新王の名前
瞬く間に時間は過ぎた。ライナは結局、年越しも白薔薇城の旧後宮で過ごした。そして年末行事の忙しい合間を縫って、グレイとジュネスは頻繁に顔を出して、仕入れた話を面白おかしく聞かせてくれたりもした。雪が降り始めたころには寒いだろうとミラビリスからは暖かなひざ掛けが届けられ、アンヌも登城してはライナと時間を過ごしてくれた。年越しにはグレイが一人で訪れ(リリーは渋い顔をしていたが)二人きりで新しい年を迎えることも出来た(当然扉は薄く開けられていたし、隣室ではリリーが息をひそめて見張っていたが)。
年が明けてから、城内はマーギスタとドルストーラ両国からの来賓が来ることもあり、関係者は慌ただしく業務をこなしているようだった。グレイとジュネスも警備の見直しや変更、人員の割り振りなどで他の部隊との作戦会議などがあるようで、訪れても暇を告げる時間が早くなっていった。つい寂しそうな顔をしていたのか、そのたびにライナはグレイに強く抱きしめられた。
「ごめんねライナ。寂しいのはもうすぐ終わるから」
ぎゅっと抱きしめてくれる腕の強さに、ライナはほっと息を吐く。けれどグレイの言葉の意味は分からない。
中央都市だけでなく、全域に瞬く間に広まった噂がある。新王であるドルストーラ王が、限りなく少数でロットウェルを訪問したこと。そしてその驚くべき速さだ。ドルストーラの王城から国境線まで来るだけでも、10日間は掛かるだろう。まして王が乗る馬車であれば安全を考慮し、警戒深くなるため、通常その速度はさらに落ちるはずだ。だが問題は二国間の間に横たわる精霊が守る巨大な森である。細く整えられていない道は、巨大な馬車は通り抜けられない。整備されていない森の中の道は決して快適ではなく、徒歩かもしくは単騎であれば駆け抜けるのは容易だろう。獣道も多く、決して安全とは言いがたい行程なのだが、その道をドルストーラ王とその部下たちはそれぞれ騎馬にて五日で駆け抜けてきたという。
「―――などという噂が城内でもされておりますが」
「言わせておけばいいさ。それに噂じゃない、事実だからな」
ガーネットの報告に、ファーラルは心底どうでもいいと手を振って応えた。
年始の行事に向け整えられた服装を鏡で映し、ファーラルは襟元のフリルを引っ張りながらため息をつく。ひらひらとしたフリルは決してファーラルの趣味ではない。これから行われるのはロットウェルの民草に向けて手を振るという、非生産的な行事に赴くためのものだ。飾り気の無い恰好よりも、華やかな装いの方が断然荷受けがいいのだ。特にファーラルは黙っていれば『王子様』である。もう立派な三十路であろうと、未婚であり顔の整った美男子であり、さらに議長であるファーラルは、国民の女性たちの理想の『王子様』であるべきなのだ。
「これが終わりましたら、マーギスタ王とドルストーラ王と昼食会です」
「……せっかくの年明けだというのに、わたしに一切休みが無いのはおかしくないか」
おかげで少ない睡眠時間はさらに削られ、プライベートなど無いに等しい。
予定表を確認していたガーネットに近づくと、ファーラルはその手にあったファイルを奪い取り、背後に向かって放り投げた。ファイルは床に落ちることはなく、使役する闇の精霊たちに受け取らせた。そしてファーラルは手の空いたガーネットの腰を引き寄せ、抱え込むように体を密着させる。
「ファーラル様……ここは執務室です」
「知っている」
軽く触れるだけだった口付けは深くなり、時間を忘れてしまう。すっぽり腕の中に納まっている細い身体。そして抵抗と欲望の色が見える潤んだ瞳を見つめているだけで、自分の中にあった火種が激しく燃えだした。ここが白薔薇城内の執務室でなければ、二人の欲望は確実に絡み合っただろうが、幸か不幸か……ここは致すには適さない場所である。それでも離れがたい気持ちは口付けを深く深く絡ませ合い、結局一向に執務室から出て来ないファーラルとガーネットを、政務官たちが呼びに来るまで二人は口付けを止めることはなかった。
分厚い警備に護られつつ、ファーラルが塔の上から手を振っている頃、ライナは旧後宮にある自分の部屋でリリーとアンヌの手伝いの元、身支度を整えていた。別の応接室として用意された部屋には、すでにファヴォリーニとミラビリス、リグリアセット公爵夫妻が待機している。ちなみにライナの部屋の扉は警護担当のため席を外しているグレイとジュネスに代わり、ロージィが受け持っていた。
「ついにドルストーラ新王とのご対面ですね」
「……」
ライナの髪を整えながら、リリーは自然とその名前を口にしていた。おとなしく座っていたライナは少し眉を顰めるが、背中側にいるリリーにはその表情は見えない。
「どのような方なのでしょう。噂ではとても美しい青年だという事ですが」
リリーの声は弾んでいる。表舞台にまだほとんど姿を現したことのない人物を、もうすぐ目にする機会があるのだ。しかも噂では整った容姿の青年だという。年頃の娘が色めき立つのは仕方ない事だろう。しかしどうやら彼女は、その新王がグレイの恋敵になるやもという事態になっていることを失念している節がある。どんな美青年であろうと、ライナはグレイの傍にいたいのに、その新王とやらがライナを気に入れば、ライナはドルストーラに連れて行かれてしまうのだ。
「ちょっとリリー。ライナを怖がらせないで」
ライナの不服そうな顔に気付いたアンヌが、眉尻を吊り上げてリリーを止めた。それでようやく失言を悟ったのか、リリーは申し訳なさそうに頭を下げた。
「ごめんなさいライナ!そんなつもりじゃないのよ」
「……」
座った状態から首を巡らせ、ふるふると首を振って気にしていないと表すが、その表情は沈んでおり、どう見ても『気にしていない』顔ではない。リリーは自分の浮かれっぷりを情けなく思い、がっかりと肩を落とした。
「二人とも陰気くさいわね。しゃきっとしなさい!ライナ、あなたはグレイ様の傍にいると決めたんでしょう?誰が何と言ってもそれを貫き通さなくてはだめよ!」
腰に手を当て仁王立ちで言い放つアンヌは女王のようですらある。有無を言わさないその姿は堂々としており、瞳は力強さに煌めいていた。
「まずば自分が心を強く持たなくては、隙を見せてはダメ。特にファーラル様は一筋縄ではいかない人ですからね」
〔ありがとう、お義姉様〕
ライナは素早くチョークを走らせ、その黒板を見たアンヌは笑顔を輝かせた。
「お義姉様!なんて素敵な響き!」
アンヌはぎゅうぎゅうとライナを抱きしめる。そして心の中では突然現れ、義妹を奪い去ろうとしているドルストーラ新王とファーラルに怒りを募らせていたのだった。
ファーラルたち議長六人と、マーギスタ君主、そしてドルストーラ新王の計8人で囲まれた会食は、見た目は和やかに進み問題なく終了した。マーギスタ側は『何者かに』破壊された結界の修繕と補強をロットウェルに依頼し、それにドルストーラからも技術者を出すことで恩を売ることに成功した。マーギスタとしては、ロットウェルの【魔法士】だけでなく、ドルストーラの【魔法士】の手を借りることになり、表面的には屈辱的に映るかもしれないが、マーギスタにしてみれば精霊に関して他に頼り先がなかったのを、何かあればドルストーラにも頼れることになり、リスクを分散できたことは喜ばしい事でもあった。今回の結界補修がうまくいけば、離れているとはいえマーギスタとドルストーラの国交も活発になるだろう。それはドルストーラの国力上昇にもつながり、結果的にどちらにも利がある会食となった。
その後マーギスタの使節団は足早に帰国の途についた。今回の事を国に持ち帰り、今後の対応策を検討するのだろう。
「さて。君にとってはここからが本題だろうか?」
マーギスタ使節団を共に見送った新王に、ファーラルは楽しげに微笑みかけた。
ドルストーラ新王とライナの顔合わせは秘密裏に行われるため、ファーラルの結界で守られた旧後宮で行われる。すっかり姿を見せなくなったバーガイル伯爵の未来の花嫁が、こんな場所で囲われているのだと話題になるのもよろしくないし、それを第三者に見咎められるのもよろしくない。
「この先はわたしの闇の精霊たちの巣のようなもので、ご不快に思われるかもしれません」
「いいえ、とんでもない。ファーラル議長ほどの【魔法士】の中枢に招待して頂けるのです。不満などございません」
先頭を行くガーネットとファーラルに続き、新王は小さく微笑んで首を振った。二人の後を続くのはグレイとジュネス。そしてフォーデックだ。闇の精霊で守られた城内で危険などないが、それでも不測の事態に備えての警護である。―――建前上のものでしかないのだが。
「緊張されてますか?精霊たちも落ち着きがない」
「そうですね。わたしは緊張と、彼らは興奮かもしれません」
頭上を飛び回る色とりどりの精霊たち。闇の精霊たちが守護する場所だというのに、それを気にした様子がない。この旧後宮に、闇の精霊以外の精霊たちがこれほどの数入ったことは過去にもないことだ。通常であれば萎縮してしまうのだが、その恐怖心を打ち消すような興奮と歓喜が伝わってくる。
「ファーラル議長、今回の事……機会を設けて頂き本当にありがとうございます」
「特別なことはしてません。新しくなったドルストーラと友好的に長く付き合っていくための布石です。あなたはライナを手に入れ、連れ帰る権利がある」
「……っ」
ファーラルの言葉にグレイは息をのんだが、声を発しないように抑え込んだようだ。ジュネスが心配そうに主を見ている。
「あの子は、俺が―――いやわたしが守ってやりたいのです」
握り込んだ手の中には黒い護り石がある。この石を渡され、ライナを託されたのだ。泥水を啜るような逆境の中、ただライナの無事と幸せを願って戦ってきた。それがもうすぐ実を結ぶ。顔を上げた先、あと10歩先ほどにロージィが扉を守っている部屋が見えた。
こちらを見たロージィが、フォーデックの姿を見つけて口をぽかんと開けている。まさかこんなところで姿を消した剣の師匠と遭うとは思ってもいなかったのだろう。
「この先にある部屋でライナを待機させています」
「わかった」
ガーネットは頭を下げ、通りを開けた。この先は関係者のみだけしか通されない。この中で一番ライナと縁の薄いガーネットは遠慮することにしていたのだ。
一歩一歩扉までの距離を詰めていく。
「新王、そろそろご対面ですよ」
「はい。……あの、ファーラル議長」
「なにか?」
「その、新王という呼び方はちょっと……俺あのわたしには似合わなくて。どうか名前で呼んでください」
「これは失礼しました。家名でお呼びさせて頂きましょう」
「いいえ、わたしは庶民の出で家名は持っておりません。いずれは新しく家名を、とは思っているのですが」
青年王は困ったような笑みを浮かべた。まだ国内は完全に安定していない。自分の事を後回しにしていたため、家名のことなど吹き飛んでいた。
「わたしも家名は捨てています。ロットウェルでは議長職をしている間は、何人も家名を名乗ることを禁じているのです。家同士の抗争に巻き込まれないために」
「そうだったんですか……なるほど……それはドルストーラにも必要な事なのかもしれません」
国内の情勢を落ち着かせるため、資金のある貴族たちの援助は欠かせない。だが、どうしても権力に媚を売ろうとする輩は、新政府になろうとも現れる。
「それは持ち帰っての課題としてください。で、なんとお呼びしましょう」
「すいません、考え込んでしまって。俺―――わたしの事はアロイスとお呼びください」
ライナと同じ、小麦色の髪と深い緑の瞳を持つ青年は名乗りを上げて微笑んだ。
いつもありがとうございます。
ようやくここまで来れました。あと少しです(多分)