別離の予感
たたたた大変お待たせしました…
案内された室内に入ると、そこは執務室とは違うありふれた家具のある居間だった。年月を遡れば後宮として利用されていたという華やかな場所。以前は設置されていただろう仰々しい家具・家財・絵画などは愚王失脚のその後、競売にかけられ国の資金の一部となった。そのため、建物内にある家具はシンプルで安価なものに置き換えられている。また、使用している部屋数も数室しかないため、ほとんどの部屋は何も置かれず、議会の荷物置き場となっているのが実情だ。
旧後宮……数多の女性が王の寵愛を得るため、陰謀と策略を蠢かせていた男子禁制の秘密の園。しかし今はファーラルがその所有権を有し、彼はのびのびと独身生活を謳歌しているのである。
「ファーラル様を呼んでくるから、とりあえずここで待っていて。内容によっては会うのはグレイだけになるかもしれないけど、それでいいわね」
「ああ」
ガーネットはグレイたちを部屋に残すと、別室にいるであろうファーラルを呼びに行くため背を向け出ていった。静かに扉が閉まったのを確認し、ジュネスが一歩グレイに近寄った。
「グレイ様、やはりライナを連れてこない方がよかったのでは?」
心無し潜められたその声からは、ライナの事への労りが感じられた。なにしろライナはこの旧後宮に足を踏み入れてから、まさに『借りてきた猫』のような大人しさだ。さらに視線を四方に向け、全身で周囲を警戒している。時おりピクリと肩を震わせている様子は、見ていて可哀想なほどだった。突然連れてこられた場所に、ライナが緊張も含め、怯えているのだと感じ取ったジュネスには、ライナを連れて行くと宣言したグレイを止められなかった後悔が滲んていた。
しかし残念ながら、ライナがビクビクしている原因はこの場所に対しての緊張などではない。その原因は一つなのだが、残念ながらジュネスはその原因をすぐに推し量ることは難しいだろう。
「許しがあれば、わたしがライナを連れて屋敷に戻ります」
言いながらジュネスはライナと手を繋ぐ。妹を守ろうとする立派なお兄ちゃんの完成だ。その様子は微笑ましいものであるはずなのに、背景含めて見える範囲の視界があまり愉快な状態ではないため、さすがのグレイの口元も引きつり気味だ。
「……怯えるなとも言えない場所だしな……」
「どういうことですか?」
諦めたような息を吐き出し、小さく呟いたグレイの言葉だったが、ジュネスには拾われていた。意味が分からないようで不思議そうに首を傾げている。
グレイがライナに向かって手を差し出すと、ちょっと迷った末グレイへと手を伸ばした。飛び込んできた小さな体を抱き寄せ、腕の中に囲い込む。手を放されたジュネスは、ちょっと悔しそうだ。
ここは旧後宮。ファーラルの本拠地。それはつまり―――闇の精霊の本拠地でもある。
日常見かけているのは、風の精霊や水の精霊といったごく一般的なものたちだ。だが、ここはその一般的精霊がすべて排除され、空間を支配しているのは禍々しい闇色の精霊。ファーラルが生み出し、彼だけにしか使役できない存在だ。
精霊が感知できないジュネスには、この旧後宮内に漂う無数の闇の精霊は見えていないし、当然視界を埋め尽くす黒い靄も見えていない。精霊が感知できる者でなければ、この建物を覆い尽くす圧迫感すら感じないのだというのだから、この時ばかりは精霊が見えないジュネスが羨ましくなる。
「ここは師匠の領域だから、ライナにはちょっと刺激が強すぎたみたいだな。ごめんねライナ」
「~~~っ」
抱き着いたままのライナの頭を撫でるが、周りを見たくないからか照れているのか、抱き着く力が強くなったものの、顔を上げることはなかった。
「ああ、なるほど……それで怯えていたんですね」
グレイの説明はぼかしたものだったが、それでもジュネスには意味が通じたようだ。常日頃、精霊と関わりのない生活をしており、さらに自分自身が精霊を感知できない事もあって、どうしても『見えない世界』には疎くなってしまう。
「それにしても、闇の精霊というのはそんなに恐ろしい姿をしているのですか」
「んー。姿というか……目つきは悪いな。けど容姿がどうのというんじゃなくて、独特の『場』が発生しててだな……伝令に来る一体や二体に対して恐怖はわかないんだが、ここまで視界を覆い尽くすとなると―――圧迫感というか、威圧感というか……」
しどろもどろな説明をされるが、要領を得なくて精霊が見れないジュネスには、ぼんやりと頭の中で想像するだけで精一杯だった。それでもイメージを湧き立たせていた時、ノックもなく扉が開かれ―――入って来たのは家主である。
「待たせたな」
ファーラルが姿を現した瞬間、室内にあれほど存在していた闇の精霊が霧散した。締め付けるような圧迫感が消え去り、グレイとライナは共にほっと息を吐き出す。顔を上げたライナは、首を巡らせドアで視線を止めた。
ライナとファーラルの視線が合わさる。『王子様』のように整った顔が、僅かに顰められた。
「なぜライナを連れて来た」
「それは……俺たちことで報告があって―――」
「グレイ、それ以上は言うな」
婚約の報告をしようとしたグレイの言葉は、冷たい声に遮られ口を紡ぐしかなかった。
「ガーネット、ライナを別室に連れて行け」
「はい」
ファーラルのピリピリとした雰囲気に、呼び出しは祝いなどではなく仕事の話だったのだと察したグレイは、傍に来たガーネットに大人しくライナを託すことにした。手放したくなかったが、仕事の話にライナを同席させるわけにもいかない。
「あとで迎えに行くよ」
見知らぬ場所でグレイとジュネスと引き離されることに、ライナの瞳が不安げに揺らぐ。思わずジュネスが一歩前に出た。
「それでは、わたしもライナと一緒に―――」
「ジュネス。お前もここにいろ」
「は、はい」
だが、ファーラルに顔も見ず指示され従うほかなかった。
ガーネットに連れられ、ライナが部屋から姿を消した途端、ファーラルは腕を組み低く唸った。
「師匠?」
「……二人ともとりあえず座れ。茶菓子は期待するな」
この部屋にはもともと、お茶の用意もなく酒類も置いていないようだ。それはつまり、ガーネットは戻ってこないという事だろう。ガーネットはファーラルの専属秘書として、どんな会議にも参加することが許されている六人会議以外では唯一の人物だ。そのガーネットをあえてこの部屋から排除したのか、もしくはライナが来た事による偶然なのか……グレイの胸の内に、小さな違和感が灯った。
向かい合わせのソファーに座ると、グレイが口火を切った。
「それで仕事の話とは?」
「いや。まずお前の話から聞こう。なにか言う事があったのだろう?」
「あ、はい」
出だしを遮られ戸惑ったものの、この報告を聞けば機嫌がよくないらしいファーラルも笑顔になってくれるだろうと、祝いの言葉を言ってくれるだろうと期待を込めて口を開いた。
「俺とライナ、今日婚約しました」
「…………そうか」
「結婚は二年後の予定です。ライナにはその間、伯爵夫人の仕事とか社交とか、覚えることがいっぱいで大変だと思うんですが、俺も精一杯サポートしていきます。夜会などで顔を合わせる機会も増えると思いますが、何かあれば師匠たちにも助けてもらわなくちゃいけない場面もあると思いまして。今日の婚約式は身内だけで済ませたので招待しなくてすいませんでした。けど、結婚式は聖堂でするつもりなので、ぜひ出席していただきたいです。二年後の予約って気が早いと思うんですけど、師匠は忙しいから今のうちに言っておくべきだと思って―――」
「悪いなグレイ」
勢いよく幸せそうに話していたグレイの言葉を、ファーラルの小さな一言が遮った。相好を崩して話し続ける主を引き気味で眺めていたジュネスも、思わず視線を前方に移す。
腕を組み表情なく、部下であり弟子である二人を見ているファーラルの表情は……とても冷たいものだった。
「わたしはその婚約を祝ってやれない」
その声もまた冷たい。
「……え」
「いや違うな。その婚約を認めることはできない」
はっきりと告げられた言葉に、グレイは一瞬動きを止め―――次の瞬間には勢いよく立ち上がり身を乗り出していた。
「どういうことですか!なぜです、師匠!」
グレイにとって家族を含めなければ、一番に祝ってほしい人物はファーラルだった。【精霊士】の基礎を教えられ【魔法士】として開花させてくれた、今の人生を選び取ることになったきっかけを与えてくれた人物だ。勝手なことを告げられ、時には我儘も言われ、無茶な指示を出されることもある。けれど何かあれば助けてくれるし、助けようと動いてくれる。大局を見極め先見の明がある。師としても上司としても、グレイにとってファーラルは子供の頃遊んでくれたお兄さん以上に、切っても切れない関係だと思っているのだ。そしてそれは、ファーラルに対する信頼にもつながっている。
―――だから、祝ってほしかったのに!
祝われない可能性など、露ほども考えていなかった。淡々と「そうか、よかったな」と言ってくれるのだと。たったその一言だけでも嬉しいと考えていたのに。
「ライナはドルストーラに返す」
「なに、を」
「【精霊士】ディロの娘ライナを、ドルストーラへ戻してほしい―――それがドルストーラ新政府の要望だ」
淡々と告げられた内容に、グレイの唇が戦慄いた。言われた内容がすぐに頭の中で処理ができない。
「しかしファーラル様。ライナはすでにロットウェルで公爵令嬢として戸籍を得ています」
「それはこちら側の勝手だろう。混乱していたドルストーラで、一個人の……まして森奥の村に住んでいたライナの戸籍をどうにかできるはずもない。あちらにしてみれば、与り知らぬ事だから無効だという事だ」
「ライナにはもう、親族がいないのでしょう?国に帰って、ライナはどうなるのです」
いまだ立ち直れていないらしいグレイに代わり、ジュネスは代弁するように質問を繰り返す。その問いかけに、ファーラルは上着のポケットから一通の封書を取り出し、それを乱暴にテーブルに放り投げた。
「ドルストーラに帰れば、ライナに用意されているのは『【精霊士】始祖の血筋』という肩書だ」
「え」
とんでもない単語が飛び出し、思わずグレイの呪縛も梳けたようだ。そしてそのまま視線はテーブルにある封書に移る。そこにあるのはドルストーラの刻印。以前までのと意匠が違うのは、新政府になった証なのだろう。
「拝見します……っ」
グレイは急ぎ中身を広げ視線を走らせた。隣にいるジュネスもまた、不作法だと知りつつ身を乗り出し紙面に見入る。二人の視線が文字を追い、読み進めていくごとに顔色が悪くなっていった。
「……こんな条件、飲むんですか……?」
「ああ」
絞り出された言葉に、ファーラルはただ淡々と返事を返すだけ。それはつまり、もはや会談は相談ではなく、決定事項を知らせるためだけの報告でしかないのということだ。
「師匠は、俺にこれを知らせるために……呼び出したんですか」
グレイは顔をあげれないまま、振り絞るように声を出す。そうしながら、再び視線で文字を追った。
(中略)先の内乱の原因にもなった【精霊士】排除の旗頭はすでに亡く、国は新しい統治者を迎え邁進することとなりました。なお、それには貴国との連携が不可欠であり、当国は貴国に対し友好なる関係を構築していきたいと望んでおります。
―――【精霊士】ディロの娘ライナは、当国において重要な人物です。ディロは【精霊士】の始祖の直系であり、娘ライナはその能力を引き継ぐ人物として、ドルストーラ国の貴賓として迎えたいと考えております。今後は不自由なく暮らせる環境を整え、彼女には精霊たちとの絆を新たに築き上げてもらいたいと願っています。再び森が枯れることのないよう、河が干上がり農作物にも実りをもたらしてくれるよう、彼女には傷んでしまった国土を癒してもらいたいのです。
貴国において、丁重なる扱いを受けていることは承知していますが、彼女には故郷の国を癒し繁栄に導く手助けをして頂きたいのです。
国土安定後には新国主、もしくは有能なる人物に輿入れし、【精霊士】始祖の血筋を絶やすことのないよう尽力して頂きたいと願っております。(後略)