デビュタントの終わり。そして―――
大変お待たせいたしました。
「は、花嫁!?」
目の前の男の口から飛び出た単語に、ルーツは思わず反芻した。ライナの身の上は事前にそれとなく聞かされていたので知っている。市井生まれで両親を亡くし、身寄りがなくなったところをバーガイル伯爵と出会い保護され、親交のあったリグリアセット公爵家に養女として身を寄せた。そんな話だ。いくら公爵家の娘となったからと言っても、生まれは貴人ではないし、なによりライナは声が出ないというハンディがある。
ランディ侯爵といえば、ロットウェルの中枢にて文官として勤めており、未婚であるため淑女たちの嫁ぎ先の候補として常に名前が挙がる人物だ。そんな彼がデビュタントを終えたばかり少女を妻として迎えたいと自ら申し出た。ロットウェルで頻繁に名前の出る人物ではないが、有能さは評価されている青年である。
「去年の建国記念祭で初めて会ってね。そこで見初めてしまったんだよ」
そういうランディ侯爵の口元は緩やかに緩み、頬はわずかに赤らんでいる。目元は優し気にライナを見つめ、潤んでさえいた。どう見ても恋する男である。
「そ、そうなんですか……」
「君がデビュタントの相手役として選ばれたことは理解しているが、ここはわたしとライナ嬢の未来のためにその隣を譲ってくれないか」
「……」
身なりがよく、なにより地位があり名誉がある。人生経験もルーツよりよほどあり、人脈もスキルも段違いだ。大人の余裕もあり、すべてにおいてルーツ・バレイン青年より上回っている。そんな人物にいつまでも歯向かうことは、まだ年若い青年には難しいことだ。
それでも気力を振り絞り、勢いで顔を上げつつ視線は反らしながら反論した。
「し、しかし僕はリグリアセット侯爵夫妻から、彼女のことを頼まれているのです」
「それはいいことを聞いた。後ほどわたしたちのことを認めてもらうため、挨拶に伺う予定だったんだよ。連れ出す許可も含め、わたしが侯爵夫妻と話をしてこよう」
意気込んだ反論はあっさりとかわされ、遠くに放り投げられた。
侯爵位を持つ人物にそうまで言われてしまえば、ルーツにはもうこれ以上拒否することが出来なかった。正直ルーツもライナのことを一目見て可愛いと思っていたし、このまま穏やかな関係を築いていければ……と考えていなかったと言えば嘘になる。デビュタントダンスが終わった後、ライナと一緒に最初に踊りたいとも思っていた。けれどもう、そんな意気込みも萎んでしまう。
「ライナ……僕のことは気にしなくていい。君が侯爵と行きたいのであれば、行ってきていいよ」
ルーツは諦めるように弱弱しく言葉を口にした。ここでライナが嫌がってくれれば、ルーツは堂々とランディ侯爵の申し出を断れると考えたのだ。みたところ、ライナは侯爵のことを好ましく思っている風ではないようであったし、ライナに選択してもらうのが一番だ。
「さぁ、行きましょうライナ嬢」
疑いもなく手を差し出すランディ侯爵に、ライナはびくりと体を震わせた。だが、何かに気付いたように顔を上げるとするりと抜けだすようにルーツの傍を離れていく。
「え」
ルーツの口から声が漏れた。それほど意外だったのだ。
まさかライナがランディ侯爵の元に駆けていくなど……。
当の侯爵はさも当然の結果だと言わんばかりの笑みで軽く手を差し出し、ライナがその手を取るのを待つ。差し出された大きな手。
だがライナは―――その手を無視し、ランディ侯爵の隣もすり抜けて背中を向けて走って行った。
「ライナ嬢!?」
驚くランディ侯爵の声がライナの背中を追いかける。だがその呼び声を無視し、もうすっかり見慣れた笑みを浮かべる男に抱き着いたのだった。
白いドレスがふんわりと浮き、小さな体を隠してしまう。その体をしっかりと抱き止め、グレイは呆然とこちらを見ているランディ侯爵とルーツ青年に視線を向けた。ライナからは見えなかったが、その時のグレイの表情は任務中のように厳しいものだった。
「俺のライナに何かご用ですか、オーソズ・ランディ卿」
腕の中のライナを抱え直し、苦も無く抱き上げる。もう16歳になるのだから、子供のように抱き上げるのは止めてほしいと何度か伝えたことにより、最近は抱き上げる頻度は減ってきていたのだが(決してゼロではない)、今は意図して抱き上げて見せつけているのだということは、誰が見ても明白だ。
大切な宝物を腕に抱え、それを離すことはない。ライナもグレイの顔を見て安心したのか、ほっと息を吐き肩の力を抜いた。そして目の前にあるグレイの首に腕を回し、そのまま緩く抱きついた。
「君は……バーガイル伯爵」
「申し訳ないのですが、見ての通りライナの相手は決まっておりますので、どうぞお引き取り下さい」
苦々しげなランディ侯爵に対し、グレイはライナ自ら抱き着いていることが嬉しいのか、頬の筋肉が完全に緩んでいた。美丈夫だと噂される人物であるのに、今はそれが霧散している。
「……いいでしょう。一旦引かせていただきます」
「どんなに粘られても無意味ですよ」
「それを決めるのは伯爵ではない。ライナ嬢自身ですよ」
ランディ侯爵は話しながら一歩ずつ近寄ってきた。そしてグレイに抱き着き大人しくしていたライナの傍に立つと、流れる小麦色の髪を一房手に取り素早く口づける。
「あっ!」
グレイが思わずランディ侯爵と距離を取った時には、すでに髪への口づけは終わっていた。
「……女性の髪に許しもなく触れることは止めていただきたい」
「こういったやり取りは男女間には必要なものだよ」
「ライナには必要ありません」
「それを決めるのは君ではないね」
ギリギリと歯ぎしりが聞こえてきそうなほど歯を食いしばり、グレイは苛立たしげに顔を歪ませて低い声で威嚇を繰り返すが、当のランディ侯爵は飄々としたものだ。爵位の上では侯爵より伯爵が下位になるため、グレイも見せかけだけとはいえ丁寧語は崩さない。年齢が近いと思われる二人だが、勤務が内勤と外勤と分かれていることもあり、接点がなかったため親交を深めることもなかったようだ。
「これからライナはホールでデビュタント後の初のダンスを俺と踊ることになるんです。お時間があれば、ぜ・ひ、ご覧になって行ってください」
「踊っている隣からライナ嬢の手を奪い去ってあげようかな」
「ははは、とんだマナー違反予告ですね」
「愛する人を奪い返す。ここに来ている貴族たちの格好のネタになるだろうね」
「悪趣味な方だ。ライナが迷惑を蒙るだけで益は無いやり方ですね」
「わたしとライナ嬢が揃って噂になるなら、噂を真実に変えればいいだけさ」
「戯言ばかり仰っていたら、信用を無くしますよ?」
「おや、わたしの発言が偽りだと言うのかい?甘く見られたものだ」
「戯言、偽り、虚偽でないと言うのであれば、一度医師にご相談なさるといい」
「あいにくわたしの主治医は優秀でね。毎日検診しているが異常はないらしい」
「きっと心の病なのでしょう。遠方にある領地に籠って療養されるとよろしいかと」
終始笑顔で言い合いをする二人にライナはグレイに抱き着いたまま、深く深くため息をついた。そしてその様子をルーツも呆れた眼差しで眺めていたのだった。
「……ああいう男にはなりたくないな、うん」
淡く色づこうとしていたライナへの想いは、いつの間にか憐れみに変わっていた。
その後ホールに戻ったライナは、予定通りグレイとダンスを踊った。クレールとジュネスに付き合ってもらった練習の成果は十分で、他と見劣りすることない出来栄えを披露できた。リグリアセット侯爵夫妻はライナのドレス姿と、懸命に踊る姿に喜んでくれたし、共に見守ってくれたアンヌも踊り切ったライナを笑顔で迎えてくれた。ルーツは結局他の子女とダンスを楽しんだようだ。そしてランディ侯爵はホール二階からライナの初々しいダンスを、うっすら笑みを浮かべて眺めていたのだった。
大きな事件も起きず、けれど男たちの多少のいざこざを起させつつ……ロットウェルのデビュタントは閉幕した。その後ライナは来た道を再び馬車で伯爵邸まで戻る。そして帰り着いたバーガイル家で待っていたのは、お祝いだとニーナたち使用人が提案したという中庭でのパーティ。主役であるライナは美味しい料理に舌鼓を打ち、即興で奏でられた音楽に合わせて男女関係なく手を取り合って踊った。車椅子のファヴォリーニも加わり、場を盛り上げる。リグリアセット公爵夫妻も到着は遅くなったがパーティに参加し、ライナと肩を並べて楽しい時間を過ごした。
「まぁ、きれい!」
誰かの声で顔を上げれば、ひらひらと降り注ぐ花びら。精霊たちは何かわからないまま、ただライナが楽しそうにしているのが嬉しいのだろう。花びらを巻き上げ、パーティの参加者たちに向けて振りまいていたのだ。
暖かな春の日差し。優しい人たち。暖かな精霊。
―――わたしは、なんて幸せなんだろう。
生き残った自分一人が幸せを享受している罪悪感が、わずかに胸をチクリと刺した。
平和な時間は穏やかに、けれど確実に過ぎていく。
中央都市で毎年行われる『花祭り』は例年通り開催された。相変わらず警備担当にさせられていたグレイとジュネスは、以前の失敗を繰り返さないよう入念に出店と日にちを何回も確認し、休みをもぎ取ると当然のごとくライナを連れて『花祭り』へ繰り出した。
今年はアンヌとロージィとも行くことになり、ライナは過保護なメンバーに呆れつつ笑いながら『花祭り』を満喫した。
騒ぎもなく、事故もなく―――そして国境線での争いも鳴りを潜め、緊張感が失われつつあったその日、白薔薇城に一報が齎された。
「間違いないのか」
ファーラルの声は幾分固い。だがそれに頓着することなく、目の前にいる白衣の男エガッティは軽く頷いた。
「間違いない。時代が動くぞ」
その言い方がおかしかったのか、ファーラルは口元を緩めて笑みを浮かべた。
「大袈裟だよ」
「軽く考えてるのはお前だけだよ」
物々しい言葉を投げつけられつつも、それを肩を竦めるという行為で交わした。だが、そうしている間にも思考回路は動き続けている。
「どう動きがあるかわからない。すぐに議会の招集を」
「はい」
壁際に控えていたガーネットが短く返事をして退室していった。あとに残されたファーラルとエガッティはそろって息を吐き出し宙を見つめる。そこには精霊がいつもと変わりなく、無邪気に浮かんでいるだけだ。
「ドルストーラ王の首が落ちた、か……」
解放軍により王の首が落とされ、ドルストーラ国が無政府状態に陥ったという報は、翌日にはロットウェル国内にも知れ渡ったのだった。
ルーツ君の出番があまりにも可哀想なので、思いついたら「閑話休題」に番外編書いてあげたいと思います。よよよ