し、野営地点の露払いに向かっている。ドルストーラの一部国民が国から逃げ出し、盗賊に身を落としている例があるためだ。
そんな彼らと離れた場所で、近衛兵に囲まれた中にアロイスとシュバルツ、そしてアンヌはいた。
「アロイス様、アンヌをよろしくお願いいたします」
「はい、お任せください」
公爵に頭を下げられたアロイスは恐縮しつつ、鷹揚に頷いた。内心では焦っていたが身分的にはアロイスが上になるのだから仕方ない。年長者に頭を下げられることにいつまでも慣れないアロイスだったが、この数日で流石に慣れざる得なかったようだ。
「アンヌ。お前はしっかり役割を果たしてきなさい」
「はい、お父様」
愛娘としっかりと抱擁を交わし、そしてグレイからライナを引き離すと、シュバルツは二人の娘をアロイスに預けたのだった。
「気を付けて」
「「はい」」
「冒険心はほどほどにね、ライナ」
「う、うん!」
「リリー、二人を頼んだぞ」
「任せてちょうだい」
「ロージィ……頼んだ」
「かしこまりました」
「いってらっしゃい」
「いってきます!」
家族に見送られ、小さな馬車は国境を越え森の中に消えていった。