戻れない昨日
ガタゴトと大きく揺れる粗末な馬車内部。四方を薄汚い板で打ち付けられて作られた、箱のような馬車の中、女たちは無理矢理に詰め込まれた状態で肩を寄せ合っていた。
―――いったい何故、こんなことに……。
ライナは大きく揺れた壁に頭をぶつけながら、数日前を思い出していた。
あれは今から3日前だったはずだ。いつものように朝から起き出し、洗濯をしようと外にある井戸に向かうため、玄関の扉を開いて異変に気が付いた。
精霊たちがいない。いや、正しくは圧倒的に数が少ない。森に目を向けるが、いつもの穏やかな静けさではなく、虚空を見ているような気にさせた。
ゾクリと肌が粟立つ。【精霊士】でなければこの異変には気が付かないかもしれない。だって森は、いつもと変わらず静かに佇んでいるだけなのだから。
残っているわずかな精霊たちも、ライナに気付いている筈なのに寄ってこない。これはおかしい、おかしすぎる。
「母さん、精霊がいないわ」
「え?」
「いるにはいるんだけど、すごく少なくて。わたしにも寄ってこないし、森で何かあったのかも」
言いようのない不安が胸をつく。こんなとき、父が不在であることが悔やまれた。そして、無意識に父に頼ってしまおうとした自分を恥じた。
「様子を見に行ってくるね。ついでに足りなくなってた薬草も採ってくるわ」
よいしょ、と愛用の籠を背負い、森に行くための格好に着替える。栗色の髪を一つにまとめると、日よけ用の帽子の中に押し込んだ。皮手袋をつけ、首には厚手のタオルを巻く。農作業へ行くような格好だが、森へ行くための準備を怠るわけにはいかない。長い髪は枝に引っかかることがあるし、急に視界が明るくなって目が眩むことがあるので帽子も必須。棘の付いた植物も多数あるため、皮手袋も絶対必要だし、首のタオルは汗拭きだでなく、咄嗟に害虫などを追い払うことにも使える。無駄な装備などないのである。
戸口に立てかけてある愛用の弓と矢筒を一緒に籠の中に放り込む。ウサギでも獲れれば村の人も喜ぶだろう。
「念のため、これもね」
母の作ってくれた指南書は、もうすっかりボロボロになっていたけれど、ライナはいまでもそれを大切にしていた。無くても困らないけれど、お守りのようなものだ。
「気を付けるのよ、ライナ」
「はーい」
母の少し困惑したような声に手を振り返して応え、ライナはいつものように村人の見つからないように、森への垣根を越えた。
歩き始めて数分。ライナは途方に暮れたように周囲を見渡した。
「やっぱり、おかしい。森の中に来たのに、全然寄ってこないし。昨日まで鬱陶しいくらいだったのに……」
時折、いつもの緑色の精霊を見かけるが、何故かライナを無視しているかのようにどこかに向かって一直線に飛んで行ってしまう。
西に向かっている……?
その方向に何があっただろう。隣国ロットウェルとの境界がある森がある方向だが、ライナの村からははるか先でどんな所なのか想像もできない。
どうする事もできず、やはりまだまだ【精霊士】には程遠いと自問自答しつつ、約束通り薬草摘みを開始した。昨日、薪を拾いに来た時には、纏わりついてきて邪魔で仕方なかったくらいなのに、こんなにも寄ってこないと、不安になってしまう。
精霊たちが寄ってこない理由は分からなかったけれど、森は穏やかで時間はゆっくりと緩やかに流れていた。
父と兄が約束していた春はとうに過ぎ、一家揃うことなくライナは14歳になっていた。
そんないつもの一日。
平穏で 平凡で
村の男衆たちがいないことを除けば、村にとって特に特筆すべきことのない一日―――だったのだが。
「え」
普段は目にしない炎の精霊が目の前を飛び越えていくのを、ライナは呆然と見送った。彼らに会うのは夏の篝火祭りか、火事が起こったときなど、大量の炎が発生した時だけだ。家で使う程度の炎では寄ってこない、特殊な精霊だ。それがいま、どんどんと数を増やし、村に向かって飛んでいるのだ。
「火事……!?」
ライナは摘んでいた薬草を払い落とすと、指南書を胸元に押し込み、籠を急いで背負い駆け出した。ついフラフラと森の奥まで入り込んでしまったことが悔やまれる。湿った土に足を取られながらも、大急ぎで道を辿って走った。近づいていくと、徐々に焦げ臭い臭いが鼻を衝く。やはり、村で火事が起こっているようだった。
怪我人がいなければいい。
集団生活を送っている今、一軒や二軒消失するくらいなら、まだ救いはある。
―――燃え広がる前に周囲に水をまいて、周りの草を刈って。最悪、他に燃え広がる前に近くの家も壊してしまわなくちゃダメかもしれない。
逸る気持ちをそのままに、村に辿り着いたライナが見たのは……其処ら中で炎を巻き上げる家々と、悲鳴を上げに逃げ惑う村人たちだった。
「なに、これ……」
思考が追い付かない。どうなっているのか理解できない。飛び回る炎の精霊たちが炎をさらに冗長させる。彼らが発火したわけではない。炎の精霊たちはあくまで炎に引き寄せられるだけなのだ。けれど、その威力を大きくしてしまう原因ではある。
「ライナ!逃げなさいっ」
呆然としていたところに、母の怒鳴り声で我に返った。ビクリと身を震わせ、声のほうに視線を向けると、見たこともない粗暴な男たちが、剣や棍棒をもって女たちを追いかけ回している姿が目に入った。
「母さん……どうなってるの!?なに、なんなのっ」
母の名を呼ぶ声と、逃げろという声は届いているのに、ライナは身動きがとれないほどの恐慌状態に陥っていた。ガクガクと体が震える。唇が震えて言葉にならない。
「あーん、こんなとこにも隠れてやがったか」
「!!!」
慌てて振り返ったそこに立っていたのは、下卑た笑みを浮かべた巨体の男がいた。父よりも、村の誰よりも巨体だった。まるで大木のよう。けれどその瞳に浮かんでいるのは、残酷で嘲笑うような光だけだった。
「まだガキだな。ま、女には違いねぇ」
「ひっ」
ぬっと伸ばされた太い腕に、ライナは首をすくめて掠れる悲鳴を上げた。
「可愛いもんだぜ。大人しくしてりゃあ、いまは痛い目見なくて済むぜ」
男は恐怖で震える体を左腕で軽く担ぎ上げられた。その拍子に背負っていた籠は落される。集めた薬草も、愛用の弓も全部地面にぶちまけられ、そして巨体の男はそれを踏みつぶした。そしてそのまま、母に向き直る。
「おお、美人じゃねぇか」
巨体の男は軽く口笛を吹くと、自由な右手を母に伸ばした。
「ライナを離して!」
「か、かぁさん……」
鉈一本を構え、母はライナを救出するため巨体に立ち向かおうとしたが、舌打ちした男は右手を振りかぶり、そのまま母の顔面を打ち据えた。
激しい殴打音が響き、母の体が宙に浮いて投げ出される。持っていた鉈は一緒に飛ばされ地面を転がって行った。
「母さんっ!!」
恐怖心も忘れてライナは倒れた母に縋ろうと身を捻るが、男の腕はびくともせずまったく動けない。強打に失神したのか、身動きしない母にライナはただ怖くて怖くて涙がこぼれた。
「おいおい、殺すなよ」
仲間だろう男の声が耳に届き、ライナは顔を傾けて声の方向を見ると、母を殴打したのと同じような空気をまとった粗野な男が、年寄りを一人引きずって向かってきていた。
―――あの人は、この前から体調崩していたおばあさん……。
「殺してねぇよ。大事な売りもんだからな。それより、お前こそなに連れてんだ」
ライナを抱えたままの巨体が年寄りに視線を投げる。
「年寄りは使いものにならねぇから、別にいいだろ」
「ああ、そりゃいらねぇ」
「あっちで殺ると、ぎゃーぎゃーうるさくてかなわねぇ」
ゲラゲラと笑う下種な男たちが、年寄り目がけて棍棒を振りかぶった―――
お久しぶりです。
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